30.12.10

ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』

この小説を読んで、他者性とは文脈=来歴=物語の絶対的な断絶だ、と感じた。
共同体的なものではあれ、それに先立ち
個人的、感情的、無意識的な領域なのだ、と。
その類似が人間性であり、他方にあるごくわずかな「百万分の一の」差異が、
みんなの大好きな「個性」なるシロモノである。
この捉え方はとても鋭い批判だ。
それらは、「理解されなかったことばの小辞典」として纏められている。
他者性の濫觴というものの一般性を求めるなら、必読の箇所のように思われる。

吟味的な語りから導かれる箴言は他にも多い。
自分としては、キッチュ「俗悪なもの」についての吟味が面白かった(p.291)。

終盤、すでに愛の終わったトマーシュとテレザの夫婦が、
影のあるかないかわからないソビエト共産主義に怯えながら
小村で身をやつして暮らす描写が続く。
夫婦の気持ちのすれ違い、淋しさ、辛み、が
序盤、中盤ほどではないがやはり説明的な饒舌で語られるが、
これは語り手が前に出るというよりは
行き場のない心情が吐露されているようで辛かった。

メモ:相変わらず文体について。
この小説は回想や吟味が多く描かれ、そこでの文体は混み入っている。
過去の叙述、それを捉える現在の吟味、そしてその行く末としての現状の叙述。
さらには、思考主体が登場人物か語り手かわからないまま
吟味が(ときには一般化されて)進み、
最後にその結論を登場人物の一人に帰せられる、という場合もある。
例えばベケットのような、問題定期だけを針のように細く研ぎ澄ませた文体ではなく、
問いかけ、語り、思考する文体だ。
読者はただ追認してゆけばよい。

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