エディパ・マースの周囲にぽつぽつと
私設郵便制度が見え隠れするかのように
現れては消えていった。
それは、柄谷行人の『終焉をめぐって』であり、
故郷で出会ったK先生の云った庄司薫であり、
ここ十年以上続く実感なき好景気と実感ある不景気の羅列であり、
さっきページを開いた磯崎新の『建築の解体 一九六八年の建築情況』
である。
近代の始まりがデカルトとヘーゲルなら、
その終焉はダーウィニズムの否定と中立進化説の出現になるのかなぁ。
その時期と大学紛争の時期が重なるのは、偶然にしてはちょっとなぁ、って。
近代って何なのかも分からないが、
「近代」世界システム、という某書名が示すようなもの、
やはりヘーゲルとダーウィン的、そしてマルクス的な世界観なのではないか。
さて、近代が終わって、もう祭りの後、みたいになってしまって、
築き上げられてきた学問もデザインも倫理も
あっという間に崩壊して、いや「解体」されて、
「近代を超克」してしまったいわゆる先進国は、
ひたすら途上国の追い上げと景気後退と極右に悩まされているだけの
矮小な存在に成り下がってしまって、
揚げ句の果てには経済をマッチポンプで破裂させているわけですよ。
1968年以降の「バブル建築」「複製品」で1989年の崩壊まで踊らされてきて、
それから延々と続く閉塞感が漂っているだけで何も変わっていない、
それなら情況は空白のまんまですかねぇ。
(9.11の固有名じゃなくて)同時多発テロという一般名を考えるなら、
第一次大戦も第二次大戦も大学紛争もそうだったのかもしれない。
いや、むしろ、
第一次大戦→大正デモクラシー→ファシズム
∽
第二次大戦→大学紛争→??
という位置づけなのなら、このままいくと本当に、
20xx年なのに「1984年」、みたいなことになるのか?
ファシズムの機能が、思考停止・鰯の頭崇拝、という
ある種の思考浄化装置であるならば、これは現実的な危機だ。
誰か、うまいことガス抜きしてくれー。
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