12.6.10

福永信『コップとコッペパンとペン』、レティシア・コロンバニ『愛してる、愛してない…』/上演阻止デモ

○福永信『コップとコッペパンとペン』

行為や状況が、その意味する裏を読めないまま、延々と羅列される。
さながら内田百閒の短篇のよう。
だから、物語が始めろうとしているとも、始まっているのかも、わからない。
それでいて状況は進行し、それなりにいろいろ起きて時間は経過している。

かなり印象論だけれど、
都市あるいは郊外にぽつんと取り残された一人一人が
その孤独を意識しながらおっかなびっくり人と繋がりを試みているような、
だから何かよくわからない暖かさと不安が入り雑じっている読後感がある。
この不思議な感触は、2002年の「文學界」で表題作を読んだときから変わらない。
砕かれた物語を、新たな時代の手で繋ぎあわせてゆくような
ゼロ世代、って感じの大いにある小説だと思っている。

Z文学賞という、パロディなのかれっきとした賞なのか、
そんなよくわからない形でしか評価はされていないみたいだけど…。
でも、大化けするならこの作家(か青木淳悟)であってほしい。


○レティシア・コロンバニ『愛してる、愛してない…』

オドレイ・トトゥ演じるアンジェリクと、その不倫相手のロイックとの
進展しそうでしない関係にやきもきしているうちに、
観客は事の真相を次第に明かされる。
この見事な視点のすり替え!
アンジェリクの一途さが、やがてどんどん不気味になってゆく。
後味としては、ホラーと同じといって差し支えまい。

さながら、メディアの情報操作というか、捏造、の実例だった。
そう読み取った自分は、おそらく穿っていたのかもしれない。
でも、そう読まれることに充分に耐える作品だし、
その意味でも確信をついているところがある。

----

『ザ・コーブ』の上演阻止の中継を、昼の1〜2時間ほど見ていた。
伊勢佐木町だったから行けばよかったんだけど、
逆に中継で映画館支配人のインタビューが聞けた。
淡々としてて好印象ってのも素朴にあったけど、
「上映してるからって即座に国賊とか云われるのは、
 私だって日本人ですから、悲しくなりますよね」っていう発言なんかは、
阻止側の脳内にあるのだろう愛国vs左翼の二項対立が
いかに単純な幻想なのかを、よく表していた。

撮影の経緯や、もちろん題材の是非はあれ、
反対か賛成か議論するにはまず観なければ始まらないのに、
それを阻止するというこのムラ社会状態に、非常に懸念を覚える。
議論で堂々と渉りあうという手段をはなから無視して
阻止というゲリラ的な手法に出るという専制的な短絡さもあるし、
それで実際に上映を中止してしまう映画館の存在も、かなりイタい。

彼らの感情って、おそらく、
「ガイジンに土足で踏み込まれて勝手に撮影された」
ことが我慢ならないんであって、
その内容はあまり何でも良いんじゃないか…。
『YASUKUNI』にときもそうだが、監督は日本人じゃないし、
その見方が批判的であることに、というか冷めていることに、
我慢ならないんじゃないだろうか
(『買ってはいけない!』は発売禁止も自粛もなかった)。
逆に云えば、おそらく上映阻止側の人々ってのは、
とにかく何かにすがって熱狂していたいんだと思う。
今はちょうど、日の丸にすがるのが大義名分的にちょうど良い、と
まぁ、そういうことなのだろうよ。

にしても、日本人ってのは本当に国外からの目に弱いんだな、と思う。
映画自体は大したことがないのは、
もはや食用文化の廃れつつあるクジラより
さらに消費量が少ないことからもわかるし、
よって、映画のせいで風評被害で経済的にどうのこうの、というのは
ほとんど皆無だと、容易に想像はつくからだ。
その意味では、『スーパー・サイズ・ミー』なんかのほうが
はるかに影響力があっただろう。
『ザ・コーブ』も、ほっとけばよいのに
アナフィラキシーかっていうくらい過剰な反応をして、
逆に世界に日本のムラ社会性をアピールしてしまっている始末だ。

0 件のコメント: