時間と登場人物が交錯し、円環する。
こんなに不思議で神秘的で神話的で構造的で冷徹な小説は、読んだことがない。
一人称がどんどん入れ替わり、思い出を語り、思い出はさらに過去を語る。
声と過去が層を織りなし、それが生きられた歴史なのか、みないなくなった残滓なのか。
とにかく物悲しい。そして、これは文学だと思った。
街にいた神父が叛乱軍に加わり街を見捨てた、という語りは、物語の円環においても
暴力的な外部として、決定的に状況をずらす。
その下りは非常に胸を打った。
神父だけではない、みな悩んで悔いて、考え、語りあい、そしてずるずると朽ちてゆく。
一生懸命に朽ちてゆくのだ。
街からは誰もが消えて、影と声だけを発する死者たちが残される。
何度か読まねば。ちょっとまだわかりかねている。
27.5.10
カルロ・ゴルドーニ『抜目のない未亡人』、アンヌ・フォンテーヌ『ドライ・クリーニング』
・カルロ・ゴルドーニ『抜目のない未亡人』
劇作家ゴルドーニを知ったきっかけは、
ジャック・リヴェットの映画『恋ごころ』と山口昌男の評論『道化の民俗学』。
つまり、偶然。
特に後者でゴルドーニに興味を持ったので、
アルレッキーノの振る舞いに注目して読んだ。
もっとも、この作品では、混ぜっ返し役としてではなく、
もっぱらメッセンジャーの役割だった。
作品は西欧諸国のステレオタイプの男たちが登場する。
もっと卑近に言い換えれば、自らのキャラが毀れないように腐心する連中だ。
これは誰の近辺にも少なからずいるだろう。
もっとも笑われるべき、硬直した連中だ。
その隙をアルレッキーノやロザーウラが縫う。
それがないと、粗筋はもっと演繹的論証みたいになってつまらない。
・アンヌ・フォンテーヌ『ドライ・クリーニング』
ベースに描かれる生活の倦怠のえげつなさ、処置なさが、凄まじかった。
舞台はFlanche-Comté地方のBelfort。
存在は知っていたものの、まぁ何もなさそうな町だ。
クリーニング屋の夫妻が、仲睦まじそうに見えるが、
実際にはどうしようもない倦怠と閉塞に取り憑かれている。
夫の無表情と視線の泳ぎなんてもう、
「一家の主人という役柄にしがみついて怯える夫」そのもの。
この破滅の物語をドライクリーニングと題してしまう突き放し方がすごい。
妻役のmiou-miouが綺麗。
劇作家ゴルドーニを知ったきっかけは、
ジャック・リヴェットの映画『恋ごころ』と山口昌男の評論『道化の民俗学』。
つまり、偶然。
特に後者でゴルドーニに興味を持ったので、
アルレッキーノの振る舞いに注目して読んだ。
もっとも、この作品では、混ぜっ返し役としてではなく、
もっぱらメッセンジャーの役割だった。
作品は西欧諸国のステレオタイプの男たちが登場する。
もっと卑近に言い換えれば、自らのキャラが毀れないように腐心する連中だ。
これは誰の近辺にも少なからずいるだろう。
もっとも笑われるべき、硬直した連中だ。
その隙をアルレッキーノやロザーウラが縫う。
それがないと、粗筋はもっと演繹的論証みたいになってつまらない。
・アンヌ・フォンテーヌ『ドライ・クリーニング』
ベースに描かれる生活の倦怠のえげつなさ、処置なさが、凄まじかった。
舞台はFlanche-Comté地方のBelfort。
存在は知っていたものの、まぁ何もなさそうな町だ。
クリーニング屋の夫妻が、仲睦まじそうに見えるが、
実際にはどうしようもない倦怠と閉塞に取り憑かれている。
夫の無表情と視線の泳ぎなんてもう、
「一家の主人という役柄にしがみついて怯える夫」そのもの。
この破滅の物語をドライクリーニングと題してしまう突き放し方がすごい。
妻役のmiou-miouが綺麗。
24.5.10
柄谷行人『日本近代文学の起源』
読まねばとばかり思いつつ敬遠していた作品。
ようやく手に取ることができ、安堵している。
根源的な思索と、歴史をも問い直す遡行の手さばきは、流石。
実際に語られているのは、非西欧の西欧化の意識転回だ。
このことへの気づきは、英語版への序文によって著者自身に触れられ、
韓国語版への序文によって決定的になっている。
特にそのような制度創出として書かれているのは、
言文一致、内面性の発見、ジャンル、についての箇所だ。
言文一致は普通教育を、
内面性の発見は普通選挙を(cf.柄谷行人『日本精神分析』)、
ジャンルは国史の作成を、それぞれ表している。
言文一致という俗語創出が、内面事象の記述手段の獲得として、
告白という文学ジャンルへ繋がる、この議論の進行は、ダイナミックだった。
つまり、文語文がその型式に囚われるあまり、
内省を抑圧する装置として働いていたということが、逆に驚きだった。
マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』を読んだとき印象的だった、
表音文字による文字文化についての執拗な分析が思い出された。
マクルーハンの語彙で云えば、「ホットなメディア」たる声が文字に記録され、
それが音読ではなく醒めた目に晒されて意識内で反復するときが、
「クールなメディア」の始まりだった。
これが西欧での「内面の発見」だったということになる。
活版印刷術を経験しても。表意文字と文語文によって抑圧された内面が現れるためには、
どうしても言文一致(発話文法=音声 の優位)が必要だったのだ。
だから日本では言文一致運動が起き、中国では白話文学が興り、
トルコではローマ字採用が進んだ。もちろんこれは、
国民国家の必要条件たる均質な国民という意識を誘発する。
方言ではない人工言語が標準づらをして、国内の隅々まで行き渡るからだ。
ようやく手に取ることができ、安堵している。
根源的な思索と、歴史をも問い直す遡行の手さばきは、流石。
実際に語られているのは、非西欧の西欧化の意識転回だ。
このことへの気づきは、英語版への序文によって著者自身に触れられ、
韓国語版への序文によって決定的になっている。
特にそのような制度創出として書かれているのは、
言文一致、内面性の発見、ジャンル、についての箇所だ。
言文一致は普通教育を、
内面性の発見は普通選挙を(cf.柄谷行人『日本精神分析』)、
ジャンルは国史の作成を、それぞれ表している。
言文一致という俗語創出が、内面事象の記述手段の獲得として、
告白という文学ジャンルへ繋がる、この議論の進行は、ダイナミックだった。
つまり、文語文がその型式に囚われるあまり、
内省を抑圧する装置として働いていたということが、逆に驚きだった。
マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』を読んだとき印象的だった、
表音文字による文字文化についての執拗な分析が思い出された。
マクルーハンの語彙で云えば、「ホットなメディア」たる声が文字に記録され、
それが音読ではなく醒めた目に晒されて意識内で反復するときが、
「クールなメディア」の始まりだった。
これが西欧での「内面の発見」だったということになる。
活版印刷術を経験しても。表意文字と文語文によって抑圧された内面が現れるためには、
どうしても言文一致(発話文法=音声 の優位)が必要だったのだ。
だから日本では言文一致運動が起き、中国では白話文学が興り、
トルコではローマ字採用が進んだ。もちろんこれは、
国民国家の必要条件たる均質な国民という意識を誘発する。
方言ではない人工言語が標準づらをして、国内の隅々まで行き渡るからだ。
22.5.10
ドン・デリーロ『コズモポリス』
SF映画を観ているような感覚だった。
違うのは、SFがハイテクを背景として無自覚にハイテクを礼讃するのに対し、
ハイテクを背景とすることでハイテクを相対化することなく吟味していること。
ハイテクに対して身体性が描かれるが、ハイテクはすでに生活に埋め込まれているため、
二項対立の一方として相対化できない。
金融市場経済の数字ゲームに思考を侵されるあまり、
万物が記号じみて捉えられた記述となる。
基軸通貨がネズミとなり、
椅子の部品としての脚という名称に疑問を感じ、
非対称を怖れる。
違うのは、SFがハイテクを背景として無自覚にハイテクを礼讃するのに対し、
ハイテクを背景とすることでハイテクを相対化することなく吟味していること。
ハイテクに対して身体性が描かれるが、ハイテクはすでに生活に埋め込まれているため、
二項対立の一方として相対化できない。
金融市場経済の数字ゲームに思考を侵されるあまり、
万物が記号じみて捉えられた記述となる。
基軸通貨がネズミとなり、
椅子の部品としての脚という名称に疑問を感じ、
非対称を怖れる。
18.5.10
東浩紀×北田暁大『東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム』
都市の郊外化に最近興味がある。その範疇で手に取った本の一つ。
ただ主題は郊外ではなく、東京という一つのシミュラークルをどうやって一実体として捉えるか。
最も興味深かったのは、郊外化とは都市を中心のその周辺を従属させる動き、というのではなく、コンビニ的ライフスタイルを創出するための無機質な周辺環境(これを首都圏の幹線道路から「16号線的」といっている)と捉え、よって都心部の郊外化が現象として現れ始めている、という指摘だった。実際、恵比寿や品川を訪れるときに漠然と感じる薄っぺらさは感じていたが、それをズバリと言い当てられたような気がした。
加えて、バリアフリーの名の下で行われる大規模な再開発が、雑多なその街の個性を一掃するという今後の趨勢。足立区と荒川区の雰囲気の違いが一例とされていた。街が八方美人となり、穴場の店や細い路地といった隠れ家がすべてなくされること、イコール、16号線化、とすると、これはまさにシミュラークルだ。すべてが明るみに出されていて隠すところがない、しかしそれでいて薄っぺらくて捉えどころがない、という難点。
晴海などウォーターフロントの工業地帯の再開発・宅地化が、高層マンションとその生命線たるイオンの合体、というミニマムな16号線的な街となる、というのは、まさにそのため。工業地だったため道路はもともと見通しよく整備され、商店街や個人経営店舗といった住環境の歴史がない。
高所得と低所得の区分が必ずしも生活の質の上流と下流を区分しなくなった、という指摘は、ここから導かれる。チェーン店文化ではせいぜいスタバとドトールの上下関係しかあり得ない。一方で、足立区や川崎市のブルーカラー域と、23区西部といったホワイトカラー域と、居住がかなり明確に分離している。それでいて、それぞれを歩いてもさほど格差を感じさせないのはどうしてか? ここで見方を反転させて、16号線化が生活水準の差異を覆い隠す装置として機能している、としたところは、けっこう頷けた。
若林幹夫の新書と同様に、郊外の実体験から語られ始める。郊外を単に伝統の喪失とか画一化といった外からのステレオタイプで捉えられないためには、やはりそれを実体験として知っておく必要があるためなのか、それとも、郊外という摑みどころのない多元的な状況を現象学的に捉えるためには内から見つめるしかないためなのか。とにかく、そうやって大雑把に体験から語り始めることで、「ファスト風土」とかそういった保守的な批判からは距離を置いて、多角的に議論されていたように思う。だから、面白かった。
ただ主題は郊外ではなく、東京という一つのシミュラークルをどうやって一実体として捉えるか。
最も興味深かったのは、郊外化とは都市を中心のその周辺を従属させる動き、というのではなく、コンビニ的ライフスタイルを創出するための無機質な周辺環境(これを首都圏の幹線道路から「16号線的」といっている)と捉え、よって都心部の郊外化が現象として現れ始めている、という指摘だった。実際、恵比寿や品川を訪れるときに漠然と感じる薄っぺらさは感じていたが、それをズバリと言い当てられたような気がした。
加えて、バリアフリーの名の下で行われる大規模な再開発が、雑多なその街の個性を一掃するという今後の趨勢。足立区と荒川区の雰囲気の違いが一例とされていた。街が八方美人となり、穴場の店や細い路地といった隠れ家がすべてなくされること、イコール、16号線化、とすると、これはまさにシミュラークルだ。すべてが明るみに出されていて隠すところがない、しかしそれでいて薄っぺらくて捉えどころがない、という難点。
晴海などウォーターフロントの工業地帯の再開発・宅地化が、高層マンションとその生命線たるイオンの合体、というミニマムな16号線的な街となる、というのは、まさにそのため。工業地だったため道路はもともと見通しよく整備され、商店街や個人経営店舗といった住環境の歴史がない。
高所得と低所得の区分が必ずしも生活の質の上流と下流を区分しなくなった、という指摘は、ここから導かれる。チェーン店文化ではせいぜいスタバとドトールの上下関係しかあり得ない。一方で、足立区や川崎市のブルーカラー域と、23区西部といったホワイトカラー域と、居住がかなり明確に分離している。それでいて、それぞれを歩いてもさほど格差を感じさせないのはどうしてか? ここで見方を反転させて、16号線化が生活水準の差異を覆い隠す装置として機能している、としたところは、けっこう頷けた。
若林幹夫の新書と同様に、郊外の実体験から語られ始める。郊外を単に伝統の喪失とか画一化といった外からのステレオタイプで捉えられないためには、やはりそれを実体験として知っておく必要があるためなのか、それとも、郊外という摑みどころのない多元的な状況を現象学的に捉えるためには内から見つめるしかないためなのか。とにかく、そうやって大雑把に体験から語り始めることで、「ファスト風土」とかそういった保守的な批判からは距離を置いて、多角的に議論されていたように思う。だから、面白かった。
16.5.10
リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』
http://www.getty.edu/art/gettyguide/artObjectDetails?artobj=40905&handle=li
物語は作者がボストンでザンダーの写真作品「三人の農夫」に感銘を受けるところから始まる。
それとは無関係に、別の二つの物語が開始する。
一方は1914年5月、プロイセンのラインラント、写真の撮られた時と場所。
もう一方は現在、ボストンの八階のオフィスから同僚とパレードを見下ろすメイズ。
初めは別々に流れた物語が、次第に絡みあい、写真を軸としてやがて重なる。
ちょうど中盤あたりからのその華麗な流れを、私は今日の半日で読み終えた。
向かう舞踏会とは第一次大戦だ。
具体的には? とさらに問うと、意味は様々な様相を帯びる。
写真、総力戦、フォードに始まり、
デトロイトの終焉とコンピュータ技術への以降に終わるテクノロジー、
国民意識、協商国と連合国に始まり、
移民とアメリカに終わるナショナリティ、
電波、モルガン商会、ラジオ、大衆紙に始まり、
電話と空売り、粉飾決算に終わる市場型・情報型資本主義。
この小説がすごいのは、単に三つの物語が交錯するだけではなく、
その都度、写真論を始めとする厖大な智識が註釈のように物語を裏打ちし、
背景や描写を豊かにしているからだ。
あと、言葉の云い間違い・聞き間違いで進行がずれることが時々あって、それも良かった。
ピンチョンの『V.』と似ていると思って読み進めていた。
細部が細かいとか、二つの主軸の物語があるとか、
一つが過去から未来へ進行し、もう一つが未来から過去へ遡行するところとか。
しかし、ピンチョンのように情報過多が大きな主題というわけではないし、
情報が「ステンシル化」されることも(あまり)ないから、比して読みやすかった。
物語は作者がボストンでザンダーの写真作品「三人の農夫」に感銘を受けるところから始まる。
それとは無関係に、別の二つの物語が開始する。
一方は1914年5月、プロイセンのラインラント、写真の撮られた時と場所。
もう一方は現在、ボストンの八階のオフィスから同僚とパレードを見下ろすメイズ。
初めは別々に流れた物語が、次第に絡みあい、写真を軸としてやがて重なる。
ちょうど中盤あたりからのその華麗な流れを、私は今日の半日で読み終えた。
向かう舞踏会とは第一次大戦だ。
具体的には? とさらに問うと、意味は様々な様相を帯びる。
写真、総力戦、フォードに始まり、
デトロイトの終焉とコンピュータ技術への以降に終わるテクノロジー、
国民意識、協商国と連合国に始まり、
移民とアメリカに終わるナショナリティ、
電波、モルガン商会、ラジオ、大衆紙に始まり、
電話と空売り、粉飾決算に終わる市場型・情報型資本主義。
この小説がすごいのは、単に三つの物語が交錯するだけではなく、
その都度、写真論を始めとする厖大な智識が註釈のように物語を裏打ちし、
背景や描写を豊かにしているからだ。
あと、言葉の云い間違い・聞き間違いで進行がずれることが時々あって、それも良かった。
ピンチョンの『V.』と似ていると思って読み進めていた。
細部が細かいとか、二つの主軸の物語があるとか、
一つが過去から未来へ進行し、もう一つが未来から過去へ遡行するところとか。
しかし、ピンチョンのように情報過多が大きな主題というわけではないし、
情報が「ステンシル化」されることも(あまり)ないから、比して読みやすかった。
9.5.10
鹿島田真希『六〇〇〇度の愛』
『モデラート・カンタービレ』を下敷きにしたような構成と思ったが、
それは表面の一部だった。
原爆に生を奪われた長崎を自らの死場所と重ねた郊外の主婦の物語。
その再生の過程が、現在形で語られる物語を含めたいくつもの譬喩を経る。
アメリカ映画のハッピーエンドとは違う、心底からの再生だ。
短い文章、濃い独白と洞察に支えられた、素晴らしい作品だった。
青年がアダムに、そして(皮膚炎から)ヨブに比せられ、
さらに娼婦ソーニャに、生を奪われた長崎に、比せられる。
女にとっての兄が、解し難い。
キリスト教・ロシア正教に非常に共感を示しつつ反論を暗示しているような気が、
非常に淡く、そして不確実ながら、感じられた。
でもそれは、なんというか、反動を内包しない世界観があり得ないからなのか、
そんな一般論ではなく何か深い意味があるのか、よくわからない。
ただ、そう感じたメモとして、記しておく。
それは表面の一部だった。
原爆に生を奪われた長崎を自らの死場所と重ねた郊外の主婦の物語。
その再生の過程が、現在形で語られる物語を含めたいくつもの譬喩を経る。
アメリカ映画のハッピーエンドとは違う、心底からの再生だ。
短い文章、濃い独白と洞察に支えられた、素晴らしい作品だった。
青年がアダムに、そして(皮膚炎から)ヨブに比せられ、
さらに娼婦ソーニャに、生を奪われた長崎に、比せられる。
女にとっての兄が、解し難い。
キリスト教・ロシア正教に非常に共感を示しつつ反論を暗示しているような気が、
非常に淡く、そして不確実ながら、感じられた。
でもそれは、なんというか、反動を内包しない世界観があり得ないからなのか、
そんな一般論ではなく何か深い意味があるのか、よくわからない。
ただ、そう感じたメモとして、記しておく。
8.5.10
アルモドバル『トーク・トゥ・ハー』、オゾン『スイミング・プール』
・ペドロ・アルモドバル『トーク・トゥ・ハー』
昏睡状態に陥った女と、それに語りかける男、の男女が二組。
ベニグノのひた向きさと愚かしさが分ち難くて、それがまた胸を打つ。
にしても、アルモドバルの映す女性は綺麗で、思わず嘆息する。
・フランソワ・オゾン『スイミング・プール』
プール、性衝動、本、家族関係、…。
筋がありすぎて摑みどころがない感じ。
サラとジュリ、どちらも典型的なイギリス人と南仏人の様式、が、
お互いに惹かれあって交錯しているのか。
推理小説家サラの側にある虚構が、ジュリを通して現実にも溶けてきている、
そんなふうな謎の多い作品だった。面白かった。
昏睡状態に陥った女と、それに語りかける男、の男女が二組。
ベニグノのひた向きさと愚かしさが分ち難くて、それがまた胸を打つ。
にしても、アルモドバルの映す女性は綺麗で、思わず嘆息する。
・フランソワ・オゾン『スイミング・プール』
プール、性衝動、本、家族関係、…。
筋がありすぎて摑みどころがない感じ。
サラとジュリ、どちらも典型的なイギリス人と南仏人の様式、が、
お互いに惹かれあって交錯しているのか。
推理小説家サラの側にある虚構が、ジュリを通して現実にも溶けてきている、
そんなふうな謎の多い作品だった。面白かった。
6.5.10
アーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』、ダニー・ボイル『トレインスポッティング』/快晴飛行
・アーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』
書き出しは、He was an old man who fished alone in a skiff(以下略)
福田恆存はこう訳した。「彼は歳をとっていた。メキシコ湾流に小舟を浮かべ、(以下略)」
名訳でなくてなんだろう。関係代名詞なんて不自然だから訳さないスタンス。
それはさておき…息を吐かせない描写に圧倒された。
専門用語や魚名をここまで持ち出して、なのに散文として違和感がない。
緻密、とはまた違う。緻密といえばスピード感が澱む。単純に嘆息。
・ダニー・ボイル『トレインスポッティング』
偶然と幸運が散りばめられた主人公が、にんまり笑いながら脇を出し抜く、
その心地よさと毒が良かった。観ていて素直にのめり込んでしまう。
役も一人々々立っていて好い。
ストーリーがプロット過ぎないところも。
----
帰浜した。快晴で地表がずっと見えていた。
人生で二十回は伊丹から飛ぶが、こうも見晴るかした経験は初めてだ。
千里、万博記念公園、モノレール、果ては山科まで。
明るくない東海地方でも、木曽三川、富士山、御前崎、伊豆半島、が
うろ覚えながら特徴ある地形から知れた。
書き出しは、He was an old man who fished alone in a skiff(以下略)
福田恆存はこう訳した。「彼は歳をとっていた。メキシコ湾流に小舟を浮かべ、(以下略)」
名訳でなくてなんだろう。関係代名詞なんて不自然だから訳さないスタンス。
それはさておき…息を吐かせない描写に圧倒された。
専門用語や魚名をここまで持ち出して、なのに散文として違和感がない。
緻密、とはまた違う。緻密といえばスピード感が澱む。単純に嘆息。
・ダニー・ボイル『トレインスポッティング』
偶然と幸運が散りばめられた主人公が、にんまり笑いながら脇を出し抜く、
その心地よさと毒が良かった。観ていて素直にのめり込んでしまう。
役も一人々々立っていて好い。
ストーリーがプロット過ぎないところも。
----
帰浜した。快晴で地表がずっと見えていた。
人生で二十回は伊丹から飛ぶが、こうも見晴るかした経験は初めてだ。
千里、万博記念公園、モノレール、果ては山科まで。
明るくない東海地方でも、木曽三川、富士山、御前崎、伊豆半島、が
うろ覚えながら特徴ある地形から知れた。
ドン・デリーロ『ホワイト・ノイズ』
目まぐるしいものの数、エピソードの数。
それらが、背景とも前景ともつかずに飛び回る感覚。
内包と構造が溶け合うような描写。
ソローが指摘した、テクノロジー社会における「卵が先か鶏が先か」状態と、
自分の知らないところで自分が手玉に獲られる不安、
ものと「生」の二項対立ではなく、
「生」はものに取り巻かれて途方に暮れている、
そう読める箇所があったような気がする。
冒頭の雑多なキャンパス風景は氾濫した無秩序(=ゴミ)だし、
ところどころ家のものを捨てる主人公、ゴミ圧縮機の中身、などなど。
重要なのは、誰しもがその行き来をせざるを得ないということ。
毒ガス流出や巨大資本の魔の手に搦めとられることによって。
そして、その被害者は誰でもいい
(ニュースでそうであるように、数が確保されれば良い)のだ。
「自分ではなくてよかった」と頻りに
登場人物たちが口にするのは、そういうことだ。
最後に、もっとも気に入った箇所を書き写しておく。
「ぼくは自分のもの以外のノスタルジアは誰のものでも信じない。ノスタルジアは不満と怒りの産物だよ。それは現在と過去のあいだの苦情の種が据え置かれたものがだ。ノスタルジアが強ければ強いほど、人は暴力に近づいていく。戦争は人が自分の国について何か良いことを言うように強制されたときに、ノスタルジアが取る一形式さ」(p.276)
それらが、背景とも前景ともつかずに飛び回る感覚。
内包と構造が溶け合うような描写。
ソローが指摘した、テクノロジー社会における「卵が先か鶏が先か」状態と、
自分の知らないところで自分が手玉に獲られる不安、
ものと「生」の二項対立ではなく、
「生」はものに取り巻かれて途方に暮れている、
そう読める箇所があったような気がする。
冒頭の雑多なキャンパス風景は氾濫した無秩序(=ゴミ)だし、
ところどころ家のものを捨てる主人公、ゴミ圧縮機の中身、などなど。
重要なのは、誰しもがその行き来をせざるを得ないということ。
毒ガス流出や巨大資本の魔の手に搦めとられることによって。
そして、その被害者は誰でもいい
(ニュースでそうであるように、数が確保されれば良い)のだ。
「自分ではなくてよかった」と頻りに
登場人物たちが口にするのは、そういうことだ。
最後に、もっとも気に入った箇所を書き写しておく。
「ぼくは自分のもの以外のノスタルジアは誰のものでも信じない。ノスタルジアは不満と怒りの産物だよ。それは現在と過去のあいだの苦情の種が据え置かれたものがだ。ノスタルジアが強ければ強いほど、人は暴力に近づいていく。戦争は人が自分の国について何か良いことを言うように強制されたときに、ノスタルジアが取る一形式さ」(p.276)
5.5.10
帰阪ついでの旅(メモ)
1日。
清荒神清澄寺、売布神社、中山寺へ。
どれも阪急宝塚線の駅ながら、自転車にて赴く。
新緑の色鮮やかと、ようやく初夏めき始めた陽、
そして、宝塚のあの辺の住宅地の静かさと、溜池の多さ。
清澄寺の涼しげで綺麗な水盆が印象的だった。
それと、端正ながら妙な異彩を放っていた四人家族が。
3日。
夏日となったんではないかな。以後三日間、晴天だった。
下鴨神社にて流鏑馬を観た。
テレビのニュースとは異なり、開始までの間合いがいやに長く、
放たれた矢は必ずしも的を割らず、馬の走りが予想以上に速かった。
清水寺から見はるかす葉々の色合いがどれも若く、
遠くに霞む京都市街を覆って綺麗だった。
案内役を務めてくれた友人に感謝。
4日。
大阪城公園でのダウンな活気が大阪らしくて好い。
園内を周回し、何もない難波宮蹟を過ぎて、
祭りの中之島を西へ。大阪化されたパリのシテ島って気がする。
八百八橋の町、あるいは水都、の雅名をちょっとだけ実感。
難波へ。日本橋から新世界、そしてここ数年で急成長したオタロードを抜ける。
電気屋の激減は内心で驚きだった。
梅田へ。スカイビルから大阪を一望、と思いきや
梅田のビル群に阻まれて南の眺望は難しかった。
夕方のお初天神。いつも夜ばかり赴いていたため、初めて堂が開いていた。
夕食は、同行の人生初のお好み焼きとなった。
5日。
南森町の大阪天満宮を観て、帰摂。
清荒神清澄寺、売布神社、中山寺へ。
どれも阪急宝塚線の駅ながら、自転車にて赴く。
新緑の色鮮やかと、ようやく初夏めき始めた陽、
そして、宝塚のあの辺の住宅地の静かさと、溜池の多さ。
清澄寺の涼しげで綺麗な水盆が印象的だった。
それと、端正ながら妙な異彩を放っていた四人家族が。
3日。
夏日となったんではないかな。以後三日間、晴天だった。
下鴨神社にて流鏑馬を観た。
テレビのニュースとは異なり、開始までの間合いがいやに長く、
放たれた矢は必ずしも的を割らず、馬の走りが予想以上に速かった。
清水寺から見はるかす葉々の色合いがどれも若く、
遠くに霞む京都市街を覆って綺麗だった。
案内役を務めてくれた友人に感謝。
4日。
大阪城公園でのダウンな活気が大阪らしくて好い。
園内を周回し、何もない難波宮蹟を過ぎて、
祭りの中之島を西へ。大阪化されたパリのシテ島って気がする。
八百八橋の町、あるいは水都、の雅名をちょっとだけ実感。
難波へ。日本橋から新世界、そしてここ数年で急成長したオタロードを抜ける。
電気屋の激減は内心で驚きだった。
梅田へ。スカイビルから大阪を一望、と思いきや
梅田のビル群に阻まれて南の眺望は難しかった。
夕方のお初天神。いつも夜ばかり赴いていたため、初めて堂が開いていた。
夕食は、同行の人生初のお好み焼きとなった。
5日。
南森町の大阪天満宮を観て、帰摂。
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