23.12.16

丸山眞男『軍国日本の論理と心理』、ル=グィン『夜の言葉』、芥川龍之介『杜子春』、宮沢賢治『セロ弾きのゴーシュ』、堀辰雄『曠野』『かげろふの日記』、バルザック『ゴリオ爺さん』

丸山眞男『軍国日本の論理と心理 他八篇』

岩波文庫版。
もともと、抑圧移譲体系についての表題作のみ読むつもりだったが、
どれも面白く、結局すべてを読み進めた。
文体は精緻で硬いが、数式のように読みやすかった。
視点は日本軍国主義からファシズム(ナチズム、マッカーシズム)、
そして世界情勢へと拡がりながらも、
思座は常になぜ個人が不可避的に組織形態へ取り込まれるかという点にある。
だから、組織のありようや動向はもちろん、背後の精神性や時代も含めて、社会が多面的に描き出されている。
この普遍性は、現代への視点としても機能するはずだ。
いずれ、気になって箇所を中心に読み返したい。

アーシュラ・K・ル=グィン『夜の言葉』

岩波現代文庫版。
SF、ファンタジーを中心とした文学についてのエッセイ。
文学の生成論や物語の社会的役割について、
とても深い洞察があったので、いくつかメモを取った。

芥川龍之介『杜子春』

青空朗読版。
「トロッコ」と何となく似ている気がした。
はじめ主人公は現実への厭悪を持っているが、
物語の進行を経て、現状認識が暖かく異化される、という主題が。
この構造は『ライ麦畑でつかまえて』的だが、
主人公の成長が描かれているわけではない。
結尾で主人公はいわば振り出しに戻っている。
そこには、序盤の杜子春が金満と貧困を行き来するのと同じ輪廻がある。
人は人生のなかで、どうやって輪廻を肯定できるか、
その問いへの一つの解法のように読めた。
人は永劫回帰の中でただ現状に寄って立つありがたみを感じよ、と。
成長などという虚構はない、行きつ戻りつがあるだけだ、と。

宮沢賢治『セロ弾きのゴーシュ』

青空朗読版。
それにしても、なぜ動物たちはゴーシュにかくも親身なのか。
この作品が童話だということを照らして、
主人公(=読み手の感情移入先)は、本当は動物たちではないのか。

堀辰雄『曠野』

青空朗読版。
女がなすすべなくゆっくりと落ちぶれてゆく様子の果てに、
ようやく夫と偶然にも再会できた、その儚さが、
一途さの美しさというものを切なくきらめかせる。
これだけの、物語の筋を追ってもあまり意味はない短篇だが、
それだけに、細部が全体を見通し、全体が細部に行き渡っている、
そのような高純度の美しさとその余韻があった。

堀辰雄『かげろふの日記』

青空朗読版。
藤原道綱母『蜻蛉日記』を材に取り、
愛の感情をこじらせにこじらせる男女関係が
どこまでもねちねちと描かれる。
コンスタン『アドルフ』を思わせる、まさに心理小説。
いや、それよりも徹底しているかもしれない。
夫が別の女に産ませた子が早死にしたと聞いて喜んだり、
道綱が淋しそうにする姿を見つめたり、
西山に寺籠りしたりするほかは、
特に劇的なシーンが起きるわけでもないのだから。
ただひたすら、夫への愛の拗れに拗れた恨みが描かれる。

結末、もう離れられる間でなくなって、
互いへの想いに苦しい夫婦のさまが、なんともいえない。
しみじみと夫婦愛を味わえるかもしれないし、
人の世の寒々しい宿命めいたちっぽけさも思わせる。
でも、それこそが愛の美しさだとも感じた。

オノレ・ド・バルザック『ゴリオ爺さん』

光文社古典新訳文庫版。中村桂子訳。
小説らしい小説が読みたくて、バルザックの人間臭さに手を伸ばした。
バルザックの代表作の一つというだけあって、やはり面白かった。
主人公のラスティニャックの若さ漲る猛進ぶりと、
いい意味でまだ無分別な実直さが、
社交界(="le monde"="世間")の常識を問いただす。
その書き手のスタンスは、印刷業の隆盛期だった当時、
文学は一つのジャーナリズムであるという作家の自負でもあるに違いない。
その一つとして、貴族の資金繰りがしばしば描かれるが、
その裏側が「ゴプセック」で描かれていたとおりで、
人間喜劇の壮大な舞台でのつながりもまた面白い。

20.11.16

ハリー・マシューズ『シガレット』、白洲正子『近江山河抄』

 ハリー・マシューズ『シガレット』

作者はOulipoのメンバーだとのことだが、実験性はさほど感じなかった。
因果がつながり伏線がどんどん回収されていく快感はたまらなかった。
「筆者が自ら考案したアルゴリズムで作った粗筋」とのことだが、
一体どんなアルゴリズムなのだろう?


 白洲正子『近江山河抄』

講談社文芸文庫版。

近江に住みはじめたからには、近江について知りたかった。
そんななか、手近にあったため手に取った。
(個人的に、滋賀という県名はそぐわない。
 滋賀とは現大津市の西半分を占める滋賀郡に由来するが、
 その地域が近江の支配的・代表的な立場にあるわけではないからだ。
 もっとも、宮城県(宮城郡に由来)、神奈川県(神奈川宿に由来)といい、
 廃藩置県という明治政府の反幕府的な立場による命名は、
 多かれ少なかれ同じ憂き目を負っているともいえるが)

「近江は日本の楽屋裏だ」という弁は、
奈良時代以前のヤマト朝廷の古代史が眠っている歴史の豊かさから、
思わず頷かされる。
京都と違って田舎へ帰した奈良よりも昔の歴史の記憶が、
消えかけながらわずかに残っている、
そんな気配みたいなものを掘り起こしてくれる。
エッセイながら歴史書なみの情報量だった。

今後、近江のあちこちを旅しつつ、参照したくなる本だった。

篠原雅武『生きられたニュータウン』

著者はニュータウンについて、決定的な何かが欠いた空間として捉えようとする。
例えば、
松山巖は述べている。「東京をはじめ都市圏に人口が集中し、農地や工場跡地を蚕食して大規模団地が出現する。生産や加工の現場が見えぬ空間のなかで、事実は噂にすり替わり、モノ不足の危機感のみが拡大する」。人工都市は、生産や加工の現場から切断されて要るというだけでなく、そこに住む人たちに根づきの根拠を実感させる何ものか(伝承、習俗、風土性)からも切断された空間である。自然都市であれ、農村であれ、時間をかけてつくりだされた居住地には自然成長的に形成されてきたはずのものが、人工都市には不在である。(p.34)
あるいは、
私たちをとりまく世界にそなわる外在性、非人間性の度合いを弱め、環境世界を人間の意のままにすべく馴致したことの帰結として、人工都市を考えることが可能になる。環境世界の人間化である。そこでは、事物にそなわる奇怪で予期しえない影響が、あらかじめとりのぞかれている。ただし、予期しえないものの除去、馴致が、本当に可能かどうかはわからない。それでも、少なくともここに住んでいる人たちは、馴致が可能であると信じているし、私たちをとりまく世界がそもそも奇怪で、手なづけられないものであるということに、無自覚になっている。(p.36)
これらの指摘が捉えようとする不思議な焦燥感、乾きは、
村上龍『海の向こうで戦争がはじまる』の描く不思議な欲望と似ている気がしたし、
酒鬼薔薇聖斗事件のような猟奇性の底に同時代の子どもたち(私を含む)が感じた、
どことなく理解できる気分と、通底しているように思われた。

その後、議論は、都市環境論、あるいは身体論の変奏曲をたゆたう。
都市と自然、あるいは生活圏と他者、あるいは交錯と整然、記号ともの。
黒川紀章の設計した湘南ライフタウン(辻堂と湘南台の中間に位置)に関して、
 自然を招き入れること。それはたんなる矯正を意味しない。たとえ都市から区別され、異質なものとして保全されていても、封じ込めと剥奪の対象となっているのであれば、自然は不活性状態にある。
 自然を都市へと招き入れるということは、無垢なものとして聖別化されつつ剥奪されている状態にある自然の不活性状態からの解放を意味することになるだろう。(p.45)
ただ、住居・商業空間を城壁で自然から囲った姿が、都市のおこりだったわけで、
都市と自然の共生というコンセプトは、メルロ=ポンティ的というか、
むしろニュータウンのみならず現代都市への理想論的アンチテーゼにすぎる気がする。
私的ないし排他的な空間の集合体であるニュータウンは、イメージと言葉と音楽が漂い交錯していく世界の錯綜性のなかに異物として投入されたと考えることができるだろう。つまり、世界の錯綜的とは質を異にする特性が、ニュータウンにある。効率的で機能的で自己完結した空間を構築すること。これは、世界の錯綜性を整序し、消去していくことである。(p.55)
 廃屋において、「ものがある」と感じてしまうのも、廃屋が機能的存在であることをやめているからである。(p.147)
[...]空間に質感があることを捉え、その質感にこそ、空間の生死があることを感知した点でも、多木の議論は優れていた。
 それでも多木の議論は、人工的な都市空間を一律に生きられた空間ではないと捉えた点で、制約を受けてしまっている。
 [...]
 多木の議論に対しては、次のように応答したい。たしかにニュータウンは、外在性の論理の帰結である。技術によってつくりだされた世界である。だが、そこに人は住んでいる。のみならず、ニュータウンに人が住むようになって、およそ半世紀が経とうとしている。外在性の論理のもとでつくりだされた生活空間を、生きることの根拠として受けいれ、そのもとで、生活を営んできた人たちがいる。私たちはもう、ニュータウンを思考するとき、住むことの意味の喪失や没場所性といった文化論的な観念を参照するのをやめるべきだろう。[...]考えることの手がかりが、ニュータウンにおける廃墟化にあると、私は考える。ただし、廃墟化を考えるためには、まず何が廃墟化しているのか、廃墟化はどのようなところにおいて起きているのかをしっかりと捉える必要がある。つまり、ニュータウンとはどのようなものかを、人間の内面性とは独立の外在的な世界と見立てて把握し提示することである。(p.156)
ここまで補助線を引いてくれれば、ニュータウン育ちの私にとって、答えは一つ。
コミュニティの不在だ。
ここまでのニュータウンをめぐる議論は、オタク論としてさえ読める。
その意味で、ニュータウンとはオタクたちの理想郷なのかもしれない。

著者は最後まで、コミュニティ構築をニュータウンへの突破口と考える。
だから、近隣との壁を和らげ脱臼させようとする近年の住宅建築に注目するし、
あくまで相手を認めることに主眼を置く。

だが、ニュータウンがそれ以前の人工都市と決定的に異なるのは、
地域社会というものが委員会的に設計・運営されるにとどまり、
生活そのものに根を下ろさなかったということだ、と私は考える。
ニュータウンにおける地域社会とはPTA、自治会、生協でしかなかった。
そこに世代交代、よそ者、商業が入り込まなかったため、
都市という大枠へ収斂する入れ子状の社会に組み入れられなかった。
だから、ニュータウンは本質としてオタク的なのだ。

筆者自身が結語で認めているように、
本書はニュータウンの静止した雰囲気を捉えることを目的に、書かれている。
だが、例えば往年の炭鉱都市の荒廃を、
戦後史やエネルギー政策転換なくして、街中を歩き回るだけで語れるだろうか。
本書はニュータウンに関して内省的だが、クリティカルではない。
丁寧で優しく、示唆的ではあったが。

著者の文体として、比較的列挙が多い。
列挙は、実際に触れてみると全く異なるものを、
同一ジャンルという机上の論理で一本化することだから、
そのやり方は、ニュータウン的な思考な気がする。

最後に。
本著は、これまでに私が読んだニュータウン論で、もっとも優れていた。

14.11.16

ATTAC『反グローバリゼーション民衆運動』、池内紀『東京ひとり散歩』

 ATTAC・編『反グローバリゼーション民衆運動 アタックの挑戦』

2001年発行。杉村昌昭訳。
ATTACによる声明や論文がまとめられている。
paradis fiscalを租税回避地ではなく税金天国とする誤訳は、この際目をつぶろう。

反グローバリゼーション運動といえば、
ラッダイト運動のような旧時代の断末魔のように聞こえるが、
ATTACはトービン税という金融取引税の課税を国際社会に求める運動によって知られる。
その運動は今世紀初めにフランスで始まり、全世界へと広まった。
訳者による序文によれば、ATTAC運動は世界中に拡がり始めた矢先、
9.11により運動は一変したという。
確かに、そのとおりだろう。
単一市場経済に対する経済学的な立場とはまったく違う反テロリズムという国際協調が、
世を席捲し、熱狂させ、経済搾取を隠蔽したのだから。
いま、ATTACはどうなっているのだろう?
が、今は日本にいる限り、ほぼ何も聞こえてこない。

本書を読むと、ヨーロッパの民主主義がいかに暮らしに根ざしているか、羨ましくなる。
トービン税という税収が想定される以上、国家は前提とされる。
しかも、多国籍企業やグローバル企業と対峙する国家である必要がある。
つまり、開発独裁型の国家をあまり想定していない。
もちろん、国家の経済成長追求の側面はあれど、
技術革新への補助という国家の「悪」の一面は官僚の領分であり、
ATTACは国民の代弁者たる議員を通じて、国策に関与すべき、という。
代表制民主主義が正しく機能していることに驚かされ、そして哀しくなる。
この感覚がフランスで当たり前だということは、フランス在住の経験からよくわかる。
日本ではありえないということも、よくわかる。この歯がゆさ。

経済活動、経済成長がどこからくるのか、という考え方が、まず日本と異なる気がする。
日本の場合、経済発展は基本的に善であり、その内容や因果は問われない。
一方、ATTACのいう経済とは(理想論的には?)「経世済民」「相互扶助」であり、
その視点を欠いた経済発展はむしろ社会的紐帯を破壊する、という。
その点、日本はしょせん開発独裁型国家なのだという印象を覚えずにはいられない。


 池内紀『東京ひとり散歩』

東京は、都市としての歴史が400年あまりしかない。
それどころか、銀座、丸の内、新宿、新橋など、
東京のいまの顔は、早くて明治からの開発だ。
だから、街々の趣がそのなりたちをよく残している、そんな気は確かにする。
歴史が地層をなしてどろりと溶けあっているような、
近畿の考古学的なわかりづらさは一切ない。
いわれや風俗を織り交ぜて街を歩くには、もってこいの都市なのかもしれない。

横浜に住んで、主に副都心線に親しんだ身としては、墨東をあまり歩いたことがない。
一度、ぶらぶらと訪れてみたい。

19.10.16

サイード『オリエンタリズム』、モディアノ『失われた時のカフェで』、ポー『黒猫』、宮沢賢治『なめとこ山の熊』

 エドワード・サイード『オリエンタリズム』

先行研究が判例のように重視される人文科学において、
大きなドグマのようなものがいかに根深く巣食ってしまっている可能性があるか。
深層心理が理論的に裏打ちされ、あらゆるディスクールを侵すことで、
いかに市井の人々の先入観に埋め込まれてゆくか。
つまり、メディア(媒介)の語りだけで現実を把握した気になってしまい、
その内容のみならず文脈、文体、話法が知らないうちにいかに思考に染み込んでしまうか。

この著作は、扱っている問題の根源的な深さゆえ、
東洋学という一学問分野への批判を超えて、
文明論であり、また制度論であり、さらには文藝批評でもある。
さらには、概して日本人の好む日本人論の種明かしのようでもあった。
むしろ、同工異曲にオリエンタリズム批判を繰り返すねちっこい文章を追ううちに、
プラトンの洞窟のイデアを実地で問うような議論にしか読めなくなっていった。
我々はどこまで、言語とその社会的含意から離れて、
何かをありのままに見つめることができるのか?
これはもはや現象学である。
ただ、そうした一種の判断停止を経ないままに突っ走った学問が、
いかにグロテスクに肥大したものとなってしまいうるのか。

例えば、文学はどこまで文学そのものを客観的に批判できているのか?
言い換えれば、文学がどこまで社会に即し、あるいは社会に対峙できるのか?
人文科学がテクストの総体である以上、
言説は常に偏見を含んでいて、容易に抜け出せない先行研究と化してしまう。
それはシニフィアンとシニフィエのずれのように宿命的で、
ある意味で、どうしようもできないものなのだから。
自己完結を断つために、批評といった外部装置があるのだとは思うが、
それが文学と同じ言語で文学に従属的な立場でなされる以上は、
どうしても限界がある。


 パトリック・モディアノ『失われた時のカフェで』

淡い水彩の、優しい色の抽象画のような、そんな小説だった。
語り手は複数いるし、時系列は気ままに前後するのに、
どんどん読み進められるのは、
記憶の流れるにまかせているような筆致ゆえだろう。

何かを語るとき、そのものを語るのでは決してなく、
外堀を埋めるようにして周辺を語ることで、
そのものを浮かび上がらせる。しかも、情景とともに生き生きと。
そのような文章が、また、心地よかった。

ただ、翻訳がどうしても鼻についた。
「僕らはアレ、その小道のいっとう先にいた。」と読んで、
alléeが小道と知らなければ、どう解せるのだろう。
あるいは、そう訳すしかないような原文なのだろうか。


 エドガー・アラン・ポー『黒猫』

佐々木直次郎訳。青空朗読版。

癇癪もちの倒錯した心理を描く冷静な文章が美しい。
ストーリーの構造もまた、対称的で美しい。
すべてが、生来の動物好きと、その裏返しである虐待癖とで、対をなしている。
黒猫はその鏡のような存在だ。
その名はプルートォだが、冥王はむしろ語り手たる主人公だ。
猫の首を木の枝に冷然と吊るし、妻を斧で殺す。
だが、妻の死体を隠した漆喰の壁は(おそらく斧で)崩され、
主人公は絞首刑に処せられる。
これらの因果に一つ一つを、プルートォの片眼と抉られた眼窩がそれぞれ見つめる。


 宮沢賢治『なめとこ山の熊』

青空朗読版。

いくつかの小話が寄せ集まって、なめとこ山での小十郎と熊の生き様や価値観を示そうとしている。
作者が示そうとしたのは、誰もがやりたくない役割を担って、
納得いかないみたいに首を傾げながら生きている、ということではないか。
小十郎はやりたくもない熊猟をし、
荒物屋は買いたくない熊の毛皮と胆を買い、
熊は自分たちを殺す小十郎が好きだというし、
だからか2年前の約束のために死ぬし、でも殺すつもりのない小十郎を殺す。
唯一の救いは、桃源郷のように迷った先に現れた熊の親子の何気ない会話だけだ。

宮沢賢治は自然を畏敬しながらも、それを単なる美しいものとしては決して描かない。
科学者らしい観察者の目で。だから、「なめとこ山の熊のことならおもしろい」のだろう。
そう考えないと、この話はおもしろいとは思えないからだ。

9.8.16

サルマン・ラシュディ『真夜中の子供たち』、岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』、舞城王太郎『ビッチマグネット』

 サルマン・ラシュディ『真夜中の子供たち』

一つの国の、あるいは一つの民族の歴史を壮大に語るためには、
リアリズムではなくマジックリアリズムで、
大人ではなく子供が語らなければならないのだろう。
国や民族そのものがフィクション性あふれる口承文学だし、
現実的というより幻想きらめく忘我の境地にあるから。
もし大人がリアリズムで語るとすれば、その記述はどんなものになるのだろう。
つまらない歴史書か、頑迷な解説文か、もしかすると奇妙に味のある物語か。
いや、理に貫かれた歴史とは、そもそも不可能かもしれない。

読み進めるうちに、ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』が念頭にあった。
子供が大人を相対化させながら饒舌に語り、ときに超能力で歴史の裏を動かす。
子供の限界が30歳と位置づけられていることに、驚きの共通点もあった。


 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史 エリート開発主義国家の200年』

中公新書版。

歴史的な文脈なくして、経済発展の著しい国。
徹底的な効率主義と、明るい北朝鮮とされるほどの独裁政治。
マレーシアから1965年に独立してからまだ50年、
それぐらいしか教科書的な知識のない国であるため、
ひと通りの知識をと思い、読んだ。

中国、キューバ、北朝鮮のように、独裁政治はどれも、
革命後の人工的産物と思っていた。
しかし、シンガポールは漸進的な独裁政治への移行である。
国を挙げての経済発展が国家存続の条件という特殊性はあれど、
そのような過程があり得るということに驚いた。

実際に現地に行ってみて、どう感じるか、また楽しみだ。


 舞城王太郎『ビッチマグネット』

新潮文庫版。
舞城王太郎を読んだのは、『好き好き大好き超愛してる。』以来2作目だったか。
正直、語りの荒々しさと、技術的な"稚拙"さに理解できなかった。
が、当時、山田詠美が芥川賞選評で、
技術を全部取っ払ったような作品、というようなことを述べていて、
今回、今さらその表現に合点がいったような気がする。
そして、舞城王太郎のテーマはずっと変わらず"愛"なのだな、と。

登場人物を験すような書き方だから、
ストーリーは奇妙に遠景へずれ込むし、あとから追っても結果論的だ。
自然と刹那ごとが臨場感に溢れて、口語のスピード感のある文体もあって読みやすい。

1.7.16

『池田はるみ歌集』、中野重治「村の家」、ホメロス『オディッセイア』

 『池田はるみ歌集』

砂子屋書房の現代短歌文庫から。

「帰りたきいろこのみやの大阪やゆきかふものはみなゑらぐなり」。
故郷大阪を離れて歌うという感覚の共感を求めて、読んだ。

生活や人生のどこかに何らかの特異な短歌の材を求めるというのでなく、
相撲やうどんや結婚や葬儀の連作など、短歌が日常に根ざしている感じ。
題材を歌に綯う文体はけっこう直截で、するっと心に沁みてきた。


 中野重治「村の家」

主人公は非合法運動を辞めて、今や実家に引きこもって翻訳をしている。
しかも、非合法運動のゆくすえで対象化ができない暗示か、
翻訳はうまくいっていない。

夢破れて実家に帰り、夢の残滓を追うともなく追う。
そのポーズは本来の目的のためなのか自分への慰みのためなのか、
それさえもうわからない、という。
人生は訣しきれないまま引きずられて、
やがて妥協に妥協を重ねて骨抜きにされる。

その圧力はどこから来るのだろう?
親兄弟や村のつながりというより、
むしろ、結局そこへ帰ってしまう精神性ではないか。
そこでは時間はゆったりと心地よく流れているが、
あらゆる気概を腐らせる。

村の人間の代表格のように描かれる主人公の老父こそが、
村という場所のどうしようもない強靭さ、したたかさを熟知している。
いくらでも人を束縛し、酷使し、脱力させ、摩耗させる"村"とは何か?
なぜ、打倒されるどころかいつまでも寄り縋られ、いつまでも残るのか?

そう考えると、現代社会に"村"は遍在している。
われわれはいくつもの"村"にまたがって、行き来しながら生きている。
また、"村"においてこそ、人は"個"ではなく"孤"なのかもしれない。


 ホメロス『オディッセイア』

岩波文庫版。松平千秋訳。
恥ずかしながら未読だったので、読んだ。

ギリシャ神話における神について。
Deus ex Machinaの運命論的な因果律に依るにしても、
なぜ人間がかくも主体的(=非・従属的)で、生き生きとしているのか。
読み進めるにあたり、神は神聖にして侵すべからざる存在ではなく、
むしろ、ギリシャ世界の支配階級のさらに一つ上位の階級、との印象を覚えた。
神とは神聖さによるのではなく裁定者であり、
ゆえに決定論的であることと人間的であることの両立が図られているのではないか、と。

語りについて。
地の語りは淡々と叙述的ながら、
科白が饒舌で雄弁な叙事詩になっている。
口承文学においても、地の文ではなく科白が主に内容を負うというのは、
なかなか珍しいのではないか。
語り手という絶対的な視座が断定的に語るというわけでなければ、
何が叙述を客観的に断定するのか。──雄弁さである。
雄弁が地の文ほどに客観的に容れられるとは、
いかにも古代ギリシャ文化的な気がする。

次は本作の壮大なパロディたるジョイス『ユリシーズ』を読みたい。

23.5.16

柄谷行人『世界史の構造』、三浦展『「家族」と「幸福」の戦後史』、レム・コールハース『S,M,L,XL+』、カール・マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」

 柄谷行人『世界史の構造』

世界史を生産様式ではなく交換様式から捉えなおして、
今後の世界史のゆくえをも示唆している。
(もっとも、世界同時革命の現実的手段として、
 国際連合が挙がっていたのは、現実問題として、
 いささか早計というか興ざめな気がしなくもなかった)

柄谷行人らしい短く適切な文章は健在で、
読みやすく、そして、非常に面白かった。

以下、メモ。

文明の伝播や個人間・共同体間の交換は、
交換というシステマティックな作業ではなく、
もっと協同的というか、感情的な側面に負うところがある。
だから、交通、あるいは、感応、というべきか。

Hic Rhodos, hic saltus !



 三浦展『「家族」と「幸福」の戦後史』

講談社現代新書。

著者は団地や郊外を批判的に論じてきたという印象を持っていた。
その基本認識を明らかにしている著作として、読んだ。

第二次大戦後のアメリカの、レヴィット・タウンによる郊外開発と、
主婦という職業の発明が、日本の郊外論の原型として紹介される。
そして、50年代、中流階級という働き方がコモディティ化した後で、
主婦という役割に疎外された倦怠感が、
主婦症候群(housewife's syndrome)として現れる。
日本はオイルショック後、同じ問題を後追いし、
76年の開成高校生の両親殺害事件が起きる。

その後、酒鬼薔薇聖斗事件、ネオ麦茶事件、
最近は川崎の事件など、郊外型事件は後を絶たず、
いつも少年法が悪者にされていつのまにかうやむやにされてしまう。
その問題先送り感は何なのか?

団地が平均的家族以外(例えば無職)を許さない雰囲気、
共同性の欠如、人間関係や善悪を学ぶ機会の喪失。
あるいは、ホワイトカラーの増加による労働の均質化、
どんな職業でも違いのみえない平等・均質さ、
伝統的な父性という"稼ぐ"身体性の喪失。
家庭内の分業。
いずれも一因かもしれない。

物質的な豊かさゆえ、という元兇に帰結できるかもしれない。
大量生産的であるゆえの豊かさは、
結局、個々人や生き方をもプロトタイプ化させ、その逸脱を許さない。
では、どのように地域性や共同性を復権できるのだろうか?
アルカイックな郷愁や、自由の制約のような、外圧ではなく、
個々が自発的に多様性を認めあい、価値を見出せること。
バブル後の経済停滞は一方でそんな多様性を育みもしているかもしれない。
にもかかわらず、宅地はあいかわらず開発され、
団地は聳え立ち続けるのは、なぜなのか。
都市は今後、どのように人間の住むところとして、可能なのか。


 レム・コールハース『S,M,L,XL+ 現代都市をめぐるエッセイ』

ちくま文庫版。抄訳だという。

建築家がかくも人間の生活様式を射程に入れているとは、
恥ずかしながら知らなかった。
思考が筆を引っぱるままに語られる、都市に対する視線は鋭い。
言葉は的確に選び抜かれていて、
読みやすくわかりやすいながらも、はっとさせられる。

(普段はここで、目を引いた一節を引用して記憶にとどめておくが、
 この一冊はさいわい所有しているため、その作業を省く)


 カール・マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」

筑摩書房の『マルクス・コレクション』より。
(大学生時代、『資本論』新訳がこの叢書で進められていて、
 一冊だけ上梓されていた。
 今なお未完ながら四冊が発行されている。)

第二共和政下のフランスの議会政治の二年間が綿密に語られる。
その記述がこの論文の大部分だが、せせこましくて、正直つまらない。
が、ルイ=ナポレオン・ボナパルトが結果論的に政権を掌握すると、
ようやくその二年間がなんだったのか、明らかになる。
プロレタリアート、ブルジョワジー、王政復古派の
議場内での潰し合いであり、
結局は議会制の先細りと死にほかならなかった、という史実だ。

民主主義と一体であるかのような議会制が、
なぜ、かくも民衆の意思を措いて踊り狂ったのか。
この一連の悪夢のような史実は、いったい何を示唆しているのか。

公民教育に欠けた民衆が権力を有したときの衆愚政か。
マルクスが終盤に指摘しているように、
第一帝政期に施行された農地の分割所有が、
封建貴族の凋落と都市ブルジョワジーによる土地収奪を経て、
農村共同体を個々人へと解体させたために、
大量の零細農民の発生に帰結していたというにもかかわらず、
農民たちはルイ=ナポレオン・ボナパルトを支持した。
(まるで、明治維新や艦隊を、過去の自らの栄光だったかのように
 歴史考証なしに崇める、どこかの国民のように。)

大衆が権力を持つとき、必ずしも自らを一階級としてみなさず、
単に、権力闘争の終焉を願ってのみ、民衆は欲するのか。
半世紀にわたる事実上の一党独裁政治を許容した日本の例でもある。

執行権力と律法権力の対立は、国民の他律性とその自立性の対立の現れなのだ。(p.121)

23.3.16

ポール・オースター『ガラスの街』 、スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』

 ポール・オースター『ガラスの街』

およそ半年前に読み、そのまま忘れていた小説。
ぱらぱらとめくってみるまで、あらすじをほぼ完全に忘れていた。
そう、都市という孤立した個人が互いに奇妙な境遇で袖すり合うような、
それが一つの物語となって、都市という無機質な場がわずかに神話的に息づくような、
そんな小説だった。


 スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』

原題は”Regarding the Pain of Others”。
報道写真論だが、評論というよりエッセイのようなくだけた構成だった。
以下に心に沁みた箇所を抜き書きしておく。

記憶することは以前にもまして、物語を呼び起こすことではなく、ある映像を呼び出すことになっている。[…] 物語はわれわれに理解させる。写真の役目は違う。写真はわれわれにつきまとう。(p.87~88)

同情を感じるかぎりにおいて、われわれは苦しみを引き起こしたものの共犯者ではないと感じる。われわれの同情は、われわれの無力と同時に、われわれの無罪を主張する。そのかぎりにおいて、それは(われわれの善意にもかかわらず)たとえ当然ではあっても、無責任な反応である。(p.101~102)

現実がスペクタクルと化したと言うことは、驚くべき偏狭な精神である。[…]それは誰もが見物人であるということを前提にする。それはかたくなに、不真面目に、世界には現実の苦しみは存在しないことを示唆する。しかし、他の人々の苦しみの見物人になったりならなかったりする、怪しげな特権を享受している富める国々を世界だとみなすのは、途方もなく間違っている。ちょうど、戦争と戦争の巨大な不正・恐怖をじかに体験していないニュースの消費者が、自分の思考枠組みに基づいて、他人の苦しみに反応する能力を一般化するのが途方もない間違いであるように。(p.110)

21.3.16

ローラン・ビネ『HHhH』、ジョナサン・クレーリー『24/7』

 ローラン・ビネ『HHhH ──プラハ、1942年』

原題は« HHhH »。
Himmers Hirn heißt Heydrich.(ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる)の略。
2年ほど前に書店で見かけて以来、その不可思議なタイトルもあって、
ずっと読みたいと思っていた。
体裁は小説だが、その細部に至るまで史実である以上、歴史書でもある。
しかも、そのところどころに作者がため息まじりに独白し、
書くこと、細部を捏造できないこと、望む展開ではないこと、事実への訝しみ、
といった苦しみを読者に対して打ち明ける。
そのことが小説と歴史の相違、でも結局はhistoireであり語られる言葉であるという、
小説のある種の可能性を引き出しているような気もしないでもない。
(そういえば、HHhHって、Histoireとhistoireのせめぎ合いみたいだ)

作者は、史実を文学という形式に変換しなければ、読者の記憶に残らない、
だからこうして書いている、というようなことを書いていた。
確かに、歴史という酷たらしい反面教師を現実に生かすための伝承の手段として、
文学という形式をフィクションの専売特許にとどめおくのはもったいないことだ。
にもかかわらず、その題材そのものが躍動感を帯びているために、
ストーリーは本当におもしろい。

『顔のないヒトラーたち』をつい2週間前に観た。
アイヒマン裁判を扱ったハンナ・アレント『責任と判断』を読んだのは8年前。
ナチス・ドイツがあまりに官僚的にユダヤ人問題に当たったという史実は、
この小説形式の歴史書からもよく読み取ることができた。
第三帝国下からユダヤ人を追放するための土地探しのために、
シオニストとさえ交渉していたとは、知らなかった。
そして、ユダヤ人を処刑するコスト(兵士のストレス、手間、…)の削減のために、
アウシュヴィッツとガス室という解決策へ行き着いたということも。


 ジョナサン・クレーリー『24/7──眠らない社会』

原題は”24/7 Late Capitalism and the End of the Sleep”であり、
副題の示すとおり、情報社会・管理社会における睡眠の危機が示されている。
睡眠という人間性を主軸に、
高度資本主義がいかに人間に食い込んでこようとしているか、
それを語った硬派なエッセイ、といったところだった。

2.3.16

カール・ポラニー『大転換 市場経済の形成と崩壊』

○カール・ポラニー『大転換 市場経済の形成と崩壊』

東洋経済新社版で、2009年の新訳。
いつか読みたいと思っていた名著だが、新訳出来と知って借りた。
結果、2015年に読んだ本でもっとも面白かった。

市場経済は15〜18世紀イギリスのエンクロージャーと
それによる封建制の静かな解体に差し代わる新たな社会体制として、
土地を追われた浮浪民の貧困問題への対処とともに産声を上げた。
(それ以前、商品は事実上存在せず、
 経済は市場ではなく互酬と再分配によって成り立っていた。)
スピーナムランド法により人は労働力という疑似商品化を一時的に免れたものの、
やがて産業革命の要請が、人を労働力、
土地を労働手段、資本を交換手段として疑似商品化させた。
商品化された人は、自己調整システムによって生活基盤を失った。
商品化された土地は、商品作物の生産手段となり、
全国市場の形成に寄与し、植民地主義への原動力となった。
商品化された交換手段である貨幣は、
世界経済における価値裏付けとしての金本位制において、
流通量の調整の機能不全によって保護主義、ブロック経済、
そして最終的には二つの大戦を引き起こした。
以上がごくごく大雑把な謂いである。

ポラニーはこの理論をきわめて実地的に検証している。
それゆえ、近代以前の封建社会やアフリカの部族社会の研究が、
近代の市場経済を一つの文化的な再分配体系であると看破する説得力を持つし、
第一次世界大戦における大銀行家の暗躍が
どのようにバランス・オブ・パワーシステムを掌中で動かし、
平和を引き起こすとともに戦争を引き起こしたか、という
近代史的な視座を含んでもいる。

ポラニーは結びとして、ロバート・オーウェンの思想を引き継ぐ形で、
人、土地、資本の疑似商品化への制限を提言している。
具体的には、リバタリアニズムを批判した上での、
国家による一定の制約と、国際協調だ。

原著はいわば第二次世界大戦終局期の1944年に発表された。
その後、金本位制はドル本位制へ形を変えて今も残っている。
土地はいまだに市場経済における一商品である。
労働力は小泉規制緩和の一環として流動化された結果、
生活基盤の弱体化と知識伝達の機能不全が昨今ようやく叫ばれている。
国家間ではブロック経済ではなく関税自由化が進められているが、
通貨切り下げ競争による価格競争力の押し付けあいが起きている。
国家による再分配システムが新自由主義的政策と世界金融経済の下で弱体化し、
世界の富の何パーセントをごくわずかな富裕層が保有している、
そのような事態は、まるで第一次世界大戦前の大銀行家の再来である。
オーウェン的な一定の政治的な制限が、世界単一市場に対してどのように可能か、
今こそ考えなければ、システムや枠組みそのものが私企業の手に渡り、
自己調整システムと同じ価格至上主義に生活基盤が押しつぶされかねない。

モラヴィア『薔薇とハナムグリ』、平田オリザ『演技と演出』『演劇入門』、オースター『偶然の音楽』『孤独の発明』、バルザック『ゴプセック 毬打つ猫の店』『サラジーヌ』、多和田葉子『雪の練習生』、別役実『ベケットと「いじめ」』、中沢新一『大阪アースダイバー』『アースダイバー』、クンデラ『冗談』、田中慎弥『実験』

○アルベルト・モラヴィア『薔薇とハナムグリ シュルレアリスム・風刺短篇集』

光文社古典新訳文庫版。
どれも南欧の明るい皮肉が利いているが、
特に、投機商品に喰われる「パパーロ」が、心に残っている。


○平田オリザ『演技と演出』『演劇入門』

いずれも講談社現代新書。
舞台上にいかにリアルを構築するか、という
平田オリザらしい演出のノウハウについて。
また、観客の想像力のコントロール、
内輪へ他者を組み入れることでのストーリーの始動、など。
あるイメージに対して、もっとも遠いところから近づけてゆく、
というリアリティの出し方は感心させられた。

平田オリザの方法論的な演劇の作り方は、
どこかで誰かが書いていた「人間という動物の生態を見せる」そのものであり、
やはり次の技法が求められているような気がしないでもない。
しかし、それは何だろうか?


○ポール・オースター『偶然の音楽』『孤独の発明』

いずれも新潮文庫。
オースターの小説はどれも(『幽霊たち』『孤独の発明』を除いて)、
即興詩のような展開をする。
より具体的にいえば、主人公はその立ち位置を都度々々内省して、
その次の一手を決めて、そのリアクションがストーリーを動かして、
という繰り返しなのだ。
だから、躍動的で一貫しているし、起承転結の波が多重だ。
どの程度までプロットが考えられているのか、疑問に思うことがある。
にもかかわらず、きちんとうまいこと擱筆される。

『偶然の音楽』はタイトルからしてその文体を示していて、
ストーリーもそうだった。
ただ、主人公ナッシュという名はナッシュ均衡を思わせたし、
賭博や会計など数字的な要素がいたるところに散りばめられていて、
BGM的に挿入される音楽が均衡の産物としての藝術だということもある。
思うに、オースターの即興詩のような文体は、
この作品によって見出だされた技法なのではないか。

『孤独の発明』の(以降の作よりは)おっかなびっくりなリニアなストーリー展開が、
そう思わせずにはいられない。

「見えない人物の肖像」は、著者の父の物語、というか筆者による父の人生の分析だ。
誰にも本音を見せない仮面のような人物としての生き様の展開と、
遺品整理から出てきたわずかな人間らしいふるまいの痕跡。
「記憶の書」もまた、著者の家系をめぐる(おそらく実話としての)物語だ。
巻頭の写真に封じ込められた謎へ迫るのは面白い。


○オノレ・ド・バルザック『ゴプセック 毬打つ猫の店』『サラジーヌ』

いずれも岩波文庫。
バルザックの作品はどれもストーリーとして完璧に面白い。
人間の欲望があらわに垂れ出てきて、読み始めてしまった以上は目が離せない。
枠物語も凝っている。
自らの筆名に貴族めかして「ド」を入れただけあって、
社交界の爛熟した村社会の興味関心とはこのようなものだったのかと想像する。


○多和田葉子『雪の練習生』

新潮文庫。
ホッキョクグマの三代記。
多和田葉子の触覚や味覚の表現は素晴らしい。
読後感としては、一つのクマの人生を懸命に生きた充実感のようなものがあった。


○別役実『ベケットと「いじめ」』

ベケット分析から、「個」から「孤」への人間性の変化。
非常に示唆的であり、何箇所もメモしながら読んだ。

「孤」の乗り越え方について。
以前、東京藝術劇場で青山真治演出の『フェードル』を観たが、
あの劇にどこかしらの新しさを感じたのは、
「褪め」みたいな瞬間をうまく取り入れている
(「褪め」がクライマックスの一つの相対化として導入されていた)
と思ったからだ。
個がすでに関係性に埋め込まれている以上、
その枠を破って得体の知れない別の人格を覗かせる手法として、
一つあるのかもしれない。今そう考えている。


○中沢新一『大阪アースダイバー』『アースダイバー』

ファッションビルに復活(復古?)した檸檬で名高い丸善京都店で手に取り、
その後、図書館で立て続けに借りて読んだ。

「ブラタモリ」や古地図が流行するなど、町歩きや小さな身近な歴史が見直されている。
そんな時代にあって、都市が覆い隠せない地形や旧跡や言い伝えが、
どのように残されているかを語る、
それを神話にまで昇華させる試論として
『大阪アースダイバー』は割り切っていて、楽しめた。
大阪という土地は1000年足らずの歴史しかない低湿地で、
そこに生まれる無縁、商売、笑い、死生観、など、
大阪土着の特徴を肌感覚でもわかるように語っていて、面白かった。

東京版である『アースダイバー』は、方法論の模索というか、時代性の先取か。
土地柄としてまでは精通していないからか、そこまで楽しめなかった。
それは、江戸が先史時代から現代まで一本につながっていないためかもしれない。


○ミラン・クンデラ『冗談』

クンデラの思索的な独白調が好きだ。
思考がストーリーと密接につながっていて、小説かくあるべし。
クンデラは人生を哀しく笑い飛ばす、その原点が見られたし、
最後のドタバタ劇は前半から中盤にかけてのシリアスで塞ぐような展開を
一気に蹴落とすかのようだった。
笑いの奥の哀しみの根源は、やはり東欧世界の人生を虚仮にしてきた政治だし、
人間を駒としてしか考えられない非個人主義の徹底だったのだろう。
しかし、それが資本主義社会にも通じるということは、
社会システムに踊らされているという根は同じだということだろう。


○田中慎弥『実験』

久しぶりに文芸誌掲出っぽい中篇小説を読んだ。
そして、その質感が、(誰の作品であろうと)変わっていないことに驚き、
日本文学の停滞を否応なしに見せつけられた気がした。

永田和宏『現代秀歌』、石川文洋『沖縄の70年』、原武史『鉄道ひとつばなし2』、五十嵐太郎『現代建築に関する16章』

(昨年の秋頃に読んだ本たち)


○永田和宏『現代秀歌』

岩波新書。
アンソロジーとして手に取りやすく、その割には充実していた。
気に入った歌をここに記しておく。

ごろすけほう心ほほけてごろすけほうしんじついとしいごろすけほう(岡野弘彦)
電話口でおっ、て言って前みたいにおっ、て言って言って言ってよ(東直子)
右翼の木そそり立つ見ゆたまきはるわがうちにこそ茂りたる見ゆ(岡井隆)
神はしも人を創りき神をしも創りしといふ人を創りき(香川ヒサ)
ふるさとに母を叱りていたりけり極彩あはれ故郷の庭(小池光)
明日弾の匂い残れる黒髪を洗い梳かして君に逢いゆく(道浦母都子)
一分ときめてぬか俯す黙禱の「終り」といへばみな終るなり(竹山広)
ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり(永井陽子)
父を見送り母を見送りこの世にはだあれもゐないながき夏至の日(永井陽子)
帰りたきいろこのみやの大阪やゆきかふものはみなゑらぐなり(池田はるみ)
春がすみいよよ濃くなる眞晝間のなにも見えねば大和と思へ(前川佐美雄)
神田川の潮ひくころは自転車が泥のなかより半身を出す(大島史洋)
手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が(河野裕子)



○石川文洋『フォト・ストーリー 沖縄の70年』

岩波新書。
著者は沖縄出身で戦争を撮り続けた写真家。

戦後、アメリカ軍政に置かれてベトナム戦争の後背の役割を担わされ、
基地排除のために望んだ本土復帰でも基地問題は解決せず、
今は辺野古に揺れる、沖縄の終わらない戦後に対して、
辺野古がまさに戦後の日本のいまであることを、
現実的・日常的にありあまる映像で日本人に突きつける。



○原武史『鉄道ひとつばなし2』

講談社現代新書。
産業史ではなく天皇論、郊外論で語られる鉄道コラムは、
やはりこの著者ならではで面白い。
東急田園都市線の通勤地獄とイメージの乖離、
駅弁や駅そばの画一化、
利用者の減少など、コラム一つずつに濃淡はあれど、
ポストバブル期の郊外論が読み取れた。


○五十嵐太郎『現代建築に関する16章』

講談社現代新書。
建築の哲学が概観できるという意味で、入門書的ながら面白い内容だった。

思うに、現代建築はその時代時代の名建築を見てゆくと、
近現代の個人主義が90年代からポストモダンへ移り変わっているさまが、
非常に明確に現われているような気がする。
例えば、先週に博多で訪れた伊東豊雄プロデュースのネクサスシティを見たときに、
場所性や土地色や周囲環境から解放された一個人の追求がされているように感じたが、
それは戦前、戦後から90年代後半までの建築家に
一貫するスタンスだったように思われる。
大規模な公共事業ではなく個人邸からスタートした安藤忠雄においても、
「住吉の長屋」はやはりそうだ。
言いかえれば、建築においても、人文学や藝術と同じくして、
90年代後半に大きな物語が終わった、ということではないか。
その後、SANAAに代表されるような溶け込む建築が主流となり、
建築は物語性(ならびに物語に従属する個々人)を演出する装置に転換した。
「住む機械」における個人の優越と、コミュニティ・土地への回帰。
建築家から施主(あるいはその思考の土壌としての社会)へ、主役が変わったのか。
転換なのか、転向なのか、脱却なのか、逃走なのか。