27.3.10

最近思うことのメモランダム(du postmodernisme)

postmodernismeについて。

モダンが修正主義的なものだとすると、ポストモダンはラディカルだ。
モダンに対してではなく、モダン以前すべてに対して。
そして、モダンはアンチテーゼ的だが、ポストモダンはその対立から浮遊し、寄る辺のなさを立場としている。

なのに、モダン、ポスト・モダンという名称なのは、やはり違う気がする。
ポストモダンという(初期化のような)パラダイム転換の前段階として、
折り合いをつける意味合いでのモダン。

日本でこうも痛切にポストモダンをひとつの断絶として感じるのは、
やはりバブル後の長きに渡っている時代閉塞ありきだろう。
バブルはとてもモダン的だったし、
バブル後(ポストバブル)は(経済的、表現的)規制緩和によって
すべての物語が破壊され、一様化された。
そんな中に、どうやって文学は可能なのだろう?

現在の流れは、回帰。ré-actionだ。
だが、主体性という意味では、モダンに戻るだけではどうにもならない。
かなり根源的(ラディカル)に問いつめる必要があるだろう。


共同体について。

国民国家という共同体の形式は、かなりトップダウンなネットワークだ。
次の共同体の形式はP2P的な形式ではないかと、ここ1年ほど考えている。
実際にそれはすでにあった。口コミやサークルとして。
しかし、それはひとたび固定化されるとP2P的ではなくなる。
出入りが自由な流動性を伴うことで、主流になり始めたのは、ごく最近だ。

転送量(=情報量=影響力)を各個体のサイズによって決めてしまっては、
これまでどおりの企業型資本主義と変わらない。
各個体が1として均等であれば、それは自由な発言の場として、
企業の暴力的な巨大さを排除できるんじゃないか?
(例:SMS、twitter)
これは、連邦制国家において、各邦の代表からなる上院の役割とよく似ている。
(人工の少ない邦の意見を確保することができる)

問題は、その枠組みを誰が提供するか。
ここにこそ合議のくじ引きを導入すべき(cf.柄谷行人『日本精神分析』)。

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