・ジョルジョ・アガンベン『スタンツェ 西洋文化における言葉とイメージ』
主体と客体、象徴と記号、シニフィアンとシニフィエ、固有と非固有、実と譬喩。
これらの近代的二項対立を、「物神崇拝(フェティッシュ)」の概念で溶けあわせる試論。
もっとも興味深かったのは、「第二章 オドラデクの世界で」。
19世紀末の万国博覧会が象徴するように、
藝術が陳列されて商品化されようとする潮流に対し、ボードレールが
異化効果によってその均一化に対抗しようとしたと紹介するくだり。
または、消費社会へと世界史上で初めて移行した時代の
ロンドンのBeau Brummell(洒落男ブランメル)。
その生態ははっきりいって、化粧と身だしなみに浮身を窶す現代人そのもの。
要は、商品に違和感なく埋没すること。
加えて、わずかに斜に構えて自分のうわべの優位をみせること。
「君はこの品物をジャケットと呼ぶのかい」という、
意味ありげながら空虚な科白に明らかな通りだ。
バルザックが「優雅な生活」にて、この新時代のクールさと商品の連関を見抜いていた
(それは思うに、王侯貴族的優雅さから第三身分的優雅さ(=消費社会)への移行が、
優雅さは正統性を失っても存在するという発見として現れたのではないか)。
中世医学で、精気(プネウマ)や四体液説が
如何に認識論や心理学を牛耳っていたか。
だからこそ、デカルトの心身二元論は革命的だったろうし、
それでいて後に、脳の一器官で心身の交感、と
云ってしまう不徹底は除去されきれなかったのだろう。
スフィンクスとオイディプスが、
象徴と記号(シニフィアン)の鬩ぎあい、として捉えられている。
しかし、「断片ゆえの完全性」という
偽ディオニュソス・アレオパギトゥス的な議論から、
この対立は二項的では決してない、と明かされる。
ここでふと思ったこと。
「(断片的なものとしての)象徴:(明晰なものとしての)記号」の関係から
商品について考えると、どうなるか?
文庫だから決して浩瀚というわけではない、しかし大変な読み応えだった。
・講談社文芸文庫『戦後短篇小説再発見10 表現の冒険』
高橋源一郎の「連続テレビ小説ドラえもん」を読みたくて手に取った。
常に一定型のコードに嵌め込まれて
友人関係、家族関係、などが語られる「ドラえもん」に対して、
徹底的にアンチテーゼをふっかける。
一話ずつが非常に短くて済むというのは、
語りが描写を欠いて物語の進行のみでも
漫画やアニメの絵を共有できるためか。
特に面白かったのは筒井康隆「遠い屋敷」と、吉田知子「お供え」。
「お供え」は、語りは私小説ながら、
断片(不安)を象徴(強引な統合・理解)に昇華するという現代宗教じみた事態、
そしてその新秩序に抗えない社会と個人、を題材として、面白かった。
「遠い屋敷」は、初めの歌のくだりが、屋敷の連なりとどう関わるのかがちと難しい。
無限に連なる屋敷という不条理すぎる世界観への意味づけ、現実感の付与か。
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