夏目漱石『門』
自分が裏切った友人に久しぶりに会わせる顔がなく、とうとう仏門に救いを求める。
「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。
要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった」と、
漱石はどうして評したのか。
それでいて、役所の人員削減に引っかからずに給与も上がり、
小さな幸せとともに、小説は終わる。
その最終盤、季節を感じさせる暖かい家庭の温もりに、
小津の映画のような無常観が、逆に感じられる気がする。
このストーリー展開は、「ヨブ記」を思わせる。
もっとも主人公の宗助には世を偲ぶべき過去があるが、
誰しもが大なり小なり呵責されることを持っている。
その過去の苦しみが「門に入れない不幸」とされることが、
原罪ほどに強い責め苦として追及されていることが、
私にそう感じさせるのかもしれない。
休暇をはたいて向かった仏門さえ、
生活があって真剣にくぐり抜けられない。
八方塞がりのまま、降りてくる幸不幸を甘受する弱さが、
幸せとも不幸ともつかない宗助とお米の夫婦の宿命として、淋しい。
夏目漱石『私の個人主義』
漱石の明晰さは、出発点を大切に論が展開されていることだろう。
明治日本が外発的に始まった近代化という説明にしろ(「現代日本の開化」)、
労働疎外の状態を予見していることにしろ(「中身と形式」)、
その理想型がルネサンス的な一身で完全な人間にあることは、
漱石が時代に先んじた個人主義的な思想家だった証左に思える。
1.10.12
夏目漱石『硝子戸の中』、『それから』
夏目漱石『硝子戸の中』
『吾輩は猫である』をエッセイにしたような随筆。
随筆の醍醐味として、「私」というものが希薄であるからこそ、
著者の生活や死生観が生き生きと浮き上がる点にある。
それが、書斎の硝子戸から世と来歴を覗き見ながら綴る、という表題にも繋がる。
自分は文学研究者ではないのでよくわからないが、
自然のままという事態のままならなさというか、
生きる上でのそこはかとない不安というか、そんな感情が滲んでいるようで、
写真で有名なあの頬杖を突いた漱石の俯いた目線を、
読みながらしばしば思い出させた。
夏目漱石『それから』
裕福な実家に支えられてぶらぶらする代助が、
自分の結婚相手への強い意志を貫くため、親友とも実家とも縁を切り、
社会的に眉を顰められるべき掠奪婚を決める。
自らへの意志を尊ぶことが、客観的に見れば破滅的な方向へ走ることになる、
これがどのようにありうるのか、精神の逍遥が丹念に描写される。
漱石はこの自由意志に対して、積極的なのか消極的なのか。
しかしこの疑問は、小説(という形式)がこの問題へ回答の方向性を
棚上げにしたまま問いかけているということから、
あまり意味のないものなのかもしれない。
いや、大いに考えられるべき問題を、生のまま呈示している。
代助の友人に、もとはあった学問意欲が、
生活にまぎれて消えていった、という者が挿話的に語られる。
続く『門』の主人公がその位置になるのだが、
これは、文学部出身者の一として、そして社会人として生活に忙殺されつつある中で、
由々しき一事例として、常に念頭に置き、恐れ戦いておきたい。
青空文庫を電子書籍アプリで読んだ。
片手で繰っていくのも悪くないが、
ふと思ったページの縁を備忘に折ることができないのがもどかしかった。
16.9.12
根岸吉太郎『透光の樹』、森敦『われもまた おくのほそ道』
根岸吉太郎『透光の樹』
高樹のぶ子原作の映画化。
千桐と郷の、中年の円熟したとも、若く急いで狂おしいともいえる
恋愛をのみ主眼に描いていて、その周囲がまさに背景でしかなかった。
あるいは生成論的に、ある種のリニアな進行といえるかもしれない。
森敦『われもまた おくのほそ道』
松尾芭蕉『おくのほそ道』を、その経路を辿りながら、
組み立てられた構造を明らかにしてゆく。
森敦の明晰さには、ほんとうに驚かされる。
『おくのほそ道』は紀行文だ。
だがその中に、義仲、西行、杜甫・李白などを大いに織り込みながら、
陰陽、晴雨といった対応関係を織りなしてゆく。
この精緻な構造をなすために、
芭蕉は、訪れた順序を組み替えたり、
泊まっていないところに泊まったと書いたりしている。
フィクションすなわち文学なのだということを知らされた。
「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の「行く春」に始まり、
「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」の「行く秋」に終わってなお、
まだ「旅をすみかとす」る道は続く。
13.9.12
フランソワ・オゾン『ぼくを葬る』、唯円『歎異抄』
フランソワ・オゾン『ぼくを葬る』
原題は « Le temps qui reste » 。
癌の宣告を受けた主人公が、原題のとおり残されたわずかな時間の中で、
自分の日常と人間関係にけりをつけ、人生にけりをつけてゆく。
初めは拒絶をもって、やがては受容をもって、周囲との関係を修復してゆく。
巻き毛の子供が主人公の幼少時代の象徴としてしばしば現れる。
または、同棲していたが別れてしまう恋人も、その延長だろう。
子供が陽の下に、主人公は陰にいて長袖で肌を隠し、
生死の境目が陰翳で区切られている。
それを突き破るシーンとしての、教会での子供の悪ふざけが、
あまりに無邪気であり、陰鬱な教会の中での天使のようにさえ映されていた。
それが、主人公が陰から出ようとする転換点となる。
最期は西行のように美しく、南仏の浜辺に横たわって波音に濯がれながら死を迎える。
主人公の祖母のラウラ(ジャンヌ・モロー)が印象的だった。
おばあさんなのに、というかおばあさんらしい達観がどことなく妖艶で、
奔放に生きた生涯を誇って余生を一人で立てている強さがあった。
唯円『歎異抄』
信心は起こるのではなく阿弥陀によって起こさせられ、
念仏によって縋ることで浄土に行ける。
そもそも凡夫には修行による即身成仏は難しい、
よってただ縋るべし。──
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
「自力作善のひとは[…]弥陀の本願にあらず」
という、念仏の「一向専修」のみによる徹底した本願他力の考え方が、
親鸞没後の異説を封じつつ淡々と述べられている。
大乗仏教という救済思想の一つの極みではないかと思った。
善悪、貧富を超えてただひたすら信心を求めるという、
"仏の下の平等"という思想が、徹底されている。
ただ、……念仏と救済のメカニズムはどうなっているのか。
「念仏には、無義をもつて義とす。
不可称・不可説・不可思議のゆへにと、おほせさふらひき」と十章にある。
可知不可知に明確な線引きをし、
「凡夫」たちを神ならぬ仏の子羊たちとしているように感じた。
それが鎌倉仏教からの、仏教の大衆化ということなのだろうか。
別に批判などではない。宗教である以上、救済されればよいからだ。
ただ純粋に、仏教史的な意味合いで、
鎌倉仏教の時代からは、仏教が学系から純粋な宗教へと転じた、
その一つの新しい思想を読み取ったように思った。
5.9.12
夏目漱石『三四郎』、魚喃キリコ『strawberry shortcakes』
夏目漱石『三四郎』
『草枕』が美の問題と俗世の煩いの二本の軸で進行し、
結末で見事に合一させる小説だとすると、
『三四郎』は学問世界の飄々と人間関係・恋愛の二軸を
混ぜ合わせてその波紋をみながら、結局二つを溶かしあわせない。
柄谷行人が解説で、ストーリー第一主義への重要なアンチテーゼと評している。
ストーリーを綴っておきながらそれを超える訴えかけがある、という気が、
確かに前期の夏目漱石にはあるように思う。
魚喃キリコ『strawberry shortcakes』
フランス語版で読んだ。仏題ならmille-feuilles aux fraisesとなろう。
扱う主題は、日常の倦怠感とやるせなさ、恋愛。
とはいえ、それを日本語で読まなかったことが、一つの新鮮さだった。
それはむしろ、言葉からは最小限の科白のみを得て、
絵の語ることに耳を傾けることができたことによるのかもしれない。
いや、確かに科白も最小限に絞られて、一字一句が語るのだけれども、
翻訳はどうしても日本語が含み持たせていた意の迷いや強さ、震えや弱さの、
すべてを汲み尽くして移し替えることはできない。
だから逆に、絵の展開が私に多くを語った。
それは、魚喃キリコの作風を味わう上で、
決してマイナスではなかったのではないか。
影絵のような描写が、ストーリー展開をそのモーションの小さな一部で切り取る。
それは、あるいはほんの小さな手先だったり、複雑な表情だったりする。
静かで淡々としているにもかかわらず、
コマの一つ一つが抑制された静かな内容で想像力をかき立てる。
特に、表情の機微はほんとうに巧い。
『草枕』が美の問題と俗世の煩いの二本の軸で進行し、
結末で見事に合一させる小説だとすると、
『三四郎』は学問世界の飄々と人間関係・恋愛の二軸を
混ぜ合わせてその波紋をみながら、結局二つを溶かしあわせない。
柄谷行人が解説で、ストーリー第一主義への重要なアンチテーゼと評している。
ストーリーを綴っておきながらそれを超える訴えかけがある、という気が、
確かに前期の夏目漱石にはあるように思う。
魚喃キリコ『strawberry shortcakes』
フランス語版で読んだ。仏題ならmille-feuilles aux fraisesとなろう。
扱う主題は、日常の倦怠感とやるせなさ、恋愛。
とはいえ、それを日本語で読まなかったことが、一つの新鮮さだった。
それはむしろ、言葉からは最小限の科白のみを得て、
絵の語ることに耳を傾けることができたことによるのかもしれない。
いや、確かに科白も最小限に絞られて、一字一句が語るのだけれども、
翻訳はどうしても日本語が含み持たせていた意の迷いや強さ、震えや弱さの、
すべてを汲み尽くして移し替えることはできない。
だから逆に、絵の展開が私に多くを語った。
それは、魚喃キリコの作風を味わう上で、
決してマイナスではなかったのではないか。
影絵のような描写が、ストーリー展開をそのモーションの小さな一部で切り取る。
それは、あるいはほんの小さな手先だったり、複雑な表情だったりする。
静かで淡々としているにもかかわらず、
コマの一つ一つが抑制された静かな内容で想像力をかき立てる。
特に、表情の機微はほんとうに巧い。
27.8.12
孫崎享『戦後史の正体』
孫崎享『戦後史の正体』
twitterで話題になっていたので、脱退直前の大学生協で購入。
今日の7時に読み始めて、途中に中断もあったが計5時間弱ほどで一気に読んだ。
分かりやすい書き口だったし、のめり込めるほど刺戟的な内容だった。
すべての日本人がこの本を読むべきだと思った。
戦後の日本が、吉田茂・岡崎勝男がサンフランシスコ講和条約後に打ち立てた
徹底的なアメリカ追随路線から抜け出せないまま、
その外交、内政、軍事、経済のすべてをいまだにアメリカの掌中に握られ、
さらにその度合いは強まっているという悲惨の漸進を、
ここまで明快に分析した本は、初めてなのだそうだ。
なぜこれまでなかったのか、という疑問より、
なぜこれまで書かれなかったのか、というほうが、病巣の深さを物語っている。
これまで教わってきた戦後の政治は、
しばしば謎を孕む横槍で流れを絶やしていたが、
この本を読んで、その構造がすべてひとまとまりになって腑に落ちた。
その構造がすべて日米関係の緊張と緩和であり、
横槍はアメリカの圧力による検察とマスコミの動きだったと知った。
昭和電工事件(芦田均首相失脚)、ロッキード事件(田中角栄)、
リクルート事件(竹下登)、陸山会(小沢一郎)などをはじめ、
驚いたのは、60年安保による岸信介辞職も同じ流れだったということだ。
ロシアとの北方領土問題、中国との尖閣諸島問題など、
いま話題のトピックすら、この本は説明してくれた。
日本の原子力の産業と利権は、第五福竜丸による反米世論を封じるために
CIAの後ろ盾を得た正力松太郎ほか読売新聞が掲げた一大キャンペーンによるし
(これは知っていたが)、
ソ連崩壊後に敵を失ったアメリカの「経済的な敵国」とされ、
プラザ合意による円高誘導を経て競争力を失って現在に至る流れは、
TPPなど更なる親米構造の構築圧力へと繋がっている
(これは小泉純一郎の露骨な親米関係と軍事増強から漠然と感じてはいたが)。
戦後の天皇は政治的機能を有しないはずが、
昭和天皇は沖縄の米軍永久駐留を進言しているし、
福田康夫はわれわれ国民の知らないところでファイニーメイへの融資を断って
首相の座を退いていたとは知らなかったし、
橋本龍太郎も鳩山由紀夫も独自路線を模索して短命に終わったとは、
それほどまでにアメリカの圧力が強いとは、まったく知らなかった。
そして、田中角栄がアメリカを出し抜いた日中国交回復によって
失脚させられたという真相ではなく、
石油問題のためであると、今でも誤認されているという。
須田慎太郎『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること』と
地続きになった内容だった。
たしかに須田は孫崎の著作をしばしば引用していたし、
その本が私の戦後政治史観を根本から揺さぶるきっかけになった。
本書は
私はいまフランスへの機上にいるが、
この本を、パリにいて今晩会う若い外交官の友人にあげようと思う。
それまでに読了できてよかった。
回顧とはいえ、この本を選んで正解だったと思うし、
彼にとっても非常に有意義であることを半ば確信している。
(この感想は18時間前に作成した)
23.8.12
夏目漱石『倫敦塔』、平野啓一郎『滴り落ちる時計たちの波紋』、秋庭俊『帝都東京・隠された地下網の秘密』
夏目漱石『倫敦塔』
「国破れて山河在」るとき、国はもう記憶にとどめられるまでだ。
そうした記憶の総体として、倫敦塔が黙したまま建っている。
「墓碣と云ひ、紀念碑といひ、賞牌と云ひ、綬章と云ひ此等が存在する限りは、空しき物質に、ありし世を偲ばしむるの具となるに過ぎない。われは去る、われを傳ふるものは殘ると思ふは、去るわれを傷ましむる媒介物の殘る意にて、われ其者の殘る意にあらざるを忘れたる人の言葉と思ふ」
この箇所が、そのことを最も抽出して言っていて心に響いたので、引用しておく。
平野啓一郎『滴り落ちる時計たちの波紋』
短篇集。いずれも漠々として現代の不安を主題にしている。
そういった意味で、平野啓一郎は社会派なのだと思う。
『月蝕』『一月物語』で懐古調を滲ませたときとはまるで違う。
いや、むしろ端正な文体が感情や状況を切り取って呈示してゆく心地よさは、
コンスタンやラディゲに近しく感じる。
「初七日」は、うまく組み立てられた中篇といった感じで、主題の搦みあいがうまい。
戦争、家系、記憶、自分、…。
このうまくいかないもどかしさがあてのない自問自答を繰り広げる文体は、
平野啓一郎の"不安"の描き方なのだと思う。
「最後の変身」で終始する独白が、特にそう感じさせた。
これは、カフカ『変身』論としても読ませるし、
私を含む現代人(大人の御仁にはゆとり世代前後と言った方が良いのかもしれないが)は
ここに叫ばれるバブル期の後処理のやるせなさと、
個性を牽制しあうような風潮が、よくわかる。
それはかつて、酒鬼薔薇聖斗事件に同世代が「共感できる」と答えて
大人たちを震撼させた、その気分だ。
「閉じ込められた少年」は一種の回文となっていて、
文章を一つずつ逆に辿って読んでも同じ作品になるようになっている。
同じ文章の二度目の意味が変じていたりして、意外に面白かった。
秋庭俊『帝都東京・隠された地下網の秘密』
戦前に完成したのは銀座線だけでなく、
他に多くが政府・陸軍の専用線などとして存在したという主張。
いわゆるトンデモ本の一つになろうか。
それでもよく取材されていて、説得力はかなりのものだった。
東海道新幹線も戦前の計画と用地収用があったからこそ
戦後の19年間で開業できたといわれるし、
戦後に栄えた技術を日本が誇ったのも、
軍事的な技術蓄積が民生に転用されたからとされる。
そういった意味でも、東京の地下の多くが
国民に明かされていないまま活用されているというのは、
あり得ないことではないと思った。
残念なのは、決定的な裏づけを欠くこと。
その一歩手前まで迫ってはいるが。
それゆえ、トンデモ本の扱いになってしまっている。
21.8.12
カズオ・イシグロ『夜想曲集』、講談社文芸文庫編『戦後短篇小説再発見6』、内田百閒『御馳走帖』
カズオ・イシグロ『夜想曲集 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』
原題は、"NOCTURNES Five Stories of Music and Nightfall"。
夕暮れ──そう、イシグロの小説の醍醐味はそこにある。栄光と今。
物語は一般的にそう回想的に見出だされるものだが、その描き方の切なさが良い。
栄光を引きずってもがき、あるいは挫折し、あるいは身の丈の居場所を探す。
過去は背景と化していて、その浄化作用のような解決が、語りの現在形となる。
これが、この短篇五篇に共通する構造だった。
だから、「モールバンヒルズ』では、語りは音楽家志望の青年であり、
その夢や周辺、モールバンヒルズでの手伝い、老婆の宿が手広く語られるけれども、
あくまで核心はティーロとゾーニャの夫妻なのだ。
さらにいずれも、蓮實重彦の指摘した80年代長篇の共通項「宝探し」に似て、
「依頼→代行」のプロセスが物語のスタートになっていることに気づいた。
このプロセスは、主人公が早急に物語の舞台に祭り上げられて
しかも中心をなすという定石だということが、改めてよくわかった。
講談社文芸文庫編『戦後短篇小説再発見6 変貌する都市』
街はみな似た形をしているのに違うし、その差異は歴史を孕んでいるだけでなく、
個々や共同体のかけがえのない揺りかごにも記憶にもなり、サンクチュアリになる。
その意味で、街、都市、風景には興味がある。
その神秘が描かれた小説で初めて読んだのは、
松村栄子『至高聖所(アバトーン)』だった。
この短篇集には収められていないが。
しかし、この聖性が、似たような神秘的な短篇として収められている。
島尾敏雄「摩天楼」、福永武彦「飛ぶ男」、日野啓三「天窓のあるガレージ」。
いずれも、外部をあえて欠いて内部を内省と同化させることで、
舞台を聖別している。
後藤明生の「しんとく問答」は、
最近の町歩きや地名由来の流行をあまりに早く先取りした上で、
その意味を問うているように思われた。
執拗なまでに根拠を問いつめたあげく、最後にはぐらかしてしまう。
この後藤明生らしさは、いったい何の謂いなのか。
根拠の源流など記憶にしかない、ということなのだろうか。
内田百閒『御馳走帖』
これを読んだため、今月14〜16日に岡山へ行った際、
大手まんじゅうを求めずにはいられなかった。
造り酒屋と同様に造酢屋がかつて多く存在したということや、
東京の酢がまずいという意見、明治期の食肉文化の受容なども、面白かった。
やはり文体がとぼけたような大見得を切るような、読んでいて飽きない。
猪の肉とともに脚も送られたため、これで誰かを撫でてやろう、というのが一番笑えた。
鹿肉をもらったために馬肉を買い求めて鍋の会を開いた話などは、
いくつかのエピソードは『まあだだよ』に採られていた。
原題は、"NOCTURNES Five Stories of Music and Nightfall"。
夕暮れ──そう、イシグロの小説の醍醐味はそこにある。栄光と今。
物語は一般的にそう回想的に見出だされるものだが、その描き方の切なさが良い。
栄光を引きずってもがき、あるいは挫折し、あるいは身の丈の居場所を探す。
過去は背景と化していて、その浄化作用のような解決が、語りの現在形となる。
これが、この短篇五篇に共通する構造だった。
だから、「モールバンヒルズ』では、語りは音楽家志望の青年であり、
その夢や周辺、モールバンヒルズでの手伝い、老婆の宿が手広く語られるけれども、
あくまで核心はティーロとゾーニャの夫妻なのだ。
さらにいずれも、蓮實重彦の指摘した80年代長篇の共通項「宝探し」に似て、
「依頼→代行」のプロセスが物語のスタートになっていることに気づいた。
このプロセスは、主人公が早急に物語の舞台に祭り上げられて
しかも中心をなすという定石だということが、改めてよくわかった。
講談社文芸文庫編『戦後短篇小説再発見6 変貌する都市』
街はみな似た形をしているのに違うし、その差異は歴史を孕んでいるだけでなく、
個々や共同体のかけがえのない揺りかごにも記憶にもなり、サンクチュアリになる。
その意味で、街、都市、風景には興味がある。
その神秘が描かれた小説で初めて読んだのは、
松村栄子『至高聖所(アバトーン)』だった。
この短篇集には収められていないが。
しかし、この聖性が、似たような神秘的な短篇として収められている。
島尾敏雄「摩天楼」、福永武彦「飛ぶ男」、日野啓三「天窓のあるガレージ」。
いずれも、外部をあえて欠いて内部を内省と同化させることで、
舞台を聖別している。
後藤明生の「しんとく問答」は、
最近の町歩きや地名由来の流行をあまりに早く先取りした上で、
その意味を問うているように思われた。
執拗なまでに根拠を問いつめたあげく、最後にはぐらかしてしまう。
この後藤明生らしさは、いったい何の謂いなのか。
根拠の源流など記憶にしかない、ということなのだろうか。
内田百閒『御馳走帖』
これを読んだため、今月14〜16日に岡山へ行った際、
大手まんじゅうを求めずにはいられなかった。
造り酒屋と同様に造酢屋がかつて多く存在したということや、
東京の酢がまずいという意見、明治期の食肉文化の受容なども、面白かった。
やはり文体がとぼけたような大見得を切るような、読んでいて飽きない。
猪の肉とともに脚も送られたため、これで誰かを撫でてやろう、というのが一番笑えた。
鹿肉をもらったために馬肉を買い求めて鍋の会を開いた話などは、
いくつかのエピソードは『まあだだよ』に採られていた。
20.8.12
ウィーラセータクン『ブンミおじさんの森』、谷崎潤一郎『卍』
アピチャートポン・ウィーラセータクン『ブンミおじさんの森』
ゆっくりと死が受け容れられてゆく映画、とでもいうのか。
死だけではない、過去に亡くなったり失踪した近親も現れて、
生がその寿命をまっとうするようにして、死へと旅立つ。
映像が綺麗だった。幻想的な森の夜もそうだし、
薄暗い食卓やホテルの一室、レストランといった光あふれる日常の居場所も、
ゆっくりと淡々と映される中で、一足外に出ればすぐ闇と森があるような淡さを
なんとなく含んでいるように思える。
ホームビデオの陰っぽさがあったというか、それほどまでではないが、
撮影時の照明を、抑えるか工夫するかしたのではないか、という気がした。
谷崎潤一郎『卍』
谷崎文学は、その生成が気になる。
痴態へずぶずぶとのめり込んでゆき抜け出せなくなるまでの人間模様の搦みあう経緯が、
本当に面白く、息つかせずに読ませる。
『卍』は、五人ほどの登場人物がみな主人公さながらの内面の深さを持って、
群像劇の戯曲のごとく搦みあい、ストーリーの展開のうえでみなうまく生かされていて、
半端な役という者は誰ひとりとしていない。
谷崎文学には未完のまま筆を接がれなかった作品が多いということを、初めて知った。
初期作品を除いて、これまでに読んだ作品はどれも一気に書き連ねた印象を与える。
『痴人の愛』が独白、『卍』が主人公の関西弁での独白の書き取りの体を取り、
『瘋癲老人日記』が片仮名綴りの日記の形として、
いずれも時系列に縛られるというよりは口語に近い自由連想的に流れを左右できる書き口として、
意図的なところなのか。
13.7.12
大城立裕『カクテル・パーティー』、川上弘美『神様 2011』
大城立裕『カクテル・パーティー』
沖縄文学はまず、目取真俊「水滴」を憶えている。又吉栄喜はどうだったか。
「カクテル・パーティー」も高一のときに読んだはずが、記憶にない。
「亀甲墓」は、沖縄上陸直後に亀甲墓に逃げた家族の物語で、
戦争に脅かされながらも家族関係が丹念になぞられていて、
小説というより短い戯曲のような群像劇だった。
「棒兵隊」は、"同胞"の日本兵にスパイ扱いされぬよう気に入られるよう、
危険を冒してわき水を汲む役を買って出て、
防空壕を、銃砲とびかう陸上を、死と隣り合わせに点々とする話。
草の繁る中を朦朧とさまよう景色が、読後に焼きつく。
表題作は、米軍統治下の沖縄が舞台。
アメリカ人、中国人、本土人、そして沖縄人の主人公の、
アメリカ人の接収地の家族住宅でのカクテル・パーティー。
その後、主人公は娘が若い米兵の被害に遭ったと知り、
統治体制で圧倒的に不利とわかっているにもかかわらず告訴を決心する。
沖縄の社会運動が、小説の火を通さず盛りつけられたままの読みごたえがある。
戦後の沖縄とは、何か? 真正面から向かい、深くえぐる。
アメリカ、中国、本土、琉球=沖縄のそれぞれの立場が、
戦争の前後の立場をちらつかせながら、
虚妄の親善と本気の議論を戦わせる。
「このさいおたがいに絶対的に不寛容になることが、
最も必要ではないでしょうか」と、主人公は訴える。
沖縄の寛容さが、差別的統治を明治政府とアメリカ軍に許し、
本土復帰後の日本政府に基地問題に真剣に取り組ませなかった、
この怒りが、一見すると異形のこの叫びに、滲み出ている。
臭いものに蓋をして問題を先送りしつつ、
しかしお互いにちらつかせて譲歩を出し抜こうとしながらも、
表面は笑顔の仮面で武装するカクテル・パーティーの場を、
未来のために槍玉に挙げて訴えかける。
川上弘美『神様 2011』
著者のデビュー作「神様」、そしてその改作である表題作、の二篇を収める。
改作といっても、文言の大同小異があるだけだ。
むしろ、その相違こそが、著者の訴えるところ。
「神様 2011」は、2011年3月11日に起きた「あのこと」以降に、
「神様」のときと同じく、くまと散歩にいく話だ。
書き出しはまったく同じだし、結末も変わらない。
ただ、原発事故を経ているから、町に残る人は少ないし、
くまが川でしとめた魚は食べることができない。
帰宅後は一日の被曝線量を測る。
原発や放射能汚染の影が、小説舞台に影を落とすことはない。
ただ、河川敷に草が生えて草いきれがするような当たり前さで、
原発事故が過去にあって、外出が被曝をもたらすだけなのだ。
「あのこと」から一年と四ヶ月が経ったいま、
過ぎ去った時分として、気持にけりをつけつつある内心に、
このわずかな相違の改作に揶揄されて、ようやく気づく。
沖縄文学はまず、目取真俊「水滴」を憶えている。又吉栄喜はどうだったか。
「カクテル・パーティー」も高一のときに読んだはずが、記憶にない。
「亀甲墓」は、沖縄上陸直後に亀甲墓に逃げた家族の物語で、
戦争に脅かされながらも家族関係が丹念になぞられていて、
小説というより短い戯曲のような群像劇だった。
「棒兵隊」は、"同胞"の日本兵にスパイ扱いされぬよう気に入られるよう、
危険を冒してわき水を汲む役を買って出て、
防空壕を、銃砲とびかう陸上を、死と隣り合わせに点々とする話。
草の繁る中を朦朧とさまよう景色が、読後に焼きつく。
表題作は、米軍統治下の沖縄が舞台。
アメリカ人、中国人、本土人、そして沖縄人の主人公の、
アメリカ人の接収地の家族住宅でのカクテル・パーティー。
その後、主人公は娘が若い米兵の被害に遭ったと知り、
統治体制で圧倒的に不利とわかっているにもかかわらず告訴を決心する。
沖縄の社会運動が、小説の火を通さず盛りつけられたままの読みごたえがある。
戦後の沖縄とは、何か? 真正面から向かい、深くえぐる。
アメリカ、中国、本土、琉球=沖縄のそれぞれの立場が、
戦争の前後の立場をちらつかせながら、
虚妄の親善と本気の議論を戦わせる。
「このさいおたがいに絶対的に不寛容になることが、
最も必要ではないでしょうか」と、主人公は訴える。
沖縄の寛容さが、差別的統治を明治政府とアメリカ軍に許し、
本土復帰後の日本政府に基地問題に真剣に取り組ませなかった、
この怒りが、一見すると異形のこの叫びに、滲み出ている。
臭いものに蓋をして問題を先送りしつつ、
しかしお互いにちらつかせて譲歩を出し抜こうとしながらも、
表面は笑顔の仮面で武装するカクテル・パーティーの場を、
未来のために槍玉に挙げて訴えかける。
川上弘美『神様 2011』
著者のデビュー作「神様」、そしてその改作である表題作、の二篇を収める。
改作といっても、文言の大同小異があるだけだ。
むしろ、その相違こそが、著者の訴えるところ。
「神様 2011」は、2011年3月11日に起きた「あのこと」以降に、
「神様」のときと同じく、くまと散歩にいく話だ。
書き出しはまったく同じだし、結末も変わらない。
ただ、原発事故を経ているから、町に残る人は少ないし、
くまが川でしとめた魚は食べることができない。
帰宅後は一日の被曝線量を測る。
原発や放射能汚染の影が、小説舞台に影を落とすことはない。
ただ、河川敷に草が生えて草いきれがするような当たり前さで、
原発事故が過去にあって、外出が被曝をもたらすだけなのだ。
「あのこと」から一年と四ヶ月が経ったいま、
過ぎ去った時分として、気持にけりをつけつつある内心に、
このわずかな相違の改作に揶揄されて、ようやく気づく。
8.7.12
ジャン=フィリップ・トゥーサン『ムッシュー』、内田百閒『冥途』、開高健『戦場の博物誌』
ジャン=フィリップ・トゥーサン『ムッシュー』
主人公の名前がムッシューで、29歳にして大企業の課長。
フランス人らしいが押しが弱く、
厄介に巻き込まれる反動でおいしいとこ取りをしているような印象。
振り回されながらも飄々としていて、その内心を表すように、
「いろんな人が、いるもんです」「万事は、場合によりけりだ」と、
挿入句のように繰り返される。
それでいて大きな事件が起きることのないまま、
ムッシューの人生は順風満帆に流れてゆく。終わり。
──言ってしまえば、人生を莫迦にしたような小説だが、
テンポが良くて、ところどころがクスリと面白い。
2006年11月16日にトゥーサンが講演会で駒場に来たとき、
自分は仙台から新幹線に乗って聴きにいった。
ベケットについて熱く語っていたのをぼんやりと憶えている。
内田百閒『冥途』
福武文庫版。
第六高等学校の交友誌初出の「烏」も併録。
この初期作品から、あの怪談調・「夢十夜」調は変わっておらず、
むしろ、ますます研ぎ澄まされていっていることがわかる。
ある種の永遠性が、どうしてこのように具体的に描き出されるのか。
それは、幼少期のきらきらした記憶のようでもあり、
じわじわと背筋に上ってくる怪談のようでもあり、
不思議と鮮明に憶えていて消えない夢のようでもある。
細部を徹底して欠いたシンボルが主人公と渉りあうからか、
相手の表情と内心がまるでのっぺらぼうで見えないまま話が進むからか。
開高健『戦場の博物誌 開高健短篇集』
講談社文芸文庫版。副題には単に短篇集とあるが、
表題どおり、筆者がベトナム戦争に取材した内容が主。
読み終えてから頭に残ったイメージをかき集めると、
戦争の印象が実は大きく変わった、と感じずにはいられなかった。
戦争の現場として思い浮かべるのは、戦場だ。
だが、その後背で戦時景気に沸く街や、
村ともゲリラともつかない生活が戦地すぐそばで悠々と営まれているとは、
戦場の二文字からは決して連想することはできない。
どちら側の味方かころころ鞍替えし、黙して語らない「たそがれ村」の存在、
前線の父親のすぐそばに洗面器ひとつで来て暮らす家族の姿、
地雷で吹っ飛ぶ路線バス、盛り場の酒場の爆弾テロ、
米兵に笑顔でたかりつつときにゲリラとなって攻撃する子供たちの描写は、
もはや戦場の交戦が戦争ではない、と気づかせる。
ベトナムに戦争は遍在していた、
アメリカ式に一刀両断するシンプルな思考では、
まるで理解できない戦争が、ベトナムで展開されていたのだ、と。
だから枯葉剤が撒かれたし、
「民間人」(純粋な民間人はいなかった?)への虐殺も、
凄惨で悲劇的な報道写真の数々もなされたのだ、と初めて気づいた。
表題作「戦場の博物誌」では、パレスチナの国境沿いの農村も描かれる。
それも、生活が戦争と隣り合わせで営まれるという、非日常的な日常の描写だ。
主人公の名前がムッシューで、29歳にして大企業の課長。
フランス人らしいが押しが弱く、
厄介に巻き込まれる反動でおいしいとこ取りをしているような印象。
振り回されながらも飄々としていて、その内心を表すように、
「いろんな人が、いるもんです」「万事は、場合によりけりだ」と、
挿入句のように繰り返される。
それでいて大きな事件が起きることのないまま、
ムッシューの人生は順風満帆に流れてゆく。終わり。
──言ってしまえば、人生を莫迦にしたような小説だが、
テンポが良くて、ところどころがクスリと面白い。
2006年11月16日にトゥーサンが講演会で駒場に来たとき、
自分は仙台から新幹線に乗って聴きにいった。
ベケットについて熱く語っていたのをぼんやりと憶えている。
内田百閒『冥途』
福武文庫版。
第六高等学校の交友誌初出の「烏」も併録。
この初期作品から、あの怪談調・「夢十夜」調は変わっておらず、
むしろ、ますます研ぎ澄まされていっていることがわかる。
ある種の永遠性が、どうしてこのように具体的に描き出されるのか。
それは、幼少期のきらきらした記憶のようでもあり、
じわじわと背筋に上ってくる怪談のようでもあり、
不思議と鮮明に憶えていて消えない夢のようでもある。
細部を徹底して欠いたシンボルが主人公と渉りあうからか、
相手の表情と内心がまるでのっぺらぼうで見えないまま話が進むからか。
開高健『戦場の博物誌 開高健短篇集』
講談社文芸文庫版。副題には単に短篇集とあるが、
表題どおり、筆者がベトナム戦争に取材した内容が主。
読み終えてから頭に残ったイメージをかき集めると、
戦争の印象が実は大きく変わった、と感じずにはいられなかった。
戦争の現場として思い浮かべるのは、戦場だ。
だが、その後背で戦時景気に沸く街や、
村ともゲリラともつかない生活が戦地すぐそばで悠々と営まれているとは、
戦場の二文字からは決して連想することはできない。
どちら側の味方かころころ鞍替えし、黙して語らない「たそがれ村」の存在、
前線の父親のすぐそばに洗面器ひとつで来て暮らす家族の姿、
地雷で吹っ飛ぶ路線バス、盛り場の酒場の爆弾テロ、
米兵に笑顔でたかりつつときにゲリラとなって攻撃する子供たちの描写は、
もはや戦場の交戦が戦争ではない、と気づかせる。
ベトナムに戦争は遍在していた、
アメリカ式に一刀両断するシンプルな思考では、
まるで理解できない戦争が、ベトナムで展開されていたのだ、と。
だから枯葉剤が撒かれたし、
「民間人」(純粋な民間人はいなかった?)への虐殺も、
凄惨で悲劇的な報道写真の数々もなされたのだ、と初めて気づいた。
表題作「戦場の博物誌」では、パレスチナの国境沿いの農村も描かれる。
それも、生活が戦争と隣り合わせで営まれるという、非日常的な日常の描写だ。
3.7.12
伊坂幸太郎『仙台ぐらし』、小川国夫『試みの岸』、コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』
伊坂幸太郎『仙台ぐらし』
『仙台学』に連載したエッセイをまとめたものとのこと。
仙台に大学生時代を暮らし、仙台に郷愁を抱く一人にとって、
このエッセイ集に、あまり仙台らしさを感じ取ることはできなかった。
「タクシーが多すぎる」ぐらいのものだった。
それでも、文系食堂の脇の喫茶店のミルクコーラは、
学生時代に取りこぼした一エピソードを補完してくれたし、
喫茶店(のチェーン)によく行った身としては、その話題も懐かしかった。
エッセイにそうはかかれていないのだけれど、
愛宕上杉通のちっぽけなドトールを思わず重ねあわせていた。
もしかすると、仙台の良さはそういうとりとめのなさなのかもしれない。
この本の一番の良さは、後ろ1/3ほどのところで東日本大震災を挟んでいることだ。
日常が鋭く切断されて闇が広がる行く末を、じわじわと修復してゆく静かな生命力が、
伊坂幸太郎の特に特徴も抑揚もない文体から、滲んで溢れているように感じた。
小川国夫『試みの岸』
馬をめぐる短篇三作、とでもいおうか。
小川国夫の譬喩の輝きは、近代の日本文学の屈指のものだと思うが、
表題作の冒頭、馬への眼差しはその真骨頂だ。
「十吉が竜の鬚の実を摘んで、胸へぶつけると、
筋肉を顫わせて躍ねのけた」というようなリアリズムがあれば、
「それは余一が知らない笑い方で、快いしつっこさがあった。
彼女がわらっているのではなくて、彼女の中でだれかが笑っているようでさえあった」
という透かせるような喩えもある。小川国夫の小説を読む愉しみの極みだ。
物語は静岡の大井川の流域、おそらくは藤枝や焼津のあたりだ。
地名として骨洲、速谷、静南などが出てくるが、どれがどこを示すかはわからなかった。
静岡は高地のように温暖で牧歌的に思われた。
『アポロンの島』で描かれた風土が、より日本の土着の荒々しさは帯びたものの、
静岡に根ざして描かれていると感じた。
コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』
シーンが行空けで短く区切られていて、映画のようだった。
非現実的な前提を措定してから現実性を追う、これはリアリズム小説なんだと思う。
庭のシェルターに備蓄庫を見つけ、そこで何日か暮らす。
最も幸せでありかつ、次の瞬間に何が起きるか分からないもっとも不穏なシーンだった。
幸せが、それを失わせる暴力を予感させ、幸せにあり余る恐れを生む。
囚人のジレンマで非協力が確立されてしまった世界は、こうも怯えるものなのか、と考えた。
人と人とを結びつけるという意味で、経済の功利も、つれづれに。
15.6.12
Marguerite Duras « Hiroshima Mon Amour »
デュラスのフランス語原文は端正でシンプルだと思う。
訳文では説明が盛り込まれ、修飾関係がぎくしゃくして、膨脹する。
どうしてもなんとなく読みにくくなる。それを除して読みたかった。
広島とヌヴェール(Nevers, Nièvre)の交錯が
迫る出発の時間の焦りとともに昂る。
駅でのアナウンス「広島、広島」がヌヴェールの景色で流される一景が、
読んでいて、その極みにあるように思った。
死んだ敵兵の恋人を重ねあわせ、それが目の前の日本人に生きてあり、
しかし自分はヌヴェールを背負って生きてゆく、訣別できない人生。
ありふれた、しかし身に刺さった過去が、女の長い独白に淡々と昂る。
文になりきれていない短い科白が、その反復が、原文の粋だと思う。
Je vois ma vie. Ta mort.
Ma vie qui continue. Ta mort qui continue. (p.78)
あるいは、
LUI ─ J'aurais préféré que tu sois morte à Nevers.
ELLE ─ Moi aussi. Mais je ne suis pas morte à Nevers. (p.96)
広島とヌヴェール、男と女、« histoire de quatre sous »と歴史的な事件、
現在と過去、…、の対比の搦みあい、というわけではない。
女にとって広島は地獄から蘇ったありふれた都市で、
ヌヴェールは辛い故郷として、しばしば廃墟の絵を伴う。
では、広島とは何か? « Hi-ro-shi-ma. C'est ton nom. » なのだ、と。
広島とヌヴェールの邂逅。
原爆という非人道の極みが、ここで、
敵兵と通じた女という、戦時中のありふれた事件と通いあう。
冒頭の、「知っている」「知らない」「見た」「見ない」の
ヒロシマをめぐるキャッチボールのような会話に、
ここでは風穴が開いている。
この交錯が、次第に融けあって恍惚を伴う感触が、
ヌーヴェルヴァーグの映画、ヌーヴォーロマンの文学、らしいように思う。
それを可能にする、記号かパズルの組み合わせのような文体。
訳文では説明が盛り込まれ、修飾関係がぎくしゃくして、膨脹する。
どうしてもなんとなく読みにくくなる。それを除して読みたかった。
広島とヌヴェール(Nevers, Nièvre)の交錯が
迫る出発の時間の焦りとともに昂る。
駅でのアナウンス「広島、広島」がヌヴェールの景色で流される一景が、
読んでいて、その極みにあるように思った。
死んだ敵兵の恋人を重ねあわせ、それが目の前の日本人に生きてあり、
しかし自分はヌヴェールを背負って生きてゆく、訣別できない人生。
ありふれた、しかし身に刺さった過去が、女の長い独白に淡々と昂る。
文になりきれていない短い科白が、その反復が、原文の粋だと思う。
Je vois ma vie. Ta mort.
Ma vie qui continue. Ta mort qui continue. (p.78)
あるいは、
LUI ─ J'aurais préféré que tu sois morte à Nevers.
ELLE ─ Moi aussi. Mais je ne suis pas morte à Nevers. (p.96)
広島とヌヴェール、男と女、« histoire de quatre sous »と歴史的な事件、
現在と過去、…、の対比の搦みあい、というわけではない。
女にとって広島は地獄から蘇ったありふれた都市で、
ヌヴェールは辛い故郷として、しばしば廃墟の絵を伴う。
では、広島とは何か? « Hi-ro-shi-ma. C'est ton nom. » なのだ、と。
広島とヌヴェールの邂逅。
原爆という非人道の極みが、ここで、
敵兵と通じた女という、戦時中のありふれた事件と通いあう。
冒頭の、「知っている」「知らない」「見た」「見ない」の
ヒロシマをめぐるキャッチボールのような会話に、
ここでは風穴が開いている。
この交錯が、次第に融けあって恍惚を伴う感触が、
ヌーヴェルヴァーグの映画、ヌーヴォーロマンの文学、らしいように思う。
それを可能にする、記号かパズルの組み合わせのような文体。
9.6.12
森敦『意味の変容・マンダラ紀行』、六車由実『神、人を喰う』、上田秋成『雨月物語』
・森敦「意味の変容」
『群像』連載後、柄谷行人が筆者に掛け合って単行本化が実現したとのこと。
境界をめぐる概念の試考、といってよい。
著者が覚書で明かしているように、位相空間論の近傍概念がまずある。
円を描き、内部に境界を含めず外部に境界を含めるとすると、
内部は近傍として境界を認識せず、境界によって密閉されていないため、
全体であるように認識される、とする。
続いて、凸レンズを経た光の屈折が実像を結ぶ事象を、内外の風穴と見る。
「外部の実現が内部の現実と接続するとき、これをリアリズムという」、
そして「われわれのリアリズムは倍率一倍と称する倍率一・二五倍である」
と帰結すれば、もうここには物理学も論理学もなくて文学理論の話をしている。
話は無限級数のような謂いへ及ぶ。
数ヶ月先の返済とする約束手形、数年、……、死ぬときの返済とする約束手形。
ここに、歴史から哲学へと手形の意味が変容する、という……!
この文学論(?)は、物語の虚実を超越している。
文学性はそこにはないのだ、と。
このダイナミックな考え方に、無二の魅力を感じた。
・森敦「マンダラ紀行」
テレビの紀行番組の司会として、出羽三山、東大寺、四国八十八ヶ所を巡る。
密教の曼荼羅から万物を呑み込むようにして、
華厳経の一即一切、一切即一の境地に至る。
読んで思ったのは、意味の遍在だった。
大日如来を中心とし周囲に異教をも取り込んで
外部を徹底的に内面化する曼荼羅のように、
筆者の密教的思考は外部がなく、意味が充満している。
数学と同じくらいに精緻な理論体系をなしている。
・六車由実『神、人を喰う 人身御供の民俗学』
第三項排除による共同体の安定を目指す祭りの行為が、
かつては人身御供だったとする伝承を生んだ、とする
遡行的な解釈が印象的だった。
伝承(=語り)という意味でも、
「もう人身御供は行われていない」という救いがあってこそ
はじめて公に語り継がれるものになるのだろう。
・上田秋成『雨月物語』
面白いと思ったのは、
全話とも国内の具体的な場所を舞台にしているだけでなく、
登場人物がしばしば広域を経巡る、ということだ。
「浅茅が宿」で主人公は葛飾郡真間に妻を残して京へ上り、
木曽で盗賊に遭い、近江に滞在した後に帰る。
「夢応の鯉魚」は近江国三井寺の僧が魚になって、
竹生島や瀬田の唐橋など、琵琶湖の名所を読者にいざなう。
江戸時代、遊山が流行ったというし、地図ガイドも種々発行された。
そういう意味で、地名が一般人にとっても、
具体性を持って土地色や距離感のイメージを
伴うものになっていたのかもしれない。
27.5.12
古井由吉『杳子・妻隠』、森敦『月山・鳥海山』、アントニオ・タブッキ『遠い水平線』
古井由吉『杳子・妻隠』
杳子の言うこと、行いが、ふざけているようなのに深刻で、
それに振り回されていると次第に呑まれ、異化がだんだんと効いてくる。
杳子という不思議が、レンズを歪める現実の閉塞への風穴が、
読後にさっと開かれている。
不思議系というような括りを強いるラノベのカテゴライズではない。
街の喧騒が、薄暗い曖昧宿が、住宅が、日常が、
ありのままであることを信じられなくなってくるような、そんな強迫感がある。
「妻隠」は、主題といい、
その周辺をオムニバス調に配置するエピソード群としての構成といい、
「円陣を組む女たち」に似ていた。
森敦『月山・鳥海山』
ボロ寺の冬の吹雪、その厳しい気候に生きる老人の愉しみ。酒、出会い。
雪を踏んで道を作る苦行、大根ばかりの味噌汁の日々、見え隠れする朝日連峰。
ようやくの春の花ざかり。生の息吹き。…
この前近代的な生活に美を見出だす視点が、
死の山・月山が吹雪の間から見え隠れしながら、
寒中の生活を肯定し、理解しようとして神々しく棚上げにする。
小説という近代の文学形式が反近代に材を取り、その本質に近い精神分析を一切棄て、
散文とも似た形で、小説になっている。
深沢七郎が『楢山節考』でやった仕事だ。
だが、「『楢山節考』の物語は『月山』ではただの断片なのだ」と、小島信夫の解説が言う。
そのとおりだ。
中上健次とはちょっと違う。あれは神々しい人間が一人ずつぶつかりあう。
月山では、すべてを見下ろすご神体のような山があり、
その麓で人間が天国にあるように生きている。
生の営みの、瞬間ごとの美しさよ、とでもまとめてしまえば、
この作品の広さと深さは消えてしまう。
なんというのだろう、連歌から俳諧を切り離し、
十七文字の一度限りのレンズから森羅万象を視ようとした芭蕉と同じスタンスがあるように感じた。
「行く河の流れは絶へずして」の方丈記の視点とも通じている。
アントニオ・タブッキ『遠い水平線』
意味に憑かれて意味を見出だすような、
『競売ナンバー49の叫び』の彷徨に似たプロットを感じた。
たぶん、この作品は彷徨そのものの愉しみにあるのだと思う。
後藤明生『挟み撃ち』のような、
導かれるものがあってそこに近づいているはずなのに…という境地。
だが読み進める私は残念ながら、最初の屍体の影から逃れられず、水平線の先は見通せなかった。
15.5.12
原武史『可視化された帝国』、トマス・ヴィンターベア『光のほうへ』、ジム・ジャームッシュ『コーヒー&シガレッツ』
原武史『可視化された帝国──近代日本の行幸啓 [増補版]』
日本の天皇制ナショナリズムがどのように確立されていったかが、
明治・大正・昭和の行幸・行啓の詳細な実録とともに記述されている。
あとがきでは、東日本大震災での現天皇の被災地行幸が
さらに考察されている。
明治天皇は行幸を好まなかった。
大正天皇は、遅れた学習を取り戻す現地学習と健康のため、
皇太子時代から積極的に巡啓を行ったものの、
即位後は多忙に閉じこもらざるを得ずに体調を崩していった。
大正天皇は脳病というイメージの植え付けが行われるとともに、
昭和天皇が「現人神」の天皇イメージを確立させた。
──このような流れが論述されている。
明治期、天皇に匹敵するカリスマ性を持った本願寺法主や出雲国造の存在は、
天皇像が明らかに近代日本以降の官製品であることを物語る。
しかし、鉄道や市制など「文明開化」を行幸と結びつけることで、
天皇が新時代の君主であるとイメージづけた。
人前に出すぎた人間的な大正天皇の反省を受けて、
昭和天皇は姿を見せるがめったに言葉を話さないという崇高さを演出した。
面前での君が代斉唱と万歳三唱が一体感・昂揚感を生む。
この非言語的な手法は、満州国での非日本語話者の同化政策に
積極的に用いられた、と著者は指摘する。
鉄道とラジオによる時間的な支配も、推察されている。
いずれも分刻みという近代的な統一感の演出だ。
ただ、こちらは天皇制がそのように行ったというよりは、
時代の変遷が天皇制についてもそうさせたのではないか、と感じた。
つまり、日本的な天皇制ナショナリズムの本質は祭祀的昂揚感にあった。
(私は小泉元首相に関して同じ体験がある。
人気絶頂にある2001年だったか、ニュータウンの駅前に来た彼を迎えたのは
大量のミーハー連中と、それらがひた振る日の丸だった。
演説の内容はまるで覚えていない。誰も覚えていないだろう。
重要だったのは熱狂だった)
浅田彰が昭和天皇死去時「土人の国」と評した日本の一面は、
それとはまた違うと言えるのではないか。
昭和の終盤のあの異様な箝口令の雰囲気は
(私はまだ物心ついておらず見聞にすぎないが)、
それに従う建前と、ビデオ屋の空前の好況に現れた本音という
あからさまな日本人像ともいえる。
だが、その排他性はいったい何なのだろうか。
戦前・戦中には天皇が何ともわからないまま受け容れ、
戦後、天皇について不問に附したがために、
結局は天皇が何ともわからない奇怪な貴人になってしまったがための
臭いものに蓋をした口のつぐみではないだろうか。
トマス・ヴィンターベア『光のほうへ』
母親から半ば養育を抛棄されて育った兄弟の物語。
どちらも人を愛する仕方があまりに不器用なために、
ストーリーが変になるが、それがまた寂しい。
光とは子供だ。
子供が大好きで、そこに自身の生きがいを求めるが、
暴力も麻薬も止められないで破滅してゆく、
この親と子の連鎖でもがき苦しむ様が、
けっこう救いのない蒼白なタッチで描かれる。
ジム・ジャームッシュ『コーヒー&シガレッツ』
カフェで、コーヒーをすすり煙草を喫う、
その合間の奇妙な時間を描いた連作。
しかも、そのうち2つほどは、コーヒーではなく紅茶を飲むという逸脱つき。
コーヒーと煙草で落ち着きたいんだけれども、
結局は話さずにはいられない、というような
孤独と繋がりの合間を揺れるような間(ま)が、面白い。
日本の天皇制ナショナリズムがどのように確立されていったかが、
明治・大正・昭和の行幸・行啓の詳細な実録とともに記述されている。
あとがきでは、東日本大震災での現天皇の被災地行幸が
さらに考察されている。
明治天皇は行幸を好まなかった。
大正天皇は、遅れた学習を取り戻す現地学習と健康のため、
皇太子時代から積極的に巡啓を行ったものの、
即位後は多忙に閉じこもらざるを得ずに体調を崩していった。
大正天皇は脳病というイメージの植え付けが行われるとともに、
昭和天皇が「現人神」の天皇イメージを確立させた。
──このような流れが論述されている。
明治期、天皇に匹敵するカリスマ性を持った本願寺法主や出雲国造の存在は、
天皇像が明らかに近代日本以降の官製品であることを物語る。
しかし、鉄道や市制など「文明開化」を行幸と結びつけることで、
天皇が新時代の君主であるとイメージづけた。
人前に出すぎた人間的な大正天皇の反省を受けて、
昭和天皇は姿を見せるがめったに言葉を話さないという崇高さを演出した。
面前での君が代斉唱と万歳三唱が一体感・昂揚感を生む。
この非言語的な手法は、満州国での非日本語話者の同化政策に
積極的に用いられた、と著者は指摘する。
鉄道とラジオによる時間的な支配も、推察されている。
いずれも分刻みという近代的な統一感の演出だ。
ただ、こちらは天皇制がそのように行ったというよりは、
時代の変遷が天皇制についてもそうさせたのではないか、と感じた。
つまり、日本的な天皇制ナショナリズムの本質は祭祀的昂揚感にあった。
(私は小泉元首相に関して同じ体験がある。
人気絶頂にある2001年だったか、ニュータウンの駅前に来た彼を迎えたのは
大量のミーハー連中と、それらがひた振る日の丸だった。
演説の内容はまるで覚えていない。誰も覚えていないだろう。
重要だったのは熱狂だった)
浅田彰が昭和天皇死去時「土人の国」と評した日本の一面は、
それとはまた違うと言えるのではないか。
昭和の終盤のあの異様な箝口令の雰囲気は
(私はまだ物心ついておらず見聞にすぎないが)、
それに従う建前と、ビデオ屋の空前の好況に現れた本音という
あからさまな日本人像ともいえる。
だが、その排他性はいったい何なのだろうか。
戦前・戦中には天皇が何ともわからないまま受け容れ、
戦後、天皇について不問に附したがために、
結局は天皇が何ともわからない奇怪な貴人になってしまったがための
臭いものに蓋をした口のつぐみではないだろうか。
トマス・ヴィンターベア『光のほうへ』
母親から半ば養育を抛棄されて育った兄弟の物語。
どちらも人を愛する仕方があまりに不器用なために、
ストーリーが変になるが、それがまた寂しい。
光とは子供だ。
子供が大好きで、そこに自身の生きがいを求めるが、
暴力も麻薬も止められないで破滅してゆく、
この親と子の連鎖でもがき苦しむ様が、
けっこう救いのない蒼白なタッチで描かれる。
ジム・ジャームッシュ『コーヒー&シガレッツ』
カフェで、コーヒーをすすり煙草を喫う、
その合間の奇妙な時間を描いた連作。
しかも、そのうち2つほどは、コーヒーではなく紅茶を飲むという逸脱つき。
コーヒーと煙草で落ち着きたいんだけれども、
結局は話さずにはいられない、というような
孤独と繋がりの合間を揺れるような間(ま)が、面白い。
5.5.12
黒澤明『八月の狂詩曲』『まあだだよ』『乱』
黒澤明を立て続けに3本観た。
一本目は戦後45年の現在を舞台に戦争を描き、
二本目は昭和の、戦争どこ吹く風の師弟の心の交流、
そして三本目は戦国時代の血で血を洗う人間の愚かさをあぶり出す。
どれも黒澤映画のレイトワークに当たるカラー作品だが、
まったく毛並みが違って面白かった。
『八月の狂詩曲』
村田喜代子の芥川賞受賞作『鍋の中』が原作。しかし未読。
カラーだからか、田舎の広い日本家屋の奥行きも幅もある遠近感が黒澤映画とは、
どうにも信じられない序盤だった。
だが、主人公のおばあさんからすれば甥にあたるクラークが
ハワイから来日してからは、
心情のさざ波が景色と行動を伴って大いに流れてゆき、やはり黒澤映画だった。
長崎原爆への怒りと悲しみを知った子供たちと、
ハワイの親族に妙に気遣って長崎原爆を過去に流そうとする親たちと、
その間を埋めるように、来日後のクラークの
「あなたたちなぜ、おじさんのこと言わなかったですか?
おじさんのこと聞いて、みんな、泣きました」という科白が、
社交辞令にまみれて本音を出せない日本人の醜態を
もっとも純粋な水で洗い流して露出させるようだった。
夜の雷雨を原爆と取って子供たちを守ろうとする姿、
その後の風雨の中で長崎市街へ一身に向かう姿が、
戦争と原爆はまだ終わっていないと気づかせる。
『まあだだよ』
内田百閒とその教え子たちの交流の物語。
ホームドラマの旧制高等学校版というか、今はなき師弟の絆といった内容。
回顧的なのは否めないが、それでも楽しめた。
結果的に、黒澤明の遺作となった。
それがどこかしら小津っぽいというのは、老境か。
カラーだが『八月の狂詩曲』のような舞台の広がりはなく、
やはり映画セット感があって、そこに収まってすべて動いている。
政治の時代を経て昭和が次第に果てて西暦になるよりもずっと前の、
昭和のまだあった時代の話だ。
『乱』
合戦の描写と動員人数がすごい。
鉄砲玉や矢を受けて落馬するシーン、死屍累々たる城のざまが、
人の業をとくと視よとばかりにカットカットで入ってくる。
一文字秀虎の老人っぷりがすごい。序盤のいきり立ちと、後半の呆けっぷりと。
あと、ロケ地の風情。日本とは思えず、モンゴルかどこかかと思っていたが。
黒澤明の時代物は、『七人の侍』も『蜘蛛巣城』も『隠し砦の三悪人』も、
どれも本当の時代劇ではない。
外部がなく、舞台が閉じていて、登場人物も家柄も架空だ。
この『乱』に至っては、一郎と二郎と三郎の兄弟争いという、
譬え話並みに安直な最初の設定だ。
そうして世界を囲った時代物と、時代の素性が舞台に入り込んでくる現代のものと、
黒澤は前者で名をなした(特に海外で)ものの、
後者のほうが撮りたかったのではないか。
もっとも、黒澤映画では後者をより好む私の希望なのかもしれないが。
4.5.12
アッバス・キアロスタミ『トスカーナの贋作』、黒澤明『静かなる決闘』
アッバス・キアロスタミ『トスカーナの贋作』
真作と贋作の間についてが主題。
小林秀雄の「真贋」を読んだばかりだったので、
自分としてもタイムリーだった。
作品は、講義が全編、後半が演習、とでもいうべきか。
カフェで女主人に夫婦と間違われてからが演習編。
「贋作」という言葉が歪めているけれど、
真意としては、理想と現実の溝と飛躍がそこにはあるのではないか。
女は惹かれた夫(役)との倦怠感のある後ろ向きな幸福に浸り切り、
男との会話に使っていた英語ではなく
前夫との言葉だったであろう母語のフランス語で話す。
男はそれにフランス語で付き合いながら、
付き合い切れないというように英語も垣間見せつつ、
それでもいたわるようにでっち上げに付き合い続ける。
女はでっちあげの過去を懐かしく覚えていて、男は忘れている。
15年の長きを経た夫婦の間の愛の形が、これは本当らしい姿をして、
哀しく横たわっているように思われた。
二人で手を取り合って辿った過去よりも、
今のいたわりあいこそが愛だ、とでも言いたげに。
オールビーの『ヴァージニア・ウルフなんか怖くない』を連想した。
これは本物の夫婦が口喧嘩の上で想像上の息子を殺す話だ。
本物の夫婦だからこそ付き合わざるを得ない過去に嘘を塗り、
相手を出し抜こうとする、これは夫婦のほだしをあぶり出した物語だった。
さらには、人間存在の本質が部分的に嘘で語られているという悲哀も。
『トスカーナの贋作』はその逆で、そこに救いと始まりを見出だす。
黒澤明『静かなる決闘』
最後のクライマックスで中田が乗り込んできて果てるシーンは、
映画としての見どころとしても、物語の絶頂としても、本当に面白かった。
身ごもった元ダンサーからシングルマザーの看護婦として前を向いて生きる峰岸が、
もう一人の主人公として輝いていて(教養小説的だが)、これもよかった。
だが、何よりも良いのは、若先生・藤崎の人間的葛藤が感情的にぶちまけられるところ。
黒澤明はその作品数からしてストーリーメーカーで、
しかもその多くが、一つの悪や一つの取り返しのつかない過去をめぐる浄化だ。
(『悪い奴ほどよく眠る』はもっともえげつない社会の一面、
『生きものの記録』はもっとも救いがたい人間の尊厳の危機で、
ともに浄化されないまま観客の中にしこりとして残るが。)
場面を作るというより、テーマを立て、配役を周りに置きながらストーリーを考えて、
その上で場面が作られて、という生成を、この作品からは強く感じた。
『生きる』はあまりそんな感じはしなかった。
この作品のような群像劇ではなかったからだろう。
3.5.12
木村祐一『ニセ札』、黒澤明『羅生門』
木村祐一『ニセ札』
戦後間もなくの実際の事件を材に取った映画。
貧困からの偽札造りということだったが、その貧困さの描かれ方が
切羽詰まった内容ではなく、むしろささやかな欲求にすぎないというところが、
結局は戦後60年以上隔たった現在の戦後状況への想像力の限界なのか。
むしろ、村ぐるみの偽札偽造事件が戦後数年で起きていたことのほうが驚き。
終盤、小学校教師のかげ子が、札は本物でも偽物でも所詮紙切れ、と言ってから
息子が裁判所に参入して本物と偽物の紙吹雪で幕を閉じるというところは
シリアスさとコミカルさの絶頂で、面白かった。
全体としては、ストーリーがリニア(直線的)に思われた。
写真屋がいて、印刷工がいて、村をまとめる信頼ある小学校教師がいて、
資産家と言い出しっぺがいて、そして偽札偽造への物語。
黒澤明『羅生門』
人の姿をありのままに曝け出すようなこういう映画こそ、観たかった。
キャラクターとかストーリーが走るのではなく、人が透ける機構こそ文学だと思う。
赤ん坊が現れてから、追い剥ぎ、泥棒、そして不信が祟り目のように続いた上で、
ようやく雨が上がって人が人を信じる和解が生まれたときの一筋の救いが、
まだ無垢の赤ん坊を抱きながらまっすぐ前を向いて歩く志村喬の姿が印象的。
序盤で藪の中を歩く姿に、つまり振り出しに戻っただけなのかもしれないが、
それでも、嘘の多重を踏み越えた一つの無垢の信念を
抱きかかえているという決定的な相違がある。
小林秀雄『モオツァルト・無常という事』、ガス・ヴァン・サント『永遠の僕たち』
小林秀雄『モオツァルト・無常という事』
五感を研ぎ澄ませて感じた、というままのよう。
自分が読んできた読書遍歴は、惰性だったんではないか、という気負けすら感じた。
「実朝」では、源実朝の万葉調といわれるほのぼのとした景色に嘆じ、
しかし「光悦と宗達」では、古今・新古今の形式美をも抱きかかえる。
作者の生い立ちや時代、心情を大いに含んで論じながらも、
感受することをただただ希求して、評論は語られる。
この愚直さ。よって、読後に実物に触れたい気分に駆られる。
それにしても、自分はそこまで純朴になれない。
萬葉集の普遍性はわかるが新古今調のほうに嘆じられるし、
モーツァルトよりプロコフィエフやバルトークのほうが好きだ。
ガス・ヴァン・サント『永遠の僕たち』
骨格から細部まで、至るところに「死」のテーマが散りばめられている。
余命数ヶ月の準主役の存在は、ストーリーの躍動には欠かせないけれど、
生と死のテーマの客体がそれだけにとどまらないのが良い。
特攻隊として死んだ日本兵の幽霊、両親を交通事故でなくした主人公と、
死を抱え込んだ三者が搦みあう。
死をどう受容するかについて、この映画はあまり多くは語らない。
だから、死にゆく者との生の瞬間々々をカラフルに描き出すシーンは、
フラッシュバックのように断片的なカットでのみ流される。
その意味では、ストーリーらしさはないといえるかもしれない。
だが、死をストーリーでやすやすと受け容れて処理してしまってよいものか。
そういった、死への尊厳からの問いがあるように思われた。
五感を研ぎ澄ませて感じた、というままのよう。
自分が読んできた読書遍歴は、惰性だったんではないか、という気負けすら感じた。
「実朝」では、源実朝の万葉調といわれるほのぼのとした景色に嘆じ、
しかし「光悦と宗達」では、古今・新古今の形式美をも抱きかかえる。
作者の生い立ちや時代、心情を大いに含んで論じながらも、
感受することをただただ希求して、評論は語られる。
この愚直さ。よって、読後に実物に触れたい気分に駆られる。
それにしても、自分はそこまで純朴になれない。
萬葉集の普遍性はわかるが新古今調のほうに嘆じられるし、
モーツァルトよりプロコフィエフやバルトークのほうが好きだ。
ガス・ヴァン・サント『永遠の僕たち』
骨格から細部まで、至るところに「死」のテーマが散りばめられている。
余命数ヶ月の準主役の存在は、ストーリーの躍動には欠かせないけれど、
生と死のテーマの客体がそれだけにとどまらないのが良い。
特攻隊として死んだ日本兵の幽霊、両親を交通事故でなくした主人公と、
死を抱え込んだ三者が搦みあう。
死をどう受容するかについて、この映画はあまり多くは語らない。
だから、死にゆく者との生の瞬間々々をカラフルに描き出すシーンは、
フラッシュバックのように断片的なカットでのみ流される。
その意味では、ストーリーらしさはないといえるかもしれない。
だが、死をストーリーでやすやすと受け容れて処理してしまってよいものか。
そういった、死への尊厳からの問いがあるように思われた。
23.4.12
アッバス・キアロスタミ『風が吹くまま』、金子拓『記憶の歴史学』
アッバス・キアロスタミ『風が吹くまま』
テヘランから500kmのクルド人の山村、黒の谷を意味するシアダレを舞台に、
主人公のTVディレクターがドキュメンタリー撮影のため老婆の死を待つ。
そこの日常にありふれた生と死が、何げないのだけれど輝いていて、
とても心地よいながらも無常を感じた。
優しい無常というのか、それは自然の営みに似ている。
木々がまばらな乾燥地帯という閉じた舞台が、
岩肌に建てられたような村の静かながら生き生きとした感じを伝えるし、
牛や鶏のいる風景が、「この村に電話はいらないよ」という村人の言葉が、
変わらない村の景色を伝える。
そんな中でも、すべては移り変わってゆく。
ファザードは進学を視野にテストでいい点を取ろうと頑張り、
カフェの亭主は口論の末に家を出てゆくし、
間借りの向かいの家には子供が生まれるし、
丘の上、墓近くで男は毎日、恋人の淹れてくれるお茶とともに井戸を掘る。
どうということもないけれど、科白の一つ一つが象徴的に感じられた。
どの木のことかわからない、とか、
道はいくつかあってこれが一番しんどい、とか、
道案内は君じゃないか、でも自分でこっちを選んだんじゃないか、とか。
金子拓『記憶の歴史学』
この本でいう記憶とは、書き手の現在を取り巻く時勢や立場に応じた史料読解、
ということになるのだろうか。
一次史料がどのように扱われ、改編され、複製されてきたか、
というメタな歴史の読み解きの事例集だった。
テヘランから500kmのクルド人の山村、黒の谷を意味するシアダレを舞台に、
主人公のTVディレクターがドキュメンタリー撮影のため老婆の死を待つ。
そこの日常にありふれた生と死が、何げないのだけれど輝いていて、
とても心地よいながらも無常を感じた。
優しい無常というのか、それは自然の営みに似ている。
木々がまばらな乾燥地帯という閉じた舞台が、
岩肌に建てられたような村の静かながら生き生きとした感じを伝えるし、
牛や鶏のいる風景が、「この村に電話はいらないよ」という村人の言葉が、
変わらない村の景色を伝える。
そんな中でも、すべては移り変わってゆく。
ファザードは進学を視野にテストでいい点を取ろうと頑張り、
カフェの亭主は口論の末に家を出てゆくし、
間借りの向かいの家には子供が生まれるし、
丘の上、墓近くで男は毎日、恋人の淹れてくれるお茶とともに井戸を掘る。
どうということもないけれど、科白の一つ一つが象徴的に感じられた。
どの木のことかわからない、とか、
道はいくつかあってこれが一番しんどい、とか、
道案内は君じゃないか、でも自分でこっちを選んだんじゃないか、とか。
金子拓『記憶の歴史学』
この本でいう記憶とは、書き手の現在を取り巻く時勢や立場に応じた史料読解、
ということになるのだろうか。
一次史料がどのように扱われ、改編され、複製されてきたか、
というメタな歴史の読み解きの事例集だった。
副題は「史料に見る戦国」だが、戦国時代のみではなく、
永井荷風『断腸亭日乗』も古川ロッパの日記も登場する。
戦時下の思想統制を恐れた自己改竄、
故実のまとめ直しの際の、当時進行中だった事項の結末の無意識の混濁。
集団の記憶という点では、複数の家での武勲の覚書に出てくる一般名詞化。
これまで自分は、「集団の記憶」なるものに懐疑的だったので、
一般名詞化という具体的な道筋とともにその実態が摑めたという点で、面白かった。
12.4.12
エリック・マコーマック『ミステリウム』、川上弘美『真鶴』
エリック・マコーマック『ミステリウム』
村の一事件をめぐる、ミステリーといえばミステリーの小説。
物語という強引な現実理解への疑問と省察が、根底にある。
それは、村人エーケンによって村荒らしの犯人と目星を付けられる植民地人カークと、
こんどは真犯人と自称するエーケンの自白の二重構造の間を、
語り手の新聞記者見習いが揺り動きながらおずおずと手がかりを探り、
取材の語りを生のまま呈示するというストーリー展開によって、進む。
補助線として、捜査を担当するブレアの犯罪学講義の言及する「新しい犯罪学」が
犯罪の分析そのものに主観を認めない方法へ新鋭化しているという言及が与えられる
(ソシュール以降の言語学の歩みに酷似した研究史が概説される)。
犯罪は動機から結末までを一本の論理で貫いて語りうるのか?
その疑問をめぐって、語りの論理を肯定したい語り手と、
否定したい行政官とが、結局は意見を違える。
私は読後、カミュ『異邦人』を思い出した。
川上弘美『真鶴』
失踪した夫のいない空虚を抱えて、
行き場を失った愛への折り合いをつけようと骨折る主人公の話。
語りが日常とも非日常ともつかない間をたゆたい、
平凡ながら決して平板ではない日常とその中の感情の含みが、巧い。
ぼそぼそとつぶやくような文体が時おり静かに熱を帯び、感情を迸らせる。
真鶴という場所の設定と描写だけがはっきりしていて、あとは曖昧糢糊としている。
だが逆に、何かありそうな予言めいた出来事と展開とともに、
真鶴での浄化が、海と岩海岸と静けさと賑わいとともに、美しく際立つ。
村の一事件をめぐる、ミステリーといえばミステリーの小説。
物語という強引な現実理解への疑問と省察が、根底にある。
それは、村人エーケンによって村荒らしの犯人と目星を付けられる植民地人カークと、
こんどは真犯人と自称するエーケンの自白の二重構造の間を、
語り手の新聞記者見習いが揺り動きながらおずおずと手がかりを探り、
取材の語りを生のまま呈示するというストーリー展開によって、進む。
補助線として、捜査を担当するブレアの犯罪学講義の言及する「新しい犯罪学」が
犯罪の分析そのものに主観を認めない方法へ新鋭化しているという言及が与えられる
(ソシュール以降の言語学の歩みに酷似した研究史が概説される)。
犯罪は動機から結末までを一本の論理で貫いて語りうるのか?
その疑問をめぐって、語りの論理を肯定したい語り手と、
否定したい行政官とが、結局は意見を違える。
私は読後、カミュ『異邦人』を思い出した。
川上弘美『真鶴』
失踪した夫のいない空虚を抱えて、
行き場を失った愛への折り合いをつけようと骨折る主人公の話。
語りが日常とも非日常ともつかない間をたゆたい、
平凡ながら決して平板ではない日常とその中の感情の含みが、巧い。
ぼそぼそとつぶやくような文体が時おり静かに熱を帯び、感情を迸らせる。
真鶴という場所の設定と描写だけがはっきりしていて、あとは曖昧糢糊としている。
だが逆に、何かありそうな予言めいた出来事と展開とともに、
真鶴での浄化が、海と岩海岸と静けさと賑わいとともに、美しく際立つ。
E.M.フォースター『小説の様相』、大塚英志『キャラクター小説の作り方』、大江健三郎『小説の方法』
文学の生成論とでもいえばいいのか、小説家による小説論を立て続けに読んだ。
これまで自分がアプローチしなかった小説論であり、
文学部的なテクスト原理主義の読解に違和感を持っていた自分にとって、
新鮮な方法論だった。
・E.M.フォースター『小説の様相』
これは主に物語に関する生成論。
登場人物についての章もあるが、
ストーリーの中で苦悩し、プロットを展開させる存在としての登場人物。
現実とは違って小説はどう語り、どう場面や世界や心中を明らかにするか、
そういった観点から述べられている。
フォースターは理論家であり小説家であるため、
書く側の論理がふんだんに含まれるのも面白い。
登場人物の生き生きとした描写がプロット優先の犠牲になって
小説全体が尻窄みになりがちだ、とか、
平板な登場人物は利用しやすい、とか。
・大塚英志『キャラクター小説の作り方』
キャラクター小説とは今でいうライトノベル。
キャラクターと世界観を売りとした商品としてのラノベを
文学たらしめようとした大塚英志の、
その野心の初期の文章に当たる。
物語構成術と、キャラクター作成術、この二つの手の内の開示は面白かった。
・大江健三郎『小説の方法』
読み終えて、大作家はかくも方法論的に書いているのか、と驚嘆した。
キーワードは「異化」。
無為に過ぎ去る日常を生き生きと再呈示する、小説の効果の根源だ。
「異化」の方法として、
文体(日常表現からの脱出)
イメージ(展開やグロテスクさ、パロディが現実感を浮き彫りにする)
トリックスター(中心から周縁までを貫く主人公の経巡り)
の方法論が語られる。
山口昌男のアルレッキーノ論とロシアフォルマリズムに大きな影響を受けていて、
作品読解中、援用しすぎと思わずにはいられないところはあるものの、
読解と記述の相互作用の意味では、それでいいのかもしれない。
これまで自分がアプローチしなかった小説論であり、
文学部的なテクスト原理主義の読解に違和感を持っていた自分にとって、
新鮮な方法論だった。
・E.M.フォースター『小説の様相』
これは主に物語に関する生成論。
登場人物についての章もあるが、
ストーリーの中で苦悩し、プロットを展開させる存在としての登場人物。
現実とは違って小説はどう語り、どう場面や世界や心中を明らかにするか、
そういった観点から述べられている。
フォースターは理論家であり小説家であるため、
書く側の論理がふんだんに含まれるのも面白い。
登場人物の生き生きとした描写がプロット優先の犠牲になって
小説全体が尻窄みになりがちだ、とか、
平板な登場人物は利用しやすい、とか。
・大塚英志『キャラクター小説の作り方』
キャラクター小説とは今でいうライトノベル。
キャラクターと世界観を売りとした商品としてのラノベを
文学たらしめようとした大塚英志の、
その野心の初期の文章に当たる。
物語構成術と、キャラクター作成術、この二つの手の内の開示は面白かった。
・大江健三郎『小説の方法』
読み終えて、大作家はかくも方法論的に書いているのか、と驚嘆した。
キーワードは「異化」。
無為に過ぎ去る日常を生き生きと再呈示する、小説の効果の根源だ。
「異化」の方法として、
文体(日常表現からの脱出)
イメージ(展開やグロテスクさ、パロディが現実感を浮き彫りにする)
トリックスター(中心から周縁までを貫く主人公の経巡り)
の方法論が語られる。
山口昌男のアルレッキーノ論とロシアフォルマリズムに大きな影響を受けていて、
作品読解中、援用しすぎと思わずにはいられないところはあるものの、
読解と記述の相互作用の意味では、それでいいのかもしれない。
28.2.12
青木淳悟『私のいない高校』
ストーリーというか主軸があるとすれば、
留学生ナタリー・サンバートンを受け入れる女子高での担任の奮闘、となろうか。
だが、それはあまりに淡々と語られる。表面的には、単なる記録だ。
監視カメラから覗く日常は、おそらくこんな平板な物語になろう。
読み進めているうちに、
タイトルどおり「私のいない」状態のまま物語が進行していることに気づく。
例えば、留学生の受け入れと日本語指導に尽力する担任は、
私人の領分がないほどに常に留学生、クラス、学校行事にのみ注意をかけている。
語りの視座となっているのに、後半でようやく氏名を明かされるくらいだ。
留学生も、伝統芸能から日本の学校生活まで、多様な日本文化に触れるが、
それがどのように受け止められているのかは、まるでわからない。
終盤、ようやく日本語を身につけ始め、花道部員として作品を残すが、
それは学習成果や成長ではなく真似であり、個人の内面とは関係ない。
他の登場人物も、まったく内面を現さない。
いや、たった一箇所だけ、意思が露出する場面がある。
留学生が写真を撮るためカメラをバスに取りにいきたいと担任に願う場面だ。
が、担任は、そんな時間はない、と許可を与えない。
ささやかな抗議は、すぐに時系列の彼方へ流れ去ってしまう。
わだかまりはない。
個性だの自立だのと述べたてる社会生活が、実は内面なくして成り立っている、
そう静かに告発しているようにも読める。
教育とは結局のところ個人の内面性の涵養などではなく「まねび」である、
その実態を述べているようにも読める。
たが、それは作品の「私がない」という主題から派生する一解釈だ。
奥泉光は、個々の登場人物すべてを相対化した作品、として読んでいる(リンク)。
留学生ナタリー・サンバートンを受け入れる女子高での担任の奮闘、となろうか。
だが、それはあまりに淡々と語られる。表面的には、単なる記録だ。
監視カメラから覗く日常は、おそらくこんな平板な物語になろう。
読み進めているうちに、
タイトルどおり「私のいない」状態のまま物語が進行していることに気づく。
例えば、留学生の受け入れと日本語指導に尽力する担任は、
私人の領分がないほどに常に留学生、クラス、学校行事にのみ注意をかけている。
語りの視座となっているのに、後半でようやく氏名を明かされるくらいだ。
留学生も、伝統芸能から日本の学校生活まで、多様な日本文化に触れるが、
それがどのように受け止められているのかは、まるでわからない。
終盤、ようやく日本語を身につけ始め、花道部員として作品を残すが、
それは学習成果や成長ではなく真似であり、個人の内面とは関係ない。
他の登場人物も、まったく内面を現さない。
いや、たった一箇所だけ、意思が露出する場面がある。
留学生が写真を撮るためカメラをバスに取りにいきたいと担任に願う場面だ。
が、担任は、そんな時間はない、と許可を与えない。
ささやかな抗議は、すぐに時系列の彼方へ流れ去ってしまう。
わだかまりはない。
個性だの自立だのと述べたてる社会生活が、実は内面なくして成り立っている、
そう静かに告発しているようにも読める。
教育とは結局のところ個人の内面性の涵養などではなく「まねび」である、
その実態を述べているようにも読める。
たが、それは作品の「私がない」という主題から派生する一解釈だ。
奥泉光は、個々の登場人物すべてを相対化した作品、として読んでいる(リンク)。
27.2.12
中島京子『小さいおうち』、『新島襄 教育宗教論集』
中島京子『小さいおうち』
2010年下半期直木賞受賞作。
概して直木賞作品はあまり読まないが、知己の編集者が誉めていたので手に取った。
引退した女中が、戦時中に働いた中上流家庭での思い出を語る。
その書き出しはどうしてもカズオ・イシグロ『日の名残り』を思わせる。
戦時中の描写はエピソードはあるもののあまりうねらず淡々としているし、
調べて書いたような裏がやや透けて、
井上ひさし『東京セヴンローズ』、島田雅彦『退廃姉妹』に及ばない。
長過ぎる前半は、語り手の死去で閉ざされる。
終章からなる後半が、面白い。
物語のそこここに振り出しておいたイメージを、一気に束ねて現代へ蘇らせる。
過去を問うということへの問題の投げかけが、最後にすっと提示されて、巧い。
『新島襄 教育宗教論集』
同志社編。主に講演原稿から、教育論、宗教論、そして若干の文明論を編んだ選集。
同志社英学校の創立者として知られる人物像が一般的だが、
これを読んで、むしろ汎く日本にキリスト教的自由主義の高等教育を浸透させる野心がうかがえた。
その問題意識には、物質的な欧化に伴わない自由主義精神の早急な必要性がある。
折しも、国会開設の勅諭の後の時代だった。
新島襄のキリスト教とは、むしろ近代欧米のキリスト教文化的な精神性だ。
新旧約の聖書を散りばめた説教ではなく、東洋の譬喩をも時には援用し、
倫理と理性を説き、そのうえでキリスト教の有用性を説く。
だから、直接運営的な会衆派が代議的性格の長老派と合併する際には、
布教の効率ではなく直接民主制的な精神性を重んじて、あえて強く反対した。
ここに、新島の優先順位を見ることができる。
新島は個人の自由意志を尊重する。
だから、ミッションスクールとは異なって、入学する学生に信仰を問わなかった。
演説でも「もし皆さまがそれ[=永遠の命]を自由意志でもってうけいれられないのであれば、神といえどもそれを受けるよう強制はできない」(p.156)と述べている。
また、「[…]忠臣義士とか云い、又同胞兄弟のために公益を計りし人も、[…]これらの人々は、真に人間として、人間終局の点に達せし人と云うべからず」(p.174)と、
ここまで言い切ってしまうのはすごい。
2010年下半期直木賞受賞作。
概して直木賞作品はあまり読まないが、知己の編集者が誉めていたので手に取った。
引退した女中が、戦時中に働いた中上流家庭での思い出を語る。
その書き出しはどうしてもカズオ・イシグロ『日の名残り』を思わせる。
戦時中の描写はエピソードはあるもののあまりうねらず淡々としているし、
調べて書いたような裏がやや透けて、
井上ひさし『東京セヴンローズ』、島田雅彦『退廃姉妹』に及ばない。
長過ぎる前半は、語り手の死去で閉ざされる。
終章からなる後半が、面白い。
物語のそこここに振り出しておいたイメージを、一気に束ねて現代へ蘇らせる。
過去を問うということへの問題の投げかけが、最後にすっと提示されて、巧い。
『新島襄 教育宗教論集』
同志社編。主に講演原稿から、教育論、宗教論、そして若干の文明論を編んだ選集。
同志社英学校の創立者として知られる人物像が一般的だが、
これを読んで、むしろ汎く日本にキリスト教的自由主義の高等教育を浸透させる野心がうかがえた。
その問題意識には、物質的な欧化に伴わない自由主義精神の早急な必要性がある。
折しも、国会開設の勅諭の後の時代だった。
新島襄のキリスト教とは、むしろ近代欧米のキリスト教文化的な精神性だ。
新旧約の聖書を散りばめた説教ではなく、東洋の譬喩をも時には援用し、
倫理と理性を説き、そのうえでキリスト教の有用性を説く。
だから、直接運営的な会衆派が代議的性格の長老派と合併する際には、
布教の効率ではなく直接民主制的な精神性を重んじて、あえて強く反対した。
ここに、新島の優先順位を見ることができる。
新島は個人の自由意志を尊重する。
だから、ミッションスクールとは異なって、入学する学生に信仰を問わなかった。
演説でも「もし皆さまがそれ[=永遠の命]を自由意志でもってうけいれられないのであれば、神といえどもそれを受けるよう強制はできない」(p.156)と述べている。
また、「[…]忠臣義士とか云い、又同胞兄弟のために公益を計りし人も、[…]これらの人々は、真に人間として、人間終局の点に達せし人と云うべからず」(p.174)と、
ここまで言い切ってしまうのはすごい。
21.2.12
ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』
池澤夏樹個人編集世界文学全集に収められた池内紀の新訳。
こんなに面白い本を長らく放置していたとは。
しばしば寓話の名で語られる作品だ。
たいていはその第一の証拠に、自分の意志で成長を止めた3歳の主人公が引かれるが、
むしろ、その幼い目に語られる即物的なグロテスクさが、寓話らしさの核だろう。
15ページほどの小章ごとに一つのイメージがあり、それをめぐって物語は進行する。
それをめぐって、ねじが廻転し、出来事が繰り広げられ、人が死に、
しかしイメージは物語の陰翳を帯びて生々しく、ときに血まみれになりながら残る。
これがグラスの小説家としての武器、寓意的文体だ。
小説の内容は、まぁ読めばわかる。
ひとたび通読すれば、小章の一つずつが短篇として取り出せるだろう。
どれも語り口が流麗で読み飽きない。
こんなに面白い本を長らく放置していたとは。
しばしば寓話の名で語られる作品だ。
たいていはその第一の証拠に、自分の意志で成長を止めた3歳の主人公が引かれるが、
むしろ、その幼い目に語られる即物的なグロテスクさが、寓話らしさの核だろう。
15ページほどの小章ごとに一つのイメージがあり、それをめぐって物語は進行する。
それをめぐって、ねじが廻転し、出来事が繰り広げられ、人が死に、
しかしイメージは物語の陰翳を帯びて生々しく、ときに血まみれになりながら残る。
これがグラスの小説家としての武器、寓意的文体だ。
小説の内容は、まぁ読めばわかる。
ひとたび通読すれば、小章の一つずつが短篇として取り出せるだろう。
どれも語り口が流麗で読み飽きない。
1.2.12
『ラテンアメリカ五人集』
ホセ・エミリオ・パチェーコ、マリオ・バルガス=リョサ、
カルロス・フエンテス、オクタビオ・パス、ミゲル・アンヘル・アストゥリアス。
南米文学の巨匠五人の手になる集英社文庫版作品集。
短篇、詩、掌篇。リアリスム、神話、シュルレアリスム、……。
パチェーコ「砂漠の戦い」は自伝的な短篇。
ラテンアメリカ社会革命前の頽落的な風潮の色濃い中下層社会で、
友人の母親に恋をして破れた少年時代を回顧する。
大人の背中を見て育った子供たちの小社会の残酷さと生きるしたたかさにも、
貧富の差が友人関係を引き裂き口を噤ませるやるせなさにも、
言いようのない辛さがある。
バルガス=リョサ「子犬たち」は、一人の金持ちの子供が、
そうではないわんぱくな子供たちに次第に溶け込み、
そして抜け出せないまま子供として惨めに歳をとってしまう、という話。
自分ひとりだけ思春期直前の精神年齢にとどまる焦り、そして屈折。
終盤に決定的な仲違いをしてから、時はめぐり、
少年たちは中年の小市民に落ち着いてしまっている。
この物語内時間の取り返しのつかない加速と漂う喪失感がよかった。
いくつもの科白が挿入されていて一文の長い文体は、
言葉が言動に追いつかない子供の感じを出している。
アストゥリアス「グアテマラ伝説集」は、伝説のような浮世離れした論理が
きらめく譬喩とともに原色の風景を語る。まるで謂いが摑めない。
グアテマラの、あるいは中米の、アジアとはまた違った雑多感に
少しでも馴染みがあれば、おそらく少しは
意味なり雰囲気なりに同意できるのかもしれないが。
結局解せなかったことがもったいない、そう思ってページを閉じた。
カルロス・フエンテス、オクタビオ・パス、ミゲル・アンヘル・アストゥリアス。
南米文学の巨匠五人の手になる集英社文庫版作品集。
文学の多様性がここまで全面に押し出された、
良い意味で統一感のない短篇集も珍しかろう。短篇、詩、掌篇。リアリスム、神話、シュルレアリスム、……。
パチェーコ「砂漠の戦い」は自伝的な短篇。
ラテンアメリカ社会革命前の頽落的な風潮の色濃い中下層社会で、
友人の母親に恋をして破れた少年時代を回顧する。
大人の背中を見て育った子供たちの小社会の残酷さと生きるしたたかさにも、
貧富の差が友人関係を引き裂き口を噤ませるやるせなさにも、
言いようのない辛さがある。
バルガス=リョサ「子犬たち」は、一人の金持ちの子供が、
そうではないわんぱくな子供たちに次第に溶け込み、
そして抜け出せないまま子供として惨めに歳をとってしまう、という話。
自分ひとりだけ思春期直前の精神年齢にとどまる焦り、そして屈折。
終盤に決定的な仲違いをしてから、時はめぐり、
少年たちは中年の小市民に落ち着いてしまっている。
この物語内時間の取り返しのつかない加速と漂う喪失感がよかった。
いくつもの科白が挿入されていて一文の長い文体は、
言葉が言動に追いつかない子供の感じを出している。
アストゥリアス「グアテマラ伝説集」は、伝説のような浮世離れした論理が
きらめく譬喩とともに原色の風景を語る。まるで謂いが摑めない。
グアテマラの、あるいは中米の、アジアとはまた違った雑多感に
少しでも馴染みがあれば、おそらく少しは
意味なり雰囲気なりに同意できるのかもしれないが。
結局解せなかったことがもったいない、そう思ってページを閉じた。
27.1.12
柴田元幸編訳『どこにもない国 現代アメリカ幻想小説集』
幻想文学は、幻想たる部分の説明と、物語の進行が、
自然かつ華麗になされなければならない。
それぞれの重視する観点が前者か後者かで、
幻想の世界を見せたい幻想文学と、
その仮定が人や社会の本質をあぶり出す幻想文学、二つがある。
もちろん、この分類法は恣意的で乱暴だ。
藤子不二雄的SFだって、幻想文学だ。
ジョイス・キャロル・オーツ「どこへ行くの、どこ行ってたの?」はその体裁。
ケン・カルファス「見えないショッピングモール」は、
前者(幻想の世界を見せたい幻想文学)の最たる例かもしれない。
カルヴィーノ『見えない都市』の形式をそのまま拝借している。
都市ではなくショッピングモールが、建築ではなく資本主義の極致が、
マルコ・ポーロに仮託したカルヴィーノの文体で述べられる。
まさに『見えない都市』番外編。
ウィリアム・T・ヴォルマン「失われた物語たちの墓」は読まなかった。
ポーの下敷きを汲み取って読めるほど、私の読書量は充分ではない。
自然かつ華麗になされなければならない。
それぞれの重視する観点が前者か後者かで、
幻想の世界を見せたい幻想文学と、
その仮定が人や社会の本質をあぶり出す幻想文学、二つがある。
もちろん、この分類法は恣意的で乱暴だ。
藤子不二雄的SFだって、幻想文学だ。
ジョイス・キャロル・オーツ「どこへ行くの、どこ行ってたの?」はその体裁。
ケン・カルファス「見えないショッピングモール」は、
前者(幻想の世界を見せたい幻想文学)の最たる例かもしれない。
カルヴィーノ『見えない都市』の形式をそのまま拝借している。
都市ではなくショッピングモールが、建築ではなく資本主義の極致が、
マルコ・ポーロに仮託したカルヴィーノの文体で述べられる。
まさに『見えない都市』番外編。
ウィリアム・T・ヴォルマン「失われた物語たちの墓」は読まなかった。
ポーの下敷きを汲み取って読めるほど、私の読書量は充分ではない。
26.1.12
後藤明生『首塚の上のアドバルーン』、津田大介『Twitter社会論』
後藤明生『首塚の上のアドバルーン』
七つの短篇からなる連作。
東京郊外で開発の著しい幕張に引っ越してきて、
そこから偶然、馬加康胤の首塚を見つける。
幕張の地名由来となった千葉氏傍系の士族だ。
まっさらな土地に建設されたニュータウンにいながら、
旧市民との微妙な関係、さらなる過去にある馬加氏の謎をめぐって、
滝口入道、新田義貞など、首塚をめぐっての連想と脱線、と続く。
後藤明生は『挟み撃ち』を読んで、物語の脱線が繋がってゆく面白さを感じた。
『挟み撃ち』はゴーゴリの「外套」を下敷きに、
アカーキー・アカーキエヴィチならぬ赤木氏が外套を探して彷徨する。
『首塚の上のアドバルーン』も、脱線の横滑りだ。
しかし、脱線は繋がらずに、馬加康胤の首塚とニュータウンをめぐって
ぐるぐると私的にまわってゆくばかり。
物語はあまり何も産まない。
しかし、郊外というものを一枚剥いだ歴史、得体の知れないトポス、というものを
この連作は感じさせる。
ニュータウンをこのような多重性で描いた作品は、意外にそう多くない。
津田大介『Twitter社会論』
iPhoneアプリとしての無料配布を享受し、私の初めて読んだ電子書籍だ。
メディアジャーナリストでtwitterヘビーユーザーによるTwitter概論。
140字のタイムラインというtwitterがどのように世に出て、
新たなコミュニケーションツールとして使用されているか、
メディア、ジャーナリズム、政治、経済にどう作用しているか、
刊行時2009年11月の趨勢がまとめられている。
あとがきには、その後にリツイート機能の実装の影響などが附記されている。
概論としてまとまっているので、twitterの背景や状況を一通り知るには良い。
七つの短篇からなる連作。
東京郊外で開発の著しい幕張に引っ越してきて、
そこから偶然、馬加康胤の首塚を見つける。
幕張の地名由来となった千葉氏傍系の士族だ。
まっさらな土地に建設されたニュータウンにいながら、
旧市民との微妙な関係、さらなる過去にある馬加氏の謎をめぐって、
滝口入道、新田義貞など、首塚をめぐっての連想と脱線、と続く。
後藤明生は『挟み撃ち』を読んで、物語の脱線が繋がってゆく面白さを感じた。
『挟み撃ち』はゴーゴリの「外套」を下敷きに、
アカーキー・アカーキエヴィチならぬ赤木氏が外套を探して彷徨する。
『首塚の上のアドバルーン』も、脱線の横滑りだ。
しかし、脱線は繋がらずに、馬加康胤の首塚とニュータウンをめぐって
ぐるぐると私的にまわってゆくばかり。
物語はあまり何も産まない。
しかし、郊外というものを一枚剥いだ歴史、得体の知れないトポス、というものを
この連作は感じさせる。
ニュータウンをこのような多重性で描いた作品は、意外にそう多くない。
津田大介『Twitter社会論』
iPhoneアプリとしての無料配布を享受し、私の初めて読んだ電子書籍だ。
メディアジャーナリストでtwitterヘビーユーザーによるTwitter概論。
140字のタイムラインというtwitterがどのように世に出て、
新たなコミュニケーションツールとして使用されているか、
メディア、ジャーナリズム、政治、経済にどう作用しているか、
刊行時2009年11月の趨勢がまとめられている。
あとがきには、その後にリツイート機能の実装の影響などが附記されている。
概論としてまとまっているので、twitterの背景や状況を一通り知るには良い。
16.1.12
仲村清司『本音で語る沖縄史』
読みやすい抑揚はあれど、タイトルとは裏腹にひたすら琉球=沖縄の歴史が語られる。
沖縄の今を知る上で欠かせない前提知識となる沖縄史を、概観できた。
砂鉄が産出しないために10世紀頃まで貝塚時代を続けた後、
鉄器の輸入による強国化と身分社会の発達、按司の群雄割拠までは、
あるいは八重山の身分制のない漁撈生活から鉄文化導入による身分制への移行は、
歴史の一般性がありありと現れている。
琉球王国は日中両大国間でうまく立ち回ることで交易で繁栄を謳歌し、
官僚制の硬直化によって滅びることで日本の一辺境と化したが、
王国時代には人頭税によって八重山諸島から搾取した。
この多重性が、琉球を善とし沖縄を悪と見なす短絡さを許さない。
ここにもやはり、そうした一般性が透けて見える。
日本と中国の間で貿易国として栄えた琉球王国の時代は、
朝貢・冊封というゆるやかな外交関係が、現在の西欧的国際法とは全く異なり、
経済秩序の下として成り立っていたという実例として、面白かった。
それに倣い、江戸時代幕藩体制を一政体ではなく連邦体と見て、
江戸幕府を中心とする冊封体制と考えた方がいいかもしれない。
鎖国は国内を一つに閉ざしたと考えがちだが、
実際のところ交易は諸藩やオランダ人商人によって世界経済に組み入れられている。
近代、琉球王国は政治の迷走によって次第に外交能力を失い、
薩摩と清国の間の外交の切り札に成り下がった。
明治政権による琉球処分、同化政策と沖縄戦、占領と基地の時代まで、
沖縄の自主ではなく支配者(薩摩、明治政府、アメリカ、日中安保下の日本)に
翻弄されて、今に至っている。
そうした中、例えば改名は国内の身分向上のために“自発的”だったという
涙ぐましいアイデンティティの抛棄が進歩的な人々の中にあったという事実も、
一方では留めておいたほうがいい。
実利と名誉を秤にかけるということを余儀なくされた選択は時代を生き抜くためで、
後世から軽々しく批難も賛同もできない。
現代のわれわれがその歴史から学べることは、何なのだろうか。
沖縄の今を知る上で欠かせない前提知識となる沖縄史を、概観できた。
砂鉄が産出しないために10世紀頃まで貝塚時代を続けた後、
鉄器の輸入による強国化と身分社会の発達、按司の群雄割拠までは、
あるいは八重山の身分制のない漁撈生活から鉄文化導入による身分制への移行は、
歴史の一般性がありありと現れている。
琉球王国は日中両大国間でうまく立ち回ることで交易で繁栄を謳歌し、
官僚制の硬直化によって滅びることで日本の一辺境と化したが、
王国時代には人頭税によって八重山諸島から搾取した。
この多重性が、琉球を善とし沖縄を悪と見なす短絡さを許さない。
ここにもやはり、そうした一般性が透けて見える。
日本と中国の間で貿易国として栄えた琉球王国の時代は、
朝貢・冊封というゆるやかな外交関係が、現在の西欧的国際法とは全く異なり、
経済秩序の下として成り立っていたという実例として、面白かった。
それに倣い、江戸時代幕藩体制を一政体ではなく連邦体と見て、
江戸幕府を中心とする冊封体制と考えた方がいいかもしれない。
鎖国は国内を一つに閉ざしたと考えがちだが、
実際のところ交易は諸藩やオランダ人商人によって世界経済に組み入れられている。
近代、琉球王国は政治の迷走によって次第に外交能力を失い、
薩摩と清国の間の外交の切り札に成り下がった。
明治政権による琉球処分、同化政策と沖縄戦、占領と基地の時代まで、
沖縄の自主ではなく支配者(薩摩、明治政府、アメリカ、日中安保下の日本)に
翻弄されて、今に至っている。
そうした中、例えば改名は国内の身分向上のために“自発的”だったという
涙ぐましいアイデンティティの抛棄が進歩的な人々の中にあったという事実も、
一方では留めておいたほうがいい。
実利と名誉を秤にかけるということを余儀なくされた選択は時代を生き抜くためで、
後世から軽々しく批難も賛同もできない。
現代のわれわれがその歴史から学べることは、何なのだろうか。
11.1.12
アンドレイ・ベールイ『ペテルブルグ』、朝吹真理子『きことわ』
アンドレイ・ベールイ『ペテルブルグ』
2011年から2012年にかけて読んだ。
都市小説との評判から手に取り、
貧富と新旧の時代が混じりあう20世紀初頭のペテルブルグの息を吸うように読んだ。
革命前夜のロシアの、公安と革命派が雑踏の中で睨みあいぶつかるような
不穏な心地が、物語のそばで少なくないページを割いて描かれる。
そのため、筋書きだけでなく、街じゅうに陰翳の濃さが落ちている。
青銅の騎士による暗殺のくだりは、息つかせなかった。
朝吹真理子『きことわ』
80〜90年代をそこはかとなく思わせる抑揚のない単調な文体で、
場面の盛り上がりも淡々としている。
執拗な観察眼が文体に宿れば、田和田葉子のようになる文体だ。
とはいえ、慣れた貫禄に育つ行く末が予想できそうな書きっぷり。
これで筆歴が浅いというのだから驚く。家系か。
夢をまたぐ時間が、
貴子と永遠子の二人の記憶や姿、髪の搦みあいとして縷々と語られる。
夢のようだった過ぎし現実、現実と思って見る夢──
夢とうつつのパラレルが交錯する。
同じ時間と場面の時系列を歪めるという試みでも、『流跡』のほうが、
小説にしか出来ないことをやっていて面白かった。
この作品は芥川賞を受賞したが、
吉村萬壱『ハリガネムシ』のように、賞を狙うため材を身近に取った感がある。
時の流れに対する無限遠方の基点のようにしばしば言及される天体や宇宙も、
対照として置いて見較べさせようとするのではなくて、
池澤夏樹『スティル・ライフ』の、見上げた空いっぱいの瞬きへの嘆息が欲しい。
2011年から2012年にかけて読んだ。
都市小説との評判から手に取り、
貧富と新旧の時代が混じりあう20世紀初頭のペテルブルグの息を吸うように読んだ。
革命前夜のロシアの、公安と革命派が雑踏の中で睨みあいぶつかるような
不穏な心地が、物語のそばで少なくないページを割いて描かれる。
そのため、筋書きだけでなく、街じゅうに陰翳の濃さが落ちている。
青銅の騎士による暗殺のくだりは、息つかせなかった。
朝吹真理子『きことわ』
80〜90年代をそこはかとなく思わせる抑揚のない単調な文体で、
場面の盛り上がりも淡々としている。
執拗な観察眼が文体に宿れば、田和田葉子のようになる文体だ。
とはいえ、慣れた貫禄に育つ行く末が予想できそうな書きっぷり。
これで筆歴が浅いというのだから驚く。家系か。
夢をまたぐ時間が、
貴子と永遠子の二人の記憶や姿、髪の搦みあいとして縷々と語られる。
夢のようだった過ぎし現実、現実と思って見る夢──
夢とうつつのパラレルが交錯する。
同じ時間と場面の時系列を歪めるという試みでも、『流跡』のほうが、
小説にしか出来ないことをやっていて面白かった。
この作品は芥川賞を受賞したが、
吉村萬壱『ハリガネムシ』のように、賞を狙うため材を身近に取った感がある。
時の流れに対する無限遠方の基点のようにしばしば言及される天体や宇宙も、
対照として置いて見較べさせようとするのではなくて、
池澤夏樹『スティル・ライフ』の、見上げた空いっぱいの瞬きへの嘆息が欲しい。
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