22.12.20

アーヴィング『未亡人の一年』、四方田犬彦『歳月の鉛』、原武史『「鉄学」概論』、岡本夏木『幼児期』、バーンズ『終わりの感覚』

ジョン・アーヴィング『未亡人の一年』

新潮文庫版。
上下巻だがどんどん読ませて、あっという間に読了という面白さ。

過去との和解というテーマは最近のありがちなテーマながら、
小説というジャンルにおいては宿命のテーマでもあるように思われる。

結末が息を呑むほど美しい。
ハナは間違っていた、とエディにはわかった。時間が止まるときがあるのだ。その瞬間を見逃さないように、しっかりと注意していなくてはならない。
実際この小説の主題は、時の堆積する豊かさだ。
時は流し去ってゆきもすれば、モチーフとして心に残る。


四方田犬彦『歳月の鉛』

知性の遍歴時代の記録。
知の巨人たちはすでにほぼ完成された状態で出現するので、
その成立に触れる機会は貴重だし、
その点で、もっと早くに読んでいればよかったと悔やむ。

ただ、東大生は授業ごとに講師の趣向に通じては
迎合する傾向があるのではないか、という推察から、
いろいろな意味で忌避した自分の過去は間違っていなかった。


原武史『「鉄学」概論 車窓から眺める日本近現代史』

阪急電鉄がいかに省線・国鉄に対して独立不羈の態度を取ったか、
梅田駅の変遷や逸翁美術館の収蔵品からも読み解くくだりは面白かった。
西武沿線の団地開発と左翼運動において、
ソ連視察を経た日本住宅公団が平坦で同質的な風景にこれまた画一的な団地を建設する、
この阪急や東急とは違った結果論的な街づくりの帰結もまた、あまり語られないだけに面白かった。
新宿駅の変遷は著者の幼い視線を通して共感できるものだったし、
「順法闘争」へのサラリーマン暴動は日本の社畜精神の根強さだと思うと気持が暗くなった。
都電から地下鉄への近距離交通手段の移行は、
確かに半蔵門をはじめとして東京のイコンを実体から記号へと変えただろう。

著者は箕面の下で四方田犬彦を挙げたり、
『滝山コミューン一九七四』を著したり、
同じ勤務先でもある四方田犬彦を意識しているのではないか、とふと感じた。


岡本夏木『幼児期 子どもは世界をどうつかむか』

子どもの主体が世界とその媒介たる大人をどう捉えて把握するか、
その観点に徹して記され、
その点で、躾、遊び、表現、言葉についての議論が展開される。
外形的な出来や不出来に捉われず、その奥にある眼差しを捉えよ、と著者は説く。
つまり、アウトプットにこだわってはならない、と。
この考え方は、成果主義に根深く律せられた現代社会に生きる身に非常に難しい。

この視座の奥には、井深大『幼稚園からでは遅すぎる』の説く早期教育への懸念、
過程を大切にして見守ってゆくことの大切さがある。
例えば、三、四歳頃の表現活動について、こう語られる。
まだ長時間表現にうちこむことは稀としても、好きな活動にはかなり没頭し、表現活動の中で時間を忘れ、我を忘れることが出てくるのもこの時期です。それは「忘我」というよりも、最高度に自己の全体を発揮している行為主体としての姿であると言えるかもしれません。この過程の経験、それは人間のもつ全体性、身体性や情動感覚やイメージ、自他の関係、状況性、文化性が不可分なまま一体化してそこに参入してきている、原初的な体験に他なりません。[…]このように、過程そのものが結果とは一応独立したところで意味をもってくる経験には、表現の場合に限らず、その後の子どもの生活、いや一生にわたって、いろいろな形で遭遇することになります。(p.127)
子どものふるまいはすべて、自らの外部と、
いやそれだけでなく自分の内との干渉下での臨機応変な対応であり、
それ自体が目的的なものである。
その観点から面白いと思ったのは、表現に関する言及で、
幼児にたとえば、誕生日のケーキを前にして女の子が喜んでいる場面と、泣いている場面を与えて話を作らせると、後者の場合の方が圧倒的に豊富な創造を含んだ物語を生み出してゆきます。つまり常識的な場面より、それを矛盾する場面での方が、その矛盾を埋めるべく表現力や想像力が動員されるわけです。(p.137)
学習と経験によって大量のノウハウを身につけた大人には無い緊張感を、
子どもは持っている。想像力とはそういうことなのだ。

子どもは育てるのではなく育つのであり、大人は環境として関わるのだ。
この役割を親は忘れてはならないと思う。


ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』

時とは何か、老いとは何か。そして、老いた身にかつてあった過去とは何か──。
確かに過去を生きたはずなのに、指の間を落ちてゆき消えるような哀れで惨めな感覚。

主人公は恋人に乗り換えられた友人を呪詛した、
そのかつての若い過ちに老いてから気づく。
ふと投げた言葉が人生全体を暗く覆い、身に降りかかる、
この因果律はオイディプス王をも思わせた。

5.11.20

加藤治郎『短歌レトリック入門』、柳田國男『地名の研究』、ロブ=グリエ『消しゴム』、矢野健太郎『数学の考え方』、四方田犬彦『ハイスクール1968』『先生とわたし』、山折哲雄『教えること、裏切られること』

加藤治郎『短歌レトリック入門 ──修辞の旅人──』

ここ十年ぐらいだろうか、短歌の技巧性に心を奪われてきた。
たやすく時空を歪ませ、思いを冴え冴えとさせ、生死に架橋する。
その技巧性を知りたかったし、文学一般へ流しこみたいとさえ思った。
それでも、名歌はそれ自体として成り立っていて、技巧に負うものではない。
そのもがき苦しむ先にやっと短歌は成るのだと、よくわかった。

宇宙とふ無音の量を思ふときわれ在ることの〈声〉のごとしも
大塚寅彦『声』
という歌があって、震えるような感慨に見舞われた。

柳田國男『地名の研究』

地名を探るのに字名をまずとらえるべきという考え方はまったく首肯するところだが、
不思議と指摘されなければ気づかない。
現代、字名は地番表示でわずかに意識されるか否かの境にあるし、
それを書いた粗雑な住居表示はのっぺりと地図を一色に覆うためだけにあるかのようだ。
それにしても、その由来を問う洞察の深さには驚かされる。
何度読み返しても新鮮に読めそうな、あまりに情報の多い論考だった。

アラン・ロブ=グリエ『消しゴム』

光文社古典新訳文庫版、中条省平訳。
センセーショナルな文学作品という文学史的位置づけにしては異様に読みやすくて、
正直、拍子抜けした。そして、面白さに引き込まれた。

モノの細部のわずかな差異がいつの間にか大きな裂け目となって、
主人公と読者を引きずり込む、そんな印象の読後感を持った。
カフェの主人が小説の結末で失語に陥る様子、
これはまさに人間が機械となる暗示でもあれば、
どこか円環的な不気味な印象でもあった。


矢野健太郎『数学の考え方』

講談社学術文庫版。
子どもが2歳にして数学の絵本に夢中なので、
自分も教養程度の数学史は頭に入れておこうと読んだ。

非ユークリッド幾何学や仮定法は、中等教育の数学で教わった記憶がないので面白かった。
一方、現代数学については歴史を触れる程度で、物足りなさを感じた。

四方田犬彦『ハイスクール1968』

新潮文庫版。
おそらく自分は2003年の文芸誌『新潮』に初出が発表されているのを見ている。
手に取っていながらも、読んでいなかったことが悔やまれる。
当時の自分はまさに高校生だったからだ。
あるいは、読んでいたら自らの境遇に失望したかもしれない。
概して知の営みを欠いて受験勉強に邁進するという愚かな高校に沙漠を感じていたし、
時代のダイナミズムもなければ作者ほどの読書量も無い、
圧倒的な敗北感に恥じ入ったかもしれない。
いずれにせよ、当時に読んでいれば、進学先に東京を択んだかもしれない。

読んでいて、自分も遅れて夢中になった著者や著作が散りばめられていて楽しかったし、
ともかく羨ましい、その思いだった。
自分は我が身を糾すような高校紛争を経ていないし、類する機会もなかった。
まったく、自分は高校時代、生半可な読書に勤しんだ以外、何もしていなかった、
そう突き詰めざるを得ない。


四方田犬彦『先生とわたし』

これも新潮文庫版。
分析的かつ軽やかな文体が好ましくて、次作にあたった。

私は大学院に進学していないが、
仮に院生だったことがあったとしても、
由良君美と四方田剛己のような師弟関係は得られなかっただろう。
そもそも、現在において、
人間関係といいFDといい自己評価だの認証評価だのに雁字搦めの大学という場で、
師弟関係はあり得るのかさえわからない。

知の巨人に直に触れ、それでもなお焼き尽くされずについてゆく著者の能力に驚く。

山折哲雄『教えること、裏切られること 師弟関係の本質』

講談社現代新書。
前掲書に挙げられていたので読む。

確かに、師弟関係とは、最終的に裏切られることを前提としている構造だ。
俗にもいうではないか。弟子は師を越えなければならぬ、しかし師は弟子をして簡単にその頭上を越えさせてはならぬ、と。(18p)
その攻防がさまざまな師弟関係、いや生々しい人間関係に転移する。

18.8.20

クルコフ『ペンギンの憂鬱』、隈研吾『負ける建築』、高坂正堯『文明が衰亡するとき』、小林恭二『短歌パラダイス』、ウエルベック『セロトニン』、鄭義『神樹』、オースター『トゥルー・ストーリーズ』

アンドレイ・クルコフ『ペンギンの憂鬱』

主人公ヴィクトル、うつ病のペンギンのミーシャを中心に、
小市民らしい静かな生活が楽しく、やや物憂げに過ぎてゆく。
その背後で、関わりのある人たちが死んだり失踪したりし、
ヴィクトルの生業とする殺人予告めいた追悼記事がいったい何なのか、徐々に明らかになる。

確かにそこにあるはずの日常を人が暮らしているのに、
その当たり前が地に足のついていない宙ぶらりんで揺れている。
ヴィクトルは徐々に擬似的な家族のようなものに囲まれ、
それはままごとのようにどことなく楽しげだが、
それは単なるシェルターであって、結局は崩れる。

真実を知ったことでヴィクトルは自らを流刑に処するが、
語り手は真実への欲求を否定も肯定もしない。
ただ淡々と、なりゆきとして描く。
この口調の静けさは、因果をどうしようもなく抗いがたいものとして呈示する装置のようだ。
どうしようもない世界がわれわれの終わりのない日常に接続するきっかけが、
嘆息さえできない受け身な態度にあるかのように。

ペンギンは天皇だと思った。
自由にペタペタ動き回りながらも自由は無く、
大切にされながらも語り合う相手を欠いて、
ただペンギンとして持ち上げられ、ただ世界を哀しむだけの存在。

隈研吾『負ける建築』

ミース・ファン・デル・ローエとル・コルビュジエは当時の建築の権威の外から登場し、
中産階級向けの郊外型個人住宅を武器として、20世紀の建築界に君臨する。
一世代前の表現主義を否定し、構成主義をも取り去り、周囲を圧倒してそれ自体で屹立する。
そのような建築は20世紀の中産階級の拡大と結託し、
商品そのものでありながら広告として流通した。

デ・ステイルの空間調和が美学的に優れていながらも結局は旧テクノロジーの域を出ず、
ミースに負けたというところは、
ちょうど国立国際美術館の「インポッシブル・アーキテクチャー」展で
エーリッヒ・メンデルスゾーンの「アインシュタイン塔」などの
不思議な優しい空間美を見ていたので、合点がいった。

蛇足だが、本著の必要以上に断定的な語り口は、
著者もまた広告的な建築家であるという一面を垣間見させる気がした。

高坂正堯『文明が衰亡するとき』

新潮選書。
もとは1981年の刊行。
アメリカの"現代"の衰退を描く視点がいかにも鼻につく"日本 as No.1"であって、
隔世の感を覚えずにいられない。
現代を早々に総括することの危険性がよく例示されている。

3つのテーマの残りはローマとヴェネツィアで、
ローマはギボンを依拠して書かれたところが大きい。
一方、ヴェネツィアが小さな都市国家ながらいかに大航海時代に君臨したか、
そのくだりは非常に興味深かった。
強力な政治体制でありながら、腐敗と恣意性を排除するためくじ引きが組み込まれており、
国家や政治は人為的というより人工的なものである、という、日本では得難い示唆を得た。

小林恭二『短歌パラダイス ─歌合 二十四番勝負─』

岩波新書。
1996年3月30日と翌31日の熱海での歌合のドキュメンタリー(?)だ。
岡井隆や高橋睦郎のような当時としても大家がいて、
当時はまだ若手だろう穂村弘や東直子も加わっている。

歌合なので、歌人たちのよる合評がおもしろい。
口角泡を飛ばすような白熱が、よくわからないがおかしな掛け合いも生むが、
はっとするような解釈をも引き出して、短歌を味わうための指南にもなっている。

家々に釘の芽しずみ神御衣のごとくひろがる桜花かな
は大滝和子。
本著でも絶賛されているとおり、やはり唸るような味わいがあった。
「妻」という安易ねたまし春の日のたとえば墓参に連れ添うことの
は、俵万智。
二句の静かな感情の荒れが、その作風とあまりにかけ離れた感じもあって、驚きだった。
水原紫苑が(美しいのだが)ぎりぎりよくわからない歌を詠んでいて、人物が見えた。

ミシェル・ウエルベック『セロトニン』

フランス人中年男性の研究職の人間が自己失踪して、
過去をめぐりながら、そのどこにも行き着けずに郊外で孤独な自己延命に落ち着く。
主人公のモンサントに勤めていた過去や、
有機農業に従事するものの採算が合わずに破滅的な最期を迎えるシーンなど、
グローバル経済が随所に散りばめられていて、
自由とへの強い懐疑がテーマとしてある。
が、自分がもっとも心に焼きついたのは、
かつての恋人でいまはシングルマザーとなったカミーユの居場所を突き止め、
その子どもを湖の対岸から銃殺しようとするシーンだった。
ウエルベックの小説では、世代間の絶対的な不和がよく現れる。
自由経済の世界を切り拓いたゆえに親世代を唾棄しているかのようだ。
親世代がどうしようもない世界を相続することで、子世代を嬉々として苦しめる、
その構図の連鎖が続くことをなんとか耐える、という、
おそらく本著で唯一の温かい結末に思えるからだろう。
それでいて、あまりに寒々しく、物哀しいのだが。

鄭義『神樹』

神樹が花を咲かせ、村での中国の近現代史が語られる。
それが最終的に権力によって切り倒され、村は跡形もなく消え去ってしまう。
歴史と物語は、権力によって語られることを禁じされているらしい。

さまざまなエピソードがどれもどぎつくて、読み応えがあるのに疲れてしまう。
子どもを生き埋めにする話、
木に吊るされた地主階級の身体が潰れてもなお牛のような目が睨んでいる話、
言い間違えが支部書記を一瞬にして革命敵に変じる話、……。
あとがきで作者が、どれも多かれ少なかれ現地で聞き取った事実だと明かしていて、
そのことに驚いた。神樹さえも。

ポール・オースター『トゥルー・ストーリーズ』

偶然が織りなすできごとの描写はどれもよくできた掌編のようだし、
半生を語る文章もまた面白い。

オースターの常で、あっという間に読み終えた。
柴田元幸の訳の巧みさからか。
そして、オースターの文体は小説でなくこのような文章でも同じで、
人物描写が前面に出てからストーリーはエピソード的に語られる。
特徴的な場面が散りばめられ、感情と分析がそれを把握し説明する具合だ。

19.4.20

尾崎翠「第七官界彷徨」、アガンベン『例外状態』

尾崎翠「第七官界彷徨」

優しい雰囲気と心理戦のある内田百閒作品、といった読後感だった。
ストーリーがあるようで無く、読み返せばおそらく楽しい、
そういう叙事詩のような小説だった。

ジョルジョ・アガンベン『例外状態』

例外状態がいよいよ始まろうとする3月下旬の三連休、
梅田の人出の多さに行く末の恐ろしさを案じつつ書店で見つけ、
その後、入手し、辛くも読み切ることができた。
とはいえ、3割も理解できていないだろう。
以下、断片的なメモ。

第2章までで、例外状態における法秩序がいかに
例外状態を掌中に入れて操作対象とするかが、示される。
例外状態に関して決定することのできる主権者は、例外状態を法秩序に繋留することを保証するのである。しかしながら、ここでは決定は規範の無化そのものにかかわっているかぎりで、すなわち、例外状態というのは外でも内でもないひとつの空間(規範の無化と停止に対応する空間)を包含し捕捉することであるかぎりで、「主権者は、通常の状態において効力を発揮している法秩序の外にある(steht ausserhalb)が、しかしまた、憲法が全体として停止されうるかいなかの決定に責任を負っているために、その秩序に属している(gehört)のである」(ibid., p. 13)。
 法秩序の外にあり、しかしまた法秩序に属している。これこそは例外状態の位相幾何学的な構造である。(p.70)
第4章の、ベンヤミンの「暴力批判論」とシュミットの『政治神学』の対比は、
非常に面白かった。
あらゆる法的問題の最終的な決定不能性というベンヤミンの考えへの返答として、シュミットは極限的な決定の場所としての主権を主張するのである。(p.110)
引用以下、ベンヤミンの文章を精緻に分析する作業が、
ベンヤミンとシュミットの論争の行方そのものへ帰着するという、
ダイナミックな地の営みが開示されていて、読み応えがあった。

古代ローマの法停止「ユースティティウム(iustitium)」が服喪と同一化したこと、
カーニヴァルが古代の追放や迫害という制度の残余であること、が紹介され、
法は対立するはずのアノミーと手を組むことで生を包含していることが明かされる。

最終章「権威と権限」では、
古代ローマの元老院が権限を有さず権威によって君臨した事実を傍証として、
権限が権威によって効力を持つということが示され、
メタ法的、アノミー的な「権威」と、法規範としての「権限」の二元が、
まとめとして集約、定義される。

最後に。
法律は欠缺を有しうるが、法=権利は欠缺を認めないとする原則からの類推で、例外状態も公法におけるひとつの欠缺というように解釈され、執行権力がその救済策を講じる義務を有するとされるのである。司法権力にかかわる原則が、こうして執行権力に拡張されるのだ。[...]ここで言われている欠缺は、裁判官によって補充されるべき立法文書における欠落にかかわるものではない。それはむしろ、法秩序の存在を保証するためになされる現行の法秩序の停止と関係しているのだ。例外状態は、規範の欠缺に対応するためにではなく、規範の存在と通常の状況へのその適用可能性を救済する目的で、法秩序のなかにひとつの擬制的な欠缺を開示しようとするものとして現れるのである。欠缺は法律に内在しているのではなくて、法律と現実との関係、法律の適用可能性それ自体と関係したものなのだ。(p.64)
この展開、柄谷行人みたいで、わくわくした。

13.1.20

谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』、タタレッラ『Natural Architecture Now』、矢部史郎『夢みる名古屋』

谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』

循環小数のような小説。
谷崎潤一郎の状況説明的な文体が、
猫を焦点としてぐるぐる回ってゆく感じ。

フランチェスカ・タタレッラ『Natural Architecture Now ナチュラル アーキテクチャーの現在』

挙げられている構造物は、建築というよりインスタレーションというべきだ。
多くは屋根を持たないし、
建築としての最低条件たる空間を区切る役割さえ十分に果たさない。
しかし、それゆえに、建築に対する異議申し立てのように語る。
それが面白かった。

特に、アルネ・ケーンズによる木材組みのインスタレーションは、
最後に火を放たれて燃える、という作品だった。
建築が静ならば、ナチュラル・アーキテクチャーは動だし、
剛に対して柔、永に対して瞬だ。
そこには、出会いのようなはかなくも強い印象がある。

矢部史郎『夢みる名古屋 ユートピア空間の形成史』

現代書館・刊。
あとがきで筆者が述べているように、都市論だ。
日本の、あるいは世界中の都市が、
どのように人間に対して構成されてきたかを分析する。
都市の成分を三つの地層に分解すること、すなわち、近代都市計画・モータリゼーション・ジェントリフィケーションを、それぞれに独立した系として考察することは、[...]。そして名古屋の都市構造が、この三つを非常に見えやすい状態で提示していることに驚いた。(p.219)
そのなかでも、日本的な近代化を端的に示していると思われたのが、次の一節。
ここでは、近代化によって近世的なものが崩されていくのではなく、反対に、近世的なものを束ねることによって近代化がめざされていく。近世的な社会と意識が払拭されることはない。近世は保存されながら、近代性へ統合されていくのである。内務省と産業資本が近世的意識を統合し、都市開発と兵器生産に没頭する。行政と産業資本、小地主、小ブルジョアジー、産業労働者、そして軍部が、有機的に結合していく。ファシズムの時代の標本ともいうべき構図が、名古屋にはあらわれていた。(p.41)
マルクスが「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」で引用した、
ヘーゲルの「歴史は繰り返す。最初は悲劇として、2度目は喜劇として」を思わせるが、
日本ではやや違っていて、繰り返すのは歴史ではなく近世だ。
古臭い存在が鵺のように生き延びて、
時代時代に合わせた夢を見るようにして歴史を生成する。
天皇制がまさしくそうだし、財閥の存在もそうだ。

小牧インターチェンジを議論の端緒として、
工業化の内陸化と不可視化を論じる議論は、面白かった。
1978年12月に発生した口裂け女の怪談が、
異常な緊迫感を持って全国に波及する、その裏づけとしての、
人ではなく車を尺度として構築された街の行き場のなさは、
思わず頷かされた。

『古川ロッパ昭和日記 戦前篇』、『同 戦中篇』、柏木惠子『子どもが育つ条件』

『古川ロッパ昭和日記 戦前篇』『同 戦中篇』

戦時中の暮らしというものがどうだったのか、
その生の声を知りたくて、読む。

物資統制中は大変な思いをしながらも、
それでもかなり良い暮らしをしていたとは驚き。
昭和19年や20年でも、常食でないにしても白米や卵を食べ、
麻雀やポーカーに興じているとは。
知名度にものを言わせて慰問で物資を稼ぐなど、
庶民からすれば苛立ちの種だろう。
もっとも、その時代は臣民一人ひとりに逞しく生きるよう強いた、
その喜劇役者としての一例にすぎないのかもしれない。

年を経るにつれて、敗戦色が濃くなってゆくのが興味深い。
喜劇を弾圧する内務省当局の行き当たりばったりな対応はさながら悲喜劇。
報道が連合国側の動静を知って、
1945年初めにすでにおぼろげに敗戦を予期していたらしいとは驚いた。
もっと言論統制と防諜が効いていて、
そのようなことは話せなかったものと捉えていたが。

いずれにしても、戦時とはいえ、同じ人間が日常を引きずって生きていた、
その普遍性に戦争をかぶせて初めてわかる、その虚しさ。

『戦後篇』『晩年篇』を読み残している。
ちびちび進めながら、今度は戦後の混乱と復興を眺められるぼが楽しみ。

柏木惠子『子どもが育つ条件 ──家族心理学から考える』

岩波新書版。
内容は、「子どもが育つ」というより「大人が育てられる条件」であり、
すなわち、男性の長時間労働と家庭不在への指弾が多い。
2008年初版からここ10年余りで、
男性の育児休業取得にまつわる状況は改善しただろうが、
抜本的には変わっていない現状が見て取れる。

「「先回り育児」がもたらすもの」という章は子育てへの即効性ある智慧であり、
読んでいて納得させられた。
年齢よりは早く習いごとに通わせるより、
子どもに応答的であることが今後必要である、ということ。

2008年初版ということで、10年前の刊行だが、
小学校での英語教育という愚策を許す社会にあって、
その警鐘はより人口に膾炙してしかるべきだと思う。


24.11.19

今尾恵介『地図で読む 戦争の時代』、山口創『子育てに効くマインドフルネス』、高橋惠子『子育ての知恵』、中村隆英『日本の経済統制』

今尾恵介『地図で読む 戦争の時代 描かれた日本、描かれなかった日本』

都市を焼け野原と化しめた空襲はもちろんのこと、
戦時改描、不要不急線、建物疎開、軍事施設の戦後利用など、
ある程度の知識はあった。
が、地図が実際に証拠づけている様子が解説されるのは、
上意下達と現場の当時のせめぎ合いが浮かんでくるようでもあった。
また、朝鮮、台湾、満洲といった“外地”の地図では、
租界や出自ごとの地割といった大日本帝国の論理や、
移住者の郷愁の滲む都道府県名の字名など、
日本人によって遠慮なく振りかざされた痕が露骨に残っていて、
日本人の気質が気恥ずかしいほどよくわかる気がした。

著者の文章は直截で澱みなく、読み物としてもスラスラ読めて面白い。


山口創『子育てに効くマインドフルネス 親が変わり、子どもも変わる』

光文社新書ということで手に取って読んだが、
スピリチュアル系の香りが立つ。
目の前で起きている問題を客観視し整理するには役立つかもしれないが、
どうコミットするのかは考慮の外に置いている。
気の持ちようとしての参考にはなるかもしれなかった。


高橋惠子『子育ての知恵 幼児のための心理学』

岩波新書。
タイトルのとおり、子育ての折々で参照したいような一冊だった。

ボウルビィの「愛着」概念と社会での誤った受容は、勉強になった。
幼児の人間関係の多重性については、
やはり子どもも人間であり、社会的存在なのだ、と感心し、
親権を振るうべき対象ではなく個として尊重するべき、という
当たり前のことを改めて実感した。
「あなたの子どもは、あなたの子どもではありません」という
デンマークの標語が紹介されていて、
その人権意識はまったく日本に欠けるものだ。

「母親が一番」といった根強い母親神話や、
「三つ子の魂百まで」という俗説まで、
科学的な知見を以て冷静に分析し、断じている。
これこそ社会や政治への科学の面目躍如、と読んでいて痛快だった。


中村隆英『日本の経済統制 戦時・戦後の経験と教訓』

『古川ロッパ昭和日記』を読み進める上で、
戦時中の経済体制について知りたくなり、読んだ。

金本位体制での国際収支の均衡という制約のなかで、
軍備拡大のために経済統制をする、というポスト大正期のイデオロギーが、
いかにして机上で練られたあげく陸海軍省の権威とともに実現され、
民需を圧迫して破滅していったか。
裏から、石原莞爾の「世界最終戦論」と、米国不参戦と、
根拠のない前提が雰囲気的に蔓延していた、という思考停止状況も手伝う。
経済統制は画一的で徹底的であり、その描写は笑ってしまうほどだ。
先祖の身に起きた災難を笑うのは、哀しむべきことだが。

米の配給制度が初めて貧農層にも米食を行き渡らせたことは知らなかった。
また、戦前の組合運動が産業報国会という労使協同の談合組織として
事業所ごとに組織され、それが戦後に労働組合となったとも、知らなかった。
戦後の重工業化や食管法など、戦時中の名残の制度は知っていたが、
管理通貨制度や指定金融機関制度、下請け制度、
年功序列や終身雇傭もそうとなれば、
経済という有機体が戦争を経ようともいかに連続した営みであるか、
改めて驚かされる。

話はそれるが、読んでいて感じたことは、
官僚というのは優秀な集団だとしても所詮は権力の両腕でしかなくて、
善行も愚行もとにかく精密に遂行する連中でしかない、ということ。
もちろん、官僚機構は行政を執り行ういわば歯車であって、
議論や内部監査といった思考をする場ではないので、当然といえば当然だが。

ちくま学芸文庫。
もとは、石油二法へのアクチュアルな問いとして、
1974年に日経新書として刊行されたもの。
巻末には資料として、
国家総動員法の条文や、経済新体制確立要綱などが付録されている。
およそ半世紀前、高度経済成長末期の日本人は働くサルのイメージだが、
新書がこれほどの知識の厚みのある書物を以て世に問うとは。

19.7.19

鳥居『キリンの子』、ウエルベック『ランサローテ島』、クッツェー『モラルの話』、五十嵐泰正・開沼博『常磐線中心主義』、町田康「記憶の盆踊り」「少年の改良」

鳥居『キリンの子』

壮絶な生い立ちの歌人という怖さから、
手許に置きつつもページを開けなかった。
詠み手は自己から乖離して、自分の身体を遠方から見つめている、
そのような歌がほとんどだった。
それでいて、その視覚はまっすぐなあまり私情がない。
心理小説の掌篇のような歌だ、と思った。

入水後に助けてくれた人たちは「寒い」と話す 夜の浜辺で
(p.8)
死のうと入った海は暖かかったのだろうか。
陸はもっと凍えるようなところだったのだろうか。
そう問いたくて垣間見ようとする詠み手の心理が、
まったく閉ざされている。

だが、読み進めてゆくと、徐々に詠み手に感情が灯ってゆく。
私は、その熱のような実感が、このひたむきな歌人と歌集の訴えであり、救いだと感じた。


ミシェル・ウエルベック『ランサローテ島』

旅行先での淫交は『プラットフォーム』に似た筋立てだし、
救済が宗教へつながる結末は『服従』に近い。
いずれにしても、読むとある意味でスカッとするが心がささくれる、
ウエルベック節が全開の小説だった。


J・M・クッツェー『モラルの話』

クッツェーはかくも対話を描く作家だったか、意外だった。
それにしても、モラルなのか、
あるいは「節度」というべき何かなのか。
人が人とわかり合うとは、何なのか。


五十嵐泰正・開沼博責任編集『常磐線中心主義(ジョーバンセントリズム)』

常磐線を通して他の線路よりも語りえることがあるのだとすれば、それは「語られてこなかったこと」だ。[...]一言で言うならば「未来のなさ」ではないか。[...]常磐線に何か未来はあるのか。常磐線の路線自体もそうであるし、その沿線の地域についてもそうだ。
(p.289〜290)
開沼博による終章のまとめが、この一見雑駁な論集に、
不思議と通底する何かを浮かび上がらせている。
そう、南千住、柏、水戸、日立、泉、いわき、内郷、富岡の
各駅についての論文やコラムは、
各地域の精いっぱいでちっぽけな特性を描いている。
それらは、振り回されてきた主体性のなさであり、
そうせざるをえなかった立ち位置、とでもいうべきか。
その三者三様のありさまは、結局のところ先行きのなさへ逢着する。
そして、この空気は、まさに現在の日本、いや先進国じゅうで感じられるものだ。

社会が一体性を喪い、ゆっくりと解体して、ばらばらに漂ってゆく感じ。
まさに、町ごとに異なるその解体の経過が、この論集は語っていたように思う。


町田康「記憶の盆踊り」「少年の改良」

Amazon kindle版。
どちらも語り手が揺らぐ筋立てで、初期短篇のようだと思った。

5.5.19

2018年夏/安部公房『人間そっくり』、谷崎潤一郎『細雪』『蘆刈』『吉野葛』『金色の死』、バルザック『暗黒事件』、タブッキ『レクイエム』、ウエルベック『服従』、矢作俊彦『あ・じゃ・ぱん!』

昨年の夏は自分にとって、むしろ冷涼な空調とともに過ぎた。
転居という物質的な変化に始まったものの、
過ぎてみれば、心の引き裂かれる時間だった。

一方、わが小さな命は目を瞠る早さで育っている。
彼は私(たち)と周囲をどんどん飲み込んでいる。
成人して何を吐き出してくれるのか、恐れつつも楽しみだ。
が、結局は私(たち)と周囲が培ったものと肝に銘じる必要がある。

人生とは所与の時間であり、どう満たすかでしかない。
その半分は喪われた。残りを何で満たせるだろう?

9.6.18

田川建三『歴史的類比の思想』、ガンジー『ガンジー自伝』

田川建三『歴史的類比の思想』

田川建三の鋭さとは何かというと、命題を読み解く裾野の広さと洞察だと思う。
一つの問題を考えるとき、周辺や類型をも大きく汲み取る。
一般化するも、それが原則ではなくイデオロギーであることを忘れない。
現代を生きるヒントとしての歴史のありようとして、
この捉え方を会得したいものだ。

「原始キリスト教とアフリカ」では、
古代ローマ帝国と現代アフリカにおけるキリスト教普及を対応させて論じている。
ごく内輪で通じる弱小な母語と、
経済や社会の圏内で生活するためのギリシャ語/英語と、という言語の多重性があり、
支配階級ではない周辺民族のアイデンティティ喪失状態がある。
双方の個別の背景を述べながら、言語と民族と階級という軸で対照する。
アフリカのキリスト教が説教というより絶対的真理であり、
党派的勢力として関心を向けられている、という指摘が興味深かった。
皮肉でなく実態として政教の不可分ではないか。

「ウィリヤム」では、次の指摘がはっとさせられた。
歴史の随所に登場する法則だ。
抑圧の悲劇は抑圧の行為そのものに終るのではない。抑圧する者は、抑圧しているくせに、抑圧の残忍さを身につけることなく、清く美しく生きられるのに、抑圧されている者の方が、かえって、抑圧者の持つべき残忍さの性格までも、おのれの性格として背負いこんでしまうところにある。そして、おのれがもはや抑圧される位置にいなくなっても、身にしみついた抑圧者の残忍さは、持続する性格となって残る。[...]外部からの抑圧の構造が、内側の構造に転化される。(p.88)

「ウェーバーと現代」では、
ウェーバー研究家がウェーバーのみを礼讃する状況を指弾する。
要するに、自分たちの生きている状況の現実から問題を切り出していく、という消耗な、しかしそれをはずしてはすべてが虚妄になる作業は逃げておいて、問題意識自体をウェーバーから借りてくるという姿勢を持続している限りは、ついに翻訳屋でしかありえないし、その翻訳紹介にしたところで、ウェーバー自身をも矮小化してしまうことになるのです。(p.185)
自らが身を置いた文学研究を考えて、刃を突きつけられた心持がした。
カイヨワの同様の「文学」学批判を思い出す。

勁草書房刊、改装版。

ガンジー『ガンジー自伝』

蝋山芳郎訳。中公文庫版。
古い版なので字が小さかったが、読みやすかった。

モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(通称マハトマ・ガンディー)の、
信仰厚く心優しい少年時代に始まり、
アフリカでのインド人差別との闘い、
そしてインドでの各地での運動について、語られている。

宗教によって育まれた倫理が普遍性を帯びて、
イスラムやキリスト教のような他宗教の指導者とも通じあっている。
闘争の状況下ゆえなのかもしれないが、
普遍的な信念が宗教を越えていたからだと、信じたい
(大インド主義は実現されなかったが)。
市民運動が顔と心情を持っていた、そういう僥倖を遠目に眺める気持で読んだ。

14.4.18

タミム・アンサーリー『イスラームから見た「世界史」』

紀伊國屋書店刊。小沢千重子訳。

原題は"Destiny Disrupted - A History of the World Through Islamic Eyes"で、
チヌア・アチェベ『崩れゆく絆』(原題は"Things Fall Apart")を思わせる。
実際、物語は欧米列強による植民地と石油利権の獲得競争によって
複雑化し分断されるイスラム世界が語られる。
邦題を見ると本書は純然たる歴史書と捉えられるし、事実そのような内容だ。
が、やはり作者の語りたいは、近代以降であり、
特権階級と石油利権と米ソに分断されたイスラム世界の現状にほかならない。
というのは、作者はあとがきで、次のように述べる。
[...]近年の欧米による道徳的・軍事的キャンペーンは、ムスリムを自身の国の中で弱体化させるという定石どおりのプログラムのように思われる。西洋の習慣や法体系や民主主義というのはまるで、個々の経済単位が合理的な利己心に基づいて自主的に判断を下すというレベルまで、社会を細分化するプロジェクトのようにみえるのだ。(p.636)
この訴えは、市民社会という近現代の自明の理に対する深い異議申し立てだ。
イスラムとは宗教つまり生きることの指針であるのみならず、
共同体の指針でもあり、しかも憲法・刑法・民法でもあるから、
いかにアメリカやロシアや西欧が自由と民主主義で社会の基盤を代替しようとも、
制度が二重化してものごとが複雑化するだけだからだ。

物語はイスラム暦である「ヒジュラ暦」の元年から始まり
(併記されている西暦は622年)、
1421年(西暦2001年)の9.11までを語る。
ムハンマドの開教以前の歴史として、ペルシア帝国やゾロアスター教があり、
9.11以降の歴史としてはアラブ革命もある。
とにかく、複雑に交錯しながらも一本の歴史があって、
今という瞬間(例えば、シリア危機)があると、はっきり感じられた。
とはいえ、筋書きは進むにつれて重苦しいことずくめになってゆく。
正統カリフ時代の終焉とともに世俗派からシーア派が分離し、
さらにはイスラム世界の統治権力も複数が相対峙するようになる。
宗派、身分、民族という対立軸が複雑化してゆき、
ときに外部のキリスト教やモンゴルが入り乱れながら、
それでも、オスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国の鼎立する絶頂期まで、
イスラム世界は富や仁智、文化や科学までも華々しく誇っていた。
が、欧州列強の植民地獲得競争であっという間に切り崩されてゆき、
冷戦構造や石油利権がさらに対立を深めてゆく。

現況は、ファクターが多すぎて見通しがつかない。
イスラム原理主義はあまりに国民国家や人権保護に相容れないため、
欧米諸国や国連とまともに会話すらできない。
また、数年前に「アラブの春」が民衆からの下からの抗議として拡がったが、
不満はあれどビジョンを欠いた。
つまり、それを一つにまとめ上げる理念はなく、
ええじゃないかの騒ぎのような世直し欲求として萎みかけている。
ビジョンを求めようとすれば、イスラム史をどこまで遡って参照するかという
答えのない迷宮で、刺し違えることになる。
この袋小路はどこへ行き着くのか。

蛇足だが、我が身を省みて、日本に民主主義は根づいたのか。
民主主義が建前なら、本音として巣食っている因習とは何なのか。
昨今の政情が株価を人質に取っていまだに生きながらえている様子は憂鬱だし、
その旗印たる開発独裁さえ30年近く失政続きという体たらくで、
何がこの国の本当の心情なのか。

6.4.18

ジョン・ケネス・ガルブレイス『大暴落1929』

村井章子訳。日経BPクラシックス版。
2008年刊なので、リーマン・ショックの時期にうってつけだっただろう。

経済学史における制度派の代表的な人物として著者を知っていたが、
著作を読むのは初めて。
あまりに平易な語り口は経済学というよりエッセイのようで、驚いた。

タイトル通り、世界大恐慌の発端となった1929年のアメリカのバブル崩壊を扱う。
「ブラック・チューズデー」の常套句はまるでそれが一日の出来事のように伝えるが、
実態は、値崩れだけでもひと月もあったことは、冷静な損切りの大切さを物語る。
そして、バブルという狂乱が全体主義的な異様な空気を当然であるかのように帯びて、
その全体を突き落とす、この過程はチキンレースさながらだ。

初めは人知れず熱を帯び、徐々に耳目を集めて過熱し、
それを当然とする風潮がはびこり異見を駆逐する。
すると、崩壊が始まっても夢を無理に信じ込もうとする。
また、信用取引、レバレッジ、投資信託のようなメタな金融商品が、
カネを市場に何周も駆け回らせる手法は、
むしろ昨今のバブルと大して違わない。
このあたりは、一般則を引き出すまでもなく、
実例がそのまま後の歴史で繰り返されているように思われる。

終章は、バブルの背景を考察し、
貧富差の拡大や持株会社構造や預金保護不在などを挙げている。
それらは1929年の社会システムに特有の問題だ。
が、それらの羅列を眺めて思ったのは、
社会システムというものはある条件下において、
きちんと因果律に従って崩壊する、ということだ。
どのような要素が歯車のように組み合わさるかは、社会システムによるが。
そして、社会システムがそのように脆弱性を孕んでいる以上、
分析と補正は欠かせない。
プログラムにおけるバグにとてもよく似ている。

4.4.18

リチャード・ブローティガン「西瓜糖の日々」

iDᴇᴀᴛʜのある日常が語られる。
その書き出しは淡々と美しく、小説全体を包む静けさを象徴する。
In watermelon sugar the deeds were done and done again as my life is done in watermelon sugar. I'll tell you about it because I am here and you are distant.

町はたいてい西瓜糖でできているらしい。
無数の細い川が流れ、鱒が泳いでいる。
桃源郷のような暮らしがある。
しかし、Forgetten Worksが町外れに打ち棄てられ、
そこに魅せられた者はそこでの生活に疑問を持ち、死を選ぶ。
だが、それは主人公たちには決して伝わらない。
閉ざされた世界は美しく塗り込められて、綻びは許されない。

幸福と生とのせめぎ合いが、そこでは超克されている。
生というものの本質的な危うさが、そこには無い。
いや、墓や立像や鱒としてあちこちに死が刻印されているにもかかわらず、
生が無自覚に、空気のように充満している。
だから、幸福もまた空気のように、快いが自明であり、勝ち取るものではない。

この小説は、自我のない幸福を材に取りながらも、揶揄しない。
むしろ、そのような幸せを描き切ってしまう。
ディストピア賛歌という危うい内容なだけに、問いかけに厚みがある。

──原書で読んだ。
ずっと本棚の奥へと敬遠してきたわりには、読みやすかった。

21.3.18

夏目漱石「野分」、団藤重光『法学の基礎』

夏目漱石「野分」

教訓めいたところが「虞美人草」に近いと感じたが、同年の著作らしい。
もっとも、理想と現実の相容れなさを
やや突き放して描く漱石らしさは変わらない。

団藤重光『法学の基礎 [第2版]』

人間の主体性を重視し、市民社会の発展を願う書き口で、
地に足のついた良識派の学者という以上に訴えるものがある。
だから第一に、法が「われわれのもの」と語られるし、
「法は人間の営みである」(p.141)から、
法がつくられるニーズや駆け引き、
さらには生物学的な層、経済学的な層、といった
マルクスの上部・下部構造やフェーブルの歴史構造のようなものも説く。
部分を押さえつつ全体を見て、現実を見据えたうえで理想を目指す、
そのような、法を内部からではなく外部からも語る、
まさに法を知るための入門書としてふさわしく、読み応えがあった。
何より、法と法学のダイナミズムがよくわかった。
個人的には、英米法的な視座が体得できたように思う。

法学を訓詁学と捉えていた大学時代に出会っていたかった。

6.3.18

義江彰夫『神仏習合』、森鷗外「高瀬舟」「山椒大夫」

義江彰夫『神仏習合』



つまるところ神仏習合は、
支配階級の場当たり的で宥和的な後づけの論理によって、結果論的に形成された。
そのどっちつかずで見通しのつかないままできあがってしまった歴史は、
いかにも日本らしい。
本音と建前の併存が染みついている。

以下、内容の概要。
各地方の支配階級が私営田領主として富裕化したため、
共同体本位の呪術的な神事がもはや支配の裏づけとならなくなった。
よって、8世紀後半、雑密の遊行僧が仲立って、
土着神の仏教帰依という形で神宮寺がつくられ始める。
朝廷は、神事による支配への逆戻りはできないため、
神宮寺の公認による支配へと方針転換する。
10世紀、租税が神祇的な奉納の意味づけから封建的制度へ転換され、
王朝国家体制下の社会的、身分的な不満が怨霊信仰となり、
密教は王権を相対化する理論として後ろ盾となった。
また、律令体制から王朝国家体制へと移り変わるなかで、


王権はケガレ忌避の観念が神祇から日常生活にまで拡大することで、
貴族社会そのものを神聖化し、日本固有の祭祀観念として密教に対峙した。
その時代背景が、従来の穢れた「黄泉の国」ではなく極楽浄土を説く
阿弥陀浄土信仰と結託し、阿弥陀信仰が貴族社会に浸透する。
仏教が神道を包摂した結果、平安末以降の本地垂迹説が登場し、
日本神話そのものを仏教が前提として存続する。

神道は仏教という外圧があってはじめて体制をなした。
だから、神仏分離や純粋な神道というものは、どだい無理な話だ。
少なくとも律令期まで遡る必要があるし、
それさえ各共同体の祖先崇拝が国家-地方間に編成された論理だ。
今も昔も国家宗教は支配の論理であり、伝統が騙る裏には必ず意図がある。

岩波新書版。

森鷗外「高瀬舟」

欲望の充足と、安楽死について。
二つのテーマは、「何も持たないこと」という共通項で貫かれている。
何も(欲望も)持たないから二百文は喜ばしい貯蓄だし、
安楽死とその罰としての島流しは、此岸にしがらみがないゆえだ。
すると、持つことの二重性が問われる。
持つ者はさらに持とうとし、さらに身動きが取れなくなる、と。

青空文庫版。

森鷗外「山椒大夫」

厨子王は貧しい暮らしから、奴婢となり、僧となり、国司となる。
物語は絶えず場面を移動させ、厨子王の立場を転がし、
しかし、父母への思いだけは変わらない。
ロードムービーのようだと思った。

青空文庫版。

23.2.18

藻谷浩介・NHK広島取材班『里山資本主義』、團藤重光・伊東乾『反骨のコツ』

藻谷浩介、NHK広島取材班『里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く』

過疎地が自ら智慧を絞り、放擲されていた資源を活用することで、
市場へ流出していた貨幣流通を地域内にとどめ、
結果としてスマートグリッド的な地産地消経済が回りつつある、という。
実例として、木屑によるバイオマス発電を行ったり、
商品にならなかった農作物を、地域通貨によって地域の施設へ回したり。
地域振興という都市部による上から目線の思考ではなく、
主体的に考えて行動する、という責任感と自信がある。
どこまでも細かく分業し、市場と貨幣により抽象化される、という都市の疲弊がない。

NHK取材班による事例のみではなく、
藻谷氏による経済学的な裏づけがなされていて、説得力がある。
何より、自らを労働力と貨幣の交換する、という無機質な世界から逃れ、
人が集まって生きている、という地域圏がセーフティネットとして存在する。
そこには次世代へのヒントどころか答えがあるような気がしてならない。

「角川oneテーマ21」新書。
初版は2013年7月なので、東日本大震災から半年後。


團藤重光、伊東乾・編『反骨のコツ』

10年ほど前、日経ビジネスオンラインに掲載された両者の対談を読んだ記憶がある。
團藤重光氏が長く東京大の教員で、
元・最高裁判事なのは知っていたが、
敗戦後、刑事訴訟法を起案したというのは知らなかった。
私は法律学を訓詁学とみなしていたが、
氏は、訓詁学以前の哲学や思考から、法律に関わってきた、ということだ。
日本国憲法や種々の基本的な法律が施行される時代、
法の運用は判例によってではなく、
GHQの意向をうかがいながらも、新時代の日本への展望が息づいていた。
その時代の述懐は、興味深かった。
陽明学の知行合一に貫かれて、最高裁判事としても多数に与しない、
その生き方は、痛快だし、勇気づけられるものがある。

対談なので、話題は揺れ動くが、多くは死刑について。
アイヒマン的な凡庸さの罪が、
死刑に立ち会う教誨師に通底する、という指摘や、
1948年の最高裁死刑合憲判決が、
GHQへの忖度を含み将来への展望を語る、という紹介があって、興味深かった。

タイトルが内容と遊離していること、ときおり伊東氏の独壇場になっていること、
がやや残念だった。

18.2.18

手塚治虫『陽だまりの樹』、山本周五郎『青べか物語』

手塚治虫『陽だまりの樹』

幕政末期の武士と蘭方医の物語。
幕府のクズっぷりが笑えるが、対して現代が思いやられて凍りつく。

山本周五郎『青べか物語』

浦粕という東京近郊の漁村の観察日記めいた掌篇連作。
各章で描かれる人物はみな奇妙で滑稽ながら、生身が感じられる。
時間の感覚がとろっとして、不思議な読中感に浸る。

一年前に文学座の公演を観てから原作に興味があって、
今年で著作権が切れると同時に公開された青空文庫版で読んだ。

19.1.18

斎藤潤『日本《島旅》紀行』『沖縄・奄美《島旅》紀行』、正岡子規『病牀六尺』、村上春樹『騎士団長殺し』

斎藤潤『日本《島旅》紀行』『沖縄・奄美《島旅》紀行』

筆者は旅ライターという肩書きだが、文章が巧くて読ませる。
描写は短くもキレがあって、旅先の雰囲気や人柄を捉えている。
ときどき挿まれる写真が興ざめなぐらいだ。
だから、旅情がわくというより、楽しい旅の知らせを聞くようだった。

『日本《島旅》紀行』は、利尻島に始まり、
東京都島嶼部や瀬戸内の島々など日本中の島をめぐる。
『沖縄・奄美《島旅》紀行』は、沖縄と奄美の島々だ。
切り口は決まって、その島ならではの雰囲気や暮らし、人との交流だ。
どの島も狭い世界では決してなく、一つの宇宙であって、
豊かな歴史と文化がたくわえられている。
航路ひとつとっても外界とのありようをさまざまに規定するし、
面積や地形や、どの程度の道路や舗装があるかも、決定的だ。
食や伝統や風景だけではない観察眼が、島を富ませる。
旅は、こうありたいものだ。

どちらも光文社新書版をkindleで読んだ。

正岡子規『病牀六尺』

言葉が世界そのものだ、と実感する。
筆者が病床の一室で、苦しい闘病を強いられているにしても、
絵を愉しみ、俳諧を詠み、人と話し、新聞記事について考える、
その営みを時間に流し去るのではなく言葉にするというだけで、
子規の病床は間違いなく賑やかで変化に富んでいた。
思いつくまま句を作ってみるなんて、しかもその句のおかしさよ。
逆に、言葉を喪っては、しわくちゃの老いと病にすぎない。
その決定的な落差に唖然とする。

岩波文庫と青空文庫を併用して読んだ。

村上春樹『騎士団長殺し』

ユーモラスな異形がしばしば登場するからか、
暗闇の洞窟のような試練を抜けるからか、
読後感はいかにも『千と千尋の神隠し』だった。
村上春樹の長篇はどれも多かれ少なかれRPGだ。
主人公が特権的に自らを探究する。

語り口が読者への丁寧な説明を意識する傾向は、いっそう強まっていると思った。
章立ては短く、時系列は参照されても交錯はしない。

2.1.18

手塚治虫『奇子』、田端信太郎『MEDIA MAKERS』、荻上チキ『検証 東日本大震災の流言・デマ』、藤原智美『文は一行目から書かなくていい』

手塚治虫『奇子』

手塚治虫にとって戦後という現代は、
都市と田舎、民主化と封建、カネと正義の対立を抱えた高度経済成長であり、
どこか禍々しく歪んだ過ち、だったに違いない。
その戦後日本の象徴として、主人公はGHQスパイとして戦後に生きて帰り、
朝鮮戦争特需を境にヤクザとして金ピカな生涯を送る。
読後感の裏づけとして、昔に読んだかすかな記憶から浮かんだのが、
『ネオ・ファウスト』『きりひと讃歌』『グリンゴ』だった。

kindle版で読んだ。iPhoneの画面で漫画は読みにくかった。

田端信太郎『MEDIA MAKERS──社会が動く「影響力」の正体』

メディア業界を知り尽くした著者ならではの観点で、面白い内容だった。
特に、消費者の具体的なペルソナを描いているという業界バナシは興味深かった。
ただ、メディアの信頼の担い手が企業・組織から個人へ移行してゆく、
という主張は、やや疑問を抱いた。
結局、メディアが信じるに足りるかどうかは、是々非々だからであり、
企業・組織か個人かという責任の有限無限の違いを、
権威を感じる消費者は、強く意識していないように思われるからだ。

メディア業界の人々の文章はおしなべて似ている、
そういう印象がはっきりしたように思われる。
繰り返し、言い換えが多い。紋切り型で結論を飾る。
よく言えば、噛んで含めるよう。悪く言えば、冗漫。
加えて、小馬鹿にしたような口の悪さや刺々しさがある。
読ませるためにメリハリをつけるためのテクニックが、
瞬間的、刹那的、テレビ的であるように思われる。
言葉が発せられたとたんに萎びる消費メディアの業界の性質ゆえか。
事実や語りという本質を措いていかに惹きつけるか、の世界だからか。

kindle版。元は2012年宣伝会議刊行。

荻上チキ『検証 東日本大震災の流言・デマ』

東日本大震災直後に出回った流言・デマが多く紹介されていて、
twitterによって多くの情報拡散をして(しまって)いた記憶が蘇った。
著者は、情報需要に供給が追いついていない状況が流言・デマを生む一因とし、
流言・デマを一つずつ挙げては公式情報を以て打ち消してゆく。

が、当時、東京電力をはじめとして政府やメディアといった、
大枠の既存制度、権威そのものが、あまりに大きく揺らいでいた。
つまり、公式情報や報道は、流言・デマの火を完全に消しえただろうか。
実際、当時のように報道への疑問は、いまだに我々に蟠っているように思える。

本書は地震発生から2ヶ月後の2011年5月に、反デマの"まとめ"として上梓された。
が、"検証"と題して今なお販売されている以上は、
"正しい公式発表"と"誤った流言・デマ"の二項対立を越えて、
その構造そのものの深層を掘り下げてほしかった。

kindle版。元は光文社新書。

藤原智美『文は一行目から書かなくていい 検索、コピペ時代の文章術』

文章術として網羅的かつ細やかで、良著に思われた。
文章の本質は「ウソ」です。ウソという表現にびっくりした人は、それを演出という言葉に置きかえてみてください。
という書き出しからまず実践的。
具体的な読み手を意識せよという指摘は、
上の『MEDIA MAKER』のペルソナに通じる。

kindle版で、元はプレジデント社刊。

25.12.17

「いま東京と東京論を問い直す」、ルソー『孤独な散歩者の夢想』

門脇耕三、中川大地、速水健朗、藤村龍至、宇野常寛「いま東京と東京論を問い直す 首都機能から考える21世紀日本」

宇野常寛編集の雑誌『PLANETS』Vol.8収録の対談で、kindle版の抜刷(?)。
各論客それぞれの出身フィールドが着眼点の違いとなって現れていて、
なかなか読ませる内容だった。

文化を育む「土地」の個性(新宿、渋谷、代官山など)が喪われて
無個性な「ハコ」に取って代わるという現象と、
再開発により「建築と文化の関係だけが問題となる状況が反復する」(p.254)
という現象が、指摘されていた。
そして、後者は結局、新しい文化の創造にならず、懐古趣味にすぎない、と。
事実、渋谷ヒカリエの「8/」の残念さはよく憶えている。
容積率の緩和により、建物は一つの都市を内包して久しい
(いま、「シムシティ2000」のアルコロジーを思い出した)。
それが流行として登場し、消費され陳腐化する、その反復。
結局、それは文化(ムーブメント)ではなく、
マーケティングが散発する差異でしかない。

実際の土地性はあんがい小学校の評判のような生活インフラで決まるのではないか、
という指摘は、ちっぽけな結論のようで本質的に思われた。
強く実感したためでもある。
ただ、そうすると、もはや東京論ではない。

文化が土地や建築という場所から解放された以上、
東京が文化においていかにして可能なのか?
私見だが、むしろ、昨今の「文化」とされる社会現象とその流布をみるに、
東京が文化を装ってきたという構造が露呈したように思われる。
つまり、東京という都市の本質は本社機能であって、
それは今も昔も変わらない。
ただ、かつては文化という媒体を介して大衆に働きかけてきたが、
いまや大衆はマーケティング分析の対象としてはあまりに離散した。
よって、東京は巨大である以外に特徴のない都市でしかない。
巨大さが微細なマーケットをそこそこのサイズにする、というだけだ。
この作用は、東京の本社機能と相互関係にある。

ジャン=ジャック・ルソー『孤独な散歩者の夢想』

光文社古典新訳文庫版・kindle版。永田千奈訳。

ルソーの血の通った人間味が溢れていて、おもしろかった。
老いて孤立するということは、辛いことに違いない。
それでもなお、自らを客観視し、よく分析し、律することのできる、
そのような精神の強靱さは驚かされる。
逆境によって 、私たちは自分への回帰を余儀なくされる。自分に向き合わざるをえなくなるからこそ、多くの人は逆境をつらいものと感じるのだろう。
(2017ページ)
どんな状況であれ、いつも利己愛が人を不幸にしているのである。
(2126ページ)
歳をとってから読み返したい一冊だ。