23.2.09

坂口安吾『桜の森の満開の下』、川端康成『眠れる美女』

このところ無意識ながら本のセレクションが「女」と「妖」。

・坂口安吾『桜の森の満開の下』
幻想小説というか、幻惑小説というか。
美の崇高さと冷酷さ、この不可分の特に後者が出ていて、
おどろおどろしかったけど綺麗で妖艶で。
狂ってると片づけられなくて、中世の両義性?
(あかんなぁ、最近こういう民族学的な片づけ方ばかり……)
もちろん、それは一面でしかないやんねー。あーあ。
とにかく、色鮮やか。満開の桜色、山々の緑。
その下で「狂って」ゆく男、女、そして時空。
印象的だった。柔らかい色なのに、歪んでゆくんだから。

・川端康成『眠れる美女』
何人もの美女を通じて老人の人生の性の来歴が振り返られ、
だからどの美女でも良いわけではなくて、
最後におかみさんに「みんな一緒でしょ」みたいに云われて興醒め。
「美」という一般形があるように描写しておいて
実際には一意ではなくて差異に基づく、みたいな、
その隙間を飄々とゆくような美しい文章が続くのが、すごく心地よい。

21.2.09

久々の読書 谷崎潤一郎『痴人の愛』、坂口安吾『戦争と一人の女』


一月末に仙台にいる意味を失ってから、ようやく仙台を出た。
今は東京にいて、精神の安寧を取り戻している。

谷崎潤一郎『痴人の愛』

Naomiという音の愛撫から始まるので、
ナボコフの『ロリータ』を下敷きにしているのかと思ったが、
それだけでない、日本文学としての味つけとして
西洋崇拝も随所に散りばめられている。
ナオミ-譲治の主従の基盤にそれがあるのだ。
谷崎とはとかく主従関係の逆転だが、
恋愛の駆け引きに埋め込まれ、なお面白く読んだ。
いかんね、感想を書くとこうも分析的になって。
読後、女性に未練の残るときに薬になるな、と思った(笑)

坂口安吾『戦争と一人の女』『続戦争と一人の女』

破壊が創造の補完であることは山口昌男などから周知だが、
傍目からは「堕落」であろうのにそんな感じのしない、
むしろ不思議な作品で、非常に面白かった。
敗戦色の濃い日本に根を張った夫婦生活、これが舞台なのかな。
非日常に根を張った日常、自家撞着的なこのスタンスには、
自然と、緊張感としぶとさと頽廃さが漲っている。
高橋しんの漫画『最終兵器彼女』に少し似ているように思った。
特に、自分たちだけが最後に生き残ろう、として
焼夷弾の夜襲で赤く染まった夜空の下で、消火に我を忘れるところが。
自分たち即世界という、神話的ですらある短絡・明快さが似ている。
もっとも、この作品は、高揚の醒める敗戦が
全てをぶちこわしてしまうから、あsる意味でいいんだけど。

18.2.09

橋下府知事は地方分権をどう捉えているのか?

府立大と市大の合併案を述べたことに関して。

彼の持論は地方分権で、霞ヶ関を諸悪の根源としているが、
伊丹空港廃止論にしろ大学合併にしろ、
いまはとにかく不財政の支出抑制だけに頭が行っていて
そのお眼鏡にかなったそこそこの建前でしかないような気がする。
ビルト&スクラップではなく、スプラップ&スクラップなので、
財政支出は短期的に抑制できても、
間違って投資分まで削ってしまいかねず、
長期的展望はあまり望めないように思われる。

伊丹は関西、神戸を差し置いて名実ともに大阪の空の商業玄関口だから、
それをうっちゃって利便性の悪い関空を持ち上げようとしたところで
中部空港と羽田=成田空港に水を空けられるばかり。
関空をこんなへんなところに作る羽目になった元凶の
国土交通省を攻めるなら、まだ地方分権論者として一貫しているのに。

両公立大学合併にしても、競争率を高める意図にしろ予算削減にしろ、
無益なところに頭を突っ込もうとしているように思われる。
地方分権の観点で云えば、単なる総合大学ってんじゃなくて、
もっと大阪独自の大学にするとかあると思う。
なぜそんな抽象的なことを云うのかというと、
それは、現在の市大も府大も、京大-阪大-神戸大-市大-府大、という
没個性的な偏差値順に甘んじて択ばれているだけの存在なので、
人材育成を、その所在地・設置者の地方自治体のための投資であるとは
一概には云えないのだ。
(もっとも、その最悪の例が、吾が母校たる東北大学だと私は思う。
 仙台の産業的な自立性は無いに等しく、いわば都心部の出先機関だ)

ちなみに、同じ論理は医学科にも敷衍できる。
医学科の偏差値が他の学科に較べて遥かに収斂されているのは、
医学科受験が全国区だからだ。
医学生のうち、卒業した大学所在地附近にとどまって医業を始める者の割合は、
地方部であるほど少ないと聞く。
だから、各都道府県が金を出し合って自治医科大学なるものを設置したり、
最近では地方枠を定員に組み入れたりと、苦肉の策を出しているのだ。
公立大学は医学科設置維持費用を、
その地方の医者養成という投資ではなく
捨てている(あるいは都市部に上納している)といえる。

偏差値の序列に搦めとられただけの大学では、
医学科のみならず、大学そのものが個性を出し得ない。
そして、偏差値という全国区で学力云々をほざいても、
それは地方分権ではなくて、中央集権制度下の地方の足掻きだ。
大阪府あるいは大阪市に人材を根づかせるための議論がされないから、
市大・府大が単にずるずるとあって金を食うから駄目、という短絡な話になるのだ。

亀井亨『病葉流れて』、成瀬巳喜男『浮雲』


・亀井亨『病葉流れて』
こういうせせっこましい堕落論はあんまり好きじゃない。
後半部を欠いた大島渚の『青春残酷物語』みたいだ。

・成瀬巳喜男『浮雲』
『鰯雲』とともに戦後の、社会がたち直ろうとしていた時期の話にして、
自分をすっかりと虜にしてしまった。
なんでこんなに人間の愛憎を表現するのがうまいんだろう。
話は、コンスタンの『アドルフ』のようで、
もう関係はこじれてるんだけど結局別れられずに
ずるずると舞い戻っちゃうというやつ。
だが、この作品で凄いのは、終盤で、そんな関係で落ち着いて
不思議な仲として短い幸せを摑みかけるという
微妙で繊細な心情を織り込めたところじゃないかと思う。
天才だなぁ、とつくづく思った。
それと、やはりカタルシスとしての死は、最大限の効果としてこそ生きる。
(中原昌也の対極、って感じ?)

17.2.09

モーガン・スパーロック『スーパーサイズ・ミー』、大島渚『悦楽』、成瀬巳喜男『鰯雲』


・モーガン・スパーロック『スーパーサイズ・ミー』
これのパロディーや批判作品はけっこうあるけど、
問題はその舞台がアメリカであるということだから、
オランダでやろうと日本でやろうと無駄だと思う。
結局、自由の国アメリカの自由ってのは新自由主義の自由だってことね。
カネだよ、カネ。あーやだやだ。
まぁ、それはええとして、いい映画だったと思う。
肩も凝らず、楽しめたし、へー、みたいなのもあった。

・大島渚『悦楽』
ありそうなシナリオで、大島らしさもあんまり感じられんかった。

・成瀬巳喜男『鰯雲』
カラー! 舞台は厚木! の、農村で、電車が走り始めている。
戦後の変化の波、特に農地改革に振り回されながら
ゆっくりと漕ぎ出す旧家の、没落? いや、変革。
淡島千景が名演技すぎる。
原節子が霞んでしまうのではないか、というくらい。
木村功も中村鴈冶郎も、みなはまり役で、
自分としては、どの点から云っても
成瀬巳喜男の最高傑作なのではないかと思う。

14.2.09

近況


NRJを聴きながら部屋の片付け。
手始めに大学の講義メモとハンドアウトの整理。
今後参照することなさそうなものを30%ほど削減。
孤独って、事実関係を抜きにしてもそう感じれば孤独なんだなぁ。
強い風とともに、仙台も暖かくなってきた。

曲。
サカナクション「セントレイ」
Unchain「Across the Sky」
Raphaël « Le Vent de l'Hiver »
Katy Perry "Hot'n Cold"
Alesha Dixon "The Boy Does Nothing"
Lady GaGa "Poker Face"
Antoine Clamaran "Gold"
上から三つ目の歌詞にある lettres jetés au feu が、
自分の場合は jetés au destructeur de document だ。

それにしても、片付けが遅々として進まぬ。
強風で洗濯物ばかり早く乾く。
20日に仙台を発つ。

11.2.09

塚本晋也『東京フィスト』 いかにして血を流すか/北野と塚本との暴力の比較

塚本晋也は東京を批判的に視ているのだなと思った。
無機的な街に殺されて妻をも獲られたセールスマンが
いかにしてその状況に立ち向かってゆくかを辿るとき、
不断の苦しみと、いじめのような鈍重な暴力が
やむことなく続けられる。
そうして、都市生活という埋没から少しずつ脱するように
他の者ではないという差異(個性)が浮き上がってくる。
対極にあるのは、没我、安楽、死、清潔、など。
そこから浮かび上がろうとする努力が、
死のすれすれの血みどろである。

冒頭の「こんなに近いのね」「でも、こことは天国と地獄ですよ」、
あるいは中盤の、主人公の父が「まったく苦しまずに亡く」なった、
これらが象徴的である。

暴力的。
その意味合いが、北野武の映画と塚本晋也のそれとでまるっきり違うのは、
北野は鋭利かつ瞬間的に描こうとし、
間合いや、緊迫、風景などの静謐で上品に包むのに対し、
塚本の暴力は持続的で即物的で、血腥い。
だから北野は銃を好み、塚本は肉弾戦を頻用する。
しかし、暴力性の現れが対蹠的であれ、その意味も相対するわけではない。
北野の暴力性はやはり静謐の緊張感を追求していて、
そこには漫才で多用される「間(ま)」の昇華が見られる
(同じく漫才師の松本人志も「間」を映画で描こうとしたがまるで能わなかった)。
一方で塚本の暴力は、その泥臭さの正反対である大都会のビル群への
アンチテーゼとして明らかに表れている。

9.2.09

市川準『トニー滝谷』

祖父が亡くなったので急遽帰阪、明日に仙台に戻る。

『トニー滝谷』。原作の村上春樹っぽさを残した文体のナレーションで、
村上春樹ってのは叙事詩だな、と思った。
短篇としては大昔、そうだな、六年ぐらい前に読んでいたが、
映画を観て、すっかり忘れていることに気づいた。
名前の由来からして人と人とのすれ違いと偶然からぽっと現れた、
そんな、来歴ともいえぬ出自をもつ一人の男が、
いかにして孤独を見出だし、生きてきたかが、
常に左から右へスライドするカメラワークにのって淡々と綴られる。
孤独な雰囲気が孤独を語るから、
孤独なんぞ何でもないというように物語は進む。
それが、一番つらく、一番心惹かれた。

4.2.09

石井克人『鮫肌男と桃尻女』


……。前半だるかった。ばらばらで個々ばかり際立ってて
統一感・リアルさがなかったし、
どうでもいい細部ばかりに手を回してかっこつけてた。
後半……。あーぁ、これは正直につまらなかった。

2.2.09

『あの夏、いちばん静かな海。』『山の音』


北野武『あの夏、いちばん静かな海。』

海岸の場面が半分ぐらい。行っては返し、行っては返し。
英語題A Scene at the Seaだからというわけではないと思うけど、
海のシーンはこの海岸線ひとつだけ。
海の波も、サーフィンも、ゴミ収集も、人の命も、
言葉もなく、その流れだけが寄せては返す。
冷酷だけど、あたたかかった。


成瀬巳喜男『山の音』

強烈だった。『東京物語』のような静かで辛辣な強烈。
たぶん、不和のきっかけはほんの些細なものだったんだろう。
でも、それの膨れてゆくのを、どうしようもできないもどかしさ。

1.2.09

映画三昧ふたたび 『blue』『晩菊』『山のあなた』


安藤尋『blue』

原作は魚喃キリコ。クレベール広場のクレベール書店で
フランス語版を買おうか何度も悩んで、結局買わなかった。
科白が一連の表白ではなくて、小泡の羅列のように、
プツリ、プツリと発せられては消えて、また発せられる。
登場人物はそばにいようとしながら隔たっているし、
カメラも人を被写体に移動はするけど風景を撮っているよう。
つまらなそうな田舎と中途半端な街と灰色校舎の学校が舞台、
でもそのそばに海がひらけていて、どこまでも海岸が続いている。
どっちにも惹かれ、どっちにも溶け込めないで、
ただ漂うばかりも青さだった。青春なんやろか。
青春って、ほんま醜くてぶざまで、でも海がそばにあるからええなぁ。


成瀬巳喜男『晩菊』

哀愁ばかり漂う現実感で、救いがなくてちょっと辛かった。
原作が林芙美子だから?
にしても、戦後の日本の民家って、本当に「路地」やね。
中上健次ばかりが路地文学ではないのかも。
逆に、青山真治も阿部和重も北九州と山形に
サーガを作ろうとしたんだから、
中上健次の出自が路地の背景にあるからといって路地文学というのは
本質を見失ってるのかもしれない。なんて、全然映画関係ないやん。
でも、同じ路地でも義理人情を素朴に出せばこういう感じ、
歴史の因果と円環を見出せば中上になる、ということはいえるかも。
コンクリートジャングルの迷子たちの世界になったいま、
失った人情を手のひらで転がして酒を飲めば村上春樹?


石井克人『山のあなた』

草彅剛の演技がうまいっ! に尽きるかな。