31.3.09

小津安二郎『お早よう』、島田雅彦『自由死刑』

・小津安二郎『お早よう』

団地や建売の個性なき家屋の連なりに住むという、
資本主義なのか社会主義なのかわからない高度成長下日本の家族群像でもあるし、
挨拶って、という子供の必死で純粋で滑稽な反抗の顛末でもある。
こんなに詰め込んで90分内という密度と、それを感じさせないゆるい展開と。
噛み締めるように観てこその映画なんやろな、と。


・島田雅彦『自由死刑』

冒頭、妙にぶった口調で現代の閉塞と疲弊を語るよ、と思っていた。
途中、車谷長吉の『忌中』を、似た物語として思い出した。
彼の初期作品は社会概念の戯れ・揶揄だが
後は人それぞれの生きざまに焦点を当てて、
だから、天皇の『おことば』みたいな、政治機能と個人という天皇の両機能を
混同するようなもんを書いたりしたのかな、と思ったりもした。
終盤、そんな個々人それぞれの生きざまから
社会風刺を透けさせるというやり手さを、『退廃姉妹』とは別の切り口で見た。
「自由死刑」の語。思えば人生って、「自由死刑」。
数年から数十年の自由を、デン、と押しつけられて、
その先にあるのは例外なく死刑、というのだから、まさにそのとおりだ。

あとね、旅と、ぐいぐいひっぱる加速度。すげーおもろかった。

30.3.09

塚本邦雄歌集『寵歌變』


市立図書館に行った。
啓蒙ではなく経済効果に統べられた煉瓦作りである
(おざなりの仮カウンターだけで利用者を捌き続けた後、
 この決算期に耐震工事を終えて再開したのだから、間違いない)。

その、夥しい新陳代謝と、弛緩し切った雑文の林立する中に
塚本邦雄の歌集を見つけたときには、まるで癌だな、とにやりとした。
借りて、手許にあるが、棚に置いておけば、じくじくと反乱をしてくれたろうか?

「日本人靈歌」は、高度成長下の黒い部分をぎらぎらと照らしていて、
でも、バブル崩壊後の迷走するニッポンしか知らない私には、
その良い面も悪い面も、お祭りのような賑やかさに感じられる。


 暗渠詰まりしかば春暁を奉仕せり噴泉・La fontaine  (「日本人靈歌」より)

詰まった排水溝の汚さから、春の日の出、そして噴水へ、という流れの、
あまりに綺麗な風景、そして、日本社会の空気をそこに込めるのは塚本ならでは。
朝っぱらからそんな労働に駆り出された(おそらく)土工をも包む、
この漲るような高度成長の空気って、どうよ?
「噴泉」も「La fontaine」も「ラ・フォンテーヌ」とルビで読ませていて、
そのルフランと、漢字からフランス語への書き方の変更が、
連想の流れを異国にぶっ飛ばしてくれるかのよう。

他のどの歌も、かくもといわんばかりの着眼点と破壊力をもって迫ってくるので、
嘆息に嘆息を重ねてばかりいる。

 萬國旗つくりのねむい饒舌がつなぐ戰爭と平和と危機と (「水葬物語」より)

28.3.09

ドストエフスキー『地下室の手記』 「ライ麦畑」型物語のアンチテーゼ


今流行の新訳ではなく、新潮社版の江川卓訳。

1864年発表なので、その内容はあまりに斬新すぎたろう。
それはいいとして、気づいた点をメモするにとどめる。

Ⅱ部について。
私は、この物語の筋に、「ライ麦畑」的プロットの
原型および批判を見出だした。
類似としては、
「日常生活への鬱屈を煮詰めたような出来事」→
「彷徨、その果てにささやかな邂逅」
という、主人公の一日の筋書き。
批判としては、
邂逅が主人公にとって浄化になる(=「ライ麦畑」型物語)
のではない、という結末が提示してあるということ。
浄化は示唆されながらもなされず、
主人公が結局撥ね付けてしまうという、読者への裏切りは、
「ライ麦畑」的なある種のファンタジックな現実逃避への
警告と非難であるように、思えてならなかった
(「ライ麦畑」型の諸物語がどれも『地下室の手記』の後発なのにも拘らず)。

じゃあ同著者の『罪と罰』って? と私の思考は続いた。
「ライ麦畑」型というのは、彷徨の果ての邂逅が、
ある種の免罪符のように働き、主人公は恍惚としながら一瞬で転向する、
それゆえに、「罪と特赦」といえるのではないか。
一方『罪と罰』では、ソーニャは彷徨の果ての邂逅として機能するものの
ラスコーリニコフはシベリアへの流刑となる。
罪は恍惚的な改悛によって消滅するようなやわなもんではなく、
同じくらい重くて辛い罰によってのみ償われる。

27.3.09

ウォーラーステインへのインタビュー「資本主義 その終りの始まり」の拙訳 2

(承前)

──あなたが述べられたような、現況への前例というようなものはあったのでしょうか?

人類の歴史の中で幾度もありました。このことは、マルクス主義的見方にもあるような、継続的で不可欠な進歩という、19世紀に作り上げられた歴史像から想起されるものとは、正反対です。私としては、進歩の可能性というテーマにこだわりたいのであって、進歩の不可避性には興味はないのです。確かに資本主義は、尋常ならざる驚くべきやり方で財や富を最大限に生産するということを、ノウハウとして持っています。だが、見ておかねばならないのは、同じ過程で環境や社会に対して齎される損失の総体なのです。唯一の美点は、理性的で知的な生活を最大多数が享受できるという点です。

ところで、今日の危機に一番近くに起きた類型は、15世紀中葉と16世紀中葉の間での、ヨーロッパの封建制の瓦解、そして、資本主義制への移行です。その時期には宗教戦争とともに最高潮を迎えるのですが、王権や領主権や教会権が、最も富を蓄えた農村や都市に対して保持していた支配力が、崩壊するときだったのです。まさにそのときが、脈々たる試行錯誤と意図せざるやり方でもって、不測の解決策が打ち立てられていたわけです。その達成は資本主義という形態のもとで少しずつ理解されながら、「システムづくり」を最後に迎えるのです。

26.3.09

菅原孝標女『更級日記』、谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」


菅原孝標女『更級日記』

日常の過ぎゆく淡々たる記述なのに、
どこかしら諦観というか淋しさが漂っていて、興味深かった。


谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」

「鍵」といい、これといい、片仮名で綴られていたが、
意外にもすんなりと読めた。
この勢いに乗って『戦艦大和ノ最期』も行けるんじゃないか。
それはいいとして、谷崎潤一郎からみたら
山田詠美の初期作品なんか、まるでそっくりなのかも。
時代推移に伴う(であろう)日本人と西洋人の力関係の逆転や
視点が男か女かの相違はあれど。
もっとも、谷崎はやはりどうしてもマザコンっぽい。
主人公が老人になってもね。

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今日、仙台を訪れる最後の機会から帰浜した。
慈愛の輝き、という感じの最後だった。

22.3.09

青山真治『サッド・ヴァケイション』/再会/「人道的施設」アウシュヴィッツ

le 22 fév. 青山真治『サッド・ヴァケイション』

これ、中上健次? 主人公の名前、健次やし。
でも、中上よりも、女、という螺旋軸があって、
それがまたはっきりと「無限カノン」的な感じ。
北九州だから、港湾都市ということで、
神戸や函館みたいな荒さがあるのは、
前に文學界か何かで、対談してたのを見たような。


le 23 fév. 再会のさわり

久しぶりに会うには時間が短すぎた。
次の帰阪ではもっと得るものも多かろう。


le 24 fév.アウシュヴィッツは人道施設だった。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090319/189540/
ナチスの遵法性、経済政策としての人種政策、がテーマ。
アイヒマン実験など心理学サイドからよく云われる、
ナチスの残虐性が万人に起こりうることが、
非常によく示されていることに、瞠目した。
ナチスとは国家の暴走、
最高決定機関としての国家の暴走なのだな、と思った。
大西巨人が『神聖喜劇』で見せた「責任阻却の論理」が
これと同質であると考えるとき、
決して国家の暴走は他山の石ではない。
もちろん、国家の本質が変わっていない以上、
現代でも最重要問題として思考されなければならない。

そして、日本。
官僚制と中央集権が、当時のナチスに非常に似通っている。
ナチスは、現状打破のヒーローとして
当時のドイツに生を受けたが、
行政の根幹がすでに硬直していたために
国民の願うような情況の急変とはならなかったのではないか。
進歩には、漸進的なものしか実にならないのだ。
現在の日本のような、政治と国民生活がまるで乖離している状態は、
そのような「救世主」に暴走を許す下地であるから、
非常に危ない。
小泉人気、ヒトラー人気はその意味で同質である。
以上のことはもちろんすでに云われていることで、
『ブリュメール18日』に詳細に検討されている。

21.3.09

伊丹十三『タンポポ』、谷崎潤一郎「鍵」/国語科への提案

・伊丹十三『タンポポ』

テーマはずばり美食。
で、ストーリーの破天荒さはもちろんコメディ。
いくつかの挿話があるのが面白かった。
特に、食にまるで精通していない重役たちのエピソードと、
本篇でのものごっつう舌の越えたホームレスたちが
対比されているようで、笑えた。

数日前に観たものを、感想の書き忘れのため、ここに記す。


・谷崎潤一郎「鍵」

さて、どちらが嗾けた死亡遊戯なのか。
谷崎って、後期で「陰翳礼讃」風になってしまうまで
ほぼすべてと云ってよいほど、立場の逆転、の過程の物語だが、
これもまたそうだった。もちろん、面白く読んだ。

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急に実家に帰らざるを得なかったので、
中学高校時の国語科教材『国語便覧』を参照してみた。
谷崎の項は、「女性の官能美」「耽美派」とある。
はっきり云って、中高生には刺戟の強すぎる谷崎を
ぼかそうぼかそうとしてヘマをしている。
短篇「小さな王国」なんかは、官能美でも耽美派でもない。
谷崎は何を隠そう、「日本版SM」「倒錯」が正しい。
『細雪』『陰翳礼讃』で谷崎を代表させておくほうが
PTA的にも安心、というだけにすぎない。
ここを余すことなく中学で教えれば、
絶対に国語好きなんか増えると思うねんけどなあ…て、
親御さんどもが許すまいなぁ。

19.3.09

島田雅彦『退廃姉妹』、成瀬巳喜男『乱れる』


・島田雅彦『退廃姉妹』

「頽廃」の語は、姉妹にかかるのではなくて、
斜陽とか堕落と同様、敗戦後の占領期の日本、の意味だろうと思う。
姉妹の変化は頽廃ではなく脱皮だったし、
時代が時代でも若さ故か輝いて、
姉の西行きの旅は、あまりに雅があった。
その意味では、散る花の美しさのような日本の美があって
敗戦期の話とはまるで思えないし、
特攻隊も軍部腐敗も、官僚制の産物として笑う態度は
同じ日本の負をしかと見つめる態度として、
阿呆な耽美派右翼よりも冷静だった。
日本という文化は、どれもそうだけど、容れ物であって、
生け花とか茶道とかいう安直な上っ面ではない。
だから、闇市や占領期がそこに入ったところで、
日本式に換骨奪胎されるのだ。
だから、戦後に姉妹はアメリカを乗っ取ろうとするし、
エピローグに示されるように、姉妹は日本史に遍在する。


・成瀬巳喜男『乱れる』

乱れた場面なんてほとんどなかった。
義理の行く末をどこまでも描き切る、という感じはやはり流石。
終盤なのに、汽車に乗って舞台飛ぶしね。
清水だったのが、山形の大石田、銀山温泉まで。
高峰秀子の、翻弄されながらも哀しく耐える役柄って、いいね。
鼻にかかる話し方が、『浮雲』でも感じたが、
尾を引く過去のしがらみを背後に感じさせて、
損と云えば損なそんな役回りにぴったり。

18.3.09

夏目漱石『草枕』


枕草子草枕。回文?
いや、なんかタイトルだけ見ると似てるなぁって。

藝術の根本が耽美にあった時代だな、と思った。
シュールレアリスムも自然主義も、まだまだ新流派だったのだな、と。
でも、瞠目して観る態度は、藝術にとっては変わらない。
その意味で、単なる藝術論の随筆のようなこの小説は面白かったし、
第一に、文章の精度に酔うも心地よい。
ストーリーと藝術論が合致する結末は、鮮やかというほかない。

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ここ三日間ほど、横浜の生活に慣れ始めた気がする。
自転車にて家を出て、横浜駅西口を放浪したり、
海浜の公園で、音もない波を感じながら読書にあくびを交えたり、
県立や市立の図書館に行って開架を眺め歩いたり、
地名と地図を交互ににらめっこしながら道を誤ったり、
春だとて安い野菜を買ったり、炒めたり、煮たり。

15.3.09

吉田喜重『鏡の女たち』、夏目漱石『道草』、成瀬巳喜男『あにいもうと』


・吉田喜重『鏡の女たち』

女が鏡である。割れていても、記憶が戻らずとも、
原爆があろうと男が関わってこようと、
受け止めて生きてゆく。
ヒロシマさえ相対化されて見えてくるほど、
強さとしなやかさと、健気さがあった。


・夏目漱石『道草』

漱石らしくない。
自然主義ではないよね、漱石って? と確認してしまう。
自然主義的な切り口で、書き口は心理小説。
題材を見れば私小説。
天才文豪は何でも書けるのだな、と恐れ入った。
人間観察の鋭さは、さすが学問からその外部を見つめた漱石だ。


・成瀬巳喜男『あにいもうと』

室生犀星が原作だが、読んだっけ…?
犀星の小説はほとんど読んでいるはずだが、
ストーリーは記憶にない。
成瀬らしい愛憎の折り重なりを期待したが、
うーん…という感じだった。

ウォーラーステインへのインタビュー「資本主義 その終りの始まり」の拙訳 1

世界的な経済危機を受け、2008年10月11日のLe Mondeに、
イマニュエル・ウォーラーステインのインタビューが
Le capitalisme touche à sa fin. というタイトルで掲載された。
http://www.lemonde.fr/la-crise-financiere/article/2008/10/11/le-capitalisme-touche-a-sa-fin_1105714_1101386.html
世界システムという長期的展望からみると
今回の金融危機はどう捉えられるのか?
その点から、この記事は非常に興味深く、読む価値があるので、
邦訳し、以下に載せることにした。
ひどい訳だが、大意をとる程度には役立つかもしれない。



資本主義 その終りの始まり

──あなたは、2005年のポルト・アレグレでの社会フォーラム(「オルタナティブな世界のための12の提案」)の宣言の調印者であるとともに、オルタナティブな世界を推進する運動の提唱者とも捉えられています。ビンガムトンにあるニューヨーク市立大学でフェルナン・ブローデル研究所を設立・運営し、歴史システムや文明といった経済活動の研究をしていらっしゃいますが、現在起こっている経済金融危機は、資本主義の歴史という長いスパンにおいてどのように位置づけられるとお考えですか?

 フェルナン・ブローデル(1902-1985)は「長期持続」を時間と区別しました。人間から物質環境までの諸関係を支配するシステムが人間の歴史の中で続いてゆくのを観察できるための概念です。その諸局面の内部で時間は、さまざまな取り巻き環境の長いサイクルであり、ニコライ・コンドラチェフ(1892-1930)やヨーゼフ・シュンペーター(1883-1950)といった経済学者によってそれぞれ指摘されてきました。現在は明らかに、30年から35年前に始まった、コンドラチェフの波のB局面にあります。その前にあったA局面は資本主義社会の歴史の150年で最も長く続きました(1945年から75年)。

 A局面では、利潤は物質的、産業的あるいは他の生産によって生み出されます。一方でB局面では、資本主義が利潤追求を続けるためには、金融商品や投機に走らざるを得ません。30年以上前から、企業、国、世帯は全体的に借金をしています。コンドラチェフの波のB局面末期にあたる現在は、潜在していた凋落が現実的な問題に変わり、バブルが次々と崩壊してゆく時節に当たります。具体的には、倒産が数重なり、資本の集中が顕著となり、失業が進み、そして経済は現実にデフレの状況を経験することになります。

 しかし今日、取り巻き環境のサイクルの時節が、長期持続のふたつのシステムの間で推移しようとする時期と重なっていて、結果的にその変化を深刻化させています。結局のところ、30年前にもう資本主義システムの終局に入ってしまっていたのではないでしょうか。以前の取り巻き状況サイクルの不断の継続からこの局面を区別する根本としては、資本主義はもはや、物理化学者イリヤ・ブリゴジン(1917-2003)の云う意味での「システムづくり」に到らないということにあります。つまり、生物的にしろ化学的にしろ社会的にしろ、あるシステムが安定状態からあまりに強くあまりに頻繁に外れたとき、平衡状態に戻ることはもはやなく、分岐点にさしかかる、ということです。

 状態というものは、あるときまでそれを支配していた力にとっても混沌として手に負えないものになります。そしてシステム維持の賛成と反対が対立するだけでなく、何を後釜に据えるかという件であらゆる参与がぶつかり合います。こういうときにこそ「危機」という言葉が使用されるべきでしょう。我々は危機状況にあるわけで、資本主義が終りの始まりを迎えているのですから。

──これまでにも、結局は商業資本主義から産業資本主義の推移があったわけですし、産業資本主義から金融資本主義への移り変わりもありました。なぜ、資本主義の新形態はさほど言及されないのでしょうか。

 資本主義は雑食性です。あるときふと最重要物が利潤となれば、その利潤を呑み込みます。小さな限界利潤では飽き足らず、寡占状態を作り出すことで利潤を最大化しようとします。最近ではバイオテクノロジーや情報科学においてもそのように振る舞おうとしていました。しかし思うに、システムの現実の蓄積の可能性は、限界に達しています。資本主義は16世紀後半に出現して以来、利潤の集中する中央と、どんどん貧困化する周縁部(必ずしも地理的な意味ではない)との間で、富の差異を喰いものにしてきました。

 この点について、東アジア、インド、ラテンアメリカの高度経済成長は、蓄積費用をもはや制御できないヨーロッパが作り出した「世界経済(l'économie-monde)」にとって、抑えがたい驚異となっています。人件費、原材料、税金という三つの世界価格はここ数十年、どの地域でも強い上昇を見せています。現在終焉しつつある新自由主義的な短い期間は、一時的にこの傾向に歯止めをかけました。つまり、90年代末、これらの価格は確かに70年代より低水準でしたが、それでも45年よりずっと上でした。ところが実際は、現実の蓄積というものの末期にあたる「栄光の30年」(1945-1975)はあり得なかったのです。というのは、ケインズ主義をとった国々は資本の供給に力を注ぎました。しかし、そのときからすでに、限界が来ていたのです。

(続く)

14.3.09

信仰を司る脳(ル・モンドより、拙訳)

【原文】Le cerveau à la foi(Le Monde au 10 mars 2009より)

Des chercheurs déclarent, dans le journal américain Proceedings of the National Academy of Sciences du 9 mars, avoir localisé la zone du cerveau qui contrôle la foi religieuse. Selon leurs travaux relatés dans The Independant, la croyance en un pouvoir supérieur, céleste, est un atout de l'évolution qui aide les hommes à survivre.

La croyance en un dieu serait profondément ancrée dans le cerveau humain, qui serait programmé pour l'expérience de la religiosité. Pour le professeur Jordan Grafman, du National Institute of Neurological Disorders and Stroke à Bethesda, près de Washington, "la foi et le comportement religieux sont des traits de la vie humaine qu'on retrouve dans toutes les cultures et qui sont sans équivalent dans le règne animal". "Nos résultats démontrent que les constituants spécifiques de la croyance religieuse concernent des circuits du cerveau connus."


"L'AIRE DE LA FOI"

Les scientifiques qui cherchaient "l'aire de la foi", supposée contrôler la croyance religieuse, pensent qu'il n'y pas une mais plusieurs zones du cerveau qui forment les fondations biologiques de la foi. Le cerveau aurait évolué en devenant plus sensible à toute forme de croyance qui améliore les chances de survie. Ce qui pourrait expliquer pourquoi la croyance en un dieu et au surnaturel est si répandue à travers le monde.

La communauté scientifique, les philosophes et les théologiens sont divisés sur l'origine de la foi. Pour certains elle est d'origine biologique, pour d'autres culturelle. Des théoriciens de l'évolution prétendent que la sélection naturelle darwinienne a pu mettre l'accent sur les individus qui sont croyants et dont les chances de survie seraient supérieures à ceux qui ne croient pas. D'autres ont suggéré que la foi était juste la manifestation du phénonomène biologique intrinsèque qui fait du cerveau humain un organe si brillant et adaptable.



【拙訳】信仰を司る脳

『アメリカ科学界会報』誌は3月9日、脳において宗教的な信仰を司る領域が特定されたと発表した。The Independant誌にその成果が詳しく述べられており、それによると、高次的な天の力を信じることは、ひとが生き延びるのに役立つ発達の一つの切り札であるという。

神的存在を信じることはヒトの脳に深く根を下ろしていて、宗教経験に適合するようプログラムされていると考えられる。国立神経疾患・脳卒中研究所(ワシントン近郊ベゼスタ)のジョーダン・グラフマン教授は、次のように語っている。「宗教的な信仰と活動というのは、ヒトの生活の特徴だ。すべての文化に見いだすことができ、動物界には例がない」。「この研究成果の示すところは、宗教信仰の特定の構成要素は、ありふれた脳回路と関わりがある」。


  信仰野

宗教信仰を司るとされる「信仰野」を研究してきた科学者は、信仰の生物学的機能を形成する脳の領域は一箇所ではなく複数あると考えている。脳は、生き延びるための機会を活かす思考のあらゆる形式に対して敏感になることで発達してきたのかもしれない。神や超自然的なものをなぜ信じるのかを説明しうることは、世界中でよく知られている。

科学界、哲学者、神学者は信仰の起原について、生物学に端緒を求めたり、文化的な産物とみなすなど、意見を対立させている。進化論の理論家の主張では、ダーウィニズム的な自然淘汰で信仰ある個体を際立たせ、生き延びる機会が無信仰の個体を優越したのだという。異見では、信仰は単なる生物学に固有の現象の顕われに過ぎず、そのことがヒトの脳を適応力の高い優れた器官にしたとされる。

11.3.09

l'affectation 配属

J'ai beau avoir presque oublié l'anglais,
on m'a affecté à la section d'echanges universitaires.
英語が朧げなのに、配属は留学課となった。

10.3.09

侯孝賢『珈琲時光』、芦奈野ひとし『ヨコハマ買い出し紀行』』/郵貯通帳に黙祷


侯孝賢『珈琲時光』

自分としては、……、という感じ。
小津安二郎? いや、吉田修一か初期の長嶋有だな。
光が綺麗だったし、役者が自分まんまって感じ。
……こういうドシロウト批評って、どうなんやろうか。
私は映画好きであるより何十倍も読書好きなので、
こんな、映画というより小説的な切り口になるのは
仕方ないのかもしれへんが。


芦奈野ひとし『ヨコハマ買い出し紀行』

漫画! 久しぶりの。
しかも、耽美派。
こういう気分転換も悪くないけど、中毒には注意やね。
カフェインのようにゆっくり来そう。

------

弟が大学に合格した。
三度も住所を変えた私の歴史ある通帳が
莫迦な郵便局員によって、
四度目を手に入れる直前に、勝手に新通帳に役目を譲らされた。
望む前進と不本意の進展。

9.3.09

岩井俊二『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』、溝口健二『赤線地帯』/帰浜


岩井俊二『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』

『ラブ&ポップ』の監督だな、と思った。日常の描き方が。
端緒はどうでもええ事柄やのに忘れ得ない出来事にまで
物語が膨らんでゆく、というような流れとかが。
カメラワークは控えめやったけど、色遣いはやはり絶妙。
特に、夜のプールになずなが立てた波、とか、いろいろ。


溝口健二『赤線地帯』

こんなに衝撃的で、なのに尾を引く幕切れってあるか!?
頂点でぷっつりと切られた感じ。
まるで軽やかな擱筆を見せる小説のようだった。
そして、それぞれの売笑婦たちの身に起きる哀愁の
どれをとっても、封切られた時代背景を考えると鋭く刺さる。
下手なお化け屋敷みたいなBGMも、妙にマッチしていた。

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昨日は、生れて初めて阪急箕面線牧落駅を使った。
実家の阪急の最寄り駅なのにね。
帰宅時、何の気なしに乗った電車が終発だった。セーフ。

今日は京急の神奈川駅で人身事故、私も影響を受けた。
http://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryivmar090377/
十分か二十分程度だろうけれどもね。
妙にゆっくりと進む車窓のすぐ向こうで警官が何人も歩いていて、
最後尾の車輌の一番後ろ側に座っていたので、
おそらく亡くなった方だろう、ブルーシートが線路脇に見えた。
ゆっくりと後ずさる電車からその光景を見ながら、合掌。

8.3.09

リュック・ベッソン『ニキータ』


ボブといいマルコといい、
ニキータが駆け抜けた直後のニキータの残像を
愛でていた、ただそれだけなんじゃないかと思った。
だから、最後にいなくなってしまい、
お互い淋しくなるな、なんて云っても、
もとより少しずつ募っていた淋しさなのだ。
あ、でも、マルコは最後に追いつきかけたかな。

直前の自分を摑んでくれるひとはいても
自分の置かれた情況を理解してくれる人をニキータは持たず、
そして守秘義務ゆえに持てない。
初めて情で訴えかけたヴィクトルに決定的に打ち負かされた、
まさにそのことによって、彼女は地の果てに消える。

あんまし関係ないけど、聴き取りやすいフランス語だった。

7.3.09

帰阪、城崎、ほか近況


24日。横浜は霙、後に雪が降った。
羽田から神戸に飛び、帰阪。

2日から4日、城崎。
不本意ながら旅先に出石を含んだ。
10時から15時までを彷徨するにも、
それを収める大きさもない小さな温泉街。
温泉はどれも心地よかった。
着物も下駄も、但馬牛も、まぁ蟹も。

6日、お初天神附近にてF118号室の(?)同窓会。
提供される一品ずつの量がでかい。
種々の話のどれにも興じた。
学生時代も次第に暮れゆく。

7日、待兼山の大学図書館にて『御堂関白記』の註釈を参照。
書き下し方の確信のほかは
興味深い情報は得られず。