都市の郊外化に最近興味がある。その範疇で手に取った本の一つ。
ただ主題は郊外ではなく、東京という一つのシミュラークルをどうやって一実体として捉えるか。
最も興味深かったのは、郊外化とは都市を中心のその周辺を従属させる動き、というのではなく、コンビニ的ライフスタイルを創出するための無機質な周辺環境(これを首都圏の幹線道路から「16号線的」といっている)と捉え、よって都心部の郊外化が現象として現れ始めている、という指摘だった。実際、恵比寿や品川を訪れるときに漠然と感じる薄っぺらさは感じていたが、それをズバリと言い当てられたような気がした。
加えて、バリアフリーの名の下で行われる大規模な再開発が、雑多なその街の個性を一掃するという今後の趨勢。足立区と荒川区の雰囲気の違いが一例とされていた。街が八方美人となり、穴場の店や細い路地といった隠れ家がすべてなくされること、イコール、16号線化、とすると、これはまさにシミュラークルだ。すべてが明るみに出されていて隠すところがない、しかしそれでいて薄っぺらくて捉えどころがない、という難点。
晴海などウォーターフロントの工業地帯の再開発・宅地化が、高層マンションとその生命線たるイオンの合体、というミニマムな16号線的な街となる、というのは、まさにそのため。工業地だったため道路はもともと見通しよく整備され、商店街や個人経営店舗といった住環境の歴史がない。
高所得と低所得の区分が必ずしも生活の質の上流と下流を区分しなくなった、という指摘は、ここから導かれる。チェーン店文化ではせいぜいスタバとドトールの上下関係しかあり得ない。一方で、足立区や川崎市のブルーカラー域と、23区西部といったホワイトカラー域と、居住がかなり明確に分離している。それでいて、それぞれを歩いてもさほど格差を感じさせないのはどうしてか? ここで見方を反転させて、16号線化が生活水準の差異を覆い隠す装置として機能している、としたところは、けっこう頷けた。
若林幹夫の新書と同様に、郊外の実体験から語られ始める。郊外を単に伝統の喪失とか画一化といった外からのステレオタイプで捉えられないためには、やはりそれを実体験として知っておく必要があるためなのか、それとも、郊外という摑みどころのない多元的な状況を現象学的に捉えるためには内から見つめるしかないためなのか。とにかく、そうやって大雑把に体験から語り始めることで、「ファスト風土」とかそういった保守的な批判からは距離を置いて、多角的に議論されていたように思う。だから、面白かった。
2 件のコメント:
郊外化といい資本主義といい、その運動の背後に思わず首謀者を想定したくなりますが、そんなものは恐らく居やしないんですよね。「ファスト風土」化した一地方都市に育った者として、誰恨むでもなくそう思います。
誰もこの様な現在を望んでいなかった、にも拘らず、郊外化という現象は現実に起きてしまっている。わが北キャンパスも、すっかり「清潔」になりました。
当人破滅を避けようと懸命にあがいているのに、外側から見ると、それがあたかも彼が真っ直ぐ破局に向かって行動しているかの様に見えてしまう、そこに、悲劇の本質があるそうです。
En detailに語ることが苦手なもので、えらく粗雑な記述になってしまいましたが、文章拝読させていただいて、大袈裟に言えば、「歴史と悲劇」というようなことを考えさせられました。
そう、首謀者はいないんだと思います。
資本主義、というか資本の流れがあまりに急で、一度走り出したら歯止めが効かないまま極限まで達してしまう、という構造が、事態としてあちこちに遍在しているように思います。
例えば、消費。
スーパーが出現した70年代、コンビニが現れた90年代、ネット通販が盛りの2000年代、というこの消費スタイルの移行は、明らかに全商品のコモディティ化と、場所・時刻の制約除去、の2本立てで進んでいます。この終着点が、家から一歩も出ずにパソコンの前に座る生活スタイルなのは、自明のはずです。しかし、事態が進行中のときには誰も、消費スタイルがそこまで極端になるとは予想していない。だからニートや引きこもりが今さら問題視されるのです。彼らは、市場が作った最新の消費スタイルを愚直に実践しているに過ぎません。
「真っ直ぐ破局に向かって行動している」という事態は、まさに資本主義一本槍にほかなりません。そのためにあるはずの政府や市民活動といった監視システムが、働いていないのです。
責任は万人にあると云ってよいでしょう。しかし、それは誰にも責任がない、というのと同じことです(cf.ハンナ・アレント)。これが歴史の悲劇なのかもしれません。
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