22.11.08

川上未映子『乳と卵』

芥川賞受賞作を読むなんてかなり久しぶりに感じる。
評判は聞いていたが、読んでみると大変よかった。
これぞ芥川賞やろ。
こういう才能が見えてる作品っていいよね。
« On ne naît pas femme, on le devient. » という、
Beauvoirの言葉を、読みながら真っ先に思い浮かべた。
男も女も読めば良いと思う。
文章のリズム感もミュージシャンならではだな、と。

併録の『あなたたちの恋愛は溺死』はちょっと残念だったが、
タイトルは、例えば本谷有希子みたいなやつにパイ投げのようにぶつけたい。

17.11.08

『マネーの経済学』

日経文庫。経済の諸トピックスに関する概説。
以下、興味深く感じた内容のメモランダム。

貨幣は、交換と分業を誘発する。
日用品を貨幣で入手できることにより生産に専念でき、
また、拡大生産のため、分業化が進む。

紙幣としての機能を持つ預かり証は、十三世紀北イタリアに存在した。
このとき、預かり証は現在と違い匿名性がないため、
貸し手の信用度を知るための資金経路の情報を両替商に齎した→与信審査の機能
「銀行業務はカネにかかわることではなく情報にかかわることだ」
 (元シティバンク会長ウォルター・リストン)

ハイエクの貨幣発行権民営化論。
貨幣発行権に政治的中立性を求めた。

十九世紀半ばまでのスコットランドでは貨幣発行権は非国有。
la Fed設立まではアメリカには中央銀行(役)は存在せず、
民間銀行による紙幣の林立があった(価値裏付けは州への債券の預託)。

地域通貨。中央集権に凝り固まった日本経済の閉塞打破に有効な対策。
1932年にオーストリアのヴェルグルでデフレ対策に導入された地域通貨は、
減価貨幣(スタンプ貨幣とも)により成果を上げた。
ゲゼルによって提唱された減価貨幣は、時間の経過とともに価値が減少するというもの。
ケインズ『一般理論』でも解説されている。

13.11.08

近代の超克についての私見 建築、藝術、学問、倫理

私の帰国後、近代の超克をめぐる思考が、
エディパ・マースの周囲にぽつぽつと
私設郵便制度が見え隠れするかのように
現れては消えていった。
それは、柄谷行人の『終焉をめぐって』であり、
故郷で出会ったK先生の云った庄司薫であり、
ここ十年以上続く実感なき好景気と実感ある不景気の羅列であり、
さっきページを開いた磯崎新の『建築の解体 一九六八年の建築情況』
である。

近代の始まりがデカルトとヘーゲルなら、
その終焉はダーウィニズムの否定と中立進化説の出現になるのかなぁ。
その時期と大学紛争の時期が重なるのは、偶然にしてはちょっとなぁ、って。
近代って何なのかも分からないが、
「近代」世界システム、という某書名が示すようなもの、
やはりヘーゲルとダーウィン的、そしてマルクス的な世界観なのではないか。
さて、近代が終わって、もう祭りの後、みたいになってしまって、
築き上げられてきた学問もデザインも倫理も
あっという間に崩壊して、いや「解体」されて、
「近代を超克」してしまったいわゆる先進国は、
ひたすら途上国の追い上げと景気後退と極右に悩まされているだけの
矮小な存在に成り下がってしまって、
揚げ句の果てには経済をマッチポンプで破裂させているわけですよ。
1968年以降の「バブル建築」「複製品」で1989年の崩壊まで踊らされてきて、
それから延々と続く閉塞感が漂っているだけで何も変わっていない、
それなら情況は空白のまんまですかねぇ。

(9.11の固有名じゃなくて)同時多発テロという一般名を考えるなら、
第一次大戦も第二次大戦も大学紛争もそうだったのかもしれない。
いや、むしろ、
     第一次大戦→大正デモクラシー→ファシズム
              ∽
     第二次大戦→大学紛争→??
という位置づけなのなら、このままいくと本当に、
20xx年なのに「1984年」、みたいなことになるのか?

ファシズムの機能が、思考停止・鰯の頭崇拝、という
ある種の思考浄化装置であるならば、これは現実的な危機だ。
誰か、うまいことガス抜きしてくれー。

11.11.08

2008年のアル・ゴア

EMINEMのMoshを聴いた。
これ聴くたびに、生々しい単語単語だけがぽつぽつと耳に残って、
悲痛な叫び声のような歌声と混じって、なぜか泣きたくなるんだよね。
そして、ブッシュかゴアかを分けた2004年大統領選の文脈と
マケインかオバマかを分けた2008年大統領選の文脈が、
状況はさほど変わらないはずなのにあまりに違っていることに驚いた。
そして、どちらをとっても宗教対決であるという変わらぬ事実にも気づいた。

2004年は、宗教右派v.s.反戦良識派だった。
論点の主眼はイラク戦争の是非であって、
そのためにEMINEMはMoshで
内政充実とでっちあげ戦争反対を表明したが、
正義教へと変異したWASPキリスト教にとっては、
何よりもまずイラクという悪への恐怖感に、
そして石油利権と経済効果、市場開拓という魅力に駆り立てられて、
環境論者ゴアではなくて資本家・保守派のブッシュが選ばれた。
イラク戦争を進めたことを除けば、
ブッシュが大して何もしなかったことに注目すべきだ。
アメリカの宗教右派は単なる保守論者である以上、
ブッシュは看板的存在で充分なのだ。

2008年は、変革派v.s.保守派だった。
最大の論点としての経済は、右派の安泰さの巣窟であるために、
経済政策への期待はもちろん変革側に向けられる。
そして何より、今回の大統領選の実質的な内容のなさ。
閉塞感という漠然としたものの存在が、
オバマ勝利への最大の論点ではなかったか。
アメリカ大統領候補者初の女性か黒人か、という
民主党内戦を広告として最大限に活かしたオバマは、
彼自身が出自と生い立ちから見ても華々しきコスモポリタンだ。
対抗馬はというと、軍人上がりの上院議員という、これまでの大統領候補の典型。
これではもうイメージだけで勝敗は見え隠れしていると云えなくもない。
オバマが多用した表現として、change、主語にweを使う、というところが、
ただただ漠然と変革感、閉塞打破を示しているのである。

だが、それは悪いことではない。
政治家として最悪なのは政治家という型にはまることであって、
例えばフランスではベルナール・クシュネル、ジョゼ・ボヴェ、
アメリカではアル・ゴア、のような
活動家でもあり政治家、という良識派が日本にはいないのだから、
ブッシュやマケインの生き写しとしての麻生太郎が
なし崩しに政権を担っているのも、仕方がないのかもしれない。
だが、先ほど示したように、要はイメージであって(政治は神学なのだから)、
オバマはそれをうまく示したから勝利した。
代わりがいないからしょうがなく麻生、というのは最低の判断だ。
誰もがオバマのように戦略に長けているわけではないから、
きちんと自分で候補者を、候補者の公約や活動を見て、
少しでもマシなのを選ばなければいけないと思う。

日本での良識派政治家の不在について。
緑の党、のような環境政党が日本にはない、という事実からもわかるし、
そもそも政治に良識派が必要とされた試しがないから、
死刑存続も高すぎる学費もトービン税導入も議論されない
(死刑と学費については、どちらとも国連から是正勧告を受けている)。
アメリカの場合、弱小政党としての緑の党とは別に、
民主党が多少だがその役割を持っていることが、主にゴアの事例からわかる。
政治が国民を疎外していることが、良識派不在の最大要素だから、
このまま公明自民党(支持基盤から、あえてそう呼ぼう)を与党にし続けると、
日本は閉塞感を払拭できないまま、先進国の表舞台から消えるだろう。
そういう国は、過去にいくらでもあるのだから、その道を行くはたやすい。

10.11.08

「デパートを発明した夫婦」「『蟹工船』では文学は復活しない」

講談社現代新書、文學界2008年11月号の対談。

前者。鹿島茂っていう口のずれた顔が特徴的なフランス文学者の本。
まぁ、ブシコーっていう人がパリ左岸のボン・マルシェを
いかに創立し、大百貨店に育て上げたか、というお話。
現代の小売業のみならず企業の雇用形態が、ブシコーによって発明され、
それが現代とほぼ同型を保っているというのがすごい。
私の留学中ボン・マルシェとの関係はと云うと、
帰国の飛行機に乗る前日にぶらっと立ち寄って
お土産のリクエストのあった紅茶を買ったぐらいだ。
その後、ほど遠からぬ場所で日本人カップルにボン・マルシェの場所を訊かれ、
あのでかい白い建物がそうです、と答えたのを憶えている。

後者。文学がかつてほどの隆盛を失って久しい、という現実を再確認。
タイトルほど『蟹工船』は関係ない。
編集者がブームにあやかろうとして銘打っただけだろう。
現実を描く全く新しい物語が書かれたわけでもないという現状は、
「プロレタリア文学」という告発兼プロパガンダが
文学という形式をとった過去と比しても、
やはり文学の衰退の一つであることは間違いない。

ところで、その文學界の裏表紙をめくったところにエッセイが載っていて、
源氏物語千周年の馬鹿騒ぎを揶揄していた。
肯首しつつ読んだ。読んだ、っつーほど長くないけど。
まぁ、はっきりと年代も分からないのに、
大体千年だろうって云って祭り上げて、
でもほとんどの人が読んでもないし持ってもないし内容もあんまり知らん、てんじゃ、
そのトンマさは皇紀二千六百年とかわんないね。

7.11.08

『ボヌール・デ・ダム百貨店』

読了。この厚い小説を一気に読んだのは、久しぶりだ。

勝ち組、負け組、という嫌いな表現が似合うお話。
最後に勝負を制するのは、その両方を渡り歩いたシンデレラなのだけれど。
その意味でハッピーエンドなのだが、その裏で悲劇の数々があまりに多く渦巻いていて、
やがてはそのシンデレラも足を引っ張られるのではないか、と
ストーリーの今後も勘ぐってしまうような、薄っぺらいハッピーエンド。
経済学の根底意識には、資源の希少性と欲求の底なしの対立があるが、
消費産業が社会を呑み込んでゆく瞬間を捉えていて、面白かった。
もっとつまんない一般的な云い方をすれば、パラダイムがぐるっと回転する瞬間。

舞台はパリのオペラと証取を結ぶ通り。
今年のちょうど元日、コンコルドからマドレーヌ、オペラ、パリ証券取引所まで
延々と歩いたことがあるが、百貨店なんてなかった。
だから、サン=ラザール駅を降りてちょっと歩いたところの百貨店、ということで
オスマン通り沿いのプランタンかと思って読んでいた。
そうではなくて、すでに潰れた百貨店がモデルになっているらしい。
でも、あの静かな通り、BNPパリバの本店なんかがある今や高級住宅街で、
雰囲気もなんとなく分かっているので、とても楽しめた。
ジュヌヴィエーヴの葬列の向かうブランシュ通りなんて、
あぁ、あの細い坂を上っていったのか、とこっちまで悲しくなった。
実名登場のボン・マルシェが懐かしい。セーヴル・バビロン駅を降りてすぐです。

デパートという消費のスペクタクルのめくるめく描写が綺麗だし、楽しい。
色遣いの巧みさはすごい。特に終盤。
あとね、人が多すぎる。四千人以上の従業員、一日七万人の来客。
もちろんすべて描かないけれど、その人いきれ、おしゃべりの喧しさ、飛び交う噂、
買い物好きたちのすさまじい虚栄心、などなど。圧倒される。

サブリミナル

ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』を読んでいる。

昨夜、ある店の前を通りかかった女性が、「私、お惣菜食べたい」と云ったので、
私にはその意味が全く分からなかった。
麻婆豆腐を食べたいというのなら、あの味が好きなのだな、というようにわかるが、
惣菜という食べ物を箸なりでつまんで咀嚼する、というのがあまりにシュールで、
何が云いたいのだろう、と思った。

売るほうは、買う側の論理なんてどうでもいいのである。

4.11.08

『藤原氏千年』『女装と日本人』

どちらも講談社現代新書。

前者。
藤原氏という新興にして繁栄の極みを体験した一氏族とその周囲を描く歴史の要約で、
こういう切り口の日本政治史も一つの形かと思った。
部族、氏族そして一族(=家)という三者の相違、歴史的発生過程が、
自分にとっては勉強になった。

後者。
前半は、日本文化における両性具有的存在の偏在を学ぶ。
多神教っぽくて面白かった。やはり、異端はすなわち宗教である、なんて。
後半は、戦後のゲイ、ニューハーフ、女装の文化を、著者の体験に基づき
非常に詳しく開陳してくれた。
これは大変に面白い本だった。

3.11.08

たこ焼き@大学祭 à la 町田康

普通の祭りなら、普段街でなかなかお目にかかれないような
テキ屋の方々が屋台の軒を連ねて、しかも、
大阪焼きとかいう大阪で一度も見たことがないような
食品までもが売ってある。
そして、子供が、あれ買うてぇなこれ買うてぇな、つって親におねだり、
しかし親はしらんぷりをしてりんご飴をひたすら舐めている、なんていう、
あぁ、世も末じゃ、嘆かわしいことが往々にして起きるのであって、
私はそんな社会の衰退・頽廃みたいな現実を見たくないからひたすら蟄居。

しかし、大学祭となれば事情は少しく異なる。
というのも、大学祭はテキ屋のショバ配分などを
学生の有志集団が取り仕切っているのであり、
さほどどころかいささかもこわもてではない。
テキ屋の方も、おっさんおばはんではなく、
まだその予備軍、すなわち学生なのであるから、
殺伐とした雰囲気はないのである。

ほな、ちょっくら、てな軽いノリ・感じで、私は会場へと足を運んだ。
舞い散る紙吹雪、天女の宴、あぁ、極楽じゃ。
なんてことは全然なくて、狭い四方を取り囲む屋台。
その隅に設えられた舞台では、
珍奇な風体を晒した愚連隊が意味をなさない罵声を浴びせるといった
バンド活動とやらをやって、往来の人々に喧嘩をけしかけていた。私は驚愕した。
小さな子供もいるのに、こんなに心の荒れすさんだ集団を見せつけるとは、
大学祭本来の暖かさ・手作り感は
私の知らぬ間に時代の彼方に流れ去ってしまっていたのである。

ここは身を引き締めて、ちょっとの油断も見せてはならぬ。
って、ずずずいと会場に足を踏み入れた。
と、看板を手に妙な恰好で会場を徘徊する連中。
それも、一人や二人ではない。
一瞥するだけで、視界の中にはざっと二十人以上も、
そのような輩が紛れ込むのである。
これは常人の気をおかしくしちゃおうという戦術か、と私は身構えた。
すると、それらの例外なく手にしている看板には、
やきそば200円也、とか、シャカシャカポテト100円也、というような文言。
なるほど。彼ら彼女らはちょっとイッちゃってるとか、そういうのではなくて、
乱立している屋台の広告として少しでも売り上げに貢献せんという無私の志しを胸に、
身を粉にして働いているのである。
確かに、日常には単なる駐車場でしかない場所に、
突如として二十も三十もの飯屋ができているのだから、
供給が需要を大きく上回っているということは一目瞭然。
客よりも客引きのほうが多いのではないかしらん、という体たらくである。

ははぁん、と私は考えた。
この状態であればほどなくして、値段は需給のバランスが落ち着くに相違ない。
実際、広告がかくも多く闊歩しているのだから、
やきそばはそのうち10円也ぐらいにまで下がるだろう。
そうしたらすかさず買うたろやないか。よっしゃあ。
ってんで、自分は店先を睨みつけ、臨戦態勢に入ったのである。
すると、この緊張にも関わらず、一人の男が近づいてきて、
たこ焼きいかがですかー、などと間抜けなことを訊きくさる。
いやしくも一触即発の状態にあるというのに、何がたこ焼きか。空気読め、空気。

しかし、と私は思い直した。
彼は数ある広告塔の一人だが、至って普通な恰好をしている。
これではさほど人の気を惹き付けられぬだろう。
彼のせいでたこ焼きが売れなければ、店はまるで儲からなかろう。
儲からないだけならまだしも、これで大幅に赤字が出て、
その店を切り盛りしていた学生全員が路頭に迷い、
公園暮らしになってしまったらどうなるか。
その際、自分がなぜ、あの日あの時あの場所でたこ焼きを
彼の店から買ってやらなかったのだ、と責められたら、
言い訳も何もたったものではないのである。
じゃあお前も家なき子じゃ! ひぃぃぃ! それは困る。
私には、ぬくぬくと炬燵に入って蜜柑をほおばるための家がぜひとも必要なのである。

蜜柑、蜜柑! とぶつぶつつぶやいてたこ焼き売り子に怪しまれながら、
私はたこ焼きを購った。だが、待つこと数分、
焼きたてのたこ焼きの入った容器を手渡されてから、私は後悔した。
何を隠そう、私の出身はたこ焼き王国大阪なのである。
そして、仙台のたこ焼きは異様なほどにタコが小さく、
あるいは入っていないときすらある、と、
それこそ耳にタコができるほど聞かされて育ってきた、
そんな秘められた過去が私にはある。
このたこ焼きがそんな粗悪品だったらどないしよう。
そんなことなら、炬燵で蜜柑をあきらめてでも
たこ焼きを買わなければ良かった、と悔やみ続けるに違いない。

ええい、ままよ、と、清水の舞台から飛び降りる気持ちで、
私は爪楊枝を引っ掴んでたこ焼きを一個口の中に放り込んだ。
とろける生地の中に、タコは
ちゃんとした許容される大きさにカットされて収まっていた。
いや、これはまだまだ七個のうちの一個、
もしかしたら今のだけが辺りで他が全滅かもしれない。
ゲーマーの連打もびっくりの早技で、
私は口の中にたこ焼きを放り込んでは咀嚼していった。
結局、タコはすべてにちゃんと入っていた。
しかも、すべて平らげてしまってから、
さわやかな食後感が私をふんわりと包み込んでいた。
あぁ、私は疑心暗鬼にすべてのたこ焼きを費やしてしまった。
容器にはもうたこ焼きはない。
カラスがギャーギャーと鳴いていた。
むなしくなった私は、その場で少し踊った。うくく。

2.11.08

『世界文学を読みほどく スタンダールからピンチョンまで』『都市ヨコハマをつくる 実践的まちづくり手法』

前者は池澤夏樹の講義録。
ピンチョンを読んだ後で、ちょっとその解説を欲したため。
池澤さんは独特の読感を味わわせてくれる貴重な作家で、
『スティル・ライフ』みたいな詩のような綺麗な小説を書ける一方、
ちゃんとそんな空気を保ちながらも『マシアス・ギリの失脚』のような
小国一代記みたいなのもあるという、稀有な存在だが、
この本に、大変な勉強家でもあるという事実をはっきりと突きつけられた。
いやぁ、すごい。やっぱり作家の力量って、なんだかんだ云っても
結局は読書量と(大江健三郎的な意味での)想像力だな、と思った。

後者は、横浜市の都市計画に関わった人物の手になる中公新書。
空襲と米軍接収に荒廃した横浜市を復興させヨコハマにまでした経緯を
たった一冊の短い新書にまとめているものだから、
本当は交渉に疲弊して難航に難航したであろう物語が
サルでも分かる単純なプロジェクトX群にでっち上げられているところが
ちょっと滑稽だが、内容は勉強になる。
長期計画は、ビジョンの先をも見越して立てられなければならない、
そんな実例を山のようにあげられては、圧倒されるほかない。
(衛星都市、海港という)東京のの補完機能の一つにすぎないはずの横浜が、
どうして千葉や埼玉や東京中西部の無数の市町村のような
無個性な住宅地に成り下がらずにいられたのか、
これを省察することは、街並が「無秩序」で「汚い」とされる国の一市民として
必要なことなのかもしれないから。
とまぁ、清らかな志に聞こえるかもしれぬが、
その実は、延々と政治力学の駆け引き、駆け引き、駆け引きだった、という
どんでん返しなんだけれどもね。