面白かったので、二、三日で一気に読み通した。
ただし、単に物語に没頭したわけではなく、
一方で物語性と文体について考えていた。
村上春樹の文体の特徴は、あまり必要なく付け足された挿入句だ、ということ。
アガンベン『スタンツェ』にて取り上げられた洒落男ブランメルと酷似している。
それを私は長い間、他者性の欠如と考えていた。
まだそう思っているが、今ではその文体はむしろ、余裕やくつろぎに思われる。
本作を読んで一縷の光と見えたのは、
その他者性なき文体が「敵側」たる牛河の語りをも始めたからだった。
しかし、それはあまり関係ないまま了った。
物語性、とここで書くのは、柄谷行人の「構成力」というもののこと。
時代性を相対化する庄司薫の意志を継いだ初期中篇二作からは、
遥かに遠いところに来たという気がした。
しかし、本当にそうなのだろうか。
むしろ、その精神は強固にされて再生されたのではないか。
現代という、よくわからないけれど渾沌とした闇を、
濾過して具現化されたものが、リトル・ピープルであり、
新興宗教=NHKという、いわばサーバ型ネットワークのような
鍋蓋式の階層システムなのだ。
これからの物語の運びが楽しみ。
それは、物語・歴史という虚構マトリクスを一度括弧に入れるような
冷めた見方からしても、そうだ。
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