物語が進行を始める場の形成まで、登場人物間の会話がリニアなところが気になったが
(それはもしかすると、テレビのワイドショー的ですらあるかもしれない)、
物語がプレ段階を終えて本式に進み始めてから、嘆息の連続だった。
スケッチのような描写の的確さも、ボードリヤールのような
匿名ネット社会に関する哲学・社会学への深い智識を動員した思索も、息つかせず面白かった。
小説ではありながら余りに現実的で「単に起きなかっただけ」と錯覚する、
そんな物語を分析的に構成するアイディアと筆力。
その試みの中では、主題に関しては何も取捨されず、ありのままに現前するかのよう。
だから、容易な「物語」が渇望するような、完璧な善も完璧な悪もいなくて、
誰もが白黒の決着のつかない灰色の濃淡を行きつ戻りつしながらそれぞれの立場を必死で苦しむ。
この本は、現代社会について考えるあらゆる人間が読めばよいと思う。
無関心と多極主義で平板になった命が多数に蠢く群れとしての社会で、
どうやって人を愛し、倫理を打ち立てられるか?
カントをモチーフにした科白を悪魔が吐くあたりで、倫理という言葉そのものが霞みそうだけど、
それでも、生きることを肯定するには、どうすればよいのか?
その一筋縄では到底いかない提起を、その複雑さをそのまま露出させるようにして書かれた、
この物語は、本当に素晴らしいと思った。
twitterに書いたが、
村上春樹『1Q84』、東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』、平野啓一郎『決壊』は、
「無数の匿名の視線と介入」がどういうものかを解こうと
試みていて、ネット社会の文脈で読まれるべきだ。
一方で現代作家には、舞城王太郎、佐藤友哉、岡田利規、長嶋有、田中慎弥、
その他諸々の「内向のゼロ世代」がいて、
「無数の匿名の視線と介入」に背を向ける形で彼らに対峙する。
彼ら「内向のゼロ世代」は、個人あるいは内輪だけで、物語が閉じている。
そうではなく、物語を愚直かつ真摯に語り、生きることによって、
物語を開こう、紡ごう! そう、村上や東、平野が語っている。
…そんな現代文壇の構図を、自分勝手に予想した。
そして、その接点が、おずおずとながら福永信にある気がする。
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