31.12.10

2010年総括

今年読んだ本は60作品、観た映画は44本。

とても決めにくいことだが、読んだ中で最も印象的だったのは、
リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』だろうか。
三本のストーリーの混じり合いの妙といい、
枝葉に散りばめられた知的な議論といい、
一つの作品に詰め込めるだけ詰め込んだだけあって、
読みごたえは申し分なかったし、オチも良かった。
東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』、
平野啓一郎『決壊』も素晴らしかった。
『クォンタム・ファミリーズ』は面白くて夢中に読めた。
SFを小説と区別する基準たる現実そのものが
情報化に飲まれてどろどろと変容している中で、
控えめながら倫理的な問いかけに思えた。
『決壊』は、あまりに酷い事件を巡っての小説だが、
単にいま起きていないだけというほど現実味を帯びて迫った。

映画では、一つに絞ることは難しい。
トム・ティクヴァ『ラン・ローラ・ラン』と
セルジュ・ブルギニヨン『シベールの日曜日』が良かった。
『ラン・ローラ・ラン』は、不可逆でリニアな時間軸に抗おうとする
試みが新鮮だった(『メメント』もそうだが)し、
アニメを混ぜ込んだ作りも新しかった。
実験作ながら、テンポの良さが心地よい。
『シベールの日曜日』は、シベールの愛くるしさもさることながら、
画面の構成や台詞の細部が作り込まれていたように思う。
極言するに、カットの一つ一つが綺麗なら、映画は美しい。
趣は異なるがジェイク・クレネル『大阪恋泥棒』も印象に残っている。

日常面を振り返れば、関東での知人がいっぺんに増えた。
職業でいえば編輯者、弁護士から漫画家、ギャンブラー、経営者まで、
大阪や仙台や横浜にこもっていては出会えなかっただろう人々と知りあった。
このカオスとしての人間宇宙こそ、社会だ。
そのほんの一断片に触れ合うことすら困難だから、
ある種の人々はステレオタイプに陥って閉塞するわけだ。
そうではない複雑系たる生きた雑多を、面白いと思えた。

是枝裕和『ワンダフルライフ』

人は死後に一週間かけて、人生から一つだけ思い出を選び、
その思い出だけを記憶に懐いて天国で永遠に暮らす。
人により長短はあれ、たった一つしか人生を記録できない。
死者たちは懸命に思い出を選び、悩み、あるいは選択を拒絶する。
この淡々とした進行は、心地よかった。

ただ、こういった設定を通じて人生を振り返るということで、
何が見えるのだろう。いや、何が見えなくなるのだろう。
設定そのものが、誰もがブログと回想録を残そうと
躍起になる現代に特有のものと感じた。
誰もが一つ以上、美しい思い出を持つ必要があるとするのは、
それだけ個が充足されている証である一方で、
第三次産業(サービス業)中心の消費社会のきらいが見え隠れして思えた。

思い出を再現した映像を通じて、その瞬間を呼び起こすという手間を経るのは、
記憶から余分を排し、美化するという、
記憶そのものの作用を踏んでいるように感じた。

30.12.10

ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』

この小説を読んで、他者性とは文脈=来歴=物語の絶対的な断絶だ、と感じた。
共同体的なものではあれ、それに先立ち
個人的、感情的、無意識的な領域なのだ、と。
その類似が人間性であり、他方にあるごくわずかな「百万分の一の」差異が、
みんなの大好きな「個性」なるシロモノである。
この捉え方はとても鋭い批判だ。
それらは、「理解されなかったことばの小辞典」として纏められている。
他者性の濫觴というものの一般性を求めるなら、必読の箇所のように思われる。

吟味的な語りから導かれる箴言は他にも多い。
自分としては、キッチュ「俗悪なもの」についての吟味が面白かった(p.291)。

終盤、すでに愛の終わったトマーシュとテレザの夫婦が、
影のあるかないかわからないソビエト共産主義に怯えながら
小村で身をやつして暮らす描写が続く。
夫婦の気持ちのすれ違い、淋しさ、辛み、が
序盤、中盤ほどではないがやはり説明的な饒舌で語られるが、
これは語り手が前に出るというよりは
行き場のない心情が吐露されているようで辛かった。

メモ:相変わらず文体について。
この小説は回想や吟味が多く描かれ、そこでの文体は混み入っている。
過去の叙述、それを捉える現在の吟味、そしてその行く末としての現状の叙述。
さらには、思考主体が登場人物か語り手かわからないまま
吟味が(ときには一般化されて)進み、
最後にその結論を登場人物の一人に帰せられる、という場合もある。
例えばベケットのような、問題定期だけを針のように細く研ぎ澄ませた文体ではなく、
問いかけ、語り、思考する文体だ。
読者はただ追認してゆけばよい。

27.12.10

トラン・アン・ユン『ノルウェイの森』、よしながふみ『きのう何食べた?』(〜4巻)

 トラン・アン・ユン『ノルウェイの森』

新宿三丁目のバルト9にて鑑賞。
上下巻ある長篇の原作をどう映画一本に収めるのか、興味があった。
トラン・アン・ユンらしく、綺麗なシーンの断片を繋いで
どんどん物語内の時計の針が進んでゆく、そんな進行だった。
だからすでに原作を読んだ観客には、
ありありと現前した要約を走り読む心地よさがあったし、
読んだことがなくても、細部を繋ぎあわせる余情が味わえたろう。

原作の帯びには「喪失と再生」という表現があったような気がする。
直子と緑、あるいは、京都の深い森と東京の喧騒、と言い換えてもよい。
もちろん、キズキと僕、でも。
映画では前者が主題であり、ことさらに喪失と死が際立っていた。
原作終盤で再生の大きな第一歩たる(ように思われる)レイコさんとの交わりも、
喪失に楔を打つような涙にくれたシーンだった。
映画館で涙が流れたのは本当に久しい体験だったが、
それはこの原作解釈のゆえだと思う。
後半の幾箇所ですでに涙腺はゆるゆるだった。
もっとも心に響いたのは、二つ。
初美さんの死をエピソード的に告げるナレーションと、
エンドロールの音楽The Beatles "Norwegian Wood (This Bird Has Flown)"の
劇場ならではの大音響で鋭いギター。
エンディングテーマで泣くのは理解されがたいだろうが、
柔らかく聴き心地の良さをもっぱら好んで聴いていた曲だけに、
映画全体の冷たい悲しみを帯びて歯向かってきたような。


 よしながふみ『きのう何食べた?』(〜4巻)

さほど難しそうなレシピはないとはいえ、
こんだけ真面目にきちんと
味つけや下茹でなどできれば本当にすごいと思う。
ずぼらでいい加減で作り置き中心の怠惰な一人暮らしの身として反省。

20.12.10

ポール・ヴァレリー『精神の危機』

岩波文庫版で、表題作のほか15の評論を編む。
あるものは講演だし、あるものは答辞だが、
どれも同じく«ヨーロッパ精神の危機»を扱っている。
それは第一次大戦に端を発する、
科学・技術の暴力的な二面性の発見、
ヨーロッパ的な理性の崩落、
ナショナリズム意識の萌芽、だ。

「『精神』の政策」という一篇が面白かった。
内容や論点はH.D.ソローの文明批判に近い。
が、「精神」という多義的な一語を軸に、
その多義性に呑み込まれないでうまく議論を立ち回らせる流れは
読んでいて心地よく、これぞ評論文学と嘆息するものだった。
鋭いのは、古代から現代にいたるまで、
文明の基盤はあくまで「信用」であるという指摘。
それを紙に象徴させ、紙が世界から消えたときの大混乱を仮定する下りがある。
情報伝達やマスメディア、書物、そして
経済活動や金融決済までもが電子化された現在でいうと、
すべてのネットワークが遮断されたとする思考実験のようなものだ。
この脆さが社会の精神的性格だ、とヴァレリーはいう。
そして、絶対的基盤が交換という経済活動の俎上に乗り、
相対的なものへ推移してしまうことが、ヴァレリーのいう危機だ。
だからこそ、ヨーロッパ的という絶対点に縋った。

「精神の危機」はタイトルからすぐさま、
フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機』を連想する。
書かれた頃合いも両大戦間期という同時期の論文だ。そして内容も近い。
こちらは主に自然科学における絶対点の喪失の話だけれど、
人文科学と自然科学が哲学を接点として
このように歩みを同じくしていると云うのはおもしろい。

17.12.10

フランソワ・オゾン『ふたりの5つの分かれ路』

原題は « 5×2 » (Cinq fois deux) 。

主題として置かれるようにして、夫婦の離婚シーンから始まる。
そこから時系列を遡って、4つの時節が描かれる。
倦怠、出産、結婚、出会い。
遡るごとに互いの眼差しが生き生きとし、笑みに溢れてゆく。
だから映画を観た直ぐ後は(出会いの綺麗なシーンだから)、
ハッピーエンドっぽく感じられる。が、
行く末はすでに知れているから口許が歪む。
ここに、オゾンのなんともいえない皮肉と諧謔を感じた。

ジルとマリオンが出会うシーンでは、ジルの彼女のヴァレリーが出てくる。
二人はすでに4年の仲の倦怠で、
性交中のヴァレリーの、天井を仰ぐ冷めた眼差しが、
後に(映画では冒頭に)ジルとマリオンの間で繰り広げられる。
この連鎖はあわれ。

視線の反らし、が印象的な映画だった。
離婚後のシーンではマリオンが極力視線を避けるし、
出会いのときは逆に、ジルの顔を盗み見るようにすがりつく。
他のどのシーンでも、視線の交わりは仲を象徴して綿密に描かれていた。

14.12.10

是枝裕和『幻の光』

尼崎の路地裏と輪島の海辺、昼と夜、四季、
淡々とストーリーが進むにつれて、景色も情景もただ淡々と追ってゆく。
だからこそ、祖母の失踪と夫の自殺が、
言葉少なく謎として大きく取り残される。
それを静かに受け止め、深く心に負って、
20代から30代へと歳をとってゆく主人公の姿を、
あわれでむなしい思いで観た(自分が近しい年齢だからかもしれないが)。

画面の右の窓から眺めやるシーンが反復されて、印象的だった。
あまりカメラワークのない場面の切り取りは、
しばしば陰翳の深い逆光だったりして、
詩的な印象を受けた。

最後、入り江の夕暮れの場面は、申し分なく美しかった。
寄せる波の穏やかな音に、
暮れなずんだ夕空をバックにした黒い影が内海にも逆映りしている。
そうして歩く二人が近づきつ遠ざかりつする。

11.12.10

ビクトル・エリセ『ミツバチのささやき』

科白と音楽を最小限に切り詰めて、動きをどこまでも排し、
シーンを淡々と繋げてゆく、
そしてそのどのシーンも単純な構成なだけに、
色も線も鮮やいで美しい。

はしゃぐ子供らがぐるぐると焚火を飛び越える映像、
水際に怪談のような顔が照らされる映像は、いうに及ばず、
毒茸を踏みつけるところ、
銃声とともに光の点がまたたいて果てる景色、
どれも短い一シーンなのに深く尾を引く。
表情の揺れがおずおずと心境を語る。
このさまがとても繊細でたおやかだった。

カットは多いのかもしれないが、それを感じさせない静謐さ。
時間が過ぎ去ってゆく心地がしない。

7.12.10

穂村弘・タカノ綾『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

穂村弘の第三歌集。
穂村弘宛にひたすら手紙を送るまみの言葉、が歌になっている、という設定。
言葉=短歌は現にあるのだから、まみが架空か実在か、それはどちらでもよい。
でも、ぜひ実在してくれたら好いのに、とは思う。
等身大で舌足らずでとりとめのない、だが鋭利に心えぐる、
十代後半の詩人のまみ、は確実に歌に透けて揺らいで、影が見えてくる。
タカノ綾の、艶かしくも肌透きとおる挿絵が、歌とよくマッチしていて好い。


不思議だわ。あなたがギターじゃないなんて、それはピックじゃなくて舌なの?

と、はじけるような今に相手に肉薄する歌や、

それはそれは愛しあってた脳たちとラベルに書いて飾って欲しい

のように、いとおしい今がますます切なくなってしまう哀しみの呻きまで。
難解な歌も交えながら、しかし感覚感触で読み捉えてゆける。
三十一音の一行詩ならではのスピード感も、現代短歌に伍しては抜群。