11.2.09

塚本晋也『東京フィスト』 いかにして血を流すか/北野と塚本との暴力の比較

塚本晋也は東京を批判的に視ているのだなと思った。
無機的な街に殺されて妻をも獲られたセールスマンが
いかにしてその状況に立ち向かってゆくかを辿るとき、
不断の苦しみと、いじめのような鈍重な暴力が
やむことなく続けられる。
そうして、都市生活という埋没から少しずつ脱するように
他の者ではないという差異(個性)が浮き上がってくる。
対極にあるのは、没我、安楽、死、清潔、など。
そこから浮かび上がろうとする努力が、
死のすれすれの血みどろである。

冒頭の「こんなに近いのね」「でも、こことは天国と地獄ですよ」、
あるいは中盤の、主人公の父が「まったく苦しまずに亡く」なった、
これらが象徴的である。

暴力的。
その意味合いが、北野武の映画と塚本晋也のそれとでまるっきり違うのは、
北野は鋭利かつ瞬間的に描こうとし、
間合いや、緊迫、風景などの静謐で上品に包むのに対し、
塚本の暴力は持続的で即物的で、血腥い。
だから北野は銃を好み、塚本は肉弾戦を頻用する。
しかし、暴力性の現れが対蹠的であれ、その意味も相対するわけではない。
北野の暴力性はやはり静謐の緊張感を追求していて、
そこには漫才で多用される「間(ま)」の昇華が見られる
(同じく漫才師の松本人志も「間」を映画で描こうとしたがまるで能わなかった)。
一方で塚本の暴力は、その泥臭さの正反対である大都会のビル群への
アンチテーゼとして明らかに表れている。

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