28.3.10

西山雄二『哲学への権利』/蕨での晩餐会

27日土曜日午后、東京大学駒場キャンパス18号館にて
『哲学への権利──国際哲学コレージュの軌跡』鑑賞。
(公式HP:http://rightphilo.blog112.fc2.com/)
デリダ創設のCollège internationale de Philosophieの現状について、
現在のコレージュ関係者の哲学者たちが、
種々の問いに対して答えてゆくという形式。
哲学分野の社会教育の可能性が新自由主義下の社会において
どう可能なのかを考えるとき、やはり閉塞感は滲み出ていた。
しかし、大学ではない在野組織としての研究教育機関は
可能性として捨て難いし、必要だろう。
「価値」についての話で面白かったのは、カトリーヌ・マラブーが
「価値すなわち効用性、貨幣価値」ではない、と云っていたこと。
哲学やコレージュにどういう価値があるのか、という問いは、
このドグマに気づかずに埋もれている例だろう。
なお、映画は、握手のシーンをロゴのように反復していたのが印象的。

上映後の討論までおらずに退席。
「共生のための国際哲学教育研究センター」(東大グローバルCOE)の
ブックレットが一揃いあったので貰い、移動の電車内で読んでいた。
紀要のような役割付けの冊子と思いきや、非常に面白い。

埼玉県蕨市のフランス料理店にて先輩主宰の夕食会。
大日本雄辯會、輯英社、新声社それぞれの編集者がいて、
作家のランク付けの話で盛り上がったのが面白かった。
鹿島田真希の高評価が(自分の不勉強にとって)意外で、興味を持った。
(もっとも、こういうランク付けってNewsweek的というか、
 価値を効用性に一本化して計るアングロサクソン的な思考だな、と後で思った。
 でも、ワイン片手の話なんだから、いいでしょ)
その後、新宿に場所を移して再び飲む。

28日日曜日昼前。和光市を辞して目黒区にて桜を観る。
目黒川と云う名の掘割に散り落ちた花びらが
すべて同じ早さでゆっくり流れてゆくのが、綺麗だった。
両岸の商業活動が無駄に活気があっても、
桜の木々が空から威圧的なので、
さほど興醒めもせず、むしろ一緒に狂う感じ。

27.3.10

最近思うことのメモランダム(du postmodernisme)

postmodernismeについて。

モダンが修正主義的なものだとすると、ポストモダンはラディカルだ。
モダンに対してではなく、モダン以前すべてに対して。
そして、モダンはアンチテーゼ的だが、ポストモダンはその対立から浮遊し、寄る辺のなさを立場としている。

なのに、モダン、ポスト・モダンという名称なのは、やはり違う気がする。
ポストモダンという(初期化のような)パラダイム転換の前段階として、
折り合いをつける意味合いでのモダン。

日本でこうも痛切にポストモダンをひとつの断絶として感じるのは、
やはりバブル後の長きに渡っている時代閉塞ありきだろう。
バブルはとてもモダン的だったし、
バブル後(ポストバブル)は(経済的、表現的)規制緩和によって
すべての物語が破壊され、一様化された。
そんな中に、どうやって文学は可能なのだろう?

現在の流れは、回帰。ré-actionだ。
だが、主体性という意味では、モダンに戻るだけではどうにもならない。
かなり根源的(ラディカル)に問いつめる必要があるだろう。


共同体について。

国民国家という共同体の形式は、かなりトップダウンなネットワークだ。
次の共同体の形式はP2P的な形式ではないかと、ここ1年ほど考えている。
実際にそれはすでにあった。口コミやサークルとして。
しかし、それはひとたび固定化されるとP2P的ではなくなる。
出入りが自由な流動性を伴うことで、主流になり始めたのは、ごく最近だ。

転送量(=情報量=影響力)を各個体のサイズによって決めてしまっては、
これまでどおりの企業型資本主義と変わらない。
各個体が1として均等であれば、それは自由な発言の場として、
企業の暴力的な巨大さを排除できるんじゃないか?
(例:SMS、twitter)
これは、連邦制国家において、各邦の代表からなる上院の役割とよく似ている。
(人工の少ない邦の意見を確保することができる)

問題は、その枠組みを誰が提供するか。
ここにこそ合議のくじ引きを導入すべき(cf.柄谷行人『日本精神分析』)。

23.3.10

フランソワ・オゾン『8人の女たち』、コレット『シェリ』

・フランソワ・オゾン『8人の女たち』

事件という事態が、これまで隠していた事実を次々に明らかにしてゆくストーリー。
仮面同士の付き合いに過ぎなかった日常を示唆する。
うわべだけだったからこその円満な日常が
どんどん毀れて、お互いに信じられなくなる。

オゾンは家族を役付けとして捉えていて、
それを演じるのをやめたときの、
頬が痙攣するような不条理な笑いを見せつける。
それが非常に徹底的で、姉妹、親子はもちろん、
使用人とメイドの関係までも断たせるほど。
作用は解放にも働き、だからみな女性になる。綺麗に。

ふと、『12人の優しい日本人』を思わせた。
変に思ったが、共通点としては、
・一つの事件を検証して話が進む。
・常に同じ場が舞台。
・複数が形勢関係を揺らがせつつ動く。
などなど。題名の構造もなんとなく似ている。


・コレット『シェリ』

la vie parisienneを彩る物欲の目眩と、
それに似て破天荒に遊び狂うパリ社交界と。
初め、その駆け引きが、物欲じみてあからさまな気がして(現代よりははるかに繊細だけど)、
心地よい、しかし気取った印象を受けていた。
心象と視覚と、この二つの描写について、
コンスタン『アドルフ』は内が外を完全に優越しているとすれば、
『シェリ』は外が内を率いている、そう思っていた。

終盤の急展開は驚いた。
散りばめられた物欲の目眩が一気に洗い流され、心理小説だった。
文章は繊細ながら、大胆にも本筋を突く。
恋の名言集、あるいは恋の散文詩とも感じた。

21.3.10

クリストファー・ノーラン『メメント』、(小津安二郎『お早よう』)

・クリストファー・ノーラン『メメント』

今のことしか憶えていない主人公の、犯人探し。
時間を遡行して進行する映画って初めて。
事実は起きてから忘却されるまでに、
真実と、真実だと信じているもの、の間でゆれる。
映画が過去へと進むに従い、事実には疑問符が附され、嘘になって散る。
そんな中で、本当のこととは何なのだろう?


・小津安二郎『お早よう』

再生を始めたときに既視に気づいたが、折角なので再度観た。
世界がゆっくりしているので、観た後で歩く街の喧噪が、摑みどころがなかった。

19.3.10

アガンベン『スタンツェ』、講談社文芸文庫編『戦後短篇小説再発見10』

・ジョルジョ・アガンベン『スタンツェ 西洋文化における言葉とイメージ』

主体と客体、象徴と記号、シニフィアンとシニフィエ、固有と非固有、実と譬喩。
これらの近代的二項対立を、「物神崇拝(フェティッシュ)」の概念で溶けあわせる試論。

もっとも興味深かったのは、「第二章 オドラデクの世界で」。
19世紀末の万国博覧会が象徴するように、
藝術が陳列されて商品化されようとする潮流に対し、ボードレールが
異化効果によってその均一化に対抗しようとしたと紹介するくだり。

または、消費社会へと世界史上で初めて移行した時代の
ロンドンのBeau Brummell(洒落男ブランメル)。
その生態ははっきりいって、化粧と身だしなみに浮身を窶す現代人そのもの。
要は、商品に違和感なく埋没すること。
加えて、わずかに斜に構えて自分のうわべの優位をみせること。
「君はこの品物をジャケットと呼ぶのかい」という、
意味ありげながら空虚な科白に明らかな通りだ。
バルザックが「優雅な生活」にて、この新時代のクールさと商品の連関を見抜いていた
(それは思うに、王侯貴族的優雅さから第三身分的優雅さ(=消費社会)への移行が、
 優雅さは正統性を失っても存在するという発見として現れたのではないか)。

中世医学で、精気(プネウマ)や四体液説が
如何に認識論や心理学を牛耳っていたか。
だからこそ、デカルトの心身二元論は革命的だったろうし、
それでいて後に、脳の一器官で心身の交感、と
云ってしまう不徹底は除去されきれなかったのだろう。

スフィンクスとオイディプスが、
象徴と記号(シニフィアン)の鬩ぎあい、として捉えられている。
しかし、「断片ゆえの完全性」という
偽ディオニュソス・アレオパギトゥス的な議論から、
この対立は二項的では決してない、と明かされる。
ここでふと思ったこと。
「(断片的なものとしての)象徴:(明晰なものとしての)記号」の関係から
商品について考えると、どうなるか?

文庫だから決して浩瀚というわけではない、しかし大変な読み応えだった。


・講談社文芸文庫『戦後短篇小説再発見10 表現の冒険』

高橋源一郎の「連続テレビ小説ドラえもん」を読みたくて手に取った。
常に一定型のコードに嵌め込まれて
友人関係、家族関係、などが語られる「ドラえもん」に対して、
徹底的にアンチテーゼをふっかける。
一話ずつが非常に短くて済むというのは、
語りが描写を欠いて物語の進行のみでも
漫画やアニメの絵を共有できるためか。

特に面白かったのは筒井康隆「遠い屋敷」と、吉田知子「お供え」。
「お供え」は、語りは私小説ながら、
断片(不安)を象徴(強引な統合・理解)に昇華するという現代宗教じみた事態、
そしてその新秩序に抗えない社会と個人、を題材として、面白かった。
「遠い屋敷」は、初めの歌のくだりが、屋敷の連なりとどう関わるのかがちと難しい。
無限に連なる屋敷という不条理すぎる世界観への意味づけ、現実感の付与か。

18.3.10

ジョエル・セリア『小さな悪の華』

原題:Mais nous ne délivrez pas du mal

『悪の華』よりむしろ『マルドロールの歌』だと思った。
性が商業的に氾濫した現在では、もうさしてスキャンダラスではないだろう。
耽美的な映画だった。

14.3.10

長池公園備忘録

われわれは意識しないながらある枠組みに嵌められて
思考・行動・判断をしている、ということを改めて感じた。
そして、その枠組みを気づかせ、相対化させる営みこそ、学問であり批評だと思う。

地域共同体をテーマとした内容。切り口はトルコと日本。



新井政美先生の、オスマン近現代史通説。
世界史的概説ではあれ、主にヨーロッパとの関係性で
トルコが形成されたと云う普遍性のようなものが見え、面白かった。
(柄谷先生には、イランやアフガン、日本との関係が疎か、と
 批判されていたが、四十分程度の通史では幾分仕方ない気もする)
内容としては、非常に両義的な立場
(ヨーロッパとイスラム、近代的国民性と多民族、
 連合国と枢軸国、資本主義陣営と共産主義陣営)に揺れ動いた実情。

・緩やかに統合された王朝から、近代的な国民国家を目指すにあたり、
 多民族統合がいかに打撃を受けてきたか。
・あり方の多重性(ヨーロッパ、イスラム、アジア)。
・時代時代の大国に翻弄される歴史(→両義的立場)。

苅部直先生から、オスマンにおけるカリフをトップにおいたギルド的自治が
江戸時代の村の自治権に類似する、という観点からの、
「自治」という言葉の暗に含む西洋的枠組みについて指摘があった。


イナン・オネル先生の、トルコの思想運動の流れと現状。

一神教についての言説で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を
モーセ派、イエス派、マホメット派、と呼び変えられる、とあった。
三者のある種の差異を包み込むとともに、
気づかなかった類似性を浮き出させてくれる恰好の方法だ、と思った。

クルド問題の日本での報道のされ方への疑問。


高澤秀次先生の、「東アジア共同体」の歴史的系譜。
近衛文麿内閣における「東亜新秩序」が三木清、尾崎秀実を取り入れつつ、
一方では石原莞爾や北一輝なども地域共同体を志向したという報告と、
当時の言説では資本主義批判すら可能だったという指摘。
(要は天皇制が護持されればよかったということか。
 天皇制の絶対性は、日本的帝国主義の最も特徴的なところかと思う)
戦後のアジア論。竹内好、廣松渉。

ASEANなりAPECなりがあれ、
結局は北朝鮮排除の役割から脱せていないことの指摘が柄谷先生からあり、
大澤真幸先生も、東アジア共同体をユートピア的に提唱するのではなく、
北朝鮮問題をアジアが解決することで地域共同体への下地とする方が
先決だし自然な流れ、と指摘。
東アジア共同体を提唱しながらも高校無償化から朝鮮学校を対象外とするという
片手落ちな部分への、鋭い指摘があった。
「(東西ドイツ統一とEU)∽(北朝鮮と東アジア共同体形成)」の図式を感じた。
また、話はかなり国際関係的だったが、
「北朝鮮をしかるべき方法で経済援助し、それによって裕福になれば、北朝鮮問題は解決する」
という柄谷先生の発言は、過激と受け止められうるけれども、
問題の本質をついていたように思った。
トルコ共和国がEU加盟で問題視されているのは、イスラム教だとかいろいろあれ、
結局のところ経済問題ではないか、といえてしまうのは、そういうことなのではないか。
しばしば出てきた韓国思想家の白楽晴(ペク・ナクチョン)も、いずれ読みたい。

9.3.10

侯孝賢『戀戀風塵』

兵役と恋の終わりという同じ題材を求めた映画として、
ジャック・ドゥミ『シェルブールの雨傘』が連想されるのは当然だろう。
だがこの題材は、『戀戀風塵』という映画の終わりを彩るだけで、
映画全体を貫く主題ではない。
主題は淡々としたホンとワンがお互いを意識する淡さだ。
どうしてどうなるのか? ただ同じ田舎で同じように台北に出たから。
必然だ。あるいは、運命と呼んでもよいかもしれない。
そうやって考えると、あらゆるところに、
こういった淡々と流れる因果のような運命がある。
ワンの祖父がよくつぶやく諦観がそうだし、
父親の兵役の話や、勉強が無駄になった話、
それらはワンに何かを示唆するでもなく淡々と語られるだけ。
『シェルブールの雨傘』と比較するとき、この淡々とした諦観が
いわゆるアジア的な感覚として際立つ気がする。

7.3.10

及川中『日本製少年』

1995年の作品という。日本が閉塞の真っただ中にある時代だ。
大和(大沢樹生)の目力は、居場所のない彷徨の中で何を見据えていたのか。
かつて清掃人として勤めて馘になった浦安の楽園を遠巻きに、舞台は延々と淡々と廻る。
ふざけながら、飽きながら、とぼとぼ歩いてゆく切なさが、見ていて重かった。
とうとうペースペーカーの電池が切れて死んだカオル(嶋田加織)の身体を
抱き起こそうとしては地に崩す遠景、背景は海の潮。切なかった。
約束が叶ってゴミ箱に捨てられたカオルの満足そうな表情は
何に満足していたのか? 生きたこと?
カオルの生い立ちは語られない。だから一層、胸を打った。

6.3.10

アレクサンダー・ソクロフ『太陽』

イッセー尾形演じる唱和天皇の孤独が主題。
こうも表情と動きを抑えて演じきれるものなのか。
とにかく秀逸さには驚いた。

撮影時にチャップリンと囃される場面が印象的だった。
もちろんその服装からだが、
所詮は天皇も機構の歯車にすぎないからだろう。
動きがカクカクすぎることもあるかもしれない。

周囲に畏みを課さざるを得ない、
日本軍の長として国民に戦死と自決を課さざるを得ない、
極言すれば触れれば死に至る存在として宮城内に過ごし、
ようやくその肩の荷の降りたヒロヒトは、
人間宣言を録音した技官の自決をどう感じたのだろうか。

皇后と子どもたちを想う父親としても、大きく描かれている。
戦後の皇室像に引き寄せてか。
母子手帳をはじめとする明仁の一子の徳仁の例が、
前例のない皇室の姿だったことを、連想させた(深読みし過ぎかも)。
でもこの題材は、父親の姿というより、
皇居に単身赴任状態という、寂しさの一面のために思えた。