25.12.17

「いま東京と東京論を問い直す」、ルソー『孤独な散歩者の夢想』

門脇耕三、中川大地、速水健朗、藤村龍至、宇野常寛「いま東京と東京論を問い直す 首都機能から考える21世紀日本」

宇野常寛編集の雑誌『PLANETS』Vol.8収録の対談で、kindle版の抜刷(?)。
各論客それぞれの出身フィールドが着眼点の違いとなって現れていて、
なかなか読ませる内容だった。

文化を育む「土地」の個性(新宿、渋谷、代官山など)が喪われて
無個性な「ハコ」に取って代わるという現象と、
再開発により「建築と文化の関係だけが問題となる状況が反復する」(p.254)
という現象が、指摘されていた。
そして、後者は結局、新しい文化の創造にならず、懐古趣味にすぎない、と。
事実、渋谷ヒカリエの「8/」の残念さはよく憶えている。
容積率の緩和により、建物は一つの都市を内包して久しい
(いま、「シムシティ2000」のアルコロジーを思い出した)。
それが流行として登場し、消費され陳腐化する、その反復。
結局、それは文化(ムーブメント)ではなく、
マーケティングが散発する差異でしかない。

実際の土地性はあんがい小学校の評判のような生活インフラで決まるのではないか、
という指摘は、ちっぽけな結論のようで本質的に思われた。
強く実感したためでもある。
ただ、そうすると、もはや東京論ではない。

文化が土地や建築という場所から解放された以上、
東京が文化においていかにして可能なのか?
私見だが、むしろ、昨今の「文化」とされる社会現象とその流布をみるに、
東京が文化を装ってきたという構造が露呈したように思われる。
つまり、東京という都市の本質は本社機能であって、
それは今も昔も変わらない。
ただ、かつては文化という媒体を介して大衆に働きかけてきたが、
いまや大衆はマーケティング分析の対象としてはあまりに離散した。
よって、東京は巨大である以外に特徴のない都市でしかない。
巨大さが微細なマーケットをそこそこのサイズにする、というだけだ。
この作用は、東京の本社機能と相互関係にある。

ジャン=ジャック・ルソー『孤独な散歩者の夢想』

光文社古典新訳文庫版・kindle版。永田千奈訳。

ルソーの血の通った人間味が溢れていて、おもしろかった。
老いて孤立するということは、辛いことに違いない。
それでもなお、自らを客観視し、よく分析し、律することのできる、
そのような精神の強靱さは驚かされる。
逆境によって 、私たちは自分への回帰を余儀なくされる。自分に向き合わざるをえなくなるからこそ、多くの人は逆境をつらいものと感じるのだろう。
(2017ページ)
どんな状況であれ、いつも利己愛が人を不幸にしているのである。
(2126ページ)
歳をとってから読み返したい一冊だ。

18.12.17

バルザック『グランド・ブルテーシュ奇譚』、ジェイムズ『ねじの回転』

オノレ・ド・バルザック『グランド・ブルテーシュ奇譚』

光文社古典新訳文庫版をKindleで。
訳者は放送大学の講座でおなじみの宮下志朗先生。

人間模様を描きながらも多かれ少なかれ金がものをいうところが、
バルザックらしくて面白かった。
表題作を含めて5作品、うち4作品が短篇小説で、
いずれもストーリーは単純ながら人間描写が生き生きしている。
バルザックを読むとなれば、やはりこの語り口のスピード感、読ませる感じこそだ。
人物や心理の描写は大まかながら「ほらわかるでしょう」と想像させつ、
行動や駆け引きがさらに人物を浮き彫りにする。


ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』

こちらも、光文社古典新訳文庫版をKindleで。
土屋政雄訳。
あとがきによると難解な文体だそうだが、比較的読みやすかったのは訳者の巧手ゆえか。

屋敷に現れる幽霊と子どもたちの交流とは何か、幽霊は虚妄なのか。
謎が物語の中心に太く据えられているにもかかわらず、
謎は最後まで謎で終わり、ゆえに解釈は多義的になる。
読後の後味が、岡田利規『部屋に流れる時間の旅』を連想した。

4.12.17

テジュ・コール『オープン・シティ』

文学が都市を描く手法として、このような散文詩みたいなやり方があることに驚いた。
語り手は一人の感覚器のように、都市を歩き回り、あちこちを訪いながら、
何がしかを想い、繋ぎ、過去を去来し、噛みしめる。
その意識の流れは誰もがなじみ深く、よって追体験できる。
また、内容は個人的ながら同時代的な事象であり、つまり社会的。
かくして、語り手の個性は、都市生活と現代という場に離散し、普遍性を得る。

舞台は(主に)ニューヨークだ。
確かに、「無防備都市」という語を冠することのできる数少ない都市なのかもしれない。
ブリュッセルが対比的に、白人と移民が静かに閉ざしあう非寛容の都市として描かれる。
だが、主人公は黒人であり、アメリカとヨーロッパはグローバル社会で地続きといえる。
自らの生来の逃れられなさのようなものが、語り手に常に貼りついている。
もっとも、自らはあくまで意識というスクリーンであり副次的な存在であり、
最初の動機(モチーフ)として語られるのはあくまで都市の情景だ。
都市の諸側面が惹き起こす出来事や連想の一つ一つは物語になりかけて、
しかし「起」「承」どまり、決して「結」に到らずに語りは放擲される。
たくさんのあぶくのような答えのない問いに溺れかけて
日々の生活がルーチンで回ってゆくような、そんな切実なリアリティがある。

オープンとは何なのか? 人と人との関わりあいとは何なのか、どうあり得るのか?
何百万人の他人の中から、ほんの些細な共通項で
数人とつながる自由(という束縛?)を誰もが有する、
そんな無防備さで成り立つ都市なのか。
都市はもとより商業ゆえ成立し、現代は都市人口は世界人口の過半数に及ぶ。
複雑な網の目の一つのシナプスとして生きる厖大な個々人が都市に暮らすが、
それがどういうことなのか、考えさせられる。

4.11.17

NPO法人ファザーリングジャパン『新しいパパの教科書』

今週で仕事に区切りをつけて、昨日から約一年半の育児休業が始まった。
とはいえ、子は産まれていたし、嫁は退院していたから、
育児休業のほうが育児のあとから追いついたという実感だ。
さらに遡れば、だんだん大きくなるお腹のそばにいたし、出産に立ち会った。
育児休業の始まりにだけ区切りの実感があるはずもなく、
ここまで来たという道半ばの心地だ。
子育ての始まったばかりの今でさえ、2ヶ月のエコー写真で見た小さな姿や、
出産立会いでとうとう聞けた産声をしみじみ思い出しては涙ぐむ。
この先、たくさんの一つずつを経験して、あっという間なのだろう。

NPO法人 ファザーリング・ジャパン『新しいパパの教科書』

長期休業の最後に読んだ本となった。
子どもにとって、母親にとって、会社にとって、地域社会にとって、
という多元的なアイデンティティとしてのマニュアルだった。
特に地域社会との接点について、ぜひ積極的に関わってゆきたい。
「子どもは地域社会へのパスポート」(p.158)とはよく言ったものだ。

述べる内容はあくまで子育てをする父親の理想像にすぎないかもしれないが、
従来のパパ像へのアンチテーゼとみれば、強力な異議申し立てになっている。
従来のパパ像はどこへ巣喰うのか? 本人の胸のうちにほかならない。
実際に育児休業を取ると決めてからここまで、びっくりするほど風当たりは無かった。
あるとすれば、"何か"の顔色を伺って後ろめたいと感じている自分自身でしかない。

25.10.17

斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』

短歌研究社刊。斉藤斎藤の第二歌集。
2004年から2015年までの時系列で、収められている。

初めのほうは第一歌集と同じく、
日常の一コマが自我を無意識から掬い上げて揺さぶるような歌風だった。

が、2005年の途中あたりから、主題が社会的になり、
詠み手の心の余裕がなくなってゆく。
というか、なんとなく受け身だった詠み手が、主題への評価を露わにし始める。
明らかな作風の変化は驚いたものの、読み進めるうち、
社会に対してコミットしようと取り巻きつつも日常が邪魔してできないという
現代人らしすぎるほど現代人らしい、カジュアルだが根の深い苦悩に途方にくれている。
宅間守について考えたり、人体の不思議展に行ったり、
どのレジに並ぼうかいいえ眠りに落ちるのは順番にではない
(p.106、「人体の不思議展(Ver 4.1)」より)
野宿者問題に触れたり。
こんなニッポンをあっためてゆくの大変ねここはシベリアのように寒いね
(p.148、「ここはシベリアのように寒いね」より)

3.11以降、主題は東日本大震災へ移る。
うさぎ追いませんこぶなも釣りません もう しませんから ふるさと
(p.156、「もう しませんから」より)
この深刻な孤独。家族や周囲の他人はもういない。
斉藤斎藤は斉藤でも斎藤でもなくなってしまったようだった。
途中から「斎」が物忌みの意だと自覚しているように思えてならなかった。

2005年からの詠み手による客体の彷徨は、
視線を徐々に定める。原発へ、原爆へ、広島へ。
だが、大きな物語が生き返らなかったように、
絞ったはずの照準は時によって漂流し、
津波と避難で流されたモノだけが転がっている。
この徒労感、寂しい悔しさ。
どうしようもなくちっぽけで虚しい共感だが、それでも共感した。
似たような気持で、地震と津波、そして原発の時間を視た人がいたんだ、と。

12.10.17

『ジャック・ルーボーの極私的東京案内』

田中淳一訳。水声社刊。
原題は« Tokyo Infra-ordinaire »。
ジョルジュ・ペレックの« L'Infra-ordinaire »にひっかけてある。
タイトルのごとく、東京の平凡な日常へと目を凝らす。

記述は入れ子状で、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を思わせる。
ただ、下位層は上位層への説明であると同時に、軽い反駁、自問、脱線だ。
訳者は「「カッコ」と「挿入」を多用し、濫用し」と解説している。
主題はまっすぐに進行せず、どんどん横滑りしてゆく。
しかも主題はアジア都市・東京であるからすでに支離滅裂だ。
五感と筆の赴くままの語りが、不思議と都市によって織り成されている、
そのような感じの文章だった。

旅に行きたくなるような作品(小説? 随筆?)だった。
ルーボーは日本語を解さないため、
東京に満ちた言葉は音となり、文学の詩句へつながる。
また、山手線(と、一部で丸ノ内線)に運ばれてゆく視覚は、
おそらく万物が雑多にぶちまけられたカンバスのようなのだろう。
何に驚き、何に連想を繋げるかは、まさに作者の自由。
この筆のすさびこそ、旅そのものではないか。

11.10.17

莫言『転生夢現』

中央公論新社刊。
吉田富夫による臨場感のある口語っぽい訳が読みやすかった。

1950年から2000年までの中国の一村の物語。
主人公の西門鬧が冤罪の恨みとともにロバ、牛、豚、犬、猿を輪廻しながら、
文化大革命から改革開放までの歴史に翻弄される一族を俯瞰する。

壮大な群像劇であり、まさに歴史だった。
瀕死の牛が飼い主の土地まで歩んでから死ぬシーンや、
二匹の豚が観衆の歌う真ん中で頂上を争って戦うシーンや、
いくつもの情景が心に残った。
常に時代々々の大義と情が人を突き動かし、
登場人物たちは出世と左遷を経めぐり、立場をぐるぐる上下させながら、
自らの役を命がけで演じる。
人民公社、党内の地位、情愛、……。
語り手の回想だけが歴史を達観するが、
進行中の歴史は最重要な今でしかない。
そして、今はいずれ無価値に打ち棄てられるか、時によって和解されてゆく。
人間への賛歌なのか、永劫回帰の哀しみなのか。
歴史の暴力と無情を肌身で語る物語は、いずれをも超えてひたすら語り続ける。

22.9.17

チェスタトン『木曜日だった男』、斉藤斎藤『渡辺のわたし』

ギルバート・キース・チェスタトン『木曜日だった男 一つの悪夢』

いくつか訳が出ているなかで、光文社新訳文庫の南條武則訳を択んだ。

話が現実味を帯びた舞台から空想的なふわふわした次元までいっても、
きちんと語り手が煙に巻かれずに語り続けてくれる、
そういう小説は、実はもっとも堅牢な気がする。
いい意味でも、悪い意味でも。

斉藤斎藤『渡辺のわたし』

斉藤斎藤の短歌はどれも、情景的に美しさはないが共感がある。
そして、なんとなく他人の影はあるのに、その実体がない。
あくまで詠み人の意識に映った、詠み人との接点においての他人だ。
そして、その他人を通して、詠み人は自分とその意識を歌う。
しかも、それさえ純粋ではなく、輪郭がおぼろげな感触でしか捉えられない。
このもどかしさが、第一首の
お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする
なのだろう。
斉藤斎藤はフィクションを拒んでいる。
自分に移る他人を、自分から浮遊させるというフィクションさえも。

それぞれのひとりをこぼさないようにあなたのうえにわたしを置いた
公園通りをあなたと歩くこの夢がいつかあなたに覚めますように
という祈るような歌も、卑近だ。
よく言えば親近感がわくが、率直に言えば臆病に読める。
でも、その臆病さにこそ、
リアルとして主張することさえできないぐらい等身大なリアルがある。

13.9.17

ケストナー『飛ぶ教室』、ブッツァーティ『シチリアを征服したクマ王国の物語』

エーリヒ・ケストナー『飛ぶ教室』

池内紀訳の新潮文庫版。

大人と子ども、子ども同士、みな互いを尊重しあい信頼しあっていて、
美しい学び舎の美しい児童文学、と感じるのは、
現実世界が言葉の理解を超えたぎくしゃくに満ち溢れているからか。
でも、社会の根本は、やはり理想主義を喪ってはならない。
そう勇気づけられる思いがした。

この作品が1933年のドイツで書かれたという背景をあとがきで知ると、
大人が読んで感じ取るべき問題意識の根深さにうんざりする心地がする。
作品が描き出す社会と正反対に、市民社会の質が急速に劣化し、
ナチスドイツがぐんぐん台頭する。
経済という首ねっこを摑まれると、人はどこまでも排他的になれるのだろうか。

子どものときに読んでいたら、どう感じただろうか。
「こんな悩みのない子ども社会がドイツでは現実的なんだろうか?」と、
羨ましく思いを馳せたかもしれない。
日本の小中学校では、一人ひとりが多大に牽制しあうように空気を読んで、
はっきりものを言えない世界が広がっているから。
でも、作者がドイツで同じような社会の雰囲気で書いたともし知ったら、
それはそれは鼓舞されたことだろう。


ディーノ・ブッツァーティ『シチリアを征服したクマ王国の物語』

福音館文庫版。天沢退二郎、増山暁子訳。

クマが山を下りてシチリアを征服し、
13年の人間との暮らしを経て山へ帰るまで。
ほのぼのとした物語の進行は、愉快に歌うような文体ゆえか。
ただ、幾度かの戦いで死ぬクマや人間はいるし、
悪い奴やバッドエンドはある。
その事実を隠さない態度もまた良い。

挿絵がとてもかわいい。
しかもブッツァーティの描いたものだというから驚く。
ページいっぱいに場面全景が繰り広げられていて、
あちこちに登場人物たちのそれぞれの動きが描き込まれている。
一つの絵がたくさんのお話のそれぞれの一場面を映していて、
ブッツァーティはほんとうにお話好きな人だと、思わずにいられない。
最初の登場人物紹介のお茶目な語りっぷりからしてそうなのだが、
語って楽しませようといういたずらっぽい欲求が、挿絵から滲み出ている。

20.8.17

『ゾルゲの見た日本』、稲垣えみ子『魂の退社』

みすず書房編集部・編『ゾルゲの見た日本』

リヒャルト・ゾルゲが1935年から1939年の間、
ドイツの雑誌に発表した6本の日本研究論文。
ソ連スパイではあれナチス政権からも識者とされており、
本名で執筆された論文だ。
拘留中の文章にも、時代が違えば学者になっていただろうとあるし、
優れた観察眼ははっきり読み取れる。
内部は外部の視座によってこそ客観的に把握でき、
簡明な文章によって的確に伝達される。
国内の報道で世界(ときに国内)情勢が正しく把握できない昨今と同じだ。
なお、訳者は、あとがきによれば不詳。
概ね東京外国語大の生駒佳年教授ではないかと推察されている。

日本がソ連と開戦する可能性を調べる任務を帯びていた"ラムゼイ"の文章だから、
国力が日本にソ連開戦を許すかどうか、それを徹底的に分析している。
輸出入と国際決済が国家総動員体制によって厳しく制限されるにせよ
多くをアメリカに依存している現状への厳しい指摘は、
その直後の日米開戦が無策どころか無脳だったと帰結せざるを得ない。
日本の工業が農村から税制的、人件費的に搾取するうえで成り立っていること、
財界・地主階級による政党政治が、農村出身者の占める軍部にとって皇国の堕落と感じ、
よって二・二六事件がある種の時代の必然と捉えられていたということ、
このあたりは、時代というものがいかに制度的な妥協の産物であるかを感じさせる。
そして、時代や風潮の転げてゆく流れに対して、
ヒーローが都合よく現れて立ち向かうことなどないのだ、と。
附録の暗号文は、現代からみれば歴史である振り返りを、
刻一刻と動く情勢として蘇らせてくれる。

「日本の政治指導」というわずか6ページの論文は、
1939年に書かれたものだが、そのような制度論を冷徹に裏づける。
その論文は簡潔に、次のことを述べる。
  • 国会は審議機関の権能をほぼ有しない。
  • 天皇ありきの国家観は国民さえも規定せず、絶対君主制というより全体的君主制である。
  • 国家元首かつ国家神道最高神たる天皇は超越的であり、政治は、内閣、軍部、枢密院という3者が受任する。
そして、次のような結論づけが、いかに日本的かと唸らざるを得なかった。
日本の「全体的君主制」の「受任制度」は、民主主義的でもなければ全体主義的でもない。それが、いろいろの「受任機関」相互の力関係のいかんによって、政治活動の上では、ある程度民主主義的または全体主義的な特徴をおびることがあるとしても、それは決して二つの統治制度の間の妥協でもなければ綜合でもない。それは実際のところ、独特な日本的作品である。(146ページ。原文は「独特な日本的作品」に傍点)

稲垣えみ子『魂の退社  会社を辞めるということ。』

50歳での退社に至るまでの心境の変化と、
退社後の脱力した暮らしとを語ったエッセイ。
退社に至るまでについて正直な感想としては、
省みればそうなのだろうが、
実際の心境の機微とすればそれほど整ったものではないのだろう、
と、読んでいて感じた。

もっとも、カネとキャリアという会社が縛る二つの鎖と、
どうやって折り合いをつけてゆくか、とも読めるので、
会社に社会性を収奪され尽くした大多数の労務者が
定年後に行き場を失うことへの処方箋のような体験談だ。
そのために、社外の関係を築いておくこと。
それが挙げられていた。
「つながり」。昨今の定石だ。が、大切だとは思う。

前に読んだ『寂しい生活』と同じく、
老いを前にどう生活を畳んでゆくか、という主題もあって、
むしろ、会社ありきでしか社会保障が成り立っていない現在、
早期リタイアがいかに不経済かを示している段が興味深かった。
だが、60歳や65歳までしがみついてから突如放り出されるより、
まだ心身が動くうちに積極的に生活を切り替えてゆくほうが、
むしろ良いように思われた。

15.8.17

藤井聡『〈凡庸〉という悪魔』、稲垣えみ子『寂しい生活』

藤井聡『〈凡庸〉という悪魔 21世紀の全体主義』

この春過ぎに若手のキャリア国家公務員と話したとき、
森友学園問題に関する話題で「凡庸という罪」という言葉が挙がった。
思えばハンナ・アレント『責任と判断』をなんとか読んで早や8年、
書店で平積みされていたタイトルから、手に取った。

晶文社「犀の教室」シリーズの一で、おそらく中高生向け。
構成は前半にアイヒマン裁判とアレントによる分析を解説する。
政治においては服従と支配は同じものなのだ。」(70ページ、孫引き)という指摘は、
政治や官僚機構のみならず組織の一員たる者は心にとどめるべき箴言だ。
後半に現在の全体主義の実例として、
いじめ、改革至上主義、新自由主義、グローバル主義を批判する。

著者があとがきで、社会問題が同じような構造を抱えて回帰していると、
平成25年(2013年)に確信した、と書いている。
その構造とは思考停止だ、と。
同感だが、その理論づけをアレントの紹介で終えるのではなく、
本音と建前の二重構造や、実生活における社会=コミュニティの不在などを搦めて、
実地的に分析していればもっと面白かったのに、と思う。

稲垣えみ子『寂しい生活』

エッセイ。
京都の大垣書店で「自己啓発」の棚に配架されていた。
こういう脱臼させるような啓発もいわゆる「自己啓発」なのか。

原発を機に節電を始め、家電を一つずつ手放してゆく。
冷蔵庫を手放して気づいた「いまを生きる」ことへの目覚めとともに、
家電に煽られていた欲望、家電によって失った工夫や生活の智慧を、
取り戻してゆくという、内面的RPGめいたストーリーで書かれている。
気づきや変化が淡々と語られるうちに、自身の当たり前が崩されてゆく感じは、
なんとなく三浦清宏『長男の出家』の視点を思い起こさせた。

「買うこと」で豊かになった筆者の両親が、
家電の多機能化についてゆけず、モノの過剰に途方に暮れている、
そんな傍の描写が印象的だった。
高度経済成長を欲望とモノの亢進で生きた世代にとって、
生活をコンパクトに畳んでゆくという発想がいかに難しいか。
その行く末としてのゴミ屋敷を暗示させる。

さっと読み通せる文章だが、
内容は(「きょうの料理」みたいなところもあって)面白かった。
消費生活の豊かさへの疑問符が市民権を拡げて久しい。
この風潮がどこまで生き残れるか。
グローバル資本主義と貧困の問題へのボトムアップな意思表示として、
引き続き注視したい。

6.8.17

生田武志『釜ヶ崎から』、松田美佐『うわさとは何か』、東浩紀『弱いつながり』

生田武志『釜ヶ崎から 貧困と野宿の日本』

ちくま文庫版。
日雇い労働者の街としての末期から、生活保護の街、ホームレスの街への変貌へ、
実際に釜ヶ崎での活動を通しての生々しいルポルタージュだった。
貧困がなぜ悪なのか、説得力をもって語っている。

釜ヶ崎へ行くと、そこに広がる光景が衝撃的であるために、
何らかの腑に落ちるようなものを感じることができる。
想像を絶するがゆえに、そこに人間がいて社会が、尊厳があるという現実が、
考えられずに済ませられるようになってしまっている。
特異ながら社会があって人が生きているという事実とその背景が見えないほどに、
どこから手をつけてよいかわからないほどにこんがらがっている。
その中へ入り込み、考えるためには、このような取材文はありがたい。

釜ヶ崎から少し視点を変えて、野宿者の実像にも取材している。
また、補章として、野宿者の高齢化・若年化や、女性、子連れの現実が語られている。
これは評論ではない。問題系だ。
言葉は想像を超える実態を淡々と述べ伝える。この圧倒的な問い。
制度ではなく身近なものとして、福祉とは何か、何ができるのか、考えさせられる。
それはおそらく、あり得た自分への救いの手でもあるはずだ。

松田美佐『うわさとは何か ネットで変容する「最も古いメディア」』

中公新書版。
うわさというものの生態学。
結局、伝達という機能で捉えると、うわさはメディアの一形態でしかなく、
うわさを真偽込みで定義づけすることはできない、ということのようだ。
その曖昧さは、ネットで補強されている。
もし本書がより最近に書かれていたら、偽ニュースをその極北として挙げただろう。

東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』

幻冬社刊(幻冬社……久しぶりに読む出版社だ)。
中高生向けの軽い自己啓発含みのエッセイとして読むべきか。
内容は面白かった。検索窓という鏡の中に囚われた自我から、いかに抜け出るか。
そのために、場所を変えてノイズを導入することを薦めている。
(もしかすると、そのようなノイズ生成が、
 検索機能そのものに組み込まれるかもしれないが)

新倉貴仁『「能率」の共同体』

新倉貴仁『「能率」の共同体 近代日本のミドルクラスとナショナリズム』

岩波書店刊。

第二次大戦前のきな臭い軍国化より前に、
大正デモクラシーが国民国家の前提たる国民教育を完遂させた。
計画性、文化性、能率性を埋め込まれ、銃後で生産に邁進する。
現代風にいえば、文化主義は総力戦体制のデュアルユースだった、ということになる。
これは、大正という短い時代に対して
両大戦間期のモダニズム文化を見出だそうとするような憧憬にとって、
悪夢のような分析だ。

戦後は、丸山眞男があまりに哀しく取り上げられる。
丸山眞男は民主主義の担い手としての主体を目指したが、
経済成長はそもそも自己完結した主体ではなく、
生産し消費する市場化された主体として、国民を形成した
(私としては読みながら、シンガポールの街並みが頭に浮かんでいた)。
戦前と戦後は科学面、技術面で地続きとはよくある謂いだが、
国民の意識というレベルでも地続きであった、という分析だ。
丸山眞男から吉本隆明へという展開が、戦後派から第三の新人以降へという
大きな空虚を内面に孕みつつ豊かになってゆく文学風景をも説明しているようで、
非常に鮮やかな筆致だった。

それにしても、都市化、中流化、単一市場化は日本に限られないはずなのに、
何が日本を開発独裁体制のように突き動かしたのか。
もちろん、本書はその枠組みの原点を問うというより、
その枠組み下での思想風景を描き出すものではあるが、やはり疑問は残る。
もちろん、その追究は思想史の分野において限界があるのかもしれない。
対米や冷戦という構造でこそ、分析されなければならない領分ではあろう。

能率が人の手を離れようとしている現代において、いかに可能なのか。
技術革新は欲望を喚起しつづけているが、市場は飽和し疲弊つつあるようにみえる。
生産と消費の同時を引き受けるミドルクラスは、
その両輪のバランスを崩しているように思える。
massからdigitへという流れのなかで、大衆は徹底的に数値化され、
生産者ではなく消費者として搾取され、堕ちてゆくのだろうか。

2.6.17

トマス・ピンチョン『ヴァインランド』

池澤夏樹個人編集世界文学全集収録。
佐藤良明訳。すばらしい翻訳だった。

ピンチョンが作品の軸に据える二項対立は、生き生きとして面白い。
厖大な細部が休む間もなく繰り出され、
世界の動態そのものを写し取ったかのようなリアリズムが現前するからなのか。
あるいは、その二項対立のリフレインがあちこちの瞬間や位相で見出だされ、
まさか自分が深読みしすぎの陰謀論者ではないかと錯覚させられるからなのか。

『ヴァインランド』の二項対立はヒッピーと体制。
『V.』における街路と温室という主題の変奏曲でもある。
が、プロフェインにあたるゾイドはさほど主人公格でもないし、
その元妻フレネシは組合活動家の血筋で反体制運動に身を投じているにもかかわらず、
制服フェチで体制に通じてしまっているという両義性。
いわゆる"当局"を人格化したようなブロック・ヴォンドは、
肥大した性的コンプレックスに突き動かされ、
その点でヒッピー的な放埓さと、LSDのカラフルな幻覚とも近しい。
そして、フロンティアにおいて発達したはずの映画産業が、
レーガンという赤狩り協力者上がりの大統領を産んだという矛盾とともに、
カウンターカルチャーが奇しくも次世代の閉塞へ繋がってゆく時代の空気を映す。

あちこちに二項対立がありつつも同時に両義的であり、
その信用ならなさがどうも現代と通じるところがある。

だが、個人的には読んでいて少し物足りなかった。
重要な脇役がみな作り込まれている割りに深みがない気がしたし、
ストーリーが強引でリニアな感じが否めなかった。
物語の舞台が大きく揺らぐようなことはなく、
ざっと散りばめられて賑やかに終わった読後感だった。
それが60年代というものだったのかもしれないが。

30.4.17

カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』、伊藤比呂美訳「日本霊異記」

イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』

脇功訳。松籟社版「イタリア叢書」の一。

二人称で書かれる小説は珍しい。
しかも、男性読者と女性読者という二人の二人称が現れる。
ふつう単一の読者が本を読むが、この小説は逆に読者を取り替える。
また、小説はリニアに進むどころか唐突に中断され、
読み手は小説において二人称で語られる「自分」として、
物語の行方を追いかける。

終盤、禁じられた物語を求めて図書館に行き着いてゆくくだりは、
『華氏451度』と似て感じられた。
物語るという人間の本能的ともいえる行為への讃歌だ。

それにしても、カルヴィーノの作品は広範だ。
リアリズム的な叙述から、情景美やメタ小説まで。
文体や問題意識の明確さの一貫した近代的な作家像を超えて、
中世からポストモダンまでのあらゆるアプローチで物語る、
その職人技がカルヴィーノだ。


伊藤比呂美訳「日本霊異記」

池澤夏樹個人編集『日本文学全集』(河出書房新社)第8巻に収録。抄訳。
そういえば、高校生の頃、
同じ伊藤比呂美の『日本ノ霊異ナ話』の広告を文芸誌に見た記憶がある。

仏教色の濃い説話集ではあるが、
語られる内容の核心は生き生きとして庶民的だ。
中世的なグロテスクさが見え隠れもする。
一方、語りの枠組みや、因果律的な構成は、仏教的である。
9世紀に書かれたとき、すでに仏教は社会の上層部に食い込んでいただろうが、
庶民の間ではどうだったのだろうか。
案外、前後関係も整わないままの古来のグロテスクな民話が、
たくさん生きていたのではないか。
そして、その頃から人間は変わっていない。

いかに仏教色がまぶされていても、血の通った熱の帯びた物語が人間味を伝えている。

3.4.17

三浦展・藤村龍至『現在知 Vol.1 郊外 その危機と再生』、宮澤賢治「貝の火」、薄田泣菫「利休と遠州」、芥川龍之介「六の宮の姫君」

三浦展・藤村龍至『現在知 Vol.1 郊外 その危機と再生』

NHKブックス別巻。
多数の著者、対談者の言説があって、面白かった。
団地に生まれ育った論者の言説はそれぞれ、
望郷の遠いまなざしと、少しずつ異なる原風景がどことなく入り混じっていて、
画一的とされる団地の多様性、あるいは団地受容の多様性を物語っていた。

郊外は戦後復興、高度成長という現代史を支えてきたなかで、
当初は文字どおり寝るためだけのベッドタウンだったが、
徐々に都心が多核化し、郊外は遠方の都心ではなく近郊の副都心への労働力供給へ、
軸足を移しつつある、という指摘がなされていた。
確かに、乗換駅はもともと郊外であったとしてもハブ化するし、
ロードサイド店舗の集中により副都心化する場合もある。
加えて、職住近接が比較的容易になったということだろう。

小田光雄の「(団地は)地方から追われ、都市に向かい、都市に住むことを拒絶された生活者たちの約束の地」という表現が紹介されていた(85ページ)。
団地に特有の逃げ場のなさ、漂白感、画一性は、確かに夢の地だっただろう。
が、そこは企業戦士たちの寮でしかなかった。住人の交流は競争意識的だった。
いまシェルター化した団地は、取り壊しを待つ古い自治寮に似ている。

都市開発と自治は結局のところ独裁のほうがうまくいくのではないか。
その意味で、ユーカリが丘や東急電鉄の事例は示唆的だった。
ユーカリが丘は山万が一体的に開発しており、
都市交通の運営、住居供給コントロールによる人口調整、
保育や介護の施設運営など、住民サービスを一手に引き受けている。
そのため、多くの業者が入り組んで身動きの取れなくなった団地一般と異なる。
たまプラーザ再開発の事例は、住民の参加があり、
計画に対する排他的な権力はいないにしても、
横浜市と東急電鉄の政策誘導は意地悪く見れば結論ありきの雰囲気がある。

宮沢賢治「貝の火」

喜多川拓郎による朗読。
勧善懲悪的な箴言のようなお話し。
特に、貝の火が時間差で毀れるということが、
もっとも作者が言いたかったことに思われた。

薄田泣菫「利休と遠州」
芥川龍之介「六の宮の姫君」

ともに海渡みなみによる朗読。

29.3.17

江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」「二銭銅貨」「日記帳」「算盤が恋を語る話」、林芙美子「幸福の彼方」「新生の門」、谷崎潤一郎「恐怖」、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』

江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」「二銭銅貨」「日記帳」「算盤が恋を語る話」

「屋根裏の散歩者」は日根による朗読。
「二銭銅貨」はmamezoによる朗読。
「日記帳」「算盤が恋を語る話」は二宮隆による朗読。

「屋根裏の散歩者」「二銭銅貨」は「人間椅子」と同じく、
社会に隠された空間を見出だす話だ。
だが、その発見によって主人公は何らかの欲望を抱く、というより、
主人公はそこに物語を渇望している、という構造になっている気がした。

「屋根裏の散歩者」の主人公は、
かつて別世界を眺めるようにのめり込んだ殺人トリックを適用するし、
明智小五郎による嘘の証拠品に自らの罪状を物語的に結びつけることで自白へ導かれる。
「二銭銅貨」は松村と語り手がトリックを仕掛けあうが、
現実には何も起きていないぐうたらの中にいるだけだ。

欲望が物語を作る。
それは、「日記帳」「算盤が恋を語る話」も同じだ。
暗号が相手に伝わらないまま、主人公が妄想をたくましくする話だ。

林芙美子「幸福の彼方」

海渡みなみによる朗読。

戦後間もない貧しい生活感と、先行きのわからないながらもぼんやり明るい時代が、
作品を幸せな感じにしている。
一方その背後で、前提のようにしか語られないが確実に時代と個々を蝕んでいた戦中が、
すでにすぎたことにされている、この阿呆ともいえる健忘症が、
どことなく作品の厚みを削いでいるような気もする。
作品が書かれた時代とある種の対極の側からの読後感だろうが。

あと、正直、林芙美子が描く男女間の理想には隔世の感があるのか、よくわからない。
女性が家庭にいることが当たり前の時代への知識から、類推はある程度できるが。
幸せが家族と直結する感覚。そういえば、女流作家という言葉があった頃だ。

林芙美子「新生の門 ──栃木の女囚刑務所を訪ねて」

兼定将司による朗読。

女性刑務所を訪ねるという短いエッセイで、
女性服役者への表面的な親近感が語られる。
上の作品で感じた女性観への違和感が続く。
服役者への差別視を乗り越えることが新しかったのだろうか。
林芙美子は女性を描いているが、視座は男性なのかもしれないと思う。

谷崎潤一郎「恐怖」

岡田慎平による朗読。

鉄道恐怖症の主人公が徴兵検査のためながらなかなか京阪電車に乗れない。
好まない目的のために鉄道への強迫観念で心身を滅ぼす(と思い込む)こと、
しかも期日など実はどうでもいいのかもしれないということ、
このあたりが、一つの明確な目的ではなくおぼろげな行く末という
第一次大戦前の空気への風刺なのか。
時代閉塞というより、身に染みわたった日和見主義を指すのかもしれない。
だから、電車になかなか乗らない言い訳を他人にしたり、
かといって、知人に誘われて乗ってしまったり、
人の目を気にすることは人一倍長けている。

ここに描かれる恐怖は、その原因がわからないゆえに表面的だ。
まず、徴兵検査は当然とされていて、行く必要があると信じて疑われない。
小役人が大義や大局から目をそらし、
絶えず上司の飼い犬のように動くのと同じだ。
だから、徴兵検査そのものを検証すべきなのに、そのアイディアは一切ない。
そして、常識を守らない恐怖は際限がない。

ジャン・ジュネ『花のノートルダム』

光文社古典新訳文庫版。中条省平訳。

10年くらい前に一度、大学図書館で手に取ったような記憶があるが、
ほとんど読み始められないまま却して、年月が経ってしまった感がある。
新訳ということで読みやすかったものの、自在な語り口は生半可には追えない。
その意味で、この作品は小説というより、散文詩だと思った。
巻末の解説に「アニミズム的」とあって、言い得て妙だと思った。
妄想は実体化するし、譬えが次の行動へ流れ込む。
この文体は驚異的だ。物語が因果律のようでいて、自由律なのだから。
それでいて、小説の基本軸たる物語がこれでいいのかという程度には存在する。
この作品の醍醐味はあくまで瞬間々々の煌めく思考と文体だ。

27.2.17

磯達雄・宮沢洋『日本遺産巡礼 西日本30選』『日本遺産巡礼 東日本30選』、元少年A『絶歌』

磯達雄・宮沢洋『日本遺産巡礼 西日本30選』『日本遺産巡礼 東日本30選』

昭和モダン建築巡礼は日経ビジネスオンラインで連載されていたから、
リアルタイムではなかったかもしれないが読んでいた。
菊竹清訓の「都城市民会館」や吉阪隆正の「大学セミナー・ハウス」は、
その思想に驚かされた記憶がまだ残っている。
それまで、「せんだいメディアテーク」が伊東豊雄の設計とさえ知らず、
鬼頭梓の「東北大学附属図書館本館」の暗い内部をバカにしていたほどだから、
この両名の連載が自分の建築好きを芽吹かせた可能性は高い。

さざえ堂は同じ一連の連載として読んでいたような記憶があった。
大湯環状列石や龍安寺石庭まで解説してしまうのだから、
建築というものがいかに人間の営みに深く結びついているか思い知らされる。
建築とは、空間を内外に分かつだけではない。
漠然として捉えどころのないはずの空間を人間が律する営みそのものだ。
だから、そこに美意識や思想が必ず現れるし、
それを読み解く批評眼が豊かであればあるほど楽しめる。

この連載は、建築物の構造、背景、歴史をすべてごった煮的に描きながら、
それを驚き、楽しみ、考えているから、読んでいて面白い。


元少年A『絶歌』

筆致は肌のようなもので、筆者のいろいろがわかる。
そこそこの読書量、語りたい衝動、
客観的であろうとしてもなお強烈な自意識、しかし乏しい感情、
生へのためらいつつもはっきりした意思。
装い、本音。
元少年A……1997年に酒鬼薔薇聖斗と名乗った中学生だ。

そのナイーブすぎる内面にとって、現代社会の何がまずかったのか。
それは結局わからない。
団地という漂白空間で、生命の不思議や人間関係の容赦なさを嗅ぎとる感性だから、
感じるすべてが鮮明に迫り来て、輪郭がぎらぎらして感じられるのだろう、
その芸術家肌の感覚を有しているらしいことが、やはり垣間見えたまでだ。
無論、当人は一生の罪を背負って、何かのせいにはできないだろう。
だが、本人の語りから、状況というか、何か透けて見えはしないか。
そう期待を込めて読んだものの、あまりよくわからなかった。

物語への意欲があることが、驚きだった。
苦しみの渦中を必死に生き抜いて、物語らずにはいられないのかもしれない。
また、言葉の未分のまま感じ取ることができず、掌中に収めたい願望が、
いまだ旺盛なのかもしれない。
が、それ以上に、読んでほしい願望があった。
確かに、上手に書けていて、読ませる。
個人の来歴だから、大きな物語では全くない。
かといって、私小説のような、見せつけるような下心ではない。
言葉で整理した身体が地にひれ伏すような、言外に常に釈明する下心のあるような、
そんな文章だった。

25.2.17

坂口安吾「アンゴウ」「恋愛論」「行雲流水」、江戸川乱歩「心理試験」「一人二役」

坂口安吾「アンゴウ」

萩柚月による朗読。

ふと古書店で見つけたかつての蔵書に挟まれていた暗号文から、
自らの生きざまを見出だしてゆく。
そして、結末はなんとも物がなしい。
暗号文で語り始められた短篇の行き着く結末とは思えない。
無批判なまま受け容れている表面的な日常を一枚剥ぎ取れば、
過去があり人生があり、はっとするような気づきがある、
そのような、過去と現在を掘り下げるような感覚。


坂口安吾「恋愛論」

物袋綾子による朗読。

恋愛について語るというより、
恋愛を例にして日本語のあいまいさに言及する。

安吾は文化を内面化した枠組み・軛のように捉えていて、
手放しで賛美することはしない。
そして、枠組みは無意識にではなく明確に語られなくてはならない、
そう曖昧な文化たる日本に対して語りかける。
その視点がある種の西洋中心主義になっているのは時代性かもしれないが、
普段のなにげない感性への良い毒になって、おもしろい。


坂口安吾「行雲流水」

萩柚月による朗読。

安吾らしいグロテスクさもさることながら、
1949年発表というだけあって、生きるためのむきだしの必死さが清々しい。
やはり安吾は大衆を視ている。


江戸川乱歩「心理試験」

二宮隆による朗読。
いかにも探偵小説という作品だった。
当時、心理分析はまったく目新しかっただろうが、
文学が輸入を担うということが、興味深いといえば興味深い。
むしろ、物語が解剖され分析されるという文学にとって危うい事態を、
作品化することで内包してしまい、新たな語りの手段としてしまう、
そのことがユーモアというか、面白いと思った。
物語は技術によって廃れるどころか富む、
いやむしろ、物語はいかなる時代や境遇でも、そこに在るのだ。

江戸川乱歩「一人二役」

喜多川拓郎による朗読。
まぁ、ちょっとした奇譚、といった作品。

11.2.17

トルストイ『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』、坂口安吾「夜長姫と耳男」「神サマを生んだ人々」「餅のタタリ」、太宰治「駈込み訴え」

レフ・トルストイ『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』

講談社古典新訳文庫版。望月哲男訳。

トルストイが人生とは何かを真っ向から挑んでいるとは知っていても、
かくも現代的でリアリスティックだとは知らなかった。

「イワン・イリイチの死」は、
常に手許に置いておいて拾い読みしても、都度楽しめる気がする。
というのは、病の進行の一瞬一瞬に即した描写と心境が、
あまりに的確であり、言い得て妙であり、
まるでルポルタージュのようだからだろう。

「クロイツェル・ソナタ」は、
剣がコルセットを貫く手触りの描写が、読後の頭にこびりついている。


坂口安吾「夜長姫と耳男」

萩柚月による朗読。

昔語りのような語り口でありながら、
耳男の耳は削ぎ落とされるし、蛇が裂かれるし、
あげくの果てには村人たちが物語背景で死んでゆく。
それでいて、登場人物はみなそれぞれに一つの心理で動き、
内面の葛藤があるわけでもないから、やはり説話だ。
『桜の花の満開の下』の戦慄を思わせる。
あるおそるべき世界のさまを描き出すための小説、
物語としてというよりは、絵物語のような小説。
人がみなどことなくユーモラスなのに、
筋立ての容赦のなさ、読後に感じる背筋の寒々しさ。
安吾らしいなのか、戦後の空気感なのか。
あるいは、近代以前の土着の凄みなのか。

そういえば、安吾には「終戦」ではなく
「敗戦」「焼け野原」の語のほうが似合う。
美化を一切許さず、直視しなければならない視線が。



坂口安吾「神サマを生んだ人々」

萩柚月による朗読。

新興宗教が流行した戦後の時代を感じもするが、
万世一系の宗教から醒め切らない時代への当てこすりか。
地口も登場人物もみな一様に、新興宗教を一笑に付しながら、
興味本位が物語を進めている。
その点、文学がジャーナリスト的な面で押している感じだ。

安福軒という男にスポットが当たって、小説は終わる。
教祖をかつて妾として囲っていた男、
教団の幹部ながらビジネスと割り切っている男だ。
この地に足のついて離れない冷徹な生き様を描く目は、
焼け野原を目のあたりにした視点だと感じてしまう。


坂口安吾「餅のタタリ」

萩柚月による朗読。

何ともバカバカしい話、「風博士」さながらだ。
ただ、もしかすると元ネタがあるかもしれない説話らしさがある。
いや、あるとすれば、現代という村社会か。


太宰治「駈込み訴え」

西村俊彦による朗読。

イエスへのひたむきな愛とその報われなさを、
イスカリオテのユダが独り語りに訴える。
神への愛でも隣人愛でもなくイエスへの愛に満ちるがために、
弟子でありながらイエスから遠ざけられ、妬みでイエスを売る、
そのズレが走らせる物語の運びは、
マルタの妹マリアの話や、最後の晩餐の話へうまく結びついていて、
さながらユダという男の新釈だった。

その鬼気迫る独り語りは、朗読ということもあって、凄かった。

31.1.17

町田康訳「宇治拾遺物語」、ピランデッロ『月を見つけたチャウラ』

町田康訳「宇治拾遺物語」


池澤夏樹個人編集の河出書房新社『日本文学全集』8巻に収録。
町田康の絶妙な翻訳と話の盛り方が、何よりの醍醐味だった。
平安時代の貴族や庶民がみな大阪か京都のそこらへんにいる人たちみたいだ。
古文で短くまとめられた小話が、町田節で盛り付けされていて、
ちょうどよい掌篇のサイズになっている。
そして、関西らしい絶妙な間合いを取って、
ページの中でコントを繰り広げる。

宇治拾遺物語自体がじつはとても人間味あふれる、
庶民的な小話集だったとは知らなかった。
意外と下ネタが多かったりする。
それもまた町田康の文体にマッチしている。


ルイジ・ピランデッロ『月を見つけたチャウラ ピランデッロ短篇集』


光文社古典新訳文庫版。
収録の16篇には2種類あるように思われた。
ひとつは表題作のように、日常のある一瞬が異化されて身に迫る描写。
人生のちっぽけな一コマだが、その浮遊した透明感からか、
普遍性を帯びていて、味わい深かった。
もうひとつは、人の思わぬ一面というか、
煎じ詰めればペソア『不穏の書』のような疲弊、精神分裂、閉塞が覗くような内容を、
重苦しくないがはっとさせられるような小話として、描いている。

ピランデッロは動物も赤ちゃんも大人もあまり分け隔てなく、
みんな生き生きと心の動きを描写する。
「登場人物の悲劇」では、作者が登場人物たちの採用面接を行う描写が出てくるが、
ピランデッロの創作態度はこの譬喩のように、あくまで登場人物本位なのだろう。
『作者を探す六人の登場人物』の作者らしいともいえる。

25.1.17

江戸川乱歩『押絵と旅する男』『人間椅子』『接吻』、平野啓一郎『マチネの終わりに』、林芙美子『或る女』

江戸川乱歩『押絵と旅する男』

佐野史郎の朗読として聴いたからかもしれないが、
身に迫る怪奇譚だった。
ただ、愛に身を捧げる一途は、怪奇だろうと心に沁みる。

ぞっとする、嬉しい、というような未分な感情の形容が多かったが、
雑ではなく、都度そこにぴったりと収まる感情が示唆されていた。
むしろ、理性を超えてぐっと身に迫るために、
分析的な形容詞はそぐわないのかもしれない。

あまり怪奇小説は読まないが、
読後、夢野久作もまた書簡体の小説ばかりだったことを思い出した。
枠内物語となっている小説は少なくない。
独白調の散文が物語る行為を取り戻そうとする試みなのかもしれない。
特に、怪奇小説は現実との落差を埋めるべく、
物語をはめ込む枠物語が求められるのかもしれない。


江戸川乱歩『人間椅子』

同じく、佐野史郎の朗読。
涎のような願望が丁寧な口調で独白されるからか、
椅子の内側から感じる人間の肉感が生々しい。
快楽をしゃぶるような物語だから、
個人的には、ぞっとする恐怖ものというより放埒として楽しめた。


平野啓一郎『マチネの終わりに』

たった三回の邂逅で、出会い、すれ違って別れ、想い続ける。
この美しい物語そのものが、まずおもしろかった。
ただそれだけの物語の骨格が、心に残る。
すれ違って壊れた関係がじくじくと痛むさまは、美しい。
『シェルブールの雨傘』や『パリ、テキサス』がそうであるように。

メールのやりとりがすれ違ってゆくくだりは読ませる。
「氷塊」や「閉じ込められた少年」で魅せた言葉遊び的な技巧あってだろう。
だが、ストーリーにおいて、この下りはほんの一瞬でありながら、物語の核でもある。
それまでに築いた関係性は、邂逅とスカイプと長いメールという、
いわば前・電子時代の言葉を尽くした会話でなされている一方で、
短いメールのやりとりが、一瞬にして関係をぎくしゃくさせ瓦解させる、
この現代的な危うさは、意外にも文学は取り上げてこなかったのではないか。

平野啓一郎の現代ものは、あたかも人生を試している。
この読後感は、『決壊』を読んだときと同じだ。
それにしても、登場人物がみなそれぞれの生き方で立派だ。
中身がある。言葉が中身を満たしている。
語りえない領分がない。
(欲しがり過ぎかもしれないが、それが何か物足りない)


江戸川乱歩『接吻』

二宮隆による朗読。

若しも、例の鏡のトリックが、彼女の創作であったとしたらどうだ。そして、彼女が接吻し、抱きしめたのは、やっぱり村山課長の写真であったとしたらどうだ。
と、この終盤の、はぐらかすような問いかけ。
そして、こう結ばれる。
それは兎も角男である山名宗三には、そこまで邪推をたくましくする陰険さはなかったのである。

この結びの言い回しを借りれば、
江戸川乱歩が描く怪奇譚は、けだし、
「お人好し」と「陰険」の間を突くような物語だ。
「陰険」を煽るクライマックスを見せておいてから、
フィクションをチラつかせたり枠物語の語り手が自ら合点したりして、
読者の「お人好し」な素直な了解へと安心させる。
実際、これまで読んだ(聴いた)江戸川乱歩はいずれも、
多かれ少なかれ世話話的、人情話的な趣があった。


林芙美子『或る女』

 海渡みなみによる朗読。

初出は1938年ということで、
小説の主題を据えるにはなんとも絶妙な暗い時代だ。
主人公のたか子は名流婦人としてメディアにもてはやされるが、
結局それはたか子の生きがいでも幸せでもなくて、
夫には妻らしさを、息子には母らしさを強いられて、
家庭では立場を完全に失いつつある。

女性の生き方の苦しみとは、社会と家庭からの疎外であり、
男たちが建前と折りあいをつける上での板挟みなのだ、
そう読んだ。
時代は進んだのかもしれないが、
別のところで足踏みしているだけなのかもしれない。

13.1.17

バルザック『「絶対」の探求』、山本理顕『権力の空間/空間の権力』、カルヴィーノ『遠ざかる家』、堀辰雄『姨捨』

オノレ・ド・バルザック『「絶対」の探求』

岩波文庫版。水野亮訳。
1978年改訳ということだったが、光文社古典新訳文庫より読みにくかった。

まず、化学探究に現を抜かした伯爵バルタザールと、
老いた召使いの協力者ルミュルキニエがいる。
対して、家計浪費をごうとする妻のクラース夫人や娘マルグリットがいる。
そして、その対立軸を動かすための、もろもろの取り巻き。
心理描写や葛藤というより、登場人物がみな自らの使命に徹底していて、
状況や力関係や立場が少しずつ変わるたびに、各関係が確認される、
というストーリー展開だった。

バルザックの作品はどれも、経済小説という感じがする。
その中でもこの作品はやや特異なのかもしれない。
伯爵一家の厖大な財産が幾度か傾いては立て直されるので、
フランドル建築の屋敷の表情もまた、一つの物言わぬ主人公のようだ。
屋敷は中世らしい質実剛健の外構えで、高級な調度什器を収めている。
だが、ノール県ドゥエーという進歩的できらびやかな町の真ん中にある。
ちぐはぐな立地がまず時代の狭間を感じさせ、そして物語を揺らす両軸を暗示する。

最終盤、娘夫妻がスペイン伯領を相続するに伴う長期外遊の裏で、
屋敷内部のもろもろがバルタザールの研究費捻出のため売り払われる。
娘夫妻の帰郷後に復旧されてからバルタザールが老いて死ぬ、という筋立ては、
中世封建主義と世俗的金銭感覚が体面を気にして近代科学主義を殺し、
「絶対」へのひらめきは探求される直前に失われる、ということになろうか。
時代推移のもどかしさというか、現実はいつも背後につきまとっているというか、
そんな卑俗さが描く偉大な科学者像は、いかにもバルザックらしい。


山本理顕『権力の空間/空間の権力 個人と国家の〈あいだ〉を設計せよ』

2015年刊行。講談社選書メチエ。

SANAAや藤本壮介のような、建築が社会性を取り戻そうとする意思には、
その問題意識と行動の必要性は痛切に理解する。
一方で、使われない集会所やシャッター商店街を思えば、
都市の地域性や社会性の欠如は、各建築(家)が取り組みようもないくらい、
日本人の意識下に潜む根深い問題なのではないか、
そう痛切に感じざるをえない。
日本人は、人付き合いや地域社会を、ひいては地方自治体、代議制、政治を、
どうでもいいと思っている、いや、何とも思っていないのではないか、と。
安全で快適であれば壁の外はどうでもよくて、
それを保障する財とサービスが潤沢であれば良いと考えていないか、と。
ニュータウンという問題は、建築や都市の設計の問題ではなく、
運営の問題ではないか、と。

本書はその漠然とした思いに対して、一定の解を示してくれた気がする。
古代ギリシャのポリス社会の「閾」の空間を挙げ、
個々人が社会に根を下ろす仕組みがあった、という反面、
現代のプライバシーありきの建築は産業革命以降の労働者住宅に始まり、
家族はそれぞれ社会と結びつかずに孤立するよう設計されている、と。
住民が主体的に町づくりに取り組む制度なくして、
社会は個々人のかけがえのない居場所としての、世界としての復権をなさない。 


イタロ・カルヴィーノ『遠ざかる家』

和田忠彦訳。原題は「建築投機」。

第二次大戦後、宅地開発の急速に進む町で、
主人公一家が土地を売って家を建てる、
その業者との先の見えない悶着が、主題となっている。
しかし、主人公はふと出会う人々とのかつてのパルチザン活動を
どちらかといえば思い出したくない過去として疎んだり、
社会運動をやりかけてはきらびやかで表面的な映画業界に足を突っ込んだり。
戦争の終わりとともに時代は一変し、
左翼は急速に鼻白むような上っつらな振る舞いになり、
人々は、生臭いカネにたくましく群がって生きてゆく。

切り売りされる土地に初め生えていた草花が、
片田舎の殺伐とした風景にささやかな色と落ち着きを与えるが、
それが狭く植え替えられ、建物の工事ですっかり陰に隠されてしまう。
何十年も経てばおそらく、町は無機質な家が立ち並ぶ新興住宅地となり、
かつてレジスタンス運動と政治に命をかけた息づかいは跡形もない。
戦争の終わりで、価値観がまったく異質なものに変化したかのように、
片田舎はカネの論理で、都市近郊の小ざっぱりした町へ変貌しつつある。
主人公だけは、"時代そのものの転向"に戸惑っている様子だが、
町の人々は、どちらの時代でも結局は変わらず、
生きるのにしたたかで愚直なのだ。
そして、主人公の投機たる家の建設だけは、のろのろとしか進まない。
建設中の家のせいで、草花は陽が当たらなくなっている。

カルヴィーノがこんなにも地に足のつきすぎた小品をも書いているなんて、
まったく知りもしなかった。
ここで描かれる戦後まもない復興期イタリアは、
まるで中野重治の描く日本と同じ、やるせない戦後の虚無感だ。
戦後が一気に放出した、思想のなさ、下品さ、大衆性、は、何なのか?
そんな問いを、奇妙な読後感とともに残す小説だった。


堀辰雄『姨捨』

青空朗読版。
『かげろふの日記』のように、
古典の中に近現代らしい自己めいたものを凝らせた作品、
それを期待したところが、そうではなかった。
個性のないほどの平凡を愛でて愛でて輝かせるような、
物語らしさ、劇的なもの、のないところにわずかな物語を見出だすような、
デュシャン的な試みなのか。