9.6.18

田川建三『歴史的類比の思想』、ガンジー『ガンジー自伝』

田川建三『歴史的類比の思想』

田川建三の鋭さとは何かというと、命題を読み解く裾野の広さと洞察だと思う。
一つの問題を考えるとき、周辺や類型をも大きく汲み取る。
一般化するも、それが原則ではなくイデオロギーであることを忘れない。
現代を生きるヒントとしての歴史のありようとして、
この捉え方を会得したいものだ。

「原始キリスト教とアフリカ」では、
古代ローマ帝国と現代アフリカにおけるキリスト教普及を対応させて論じている。
ごく内輪で通じる弱小な母語と、
経済や社会の圏内で生活するためのギリシャ語/英語と、という言語の多重性があり、
支配階級ではない周辺民族のアイデンティティ喪失状態がある。
双方の個別の背景を述べながら、言語と民族と階級という軸で対照する。
アフリカのキリスト教が説教というより絶対的真理であり、
党派的勢力として関心を向けられている、という指摘が興味深かった。
皮肉でなく実態として政教の不可分ではないか。

「ウィリヤム」では、次の指摘がはっとさせられた。
歴史の随所に登場する法則だ。
抑圧の悲劇は抑圧の行為そのものに終るのではない。抑圧する者は、抑圧しているくせに、抑圧の残忍さを身につけることなく、清く美しく生きられるのに、抑圧されている者の方が、かえって、抑圧者の持つべき残忍さの性格までも、おのれの性格として背負いこんでしまうところにある。そして、おのれがもはや抑圧される位置にいなくなっても、身にしみついた抑圧者の残忍さは、持続する性格となって残る。[...]外部からの抑圧の構造が、内側の構造に転化される。(p.88)

「ウェーバーと現代」では、
ウェーバー研究家がウェーバーのみを礼讃する状況を指弾する。
要するに、自分たちの生きている状況の現実から問題を切り出していく、という消耗な、しかしそれをはずしてはすべてが虚妄になる作業は逃げておいて、問題意識自体をウェーバーから借りてくるという姿勢を持続している限りは、ついに翻訳屋でしかありえないし、その翻訳紹介にしたところで、ウェーバー自身をも矮小化してしまうことになるのです。(p.185)
自らが身を置いた文学研究を考えて、刃を突きつけられた心持がした。
カイヨワの同様の「文学」学批判を思い出す。

勁草書房刊、改装版。

ガンジー『ガンジー自伝』

蝋山芳郎訳。中公文庫版。
古い版なので字が小さかったが、読みやすかった。

モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(通称マハトマ・ガンディー)の、
信仰厚く心優しい少年時代に始まり、
アフリカでのインド人差別との闘い、
そしてインドでの各地での運動について、語られている。

宗教によって育まれた倫理が普遍性を帯びて、
イスラムやキリスト教のような他宗教の指導者とも通じあっている。
闘争の状況下ゆえなのかもしれないが、
普遍的な信念が宗教を越えていたからだと、信じたい
(大インド主義は実現されなかったが)。
市民運動が顔と心情を持っていた、そういう僥倖を遠目に眺める気持で読んだ。

14.4.18

タミム・アンサーリー『イスラームから見た「世界史」』

紀伊國屋書店刊。小沢千重子訳。

原題は"Destiny Disrupted - A History of the World Through Islamic Eyes"で、
チヌア・アチェベ『崩れゆく絆』(原題は"Things Fall Apart")を思わせる。
実際、物語は欧米列強による植民地と石油利権の獲得競争によって
複雑化し分断されるイスラム世界が語られる。
邦題を見ると本書は純然たる歴史書と捉えられるし、事実そのような内容だ。
が、やはり作者の語りたいは、近代以降であり、
特権階級と石油利権と米ソに分断されたイスラム世界の現状にほかならない。
というのは、作者はあとがきで、次のように述べる。
[...]近年の欧米による道徳的・軍事的キャンペーンは、ムスリムを自身の国の中で弱体化させるという定石どおりのプログラムのように思われる。西洋の習慣や法体系や民主主義というのはまるで、個々の経済単位が合理的な利己心に基づいて自主的に判断を下すというレベルまで、社会を細分化するプロジェクトのようにみえるのだ。(p.636)
この訴えは、市民社会という近現代の自明の理に対する深い異議申し立てだ。
イスラムとは宗教つまり生きることの指針であるのみならず、
共同体の指針でもあり、しかも憲法・刑法・民法でもあるから、
いかにアメリカやロシアや西欧が自由と民主主義で社会の基盤を代替しようとも、
制度が二重化してものごとが複雑化するだけだからだ。

物語はイスラム暦である「ヒジュラ暦」の元年から始まり
(併記されている西暦は622年)、
1421年(西暦2001年)の9.11までを語る。
ムハンマドの開教以前の歴史として、ペルシア帝国やゾロアスター教があり、
9.11以降の歴史としてはアラブ革命もある。
とにかく、複雑に交錯しながらも一本の歴史があって、
今という瞬間(例えば、シリア危機)があると、はっきり感じられた。
とはいえ、筋書きは進むにつれて重苦しいことずくめになってゆく。
正統カリフ時代の終焉とともに世俗派からシーア派が分離し、
さらにはイスラム世界の統治権力も複数が相対峙するようになる。
宗派、身分、民族という対立軸が複雑化してゆき、
ときに外部のキリスト教やモンゴルが入り乱れながら、
それでも、オスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国の鼎立する絶頂期まで、
イスラム世界は富や仁智、文化や科学までも華々しく誇っていた。
が、欧州列強の植民地獲得競争であっという間に切り崩されてゆき、
冷戦構造や石油利権がさらに対立を深めてゆく。

現況は、ファクターが多すぎて見通しがつかない。
イスラム原理主義はあまりに国民国家や人権保護に相容れないため、
欧米諸国や国連とまともに会話すらできない。
また、数年前に「アラブの春」が民衆からの下からの抗議として拡がったが、
不満はあれどビジョンを欠いた。
つまり、それを一つにまとめ上げる理念はなく、
ええじゃないかの騒ぎのような世直し欲求として萎みかけている。
ビジョンを求めようとすれば、イスラム史をどこまで遡って参照するかという
答えのない迷宮で、刺し違えることになる。
この袋小路はどこへ行き着くのか。

蛇足だが、我が身を省みて、日本に民主主義は根づいたのか。
民主主義が建前なら、本音として巣食っている因習とは何なのか。
昨今の政情が株価を人質に取っていまだに生きながらえている様子は憂鬱だし、
その旗印たる開発独裁さえ30年近く失政続きという体たらくで、
何がこの国の本当の心情なのか。

6.4.18

ジョン・ケネス・ガルブレイス『大暴落1929』

村井章子訳。日経BPクラシックス版。
2008年刊なので、リーマン・ショックの時期にうってつけだっただろう。

経済学史における制度派の代表的な人物として著者を知っていたが、
著作を読むのは初めて。
あまりに平易な語り口は経済学というよりエッセイのようで、驚いた。

タイトル通り、世界大恐慌の発端となった1929年のアメリカのバブル崩壊を扱う。
「ブラック・チューズデー」の常套句はまるでそれが一日の出来事のように伝えるが、
実態は、値崩れだけでもひと月もあったことは、冷静な損切りの大切さを物語る。
そして、バブルという狂乱が全体主義的な異様な空気を当然であるかのように帯びて、
その全体を突き落とす、この過程はチキンレースさながらだ。

初めは人知れず熱を帯び、徐々に耳目を集めて過熱し、
それを当然とする風潮がはびこり異見を駆逐する。
すると、崩壊が始まっても夢を無理に信じ込もうとする。
また、信用取引、レバレッジ、投資信託のようなメタな金融商品が、
カネを市場に何周も駆け回らせる手法は、
むしろ昨今のバブルと大して違わない。
このあたりは、一般則を引き出すまでもなく、
実例がそのまま後の歴史で繰り返されているように思われる。

終章は、バブルの背景を考察し、
貧富差の拡大や持株会社構造や預金保護不在などを挙げている。
それらは1929年の社会システムに特有の問題だ。
が、それらの羅列を眺めて思ったのは、
社会システムというものはある条件下において、
きちんと因果律に従って崩壊する、ということだ。
どのような要素が歯車のように組み合わさるかは、社会システムによるが。
そして、社会システムがそのように脆弱性を孕んでいる以上、
分析と補正は欠かせない。
プログラムにおけるバグにとてもよく似ている。

4.4.18

リチャード・ブローティガン「西瓜糖の日々」

iDᴇᴀᴛʜのある日常が語られる。
その書き出しは淡々と美しく、小説全体を包む静けさを象徴する。
In watermelon sugar the deeds were done and done again as my life is done in watermelon sugar. I'll tell you about it because I am here and you are distant.

町はたいてい西瓜糖でできているらしい。
無数の細い川が流れ、鱒が泳いでいる。
桃源郷のような暮らしがある。
しかし、Forgetten Worksが町外れに打ち棄てられ、
そこに魅せられた者はそこでの生活に疑問を持ち、死を選ぶ。
だが、それは主人公たちには決して伝わらない。
閉ざされた世界は美しく塗り込められて、綻びは許されない。

幸福と生とのせめぎ合いが、そこでは超克されている。
生というものの本質的な危うさが、そこには無い。
いや、墓や立像や鱒としてあちこちに死が刻印されているにもかかわらず、
生が無自覚に、空気のように充満している。
だから、幸福もまた空気のように、快いが自明であり、勝ち取るものではない。

この小説は、自我のない幸福を材に取りながらも、揶揄しない。
むしろ、そのような幸せを描き切ってしまう。
ディストピア賛歌という危うい内容なだけに、問いかけに厚みがある。

──原書で読んだ。
ずっと本棚の奥へと敬遠してきたわりには、読みやすかった。

21.3.18

夏目漱石「野分」、団藤重光『法学の基礎』

夏目漱石「野分」

教訓めいたところが「虞美人草」に近いと感じたが、同年の著作らしい。
もっとも、理想と現実の相容れなさを
やや突き放して描く漱石らしさは変わらない。

団藤重光『法学の基礎 [第2版]』

人間の主体性を重視し、市民社会の発展を願う書き口で、
地に足のついた良識派の学者という以上に訴えるものがある。
だから第一に、法が「われわれのもの」と語られるし、
「法は人間の営みである」(p.141)から、
法がつくられるニーズや駆け引き、
さらには生物学的な層、経済学的な層、といった
マルクスの上部・下部構造やフェーブルの歴史構造のようなものも説く。
部分を押さえつつ全体を見て、現実を見据えたうえで理想を目指す、
そのような、法を内部からではなく外部からも語る、
まさに法を知るための入門書としてふさわしく、読み応えがあった。
何より、法と法学のダイナミズムがよくわかった。
個人的には、英米法的な視座が体得できたように思う。

法学を訓詁学と捉えていた大学時代に出会っていたかった。

6.3.18

義江彰夫『神仏習合』、森鷗外「高瀬舟」「山椒大夫」

義江彰夫『神仏習合』



つまるところ神仏習合は、
支配階級の場当たり的で宥和的な後づけの論理によって、結果論的に形成された。
そのどっちつかずで見通しのつかないままできあがってしまった歴史は、
いかにも日本らしい。
本音と建前の併存が染みついている。

以下、内容の概要。
各地方の支配階級が私営田領主として富裕化したため、
共同体本位の呪術的な神事がもはや支配の裏づけとならなくなった。
よって、8世紀後半、雑密の遊行僧が仲立って、
土着神の仏教帰依という形で神宮寺がつくられ始める。
朝廷は、神事による支配への逆戻りはできないため、
神宮寺の公認による支配へと方針転換する。
10世紀、租税が神祇的な奉納の意味づけから封建的制度へ転換され、
王朝国家体制下の社会的、身分的な不満が怨霊信仰となり、
密教は王権を相対化する理論として後ろ盾となった。
また、律令体制から王朝国家体制へと移り変わるなかで、


王権はケガレ忌避の観念が神祇から日常生活にまで拡大することで、
貴族社会そのものを神聖化し、日本固有の祭祀観念として密教に対峙した。
その時代背景が、従来の穢れた「黄泉の国」ではなく極楽浄土を説く
阿弥陀浄土信仰と結託し、阿弥陀信仰が貴族社会に浸透する。
仏教が神道を包摂した結果、平安末以降の本地垂迹説が登場し、
日本神話そのものを仏教が前提として存続する。

神道は仏教という外圧があってはじめて体制をなした。
だから、神仏分離や純粋な神道というものは、どだい無理な話だ。
少なくとも律令期まで遡る必要があるし、
それさえ各共同体の祖先崇拝が国家-地方間に編成された論理だ。
今も昔も国家宗教は支配の論理であり、伝統が騙る裏には必ず意図がある。

岩波新書版。

森鷗外「高瀬舟」

欲望の充足と、安楽死について。
二つのテーマは、「何も持たないこと」という共通項で貫かれている。
何も(欲望も)持たないから二百文は喜ばしい貯蓄だし、
安楽死とその罰としての島流しは、此岸にしがらみがないゆえだ。
すると、持つことの二重性が問われる。
持つ者はさらに持とうとし、さらに身動きが取れなくなる、と。

青空文庫版。

森鷗外「山椒大夫」

厨子王は貧しい暮らしから、奴婢となり、僧となり、国司となる。
物語は絶えず場面を移動させ、厨子王の立場を転がし、
しかし、父母への思いだけは変わらない。
ロードムービーのようだと思った。

青空文庫版。

23.2.18

藻谷浩介・NHK広島取材班『里山資本主義』、團藤重光・伊東乾『反骨のコツ』

藻谷浩介、NHK広島取材班『里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く』

過疎地が自ら智慧を絞り、放擲されていた資源を活用することで、
市場へ流出していた貨幣流通を地域内にとどめ、
結果としてスマートグリッド的な地産地消経済が回りつつある、という。
実例として、木屑によるバイオマス発電を行ったり、
商品にならなかった農作物を、地域通貨によって地域の施設へ回したり。
地域振興という都市部による上から目線の思考ではなく、
主体的に考えて行動する、という責任感と自信がある。
どこまでも細かく分業し、市場と貨幣により抽象化される、という都市の疲弊がない。

NHK取材班による事例のみではなく、
藻谷氏による経済学的な裏づけがなされていて、説得力がある。
何より、自らを労働力と貨幣の交換する、という無機質な世界から逃れ、
人が集まって生きている、という地域圏がセーフティネットとして存在する。
そこには次世代へのヒントどころか答えがあるような気がしてならない。

「角川oneテーマ21」新書。
初版は2013年7月なので、東日本大震災から半年後。


團藤重光、伊東乾・編『反骨のコツ』

10年ほど前、日経ビジネスオンラインに掲載された両者の対談を読んだ記憶がある。
團藤重光氏が長く東京大の教員で、
元・最高裁判事なのは知っていたが、
敗戦後、刑事訴訟法を起案したというのは知らなかった。
私は法律学を訓詁学とみなしていたが、
氏は、訓詁学以前の哲学や思考から、法律に関わってきた、ということだ。
日本国憲法や種々の基本的な法律が施行される時代、
法の運用は判例によってではなく、
GHQの意向をうかがいながらも、新時代の日本への展望が息づいていた。
その時代の述懐は、興味深かった。
陽明学の知行合一に貫かれて、最高裁判事としても多数に与しない、
その生き方は、痛快だし、勇気づけられるものがある。

対談なので、話題は揺れ動くが、多くは死刑について。
アイヒマン的な凡庸さの罪が、
死刑に立ち会う教誨師に通底する、という指摘や、
1948年の最高裁死刑合憲判決が、
GHQへの忖度を含み将来への展望を語る、という紹介があって、興味深かった。

タイトルが内容と遊離していること、ときおり伊東氏の独壇場になっていること、
がやや残念だった。

18.2.18

手塚治虫『陽だまりの樹』、山本周五郎『青べか物語』

手塚治虫『陽だまりの樹』

幕政末期の武士と蘭方医の物語。
幕府のクズっぷりが笑えるが、対して現代が思いやられて凍りつく。

山本周五郎『青べか物語』

浦粕という東京近郊の漁村の観察日記めいた掌篇連作。
各章で描かれる人物はみな奇妙で滑稽ながら、生身が感じられる。
時間の感覚がとろっとして、不思議な読中感に浸る。

一年前に文学座の公演を観てから原作に興味があって、
今年で著作権が切れると同時に公開された青空文庫版で読んだ。

19.1.18

斎藤潤『日本《島旅》紀行』『沖縄・奄美《島旅》紀行』、正岡子規『病牀六尺』、村上春樹『騎士団長殺し』

斎藤潤『日本《島旅》紀行』『沖縄・奄美《島旅》紀行』

筆者は旅ライターという肩書きだが、文章が巧くて読ませる。
描写は短くもキレがあって、旅先の雰囲気や人柄を捉えている。
ときどき挿まれる写真が興ざめなぐらいだ。
だから、旅情がわくというより、楽しい旅の知らせを聞くようだった。

『日本《島旅》紀行』は、利尻島に始まり、
東京都島嶼部や瀬戸内の島々など日本中の島をめぐる。
『沖縄・奄美《島旅》紀行』は、沖縄と奄美の島々だ。
切り口は決まって、その島ならではの雰囲気や暮らし、人との交流だ。
どの島も狭い世界では決してなく、一つの宇宙であって、
豊かな歴史と文化がたくわえられている。
航路ひとつとっても外界とのありようをさまざまに規定するし、
面積や地形や、どの程度の道路や舗装があるかも、決定的だ。
食や伝統や風景だけではない観察眼が、島を富ませる。
旅は、こうありたいものだ。

どちらも光文社新書版をkindleで読んだ。

正岡子規『病牀六尺』

言葉が世界そのものだ、と実感する。
筆者が病床の一室で、苦しい闘病を強いられているにしても、
絵を愉しみ、俳諧を詠み、人と話し、新聞記事について考える、
その営みを時間に流し去るのではなく言葉にするというだけで、
子規の病床は間違いなく賑やかで変化に富んでいた。
思いつくまま句を作ってみるなんて、しかもその句のおかしさよ。
逆に、言葉を喪っては、しわくちゃの老いと病にすぎない。
その決定的な落差に唖然とする。

岩波文庫と青空文庫を併用して読んだ。

村上春樹『騎士団長殺し』

ユーモラスな異形がしばしば登場するからか、
暗闇の洞窟のような試練を抜けるからか、
読後感はいかにも『千と千尋の神隠し』だった。
村上春樹の長篇はどれも多かれ少なかれRPGだ。
主人公が特権的に自らを探究する。

語り口が読者への丁寧な説明を意識する傾向は、いっそう強まっていると思った。
章立ては短く、時系列は参照されても交錯はしない。

2.1.18

手塚治虫『奇子』、田端信太郎『MEDIA MAKERS』、荻上チキ『検証 東日本大震災の流言・デマ』、藤原智美『文は一行目から書かなくていい』

手塚治虫『奇子』

手塚治虫にとって戦後という現代は、
都市と田舎、民主化と封建、カネと正義の対立を抱えた高度経済成長であり、
どこか禍々しく歪んだ過ち、だったに違いない。
その戦後日本の象徴として、主人公はGHQスパイとして戦後に生きて帰り、
朝鮮戦争特需を境にヤクザとして金ピカな生涯を送る。
読後感の裏づけとして、昔に読んだかすかな記憶から浮かんだのが、
『ネオ・ファウスト』『きりひと讃歌』『グリンゴ』だった。

kindle版で読んだ。iPhoneの画面で漫画は読みにくかった。

田端信太郎『MEDIA MAKERS──社会が動く「影響力」の正体』

メディア業界を知り尽くした著者ならではの観点で、面白い内容だった。
特に、消費者の具体的なペルソナを描いているという業界バナシは興味深かった。
ただ、メディアの信頼の担い手が企業・組織から個人へ移行してゆく、
という主張は、やや疑問を抱いた。
結局、メディアが信じるに足りるかどうかは、是々非々だからであり、
企業・組織か個人かという責任の有限無限の違いを、
権威を感じる消費者は、強く意識していないように思われるからだ。

メディア業界の人々の文章はおしなべて似ている、
そういう印象がはっきりしたように思われる。
繰り返し、言い換えが多い。紋切り型で結論を飾る。
よく言えば、噛んで含めるよう。悪く言えば、冗漫。
加えて、小馬鹿にしたような口の悪さや刺々しさがある。
読ませるためにメリハリをつけるためのテクニックが、
瞬間的、刹那的、テレビ的であるように思われる。
言葉が発せられたとたんに萎びる消費メディアの業界の性質ゆえか。
事実や語りという本質を措いていかに惹きつけるか、の世界だからか。

kindle版。元は2012年宣伝会議刊行。

荻上チキ『検証 東日本大震災の流言・デマ』

東日本大震災直後に出回った流言・デマが多く紹介されていて、
twitterによって多くの情報拡散をして(しまって)いた記憶が蘇った。
著者は、情報需要に供給が追いついていない状況が流言・デマを生む一因とし、
流言・デマを一つずつ挙げては公式情報を以て打ち消してゆく。

が、当時、東京電力をはじめとして政府やメディアといった、
大枠の既存制度、権威そのものが、あまりに大きく揺らいでいた。
つまり、公式情報や報道は、流言・デマの火を完全に消しえただろうか。
実際、当時のように報道への疑問は、いまだに我々に蟠っているように思える。

本書は地震発生から2ヶ月後の2011年5月に、反デマの"まとめ"として上梓された。
が、"検証"と題して今なお販売されている以上は、
"正しい公式発表"と"誤った流言・デマ"の二項対立を越えて、
その構造そのものの深層を掘り下げてほしかった。

kindle版。元は光文社新書。

藤原智美『文は一行目から書かなくていい 検索、コピペ時代の文章術』

文章術として網羅的かつ細やかで、良著に思われた。
文章の本質は「ウソ」です。ウソという表現にびっくりした人は、それを演出という言葉に置きかえてみてください。
という書き出しからまず実践的。
具体的な読み手を意識せよという指摘は、
上の『MEDIA MAKER』のペルソナに通じる。

kindle版で、元はプレジデント社刊。