6.6.10

ジェイク・クレネル『大阪恋泥棒』、ポール・オースター『幽霊たち』

映画と小説を一つずつ。
どちらも、作用反作用の法則が人間関係に露になっているような、
そんな作品だった、というのが、印象論だけど感想。
要は、構造は単純なんだけど大いなる謎、みたいなところ。


○ジェイク・クレネル『大阪恋泥棒』

タイトルはふざけているが、ドキュメンタリー。
そのふざけた感じを地で行く、つまり、
生々しい映像を虚構だと笑い飛ばせない戦慄が、
この映画にはあった。
日本では公開されていない。
もっとも、制作国イギリスでも劇場ではなく
Google Videoに公開されたらしい。

ミナミのあるホストクラブのホスト達へのインタビューと、
客達へのインタビューが、クラブ内の"日常"の断片で紡がれる。
夢を売る、人は弱い、癒しを求める、愛、云々、が
まるで道徳の教科書を要約したように語られ、消費される。

ホストの一人に思い入れて通い詰め、
それをどこまでもはぐらかしながら通わせ、払わせる。
「大体の子はいくつものクラブに通って、
 それぞれの所で誰かに熱を上げている」、
というのが、考えればそりゃあり得そうだと気づくことだけれども、
改めて気づかされ、驚かされた。
この人、と品定めをして惚れ込む、という行為すら、
もはや代替可能な商品なのだ。
嘘みたいに単純な心理戦なのに、
把握可能なほど単純であるにもかかわらず、
その構図を巡って一晩に何百万円がやりとりされる、
このことに何より驚いた。呆れられもしない。

客層はほとんどが風俗関係らしい。
風俗へ流れてホストへ貢がれる金額の出所は、
昼の社会の抑圧=ストレスだ。
サラリーマン達を癒す女性達をホストが癒す。
孤独を切り詰めて働きあい、散財し、そして溺れるスパイラル。


○ポール・オースター『幽霊たち』

登場人物が「定義」される出だしは、クンデラっぽいと思った。
しかし読み進めるとベケットで、着地はカフカだった。
物語の終わったあとに、人はどうできるんだ、ということを考えさせられる。
記憶喪失の人のエピソードとか、自分が誰かわからなくなる混乱とか、
ブラックが妙に文学者のエピソードに入れ込んでいるか、とか。
過去から現在、そして未来までを一本に貫いて説明したいのだ、人は。
それがアイデンティティだからね。

でも人物というのは、細部と風景だけ細かくて、
しかし一色に塗られた影なのだ。
しかもブラックとブルーは完全に重複して、同じ経路を辿る。

文章が散文詩っぽいから、ぐいぐい読めるし、面白かった。

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