14.3.10

長池公園備忘録

われわれは意識しないながらある枠組みに嵌められて
思考・行動・判断をしている、ということを改めて感じた。
そして、その枠組みを気づかせ、相対化させる営みこそ、学問であり批評だと思う。

地域共同体をテーマとした内容。切り口はトルコと日本。



新井政美先生の、オスマン近現代史通説。
世界史的概説ではあれ、主にヨーロッパとの関係性で
トルコが形成されたと云う普遍性のようなものが見え、面白かった。
(柄谷先生には、イランやアフガン、日本との関係が疎か、と
 批判されていたが、四十分程度の通史では幾分仕方ない気もする)
内容としては、非常に両義的な立場
(ヨーロッパとイスラム、近代的国民性と多民族、
 連合国と枢軸国、資本主義陣営と共産主義陣営)に揺れ動いた実情。

・緩やかに統合された王朝から、近代的な国民国家を目指すにあたり、
 多民族統合がいかに打撃を受けてきたか。
・あり方の多重性(ヨーロッパ、イスラム、アジア)。
・時代時代の大国に翻弄される歴史(→両義的立場)。

苅部直先生から、オスマンにおけるカリフをトップにおいたギルド的自治が
江戸時代の村の自治権に類似する、という観点からの、
「自治」という言葉の暗に含む西洋的枠組みについて指摘があった。


イナン・オネル先生の、トルコの思想運動の流れと現状。

一神教についての言説で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を
モーセ派、イエス派、マホメット派、と呼び変えられる、とあった。
三者のある種の差異を包み込むとともに、
気づかなかった類似性を浮き出させてくれる恰好の方法だ、と思った。

クルド問題の日本での報道のされ方への疑問。


高澤秀次先生の、「東アジア共同体」の歴史的系譜。
近衛文麿内閣における「東亜新秩序」が三木清、尾崎秀実を取り入れつつ、
一方では石原莞爾や北一輝なども地域共同体を志向したという報告と、
当時の言説では資本主義批判すら可能だったという指摘。
(要は天皇制が護持されればよかったということか。
 天皇制の絶対性は、日本的帝国主義の最も特徴的なところかと思う)
戦後のアジア論。竹内好、廣松渉。

ASEANなりAPECなりがあれ、
結局は北朝鮮排除の役割から脱せていないことの指摘が柄谷先生からあり、
大澤真幸先生も、東アジア共同体をユートピア的に提唱するのではなく、
北朝鮮問題をアジアが解決することで地域共同体への下地とする方が
先決だし自然な流れ、と指摘。
東アジア共同体を提唱しながらも高校無償化から朝鮮学校を対象外とするという
片手落ちな部分への、鋭い指摘があった。
「(東西ドイツ統一とEU)∽(北朝鮮と東アジア共同体形成)」の図式を感じた。
また、話はかなり国際関係的だったが、
「北朝鮮をしかるべき方法で経済援助し、それによって裕福になれば、北朝鮮問題は解決する」
という柄谷先生の発言は、過激と受け止められうるけれども、
問題の本質をついていたように思った。
トルコ共和国がEU加盟で問題視されているのは、イスラム教だとかいろいろあれ、
結局のところ経済問題ではないか、といえてしまうのは、そういうことなのではないか。
しばしば出てきた韓国思想家の白楽晴(ペク・ナクチョン)も、いずれ読みたい。

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