6.5.10

ドン・デリーロ『ホワイト・ノイズ』

目まぐるしいものの数、エピソードの数。
それらが、背景とも前景ともつかずに飛び回る感覚。
内包と構造が溶け合うような描写。

ソローが指摘した、テクノロジー社会における「卵が先か鶏が先か」状態と、
自分の知らないところで自分が手玉に獲られる不安、
ものと「生」の二項対立ではなく、
「生」はものに取り巻かれて途方に暮れている、
そう読める箇所があったような気がする。
冒頭の雑多なキャンパス風景は氾濫した無秩序(=ゴミ)だし、
ところどころ家のものを捨てる主人公、ゴミ圧縮機の中身、などなど。
重要なのは、誰しもがその行き来をせざるを得ないということ。
毒ガス流出や巨大資本の魔の手に搦めとられることによって。
そして、その被害者は誰でもいい
(ニュースでそうであるように、数が確保されれば良い)のだ。
「自分ではなくてよかった」と頻りに
登場人物たちが口にするのは、そういうことだ。

最後に、もっとも気に入った箇所を書き写しておく。
「ぼくは自分のもの以外のノスタルジアは誰のものでも信じない。ノスタルジアは不満と怒りの産物だよ。それは現在と過去のあいだの苦情の種が据え置かれたものがだ。ノスタルジアが強ければ強いほど、人は暴力に近づいていく。戦争は人が自分の国について何か良いことを言うように強制されたときに、ノスタルジアが取る一形式さ」(p.276)

0 件のコメント: