パリ賞賛の、すなわち恋愛賞賛の、群像劇。
冷静なのか激情なのかわからないけど、
それでも街全体が熱を帯びて回り続けてるパリにあっては、
それを逃れられないような気がする。
みんな懸命に生きて、それでも誰かを求めてる、というような。
あ、これは映画の感想というよりパリの感想だ。
それにしてもクラピッシュって、みんなで入り乱れて踊るシーン好きだなぁ。
25.8.10
平野啓一郎『決壊』/ゼロ世代〜2010年代日本文学勢力図の印象
物語が進行を始める場の形成まで、登場人物間の会話がリニアなところが気になったが
(それはもしかすると、テレビのワイドショー的ですらあるかもしれない)、
物語がプレ段階を終えて本式に進み始めてから、嘆息の連続だった。
スケッチのような描写の的確さも、ボードリヤールのような
匿名ネット社会に関する哲学・社会学への深い智識を動員した思索も、息つかせず面白かった。
小説ではありながら余りに現実的で「単に起きなかっただけ」と錯覚する、
そんな物語を分析的に構成するアイディアと筆力。
その試みの中では、主題に関しては何も取捨されず、ありのままに現前するかのよう。
だから、容易な「物語」が渇望するような、完璧な善も完璧な悪もいなくて、
誰もが白黒の決着のつかない灰色の濃淡を行きつ戻りつしながらそれぞれの立場を必死で苦しむ。
この本は、現代社会について考えるあらゆる人間が読めばよいと思う。
無関心と多極主義で平板になった命が多数に蠢く群れとしての社会で、
どうやって人を愛し、倫理を打ち立てられるか?
カントをモチーフにした科白を悪魔が吐くあたりで、倫理という言葉そのものが霞みそうだけど、
それでも、生きることを肯定するには、どうすればよいのか?
その一筋縄では到底いかない提起を、その複雑さをそのまま露出させるようにして書かれた、
この物語は、本当に素晴らしいと思った。
twitterに書いたが、
村上春樹『1Q84』、東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』、平野啓一郎『決壊』は、
「無数の匿名の視線と介入」がどういうものかを解こうと
試みていて、ネット社会の文脈で読まれるべきだ。
一方で現代作家には、舞城王太郎、佐藤友哉、岡田利規、長嶋有、田中慎弥、
その他諸々の「内向のゼロ世代」がいて、
「無数の匿名の視線と介入」に背を向ける形で彼らに対峙する。
彼ら「内向のゼロ世代」は、個人あるいは内輪だけで、物語が閉じている。
そうではなく、物語を愚直かつ真摯に語り、生きることによって、
物語を開こう、紡ごう! そう、村上や東、平野が語っている。
…そんな現代文壇の構図を、自分勝手に予想した。
そして、その接点が、おずおずとながら福永信にある気がする。
(それはもしかすると、テレビのワイドショー的ですらあるかもしれない)、
物語がプレ段階を終えて本式に進み始めてから、嘆息の連続だった。
スケッチのような描写の的確さも、ボードリヤールのような
匿名ネット社会に関する哲学・社会学への深い智識を動員した思索も、息つかせず面白かった。
小説ではありながら余りに現実的で「単に起きなかっただけ」と錯覚する、
そんな物語を分析的に構成するアイディアと筆力。
その試みの中では、主題に関しては何も取捨されず、ありのままに現前するかのよう。
だから、容易な「物語」が渇望するような、完璧な善も完璧な悪もいなくて、
誰もが白黒の決着のつかない灰色の濃淡を行きつ戻りつしながらそれぞれの立場を必死で苦しむ。
この本は、現代社会について考えるあらゆる人間が読めばよいと思う。
無関心と多極主義で平板になった命が多数に蠢く群れとしての社会で、
どうやって人を愛し、倫理を打ち立てられるか?
カントをモチーフにした科白を悪魔が吐くあたりで、倫理という言葉そのものが霞みそうだけど、
それでも、生きることを肯定するには、どうすればよいのか?
その一筋縄では到底いかない提起を、その複雑さをそのまま露出させるようにして書かれた、
この物語は、本当に素晴らしいと思った。
twitterに書いたが、
村上春樹『1Q84』、東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』、平野啓一郎『決壊』は、
「無数の匿名の視線と介入」がどういうものかを解こうと
試みていて、ネット社会の文脈で読まれるべきだ。
一方で現代作家には、舞城王太郎、佐藤友哉、岡田利規、長嶋有、田中慎弥、
その他諸々の「内向のゼロ世代」がいて、
「無数の匿名の視線と介入」に背を向ける形で彼らに対峙する。
彼ら「内向のゼロ世代」は、個人あるいは内輪だけで、物語が閉じている。
そうではなく、物語を愚直かつ真摯に語り、生きることによって、
物語を開こう、紡ごう! そう、村上や東、平野が語っている。
…そんな現代文壇の構図を、自分勝手に予想した。
そして、その接点が、おずおずとながら福永信にある気がする。
20.8.10
東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』
読んでいて、今年の本で最も面白いのではないかと思った。
前期ウィトゲンシュタインの言語的可能世界をモチーフにしたような、
相互に「語る」(シミュレート)なしには世界を同定できないという平行世界の併存、
そのSF的背景のつくりが緻密で、一気に引き込まれた。
それでいて、問いかけるのは、家族という結びつきについて。
厳密には血の繋がらない、歴史も共有していない家族が、
家族として思いあうのは妄想ではないか?
平行する世界で別の人生を歩む、少しずつ差異のある相手を、
すべて相手として同一視して想うことができるのか?
これを解決するのは、あきらかに物語というあまりに人間的な想像力だ。
「宇宙は物語でできている、原子からではない」とは、
詩人ミュリエル・ルーカイザーの言葉だが、
それがなければ自己を同定できなず、
物体が存在そのものの質感をグロテスクに露出させた世界に包まれて狂うことになる。
生きるとは何か、一度きりの不可逆の線形時間を生きるとはどういうことかを、
物語の可能性とともに強く諭す、そのような小説として、私は読んだ。
悪く云えば虚妄でしかないよすがに縋り、
しかし自分を見失いで生き抜くひたむきさは、強く心を打った。
「なぜそこではなくてここにいるのか」というトポス論は、
技術の進歩によって次第に無効化されつつ、
物理的制約とノスタルジーで成り立っている。
ともすれば感傷的な、そんなことも考えた。
前期ウィトゲンシュタインの言語的可能世界をモチーフにしたような、
相互に「語る」(シミュレート)なしには世界を同定できないという平行世界の併存、
そのSF的背景のつくりが緻密で、一気に引き込まれた。
それでいて、問いかけるのは、家族という結びつきについて。
厳密には血の繋がらない、歴史も共有していない家族が、
家族として思いあうのは妄想ではないか?
平行する世界で別の人生を歩む、少しずつ差異のある相手を、
すべて相手として同一視して想うことができるのか?
これを解決するのは、あきらかに物語というあまりに人間的な想像力だ。
「宇宙は物語でできている、原子からではない」とは、
詩人ミュリエル・ルーカイザーの言葉だが、
それがなければ自己を同定できなず、
物体が存在そのものの質感をグロテスクに露出させた世界に包まれて狂うことになる。
生きるとは何か、一度きりの不可逆の線形時間を生きるとはどういうことかを、
物語の可能性とともに強く諭す、そのような小説として、私は読んだ。
悪く云えば虚妄でしかないよすがに縋り、
しかし自分を見失いで生き抜くひたむきさは、強く心を打った。
「なぜそこではなくてここにいるのか」というトポス論は、
技術の進歩によって次第に無効化されつつ、
物理的制約とノスタルジーで成り立っている。
ともすれば感傷的な、そんなことも考えた。
野又穫『ALTERNATIVE SIGHTS―もうひとつの場所』(画集)
2004年の同じ画家の画集『Point of View 視線の変遷』を、
私は持っていないが知っている。
その、前の画集を買えなかった反動か、今回の画集はすぐさま購入した。
そこからの最も大きな変遷は、
バベル的な建物群と、イリュミネーションに光る建物群だ。
また、前作では、世界は無人のまま、ただ吹く風を感じさせるものが多かった。
今回の画集に入っている作品にはもちろん重複はあるが、新作の多くは、
巨大な高層建築として統一的にデザインされながらも細部がわずかに綻びていたり、
八割方建てられているバベルの塔の周囲に飯場とおぼしき小屋があったり、
建造物というよりむしろオブジェのように光る周囲に祭りめいた光りが瞬いていたりと、
遥かに遠い人の気配が仄かながら感じられるような気がした。
野又は若い頃によく臨海へ景色を観に行ったと、画集末尾の寄稿にあったが、
今日、根岸線の根岸駅から新杉田駅までの車窓から見える工場群を眺めて、
彼の作品に見えるその影響を感じずにはいられなかった。
野又穫の絵は、おそらく誰の心をも摑むだろう。
ネットで検索していくつかの作品を見れば、
不思議な感覚に包まれるその絵の魅力はすぐに知れるはずだ。
私は持っていないが知っている。
その、前の画集を買えなかった反動か、今回の画集はすぐさま購入した。
そこからの最も大きな変遷は、
バベル的な建物群と、イリュミネーションに光る建物群だ。
また、前作では、世界は無人のまま、ただ吹く風を感じさせるものが多かった。
今回の画集に入っている作品にはもちろん重複はあるが、新作の多くは、
巨大な高層建築として統一的にデザインされながらも細部がわずかに綻びていたり、
八割方建てられているバベルの塔の周囲に飯場とおぼしき小屋があったり、
建造物というよりむしろオブジェのように光る周囲に祭りめいた光りが瞬いていたりと、
遥かに遠い人の気配が仄かながら感じられるような気がした。
野又は若い頃によく臨海へ景色を観に行ったと、画集末尾の寄稿にあったが、
今日、根岸線の根岸駅から新杉田駅までの車窓から見える工場群を眺めて、
彼の作品に見えるその影響を感じずにはいられなかった。
野又穫の絵は、おそらく誰の心をも摑むだろう。
ネットで検索していくつかの作品を見れば、
不思議な感覚に包まれるその絵の魅力はすぐに知れるはずだ。
15.8.10
ヨーロッパ極右政党による靖国参拝
ル=ペンほか欧州極右政党幹部と一水会による靖国参拝について
フランス紙の速報記事を訳してみた。
ソースはLe Pointすなわち「論点」、政治中心の議論的な週刊誌。
なお、写真および全文は下リンクから。
http://www.lepoint.fr/monde/visite-controversee-de-jean-marie-le-pen-au-japon-15-08-2010-1225332_24.php
---------↓以下、段落ごとに拙訳↓---------
Visite controversée de Jean-Marie Le Pen au Japon
議論を呼ぶジャン=マリ・ル=ペン訪日
Des dirigeants politiques européens d'extrême droite, notamment Jean-Marie Le Pen et Bruno Gollnisch, ont visité, samedi, à Tokyo le sanctuaire controversé de Yasukuni qui honore la mémoire des soldats tombés pour le Japon lors de la Deuxième Guerre mondiale et celles de 14 criminels de guerre condamnés par les Alliés.
ヨーロッパ極右政治家の幹部たち、特にジャン=マリ・ル=ペンとブリュノ・ゴルニシュが土曜日[訳註:2010年8月14日]、東京の靖国神社を訪問した。靖国神社は議論の的になっている神社で、第二次大戦時に死亡した兵士たちおよび同盟国側によって処刑された戦争犯罪人14人の栄誉を讃えている。
Interrogé à ce sujet, Jean-Marie Le Pen avait déclaré, jeudi, n'avoir "aucun complexe". "Cela ne me gêne pas d'honorer les anciens combattants d'un pays adversaire ou ex-ennemi", avait-il dit. "Le criminel de guerre n'est pas une exclusivité des vaincus. Il y en a aussi parmi les vainqueurs", avait-il ajouté en évoquant les bombes atomiques larguées par les Américains sur Hiroshima et Nagasaki en août 1945. "Des gens qui décident de tuer des centaines de milliers de civils pour obtenir la capitulation militaire du pays, ne sont-ils pas eux aussi des criminels de guerre ?" avait-il demandé.
この点に関してジャン=マリ・ル=ペンは木曜日に「ややこしいことは何も」ないと宣言していた。「敵国や旧対戦国の昔の兵士に敬意を表することに、何の遠慮もない」と彼は言っていた。「戦争犯罪は敗戦国にしかないわけではない。戦勝国にも同じようにある」と彼はつけ加え、1945年8月にアメリカ軍によって広島と長崎に投下された原子爆弾について言及した。「多くの市民を殺害して降伏させようと決断した人々は、同じように戦争犯罪人ではないのか?」と彼は問い質した。
Contrairement à la plupart des pays européens, le Japon n'a pas de parti politique d'extrême droite, mais uniquement des organisations nationalistes. C'est l'une d'elles, Issuikai, dirigée par Mitsuhiro Kimura, qui est à l'origine de ce colloque inédit rassemblant Jean-Marie Le Pen, 82 ans, président du Front national, Adam Walker, numéro deux du Parti national britannique (BNP) et des représentants venus de six autres pays européens (Autriche, Belgique, Espagne, Hongrie, Portugal, Roumanie). Issuikai, fondée en 1972 et qui ne rassemble qu'une centaine de membres, nie, entre autres, l'ampleur des atrocités attribuées à l'armée impériale nippone en Asie avant et pendant la Deuxième Guerre mondiale.
欧州諸国の多くとは反対に、日本には極右政党は存在せず、国粋主義団体があるだけだ。そのうちの一つ、木村三浩の率いる一水会が、この新しい枠組みの集まりを発起した。集まったのは、国民戦線党首ジャン=マリ・ル=ペン(82歳)、英国国民党ナンバー2アダム・ウォーカーほか欧州6国(オーストリア、ベルギー、スペイン、ハンガリー、ポルトガル、ルーマニア)の党首たち。一水会は1972年に設立され、100人ほどしか構成員はいないが、それぞれが第二次対戦前および対戦中のアジアにおける日本帝国軍によってなされた残虐行為の広がりを否定している。
フランス紙の速報記事を訳してみた。
ソースはLe Pointすなわち「論点」、政治中心の議論的な週刊誌。
なお、写真および全文は下リンクから。
http://www.lepoint.fr/monde/visite-controversee-de-jean-marie-le-pen-au-japon-15-08-2010-1225332_24.php
---------↓以下、段落ごとに拙訳↓---------
Visite controversée de Jean-Marie Le Pen au Japon
議論を呼ぶジャン=マリ・ル=ペン訪日
Des dirigeants politiques européens d'extrême droite, notamment Jean-Marie Le Pen et Bruno Gollnisch, ont visité, samedi, à Tokyo le sanctuaire controversé de Yasukuni qui honore la mémoire des soldats tombés pour le Japon lors de la Deuxième Guerre mondiale et celles de 14 criminels de guerre condamnés par les Alliés.
ヨーロッパ極右政治家の幹部たち、特にジャン=マリ・ル=ペンとブリュノ・ゴルニシュが土曜日[訳註:2010年8月14日]、東京の靖国神社を訪問した。靖国神社は議論の的になっている神社で、第二次大戦時に死亡した兵士たちおよび同盟国側によって処刑された戦争犯罪人14人の栄誉を讃えている。
Interrogé à ce sujet, Jean-Marie Le Pen avait déclaré, jeudi, n'avoir "aucun complexe". "Cela ne me gêne pas d'honorer les anciens combattants d'un pays adversaire ou ex-ennemi", avait-il dit. "Le criminel de guerre n'est pas une exclusivité des vaincus. Il y en a aussi parmi les vainqueurs", avait-il ajouté en évoquant les bombes atomiques larguées par les Américains sur Hiroshima et Nagasaki en août 1945. "Des gens qui décident de tuer des centaines de milliers de civils pour obtenir la capitulation militaire du pays, ne sont-ils pas eux aussi des criminels de guerre ?" avait-il demandé.
この点に関してジャン=マリ・ル=ペンは木曜日に「ややこしいことは何も」ないと宣言していた。「敵国や旧対戦国の昔の兵士に敬意を表することに、何の遠慮もない」と彼は言っていた。「戦争犯罪は敗戦国にしかないわけではない。戦勝国にも同じようにある」と彼はつけ加え、1945年8月にアメリカ軍によって広島と長崎に投下された原子爆弾について言及した。「多くの市民を殺害して降伏させようと決断した人々は、同じように戦争犯罪人ではないのか?」と彼は問い質した。
Contrairement à la plupart des pays européens, le Japon n'a pas de parti politique d'extrême droite, mais uniquement des organisations nationalistes. C'est l'une d'elles, Issuikai, dirigée par Mitsuhiro Kimura, qui est à l'origine de ce colloque inédit rassemblant Jean-Marie Le Pen, 82 ans, président du Front national, Adam Walker, numéro deux du Parti national britannique (BNP) et des représentants venus de six autres pays européens (Autriche, Belgique, Espagne, Hongrie, Portugal, Roumanie). Issuikai, fondée en 1972 et qui ne rassemble qu'une centaine de membres, nie, entre autres, l'ampleur des atrocités attribuées à l'armée impériale nippone en Asie avant et pendant la Deuxième Guerre mondiale.
欧州諸国の多くとは反対に、日本には極右政党は存在せず、国粋主義団体があるだけだ。そのうちの一つ、木村三浩の率いる一水会が、この新しい枠組みの集まりを発起した。集まったのは、国民戦線党首ジャン=マリ・ル=ペン(82歳)、英国国民党ナンバー2アダム・ウォーカーほか欧州6国(オーストリア、ベルギー、スペイン、ハンガリー、ポルトガル、ルーマニア)の党首たち。一水会は1972年に設立され、100人ほどしか構成員はいないが、それぞれが第二次対戦前および対戦中のアジアにおける日本帝国軍によってなされた残虐行為の広がりを否定している。
北野武『菊次郎の夏』
ヤクザ映画ではないが、間あいの取り方がやはり良かった。
終盤、キャンプで遊ぶシーンは、『ソナチネ』に似ている気がした。
底の張り詰めた雰囲気はなく、もっとユーモラスだったとはいえ。
これも一つの大きな間あいだ。
菊次郎って少年の名前じゃなくておっさんのほうなのか。
人々が奇妙に繋がる、その別れの挨拶がすべて「またね」だったのが良かった。
おそらくはもう二度と会わないだろうのに。
終盤、キャンプで遊ぶシーンは、『ソナチネ』に似ている気がした。
底の張り詰めた雰囲気はなく、もっとユーモラスだったとはいえ。
これも一つの大きな間あいだ。
菊次郎って少年の名前じゃなくておっさんのほうなのか。
人々が奇妙に繋がる、その別れの挨拶がすべて「またね」だったのが良かった。
おそらくはもう二度と会わないだろうのに。
14.8.10
レーモン・クノー『地下鉄のザジ』
主人公以外の登場人物もそれぞれ際立った群像劇で、
口語の多いドタバタとスピード感が読み心地よい。
フランス語の言葉遊びの部分が、邦訳ではかなり隠れるのは残念。
作品の発表が1959年ということもあり、
種々を笑い飛ばしてしまう(作者や書く行為をも)態度が、
庄司薫的な文壇に対する挑発行為だったのか、とも思った。
実際、訳者の生田耕作は後書きで、実存主義と抵抗文学で
重苦しくなった読書界に非常に受けた、ということを書いている。
口語の多いドタバタとスピード感が読み心地よい。
フランス語の言葉遊びの部分が、邦訳ではかなり隠れるのは残念。
作品の発表が1959年ということもあり、
種々を笑い飛ばしてしまう(作者や書く行為をも)態度が、
庄司薫的な文壇に対する挑発行為だったのか、とも思った。
実際、訳者の生田耕作は後書きで、実存主義と抵抗文学で
重苦しくなった読書界に非常に受けた、ということを書いている。
11.8.10
エマニュエル・ル=ロワ=ラデュリ『南仏ロマンの謝肉祭(カルナヴァル) 叛乱の想像力』
原題は « Le Carnaval de Romans de la Chandeleur au Mercredi des Cendre 1579-1580 »。
1580年、ロマン・シュル・イゼール(Romans-sur-Isère, Dauphiné)の
謝肉祭で、都市手工業者と農民、新教徒過激派が叛乱を起こした。
この事件は謝肉祭というハレの文法に則って行われたことで、
フランス中世社会史的には有名。
おこりの特殊な構造と、日常空間と祝祭空間がどのように溶け合っていたのか、
それを知るために手に取ったこの本は、全700ページほどもある大著だった。
地理、身分、宗教、貧富、職業などが
複雑に積み重なり絡み合った位相として、叛乱は惹き起こされる。
叛乱への前過程・背景として大きく章を割いているのは、
所得や身分ごとの人口比とその納税額。
新興貴族階級の免税特権批判と第三身分の負担軽減を求める声は
かなり強まっていた。
1579年のカトリーヌ・ド・メディシス巡察時、
民衆派弁護士ド・ブールによって陳述書が直訴されていたことからも伺える。
税の負担や特権に関するだけでも、
不在地主の納税という都市-農村の対立、
人的課税を批判しローマ法的な物的課税を求める
第三身分の声(貴族・聖職者-民衆の対立)、
同じドーフィネ地方内でも貴族の免税特権のない都市の存在などの位相がある。
17世紀に入っても、民衆派の論客たちの主張が
身分制批判ではないというところが興味深かった。
むしろ、身分制を擁護したうえで、序爵を買ったような新興貴族への批判や、
貴族という身分が本来果たすべき役割を問うような批判だった。
アリストテレス的調和論、プトレマイオス的世界観がよく表れている。
エドモンド・リーチなどによれば、祝祭は
日常から祝祭への突入(仮面舞踏会など)、
逆転や周縁の強調(死の踊り、無礼講、など)、
日常への再統合(偽王の処刑など)の三位相に分類される。
反体制側の動きは第二相的で、体制側は第三相的に動いた。
動乱とその封じ込めのどちらも露骨に政治的だが、
祝祭に重ねられている以上、
諸事項に込められた意味はきわめて祝祭的に多重に解釈される。
例えば、手工業者の守護聖人ブレーズの祝日に叛乱は起き、
ブランルという踊りが踊られる。
足に鈴をつけることで教会(鐘)の権威を地に落とし、
また、死や脱聖化を意味する。
とはいえむしろ、この叛乱は心性にどうこうというより、
この祝祭によって緊張関係が頂点に達したことで、
祝祭のコードが体よく利用された、かなり政治的な事件だっただけ、
という気もする(首領部はけっこう冷めている)。
もっとも、謝肉祭そのものが、見方によっては政治的・反動的なのだが。
だから物語展開は大江健三郎『万延元年のフットボール』とよく似た心地がした。
1580年、ロマン・シュル・イゼール(Romans-sur-Isère, Dauphiné)の
謝肉祭で、都市手工業者と農民、新教徒過激派が叛乱を起こした。
この事件は謝肉祭というハレの文法に則って行われたことで、
フランス中世社会史的には有名。
おこりの特殊な構造と、日常空間と祝祭空間がどのように溶け合っていたのか、
それを知るために手に取ったこの本は、全700ページほどもある大著だった。
地理、身分、宗教、貧富、職業などが
複雑に積み重なり絡み合った位相として、叛乱は惹き起こされる。
叛乱への前過程・背景として大きく章を割いているのは、
所得や身分ごとの人口比とその納税額。
新興貴族階級の免税特権批判と第三身分の負担軽減を求める声は
かなり強まっていた。
1579年のカトリーヌ・ド・メディシス巡察時、
民衆派弁護士ド・ブールによって陳述書が直訴されていたことからも伺える。
税の負担や特権に関するだけでも、
不在地主の納税という都市-農村の対立、
人的課税を批判しローマ法的な物的課税を求める
第三身分の声(貴族・聖職者-民衆の対立)、
同じドーフィネ地方内でも貴族の免税特権のない都市の存在などの位相がある。
17世紀に入っても、民衆派の論客たちの主張が
身分制批判ではないというところが興味深かった。
むしろ、身分制を擁護したうえで、序爵を買ったような新興貴族への批判や、
貴族という身分が本来果たすべき役割を問うような批判だった。
アリストテレス的調和論、プトレマイオス的世界観がよく表れている。
エドモンド・リーチなどによれば、祝祭は
日常から祝祭への突入(仮面舞踏会など)、
逆転や周縁の強調(死の踊り、無礼講、など)、
日常への再統合(偽王の処刑など)の三位相に分類される。
反体制側の動きは第二相的で、体制側は第三相的に動いた。
動乱とその封じ込めのどちらも露骨に政治的だが、
祝祭に重ねられている以上、
諸事項に込められた意味はきわめて祝祭的に多重に解釈される。
例えば、手工業者の守護聖人ブレーズの祝日に叛乱は起き、
ブランルという踊りが踊られる。
足に鈴をつけることで教会(鐘)の権威を地に落とし、
また、死や脱聖化を意味する。
とはいえむしろ、この叛乱は心性にどうこうというより、
この祝祭によって緊張関係が頂点に達したことで、
祝祭のコードが体よく利用された、かなり政治的な事件だっただけ、
という気もする(首領部はけっこう冷めている)。
もっとも、謝肉祭そのものが、見方によっては政治的・反動的なのだが。
だから物語展開は大江健三郎『万延元年のフットボール』とよく似た心地がした。
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