31.12.09

「ムラカミはクールすぎる」(翻訳)

気になる記事があったので、読んだ。
翻訳を下に載せておく。

なお、下の村上理解は相当にひどい代物だと思う。
村上にアメリカ文学の影響を認められるのは
おそらく最初期だけだ。
読む体験としての、村上の特異さは、むしろ、
「他者の不在」としてよく挙げられるような均一な世界観が
現代に非常に近しいからなのではないか。
小説の舞台で物語が繰り広げられるだけで
世界をすいすい泳いでいるような全能の感覚
(これを「セカイ系」として分析した評論が
 『群像』の新人賞を獲って載ってた気がする)、
これこそが村上人気なのだと思う。
村上春樹が書こうとしてきた態度の変化、つまり
デガジュマンからアンガジュマンへの移行は、
『羊をめぐる冒険』で決定的となった。
このことも、加えて関係しているように私は思っている。

日本文学はいまだにエギゾチックな日本文化として
読まれている、ということなのだろうか。
悪いとは云わない。
フランス小説をおフランスに浸るために
読む人も少なくないはずだ。
しかし、フランス知識人を気負って
「書物帝国」というブログまで連載している身が
これでは、ちょっと案じてしまう。

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原文(フランス語):« Murakami est trop “cool” »
http://passouline.blog.lemonde.fr/2009/12/24/murakami-est-trop-cool/


  ムラカミはクールすぎる

「売れないベストセラーほど悲しいものはない」とは、編集者ロベール・ラフォンの常套句だ。矛盾したような一言で、問題の核心を突いている。考えすぎはよくない。『Books』誌が「ベストセラーの世界の旅」として出した別冊(97ページ、7.5ユーロ)を読めば、なるほどそうか、とわかるだろう。『Courrier international』誌で定評ある原則によればこの常套句は、ある世界的な現象の理由として、他にも至るところで見つかったのだ。この題材に(歴史的・社会学的に)調査や思索を加えるよりも例を一つずつ挙げた方が明らかに興味深いし、それは驚くようなことではないだろう。ハーラン・コーベンの機械もの、シャルロット・ロシュのポルノっぽいヒット作、カルロス・サフォンの大衆文学作品、アモス・オズのパルチザンもの、ファレド・アル・ハミッシの社会小説、余華(ユー・フア)の謎めいた作品、シコ・ブアルキの詩的なもの、フレッド・バルガスのいらいらする作品。アイン・ランドのご都合主義的なヒット作、あるいは、チャベス大統領が宣伝してくれたおかげで売れたエドゥアルド・ガレアーノの『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』も、最も不測だったとして忘れてはならないだろう。我々としては『文体の諸要素』(ストランク、ホワイトの共著)と同じく、アメリカのテレビ福音主義者の作品を、とびきりの地位に置いているのだ。『文体の諸要素』は著述マニュアルであり、莫大な売れ行きを示しているとはいえ、「アメリカ人作家の教科書」と表現する気は我々にはさらさらない(もしそうなら、アメリカ文学はなんと退屈になってしまっていることか)。世界中の出版物から極上の文筆を集めたこの豪華な別冊から村上のケースを抜萃して、長々と続けることとしよう。というのは、この日本人作家の世界的な成功をいつも私は懐疑的に見ているからだ。日本文学者だからというわけでは勿論ない。漱石、三島、川端、大江、そして谷崎(代表作『陰翳礼讃』のためだけかもしれないが)に再び浸り、彼らが現代文学にもたらしたものを思い返すだけで充分だ。しかし村上春樹は正直云って……『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『海辺のカフカ』『ノルウェイの森』(註:フランス語題はそれぞれ『時の終わり』『海辺のカフカ』『不可能のバラード』)が悪いというわけではなく、それどころではない。そうではなくて、彼の世界観が作品内の都市の同郷人のそれと際限なく共通なのだ。新作の度に、日本でも国外でも数百万部が売れる。最新作はこの前の5月に東京で出版された『1Q84』だが、これも同じ路を辿った。作家にして崇拝対象でもある、とみなされることはあまりない。まめにジョギングに定期的に参加するというよい趣味があるためだ。

『Books』誌には「Electoric book review」に載った三浦玲一の手になる記事が再掲されている。村上をより明瞭に見ることが本当に可能となる記事だ。東京大学の英米文学の教授(註:実際は一橋大学准教授)で、彼は記事内で、村上春樹の小説における作品のメカニズムを、光を当てるようにして分解している。80年代から日本で成功を収めたアメリカ文学と、村上人気の二つの現象があり、どちらが先行とも分からない、と彼は仮定する。アメリカ文学の古典作品を知らなくても、村上や他に引き合いに出された作家(スコット・フィッツジェラルド、ジョン・アーヴィング、ポール・オースター、トルーマン・カポーティ、レイモンド・カーヴァー、ティム・オブリエン、リチャード・パワーズなど。それらを「お楽しみで」翻訳してまで)を学生達は「クールだ」と判断したということから、彼はこの問題を理解している。三浦教授はこう語る。「日本ではパルコという流行の服のチェーン店がどれ構わず本も売り始めた。基本的にはアメリカ文学の翻訳や原書で、それは若い消費者がすでにアメリカ音楽に渇望していることを見越してだった。マーケティングが残りをやった」。つまり、三浦教授によると村上は「アメリカ小説を書く日本人作家」であり、「自国文化の大使」だった著名な先輩作家たちとは反対なのだ。作品全体にわたる分析には説得力がある。徹頭徹尾、生国を捨て、逆説的ながらよそ者の身体として捉えられるのは、そこでは明らかだ。質にも伍して重要な「洗練された感覚」を超えて、村上の価値ある商標は別のところにある。つまり、「国際化の文化的側面が現代文学の国家的・国民的枠組みを侵食している時代において、どんどん有効性を失ってゆく国家的・国民的な枠組みを忠実に描き出している。世界的な村上人気はこのことに基づくように思われる」(三浦教授)。村上の文化的な反国家・反国民主義は嫌われようとしてではなく、そのように云うための緩徐法でさえある。国民性なき作家にして、1945年の敗戦とそれが引き起こしたトラウマという悲劇的な感情を受けつけず、自国の批評家受けのほとんどしない作家なのだ。大江健三郎が1986年の今日にデューク大学で講演をしたときの最初の言葉は、まだその感情豊かに響いている。「日本文学のある崩壊の感情を抱いて働く日本人作家として、私はあなたたちに向かって来ているのです……」。

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2009年総括

今年は、別れと別れと出会いと別れの年だった。
どの年もそうだろうけれど、
そうであることを強く感じたという意味で、
あえてこのように統括させてもらう。


今年読んだ本は、作品数で数えて60。
もっとも印象深かった文学作品は、……決めがたい。
文学体験は、場所の経験に近い。
住んだ街の喧騒、赴いた公園の意匠、過ぎた田園の風景は
一列に並べて較べるにはあまりに特異すぎる。
強いて一つ挙げるなら、塚本邦雄歌集だろうか。
観念を固定させる元凶のはずの言葉が
五七五七七の内枠とそこに表象される
固定観念を軽やかに打ち破る、
その鋭利さの余韻から未だ醒めやれずにいるから。
もっとも印象深かった評論・学術書は
山口昌男『道化の民俗学』
中心と周縁の媒介項について考えを閉塞させていた矢先の、
軽やかな回答にして新たな学究への出発点となったから。

最近は「裁く」という一見暴力的な論理性について
興味が湧いている。


今年観た映画は42本。
その半分ほどはどれも面白かった。
もっとも印象に残っているのは
市川準『トニー滝谷』
前者は、直線的で単色の寂しげなシーンを
スライドするカメラワークで淡々と処理してゆく、
そんな呆然とするような物悲しさに包まれて、
人生は喪失なんだなと改めて見せつけられる。
成瀬巳喜男『鰯雲』も好かった。

映画に限らず良い藝術作品は、
グロテスクな覚醒を日常へと
佳麗に滑り込ませるものでないといけない。
この当然の原則を些かでも突き進められたと
感ぜられる一年なら、その向かう先が何であれ、
自己満足できるのではないか。

29.12.09

イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』/芦屋まで

延々とマルコ・ポーロが語る都市像は細部だけがきらめいて、
しかしそれらが指し示す都市全体のありさまは、
幻想的なまでに抽象的で、細切れのまま有耶無耶に果てる。
マルコ・ポーロとフビライ・ハンの静謐な語りそのものも
幻想の霧に包まれて、やがて見えなくなってしまうかのよう。
さまざまな街が砂上に語られて浮かび上がり、消えるイメージは、
野又穣の画集を眺めては繰るような感触だった。
夢心地に語られるとはいえ、ウルからニューヨーク、さらに
我々も知らぬ未来の都市まで、すべてをひっくるめて、
(単数形定冠詞つきで)la città invisibiliなんだろうか。
シュミラークル都市(としてある意味で語りやすい)東京も勿論あったし、
これまで住んだ、訪れたいくつかの街も少しずつ散見された。

これは一つの小説なのか、都市を材に取った掌篇集なのか。
自分は詩集のように常にポケットに忍ばせたいと思った。
翻訳も美しい。

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国道171号線沿いに芦屋まで自転車で行った。
高級宅地の六麓荘は、大学まで有して巨大で有名だが、
逗子の披露山住宅のほうが塀がないぶん見目は勝ろう。
緑越しに海を見晴るかせるのもよい。

途中、昆陽池に立ち寄った。
池上の日本列島はそうと知っていても、
岸からは見えなかった。
機上から眺めるためだけのものだから、仕方ない。

28.12.09

柳田国男『木綿以前の事』、ルイジ・ピランデルロ「作者を探す六人の登場人物」

・柳田国男『木綿以前の事』

木綿が日本に入ったのは江戸時代の初期で、
新田開発がさかんに行われ始めるより数十年しか前ではない。
それ以前は主にあのごわごわしたズタ袋みたいな麻を着たり、
土地によっては藤や楮などを着ていたらしい。
土地ごとの様式の違いは一目瞭然だったことだろう。
様式が違えば言葉も違う。
後朝を「きぬぎぬ」と訓読するように、貴族は絹を着ていただろう。

木綿は北関東までを北限に栽培できた。
地域をまたがって流通すれば、瞬く間に商品となる。
これが契機となって農家は商品作物に寝覚めたろうし、
栽培の叶わなかった越国や陸奥は
相変わらず出稼ぎ(雇=「ユイ」)に多く出た。
また、むしろ雪国では吸収性のある木綿より麻のほうが都合よく
明治期になってからも製紙工場は麻の仕入れに
北日本からの麻布の古着をも充てたらしい。

精米方法が手杵から横杵へ移る過程、餅のいろいろ、
酒をめぐるハレのありようの推移、などなど、民俗学は本当に多様。
やはり日本は、一括りにはできない。
同じ歴史でも、学校で習う政治史のつまらなさとは雲泥の差だ。

蕉門の連歌を多く引くあたりや、あるいはただ文章が詩的。
もとは文学を志した生い立ちを存分に伺わせる。


・ルイジ・ピランデルロ「作者を探す六人の登場人物」

人間存在の孤独さ、なんて云ったら当世風すぎる解釈だろうけれど、
演劇批判なのは間違いない。
演じるということを批評家や演出家があれこれ論じるより先に
舞台と役者と小道具があって、という演劇の構造に沿って
演劇というものが本質的に孕む問題点を論っている
(だからなのか、ちょっとベケットっぽい)。
喜劇あるいは悲劇を志向しながらも
どっちつかずのひきつった笑いしか残さない、
材の取りようの巧みさにもすごい。

21.12.09

どの海が好きか

海の原風景はおそらく泉州の海水浴場で、まだ関西空港のない頃だった。
塩辛いとか底がどこまでも深くなる、といった印象を、
幼い頃はなぜか持っていたように思う。
常にプールと較べては怖がっていたのはなぜだろう。
波が小さな体には、相対的に大きかったからなのか、
あるいは、海イコール海水浴としか思わなかったからか。

自分にとって海とはながらく、瀬戸内海だった。
あるときは宮崎だったり伊勢だったりしたけれど、
それは旅行の晴れた凪の海だったので、あまり瀬戸内海と違わない。
日本海は鳥取砂丘から眺めて、水平線の先までべったりした薄汚い碧だった。
どこかしら期待はずれだった。

大阪を離れてから、海は飛行機から見下ろす無地となった。
雲がなくて陽が射すと、波が細かく海面に立っていた。
波とわかるまで、細かくどこまでも地にへばりつく街と思っていた。
この大阪を離れる景色に始まり、長い北の一人暮らしだったように思う。
帰阪の空路は、何度すぎたかわからない。
見下ろす景色が知多半島から紀伊の山の連なりへと変わるときの海は、
人懐っこい故郷大阪の近づきだった。
あるいは時に倦んで、どこまでも東へ行った先の防砂林の向こうに開けた、
仙台平野の果ての海岸に沿った荒波。
砂まみれの潮風とともに、全身で海を視た。

西ヨーロッパで始まった一年限りの生活で、
最初に見た海はストックホルムだった。
ガムラスタンの王宮から見下ろす、雨より静かな海と、
市庁舎の中庭から港への、歩けそうなくらい穏やかな入り江。
そしてバルセロナの(丁度二年ほど前になる)、
黒々として潮の匂わない地中海。
五月、ジブラルタル海峡を越えるフェリーから見下ろす海の色は
硝酸銅の結晶を砕いたような色だった。

今は、横浜にいる。
みなとみらいというträumereiのような音の賑々しい再開発地区より、
相模湾の惚けた海の沿岸に住みたい。
あるいは高知のような。

中上健次の長篇『奇蹟』は、湾をクエの顎に譬えるところから始まる。
穏やかで遠浅な、しかし浜の後背に奥深い山の聳える血の濃い土地。
相模湾も土佐湾も、思えば似た形だ。
山を削った新興住宅地に育った生き様からは遥かに遠い。
だから惹かれるのかもしれないけれど。

13.12.09

金子光晴『絶望の精神史』/Marché de Noëlとその他の近況

明治から高度成長までの日本を、斜から見つめながら生きた詩人の、
その自叙伝的なエッセイ。
近代以降の歴史が醒めた目で、しかし鋭くえぐられていて、面白かった。
戦前が日本の伝統だと思い込んでいる無知の右翼に
読ませて、反応を聞いてみたい。


さて、近況。

昨日、有楽町の東京国際フォーラムに行った。
4 strasbourgeois et 2 japonais で
Marché de Noël de Strasbourg à Tokyo の遊山。
市や地方圏も協賛しているようで、TF1の取材も来ていた。
あの木小屋の店はまばらに数えるほどしかなく、
タルト・フランベにはびっくりするほど行列ができていて、
ワインやコンフィチュールは異様な値で売られていたが、
それでもvin chaudの匂いは懐かしかった。
その後、みんなでラーメンを喰って焼き鳥で呑んだ。

今日は商店街でハタハタが安かったので、思わず買った。
秋田なんかでしょっつる鍋によく使われる食材だが
仙台にいた頃はなぜか食べなかった。
ひとまず煮付けにしたところ、非常に美味。
あっさりした白身魚で、これは間違いなく日本酒だと思った。

ウイスキーを三本買った。
カナディアン・クラブ、デュワーズ・ホワイト・ラベル、シーバス・リーガル。
デュワーズは知った味だが、他二本は初。
カナディアン・クラブをレーズンを小脇にちびちび舐めているが、
うん、まぁ、特に尖ったとこはない感じですかね。

8.12.09

武田泰淳「ひかりごけ」

人肉を食べるということを題材にした文学作品としてあまりに有名。
しかし二部構成で、後半が戯曲とは知らなかった。
罪に問われた法廷で、船長は「我慢している」と心境を吐露する。
我慢とは何なんだろう。

船長は目の前に社会的に保障された「生」を断たれて
なおも生き延びたことで、生の残酷さを知った。
死の犇めく世界を、懸命に手を伸ばして摑んだ、野獣の生。
その「生」のなまなましい状況は、ひとたび社会へ戻ると隠蔽されていて、
それゆえ、船長は裁判にかけられる。
残酷な生の普遍性を、彼の特異な罪として訴追される。
一身に「生」の重みと残酷さを引き受けて、
しかしそれは事実である、という閉塞。
それをただただ「我慢している」という。
生へ費やされた無数の死を引き受け、
だから船長はキリストのように死んでゆく。
そしてなお、「私をみてください」と云う。

まぁ、解釈としてすぐに思いつくのはそんなところだろう。
戯曲部分の演出を指示するト書きが、この解釈を盛り上げてくれる。

あるいは、こうかもしれない。

作品の冒頭は本当に長閑だ。
当時は国交のないソ連の領土として国後島が見える知床。
そこで事件を知り、村史を繙く。
そこまでは、太平洋戦争から敗戦、あるいはアイヌの話も、
話の筋に関わるともなく挿入される。
おそらく鍵になるのは、柔和で若い小学校校長の話。
海でも山でも九死に一生を得て、
だがそんな雰囲気も持たせずに飄々と生きているのだが、
事件についておかしそうに語り、
筆者にひかりごけを見せてくれる人物でもある。
事件へと語りを繋げる人物なのだ。
戯曲内でひかりごけは、罪を犯した者の光背のように光る。
そして、校長と来た洞窟では、ひかりごけは
見る角度によって、どの場所も光るのだ。

7.12.09

川端康成「雪国」/文学フリマの感想と「ゼロ世代」

・川端康成「雪国」

遠い中学二年のときに読んだきり、通して読んだのは久しぶり。
『掌の小説』にもあるような、少ない言葉であまりに多くを言外に語る、
これこそ詩だ、と思う。

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昨日、大田区蒲田での文学フリマに行った。
そういう催しがあることは朧げに知っていて、
この直近の実施を知ったのがほんの二、三日前。
かつては秋葉原だったらしいが、郊外に移って今は蒲田らしい。
京急で二駅で行ける近さならと、腰を上げた。

元々の目的は、「ジュール・ヴェルヌ活用法」というタイトルの
奥泉光のトークイベント。
文学、いや藝術一般って、固よりすべて二次創作、
あるいは、引用の集合体、だから、
それをあえて意図的な手法ということをどう捉えているのか
聞ければ、と思った。
チケットが先着順で、のんびりと着いてもうないだろう、と
思っていたが、意外にも残っていて、ありがたかった。

ただ、開始の午后過ぎまでそこにいるのがしんどいような
そんな場違い感を、ずっと抱いた。
どっぷり浸かった文学部の雰囲気、とでもいおうか。
絵ではなく文章だから、ブースを廻っても意味はない。
しぜん、見本誌の部屋でひたすら立ち読みをすることになる。

大学名の入ったサークルでの作品は、たいていはひどい。
ちょっと刺激的な単語を即物的に転がすだけで満足していたりする。
一橋大学文芸部のだったか、冒頭の小説をぱらぱらと斜め読みしたとき、
実直に語っている真摯さは、素朴に良かった。
小説はほとんど見なくて、評論を中心に漁ったが、
東京学芸大学のものは群を抜いていた。
…って、ほとんどOBやないかーい。でも、いいものはいい。
アマチュアのもので思わず買ったものは、これだけ。
あと、NR系の「社会評論」は、大西巨人の対談など
資料としての重みがあったので、ひとまず買ってみた。

行ってみての感想。
文学の最先端。というか、文学の草の根運動の最先端を覗けたのは面白かった。
「ゼロ世代」という云い方、これを知ったのは一つの収穫だったと思う。
阿部和重や中原昌也など文芸誌を活動主体にしている
J-POP世代を90年世代として、
その次の文学として、舞城王太郎、西尾維新、など、
どっちかというと『ファウスト』系で活躍している作家たちの世代。
90年世代までの文学は価値観の破壊、
 ゼロ世代は崩壊した価値観から立つ新しい語り

という、どっかで読んだ図式は、言い得て妙だと思った。
(石川淳の「焼跡のイエス」みたいだけど)
でも、そうなんだろうか。
確かに、ゼロ世代の文学って、
規制の価値観・倫理観にはほぼ立脚していない。
していたとしても、非常に狭く、として厚く閉ざされた世界だ。
だから、その小世界が妄想的に社会へと
拡張認識されて、その名もセカイ系だったり、
小世界がその価値観・倫理観・世界観を共有しないまま現代社会を揶揄する
「りすか」みたいなのだったりするわけです。

なんとなく上のようにまとめていて思ったのは、
舞城とか西尾とか佐藤友哉とか円城塔の文学って、
即物的でありかつイコン的で、
「ヨハネの黙示録」とか「ダニエル書」の黙示文学じみている。
供儀や打擲、セックスなどで物語を彩って、
即物のテクスチャー(織物)として社会を編み込む。
徹底的に二の次に置かれるけどゲマインシャフトが結局は暗示される。
この彩りの目眩、即物の生々しさがいわゆる「ゼロ世代」の
いまだ名のない一文芸運動なんじゃないか、と思う。
「内向の世代」との類似が、どこかで指摘されていたが、
そこまでちっちゃくはない。
世界を書いてるから、意外と大きい。

行き着く先は、じゃあ何なんだろう。
ピンチョンが『V.』『重力の虹』『ヴァインランド』の
一連の今世紀を書いたように
西尾維新がフォークナー的な野心に燃えたら、
かなり面白いことになりそうではあるけど。

まぁ、こういうことを考えた。
というのは嘘で、これはただ筆が進んで今書けただけ。
そのときはただ漠然と、同時代の存在を少し頼もしく思っていた。
だって、綿矢りさと羽田圭介だけでは
淋しすぎて死んでしまうだろうから。

5.12.09

ブレヒト『三文オペラ』、勝部健太郎・田中耕一郎「UNIQLOCK」

・ベルトルト・ブレヒト『三文オペラ』

舞台は産業革命後のロンドン。
少し前に読んだ『ドラキュラ』と同じ時代と舞台。
『ドラキュラ』がアッパーミドルを中心に展開されたのに対し、
ブレヒトは乞食たちを題材に採った。
現実を視るという意味では、明らかにブレヒトのほうが
嗅覚があるように思われる。

本作は叙事詩だ。これは一読すればすぐに知れる。
すぐに把握できるキャラクター同士が
内面の葛藤なくストーリーに翻弄される。
おかしいのは、それが「当世」の乞食たちである点。
ブレヒトといえば「異化効果」、
それはあまりよくわからなかったが、
妙ちくりんに神格化することで現実に新鮮味を与える
ということなら、そうなのだろう。

社会批判の鋭さに唸った。
「この世の持てる奴らは、貧困をつくり出すことはできるくせに、
 貧困を見てはいられない」(p.160)とか、
「我が国の裁判は賄賂なんかで動かせません。
 どんなに金を積んだって、あの裁判官たちが正しい判決をするように
 買収することはできませんよ」(p.164)とか。
百年後の今もそうじゃないですか!


・UNIQLOCK

偶然見つけて惹かれたので、このブログにも載せてみた。
バレエじみた大振りな手の動きと廻転が多くを占めるが、
面白いのは、二人以上での踊りで腕の動きが連結するとき。
一人一人に、あるいは全体に置かれがちな焦点を、
一人一人の間へとずらす、この面白さに、素朴に驚かされた。
なおアーカイヴにはパリのバージョンがあり、これも魅入ってしまうが、
多くがエッフェル塔とノートルダムなのには、
ステレオタイプ差が見え隠れして、残念だった。

30.11.09

ブラム・ストーカー『ドラキュラ』、石井聰亙『爆裂都市 BURST CITY』

・ブラム・ストーカー『ドラキュラ』

反ドラキュラ陣営は速記、タイプライター、蓄音機、電報、
写真、新聞など19世紀末に急速に発展した情報通信手段を駆使する。
この技術の進歩がどのように作品内で現れているのか
識ること、これが、本作品をあえて読もうとした動機だった。

イギリス最大の繁栄たるヴィクトリア朝の末期に書かれたことが、
実は本作品の最大のポイントであることは、
読んでいてよくわかった。
(詳細な註釈の附された水声社版で読めてよかった)
当時は、イギリスの経済成長の頂点を過ぎ、
世論が次第に保守化していた(ちょうど現在の日本のような)状況。

小説内で登場人物たちは、最新の技術や学識を駆使する。
あるいは「新しい女」やタイピストが登場する。
優生学的な思考や、性別役割分業など
イギリスの高度経済成長を支えた社会秩序が
ちらりちらりと見え隠れする。
その背景を共有しつつ反ドラキュラ陣営が
月並みに一元化された「善」に結託すること、
これを私は保守と捉えた。
技術はイギリス繁栄の文明の象徴、
情報通信技術は、そのために持ち出されたのだと思う。

聖書、そしてシェイクスピアの影響があちこちにあるが、
これは枝葉末節部分に思われる。
例えばドラキュラ城の三人の女、これは『マクベス』だが、
だからといってあまり鍵になるようなことはない。

しかし、ドラキュラとの戦いが情報戦であるとみると、
この作品は面白かった。
情報が力となるのは、集積・整理され、
複製可能なものとして京有されるときだ。
この迅速さを増す技術として、
タイプライター、カーボン紙、蓄音機、速記術、電報が
小説内では大活躍する。

鋭く示唆的で面白かったのが結末。
顛末のまとめられた文書はautoriséされていない、
しかしこれが現実であることは信じてもらうしかない、と云ってしまうのだ。
情報は特徴として参照元を持たない。
それを根本的な危うさとして指摘しているわけだ。
だから、このあらすじは嘘かもしれない。
というか、小説だから嘘なんだけど、
その虚構性が小説から、現実の複製を通じて現実に忍び込んで来るに至った
ヴァーチャルな現代を、仄めかしているような気がした。


・石井聰亙『爆裂都市 BURST CITY』

上映時間にして二時間弱。
うち半分がどつきあいの喧嘩じゃないのかというくらい、
最後のシーン、長々と繰り広げられる乱闘が
目に耳にどぎつかった。
はっきり云って気持悪くなった。
即物的すぎる。えぐい。
それが魅惑といえば、確かに魅せた。

29.11.09

J.M.G. Le Clézio講演会

本郷での対談形式の講演会を聴講。

・ニースの、モーリシャス島の、光満ちた景色。
・exotismeからの脱却が、異文化理解への第一歩。
・映画の特徴に、現象学らしさ、心理主義からの遠さが挙げられ、なるほどな、と思った。

それにしても、あのキャンパスの、
虚仮威しじみた前現代性は、どうにかならないものか。

24.11.09

身分制再び

あらゆる社員が正社員だった時代が、「一億総中流」の題目に象徴されるように、
高度経済成長の各人の意欲と横並び意識を支えたことは有名だが、
バブル後と雇用格差のいま、そのような時代があったと、想像できない。

正社員か契約社員か派遣かバイトか。
仕事として何をするかではなく、どう雇われるかが、格差を生む。
いささか、戦前までと似ているように思う。

戦前、出身の学歴によって歴然と雇用が差別されていたことは有名。
社員が現代の正社員に当たり、雇員、傭員と続く。傭員は月給ではなく日給だった。
雇員と傭員の差はさほどないものの、
雇員と社員は大きく隔てられていたというところが、
現代の正社員と契約社員の違いに似ている気がする。

この雇用形態の違いは、主に(専らといってよい)学歴だ。
例えば、大学出身者は、最初から社員。
社員の中でも出身校で違い、帝大がトップで、続いて私大。
専門学校(その多くは戦後に大学になった)が一番下で、
ここらあたりだとスタートは社員とも限らない。
ちなみに、これらのどこに進学できたかは、
出身の(旧制)高等学校によったらしい。
現在の高校よりはるかに強い相関関係があったと思う。
高等小学校や中学出身だと、傭員からスタートで、
下の社員との給与の差は、初任給でも倍近くになった。

もちろん、その時代よりは格差は小さいのかもしれない。
だが、企業という同一組織内の格差は、
それ自体としてではなく、格差として認識が共有されることで、
はじめて問題になる。
だから、データがどうのこうのというのではない。
これは実感だ。私自身が契約さんと話をしていて思う。

しかし、そうも云っていられない。
人事系の業務の友人に聞いて知ったが、
地方公務員では下級正職員(=ヒラ)を主事という役職に任じる。
正職員であれば否応なく、契約職員の上に置かれるのだ。
これは、「正」「契約」「派遣」が、
本来の意味合いでは単に雇用形態の違いに過ぎないところに
上下関係を組み入れるという点で、露骨だという印象を受けた。

22.11.09

篠田正浩『桜の森の満開の下』、阿満利麿『宗教は国家を超えられるか』

・篠田正浩『桜の森の満開の下』

脚本に富岡多恵子、音楽に武満徹や渡辺晋一郎と、
知らずに択んだながら錚々たる顔ぶれが制作に揃っていることに驚く。
原作から、桜の狂気をどう出すかが見物だった。
京すら土色の多い、全体としてくすんだ色遣いの中で、
桜の森(と女の衣装)だけが生気を帯びて鮮やぎ、確かに狂いそうだった。
幻想的な撮り方で映画全体を包んでしまわず、
生々しさをそこかしこに露骨に見せて進行していったので、よかった。



・阿満利麿『宗教は国家を超えられるか』

幕末の国学から明治体制の確立まで、
どのようにニッポンの精神性が作られたかについて。
いくつもの新智識を獲得できた。
以下、メモランダム。

○桜を日本の象徴として特権的な地位に挙げたのは、本居宣長。
○明治維新後、主に在野からの天皇親政体制への少なからぬ反撥。
○国家神道という新宗教を「宗教ではなく、
 伝統ある日本の習俗」として浸透させたプロセス。
○新政府は国会開設や天皇制の行政システムを、西本願寺に試験的に導入した。
 それゆえ、宗会(=議会)や門主(=天皇)が置かれた。

21.11.09

クッツェー『夷狄を待ちながら』

帝国の辺境に及んだ帝国の論理が
どんな二枚舌的な不幸を招くか、の記録。
舞台は冷寒地だが、沖縄の敗戦前を思い起こさせた。

印象的だったのは、「歴史」についての主人公の独白。
帝国が歴史を創造した。帝国は、四季の循環の滑らかな回帰する時間の中にではなく、勃興と衰退の、期限と終焉の、カタストロフィの、荒々しい時間の中に自己を生き続けてきた。帝国は、歴史の中に生き、かつ歴史に対して陰謀を企むことを自らの運命としている。帝国の隠れた精神を占有する者はただ一つ、いかにして終焉を迎えないか、いかにしてその全盛期を長引かせるかである。(集英社文庫版、p.296)

帝国であれ企業であれ組織であれ結社であれ、
その存在の正統・異端を決定づけるものは、存在しない。
だからこそ、歴史を築き、そこから自らの由縁を引用する。
歴史は登場人物たちの縁起書として機能する。
好人物の主人公であればなおよいから、かくして歴史教科書は粉飾され、
「過去から学ぶ」ためでなく「自己満足」のための歴史が教えられる。
存在、あるいはアイデンティティーという、
曖昧で移ろいやすい存在を固定化するための歴史。
それは、神話となんら変わらない。

Claude Lévi-Straussが亡くなった。
「歴史の一般性」よりむしろ「語りとしての歴史」へと
歴史の捉え方が変わりつつあるように思われる最近の、
この推移を、象徴するかのようだ。
レヴィ=ストロースからクリステヴァ、
大江健三郎から村上春樹、ダーウィンから木村資生。
一般性に、時代固有の恣意性を混ぜるという手法だ。
不確定要素が入る分だけ、誤差は生じなくなるが、
そこに意図が混入する危険性があることを、忘れてはならない。
しなしながら歴史から学ぶという態度、
そのスタンスをどこに求めればよいのだろうか。

あ、なんか固くなったけど、この小説は本当に面白かった。

14.11.09

長雨

週の半ばから、雨雲のどんより重い日々だった。
昼頃に急に太陽が出て風も止み、溜まった洗濯を干したが、
あまりに湿気が多くて、窓を開けた途端にムッとした。
「卯の花腐し」の時節ではないにせよ、
木々もコンクリートも腐りそうな湿りだった。

昼食後、久しぶりにプールに。
初めて行ったプールは時間制限がなく、数人しかいなかった。
たっぷりと泳いでから、図書館にてしばらく本を選び、
クッツェー『夷狄を待ちながら』を少々読んでみて、
気に入ったので借りた。

9.11.09

J.L.ボルヘス『永遠の歴史』、ポール・ニザン『アデン、アラビア』

・J.L.ボルヘス『永遠の歴史』

論集。永遠というものがどう捉えられ、描かれてきたかの表題作より、
「ケニング」および「循環説」「円環的時間」が面白かった。
面白かった、というよりむしろ、知識と示唆に富んでいた。

「循環説」は、まぁ、いわゆる永劫回帰説だ。
世界が有限個の原子で構成されている以上、
その組み合わせもまた有限であり、
よって世界の瞬間瞬間は、他のすべての組み合わせが過ぎ去った後、
再び現れる、という、途方もない時間を言い包めたような説だ。
人は歴史を、その中身の因果応報の連続、として捉えがちだ。
人が生きるせいぜい数十年で、歴史なんてそんなもんだから。
でも、その流れ方一般、捉え方、
うまく折り合いを付ける方法、のようなものを
考えるとき、いやに薄寒い心地に、
空っぽな宇宙の果てを考えるような気分になる。
これはなんなのだろう。
涅槃なのか、ニーチェ的な超人なのか。


・ポール・ニザン『アデン、アラビア』

パリを脱出して、アデンへ。
この徒労じみたうんざりする旅程から見出した人間世界に
彼はめちゃくちゃ怒っている。
大人に対する、若者の怒り。
この本を、「でも」をつけずに読めること、
それこそが人間らしさなんじゃないかと、思った。
自分は今のところ、大丈夫。ニザンに加担できる側だ。

4.11.09

古井由吉『槿』

どうして、こんなに濃密で無駄のない散文が長編小説を書けるのかわからない。
文章が、こめかみに冴え渡り、あるときはねっとりと鼻腔に粘り着く。
この感覚。どこで感じ取って文章に写し取れるのか。

幻想曲が、幻想とつかずにたゆたいながら、しかし確かに耳には響いている、
とするとこの曲は幻想なのか何なのか、みたいな小説。
妖しい中年の男女関係、性、その駆け引きの、背筋の伸びるような大人っぽさ、
こういうのを読まされては、老いるのも悪くない、とすら思う。
危なっかしい、一つの小説としてばらばらに分解されてしまいそうなくらい
細部が妖艶に輝き、浮き沈みしながら連関しあい、形を保ってこぎ着けたような、
ええもんを読ませてもらった。

こういう女性と関わり合ってみたい。切に望む。

3.11.09

今日の行程70km



国道1号に沿って藤沢駅のあたりまで延々と道行き。
空があまりに澄み、光が眩しかった。
片瀬海岸で30分余り、陽光が江ノ島の海で物憂げに反射するのを、
その海に無数に突き立てられたウインドサーフィンを、
ぼんやりとただ眺めていた。

国道134号を西へ、防砂林の向こうの潮を感じながら。
海岸の名の標示が変わってゆき、藤沢市から茅ヶ崎市へ。
相模川の河口にかかる湘南大橋から富士山を見る。
夕入りも近い。県道46号、折れて45号。川に沿い北へ。
寒川町は平らだった。相模国は案外と平坦と知った。
畑が多い。家畜のにおいもどこからかした。
丹沢の向こうに夕陽が暮れなずむ。

藤沢市、清瀬市へ。何もない道行き。
ひたすら漕ぎ続ける。
米軍厚木飛行場の脇を抜け、ようやく横浜市内へ。
すでに宵の口で、
瀬谷区から旭区に入ってからは夜の車の光を縫ってひた走った。
最後の、桜台への上り、そして自宅までの階段がしんどかった。

あまりに青々と澄んだ空にかまけて何もできなかった、
午前中の補いとして、この今日の道行き。
走行距離70km、走行時間約4時間。

1.11.09

湊の遠い風を感じて

保土ケ谷区西谷を折れて北へ。都筑区星谷を経て港北ニュータウンへ。
高台をまっすぐに太い道路を、まっすぐに下り、登る。
両脇は森か畑。風が吹いて心地よい。
仙台の、泉中央へと北上する道を、ふと思い起こさせる。
MGの脇を抜け、パークタウンへ至る道。
確かそこにも、桜ヶ丘という地名があった。

空が広かった。風が吹き、海も見えないヨコハマが陸を続く。
突如目の前に開ける港北ニュータウン。
建物の大きいばかりの、ひとの少ない小さい街だ。目立つのは際限なく大きい看板。

こんな景色が郷愁を煽るなら、私に故郷なんかなかったことになる。
幾本かの直線が空を区切るだけの景色だ。
ここに歴史はない。この明らかな嘘から醒めないために、横浜市立歴史博物館がある。

自転車のペダルを漕げば漕ぐだけ、面白いほどに進む。
どこまでも行けそうな気がした。
地図を見ると、川崎を越えて、東京は数センチ。
南の相模湾へ、道路が太く延べてある。

しかしどこへも行かない。
帰宅し、飯を喰って、この心地よい体の疲れを眠った。
暖かい日だった。明日は寒波がすさぶらしい。

19.10.09

風の墓

思いつきで午后を自転車で巡る。
そうやって、昨日は総持寺、今日は本牧へ遊んだ。

国道十六号を南下して磯子から金沢文庫まで走ろうと思ったが、
廻れ左をして本牧を新山下まで廻った。
途中、イスパニア通りに沿って半ば廃墟となったマイカルを貫き、
本牧山頂公園へとペダルを漕いだ。

本牧の緑の多さは、三渓園とこの公園によるのだろう。
横浜村の南の高台で、昔は景勝地だったようだ。そのため敗戦後は接収された。
見晴るかせる海は京浜工業地帯のコンビナート群で、
巨大なクレーンが連なり、おもしろいといえばおもしろい。

コンビナートと海に囲まれながらも、本牧は観光地とは遠い静かな住宅地だ。
公園の山頂からは、横浜だけでなく丹沢や富士山が臨める。
もちろん、工業地にぐっと狭められた東京湾も。
山頂の丘は、空が地に捨てた澱みのようだった。

14.10.09

ラフマニノフの鋭利さ

『パガニーニの主題による狂詩曲』でもっとも有名なのは第18変奏だが、
私はあまり好きではない。
ロマンチックすぎるきらいのせいでもあるが、
第19変奏からイ短調になって一気に駆け抜けつつ展開されてゆくピアノの鋭利さと
それを引き受けつつ盛り上げるオーケストラの脇役に徹する名脇役ぶり、
これが毒を秘めていて、文字どおり体が痺れる。
第18変奏は、その直後の美しい裏切りの前座として置かれた楽園なのではないか。
そして第19変奏からの失楽園が、その猛々しさゆえに耳を魅了するのではないか。

ラフマニノフはこのように、心地よい痙攣が身を走る経験だ。
細やかにメロディーが散りばめられたと思うと、
一転して叩きつけるような荒々しさが場を覆う。
西欧クラシック音楽の細やか一辺倒を
大海原のさざ波として呑み込んでしまうかのようだ。

8.10.09

田川建三『イエスという男』

『体制は、その人物を偉人として誉め上げることによって、
 自分の秩序の中に組みこんでしまう』。
そうして、時代の秩序に組み込まれてしまった、時代への反逆精神は、
もはや単に聖なる真理と化してしまう。
イエスとはそのような人物であった。
決してメシアでもなく聖人でもなく、
単に体制のドグマを批判したアツい男だっただけだ──
このような視点から、徹底して史的イエスのありのままの姿を探る。

ユダヤ教に雁字搦めになった生活を批判し、
「幸せって、もっとささやかなものだよね」と云っただけの男、
イエスはそういう奴だった。
それだけのことだ、しかしキリスト教という巨大勢力を前に、
こんなことが云えるというのがすごい。
実際、田川は国際基督教大学を、イエスを脱・聖性しようとしたからか、
不当に解雇されている。

原点回帰、意味ずらし。
この手法こそが知性だと、私は思う。
マルクス主義に対する『マルクスその可能性の中心』しかり、
大江健三郎『万年元年のフットボール』に対する
村上春樹『1973年のピンボール』しかり。

5.10.09

浅田彰のTVEV BROADCASTを観ながら



二項対立の収斂・解消という点は、私が高校生の頃あたりから、
自分の問題意識としてずっと保っていたことだ。
その意味ではやはり、私は文学ではなく
数学へ進路を定めるべきだったのかもしれない。そう思うのは、
チューリングマシンの自己停止問題が決定不能だったり
上の映像で浅田彰が指摘するような、
制度と中身が不可分なフラクタルの可能性を
見せつけられたりするときだ。
しかし私は当時、情報工学を進路としてほぼ確定しており、
文学志向はそれへのアンチテーゼとして立ち現れてきた。
文学-工学の二項対立に陥っていたわけだ。
問題意識に呑み込まれて気づきもしなかったというのは、あまりに愚かしい。

そして現在私は、この二項対立というドグマに対して、
文化人類学的なアプローチから挑もうとしているような気がする。
それは日常とカーニヴァルという一見すると対立する二者が
実は相互補完的だったり、同一だったり、そんな見方を提供してくれる。
構造主義は、内実が構造的であるという指摘がフラクタルに近しいような気がするし。

大学ではイヨネスコの『犀』を研究した。
私はこの作品を、二項対立が渦となって持続するストーリーとして位置づけ、
ローレンツ・アトラクタを導き出した。
だが、これは渦を巻きながらも二つの軸を収斂できない。
言葉が二項対立性を強く持ち合わせている以上、
言葉を記述言語とする人文社会科学がこれを脱するのは
かなり難しい要求なのではないか、と感じている。

だが、数学であっても概念等は強く自然言語に依存しているので、
自然科学と人文社会科学に概念の類型は多い(近似とミメーシス、とか)。

…なんか、自分でも話の収拾がつかなくなってきたので、記述をここで終わる。
考えたことの羅列のメモだし、誰も読まないのだから、
固よりうまくまとめる必要はないのだが。

4.10.09

フランシス兄弟『おいしいコーヒーの真実』、クリス・ペイン『誰が電気自動車を殺したか?』

・フランシス兄弟『おいしいコーヒーの真実』

飲食店の原価率は3割程度とされるが、コーヒーのそれはたったの2%ほどで、
焙煎やらを考えても付加価値が9割ほどにのぼるとなると、
それは付加価値ではなくもはや中間搾取だ。
コーヒーの仕入れ経路はネスレなど4社の寡占だ、というのも、
比較的知られた話。
この映画は、それがアフリカの貧困としてひどく災いしている実態と
フェアトレードの経路を探るエチオピアの農協のタデッセの活動を描く。

コーヒーを片手に(主にスターバックスで)くつろぎ、
バリスタやらカフェやらがそれをファッションとしてもり立てる姿が、
しばしば挿入される。
中間経路を省いた取引を探って世界中を出張するタデッセがしばしばその脇を通り、
両者が絡みあいつつすれ違う、その撮り方が象徴的だった。

ヨーロッパではよく見かけたものの、
まだ日本ではあまり見当たらないフェアトレードの製品。
安いことを善と考える短絡な消費者が
イオンやウォルマート(西友)を繁盛させる現状では、
フェアトレードを買い求めようと意識するのはまだまだ先だ。


・クリス・ペイン『誰が電気自動車を殺したか?』

上の映画がもの静かだった一方、
こちらは民放のドキュメンタリーのようによくしゃべる。

90年代、GMのEV-1を皮切りに電気自動車が製造され、
すでに実用されていたという事実を初めて知った
(いまだガソリンから抜け出せないハイブリッド式が
 最近ようやく出始めたぐらいだから、もっと先の技術なんだと思い込んでいた)。
そして、石油依存を特徴とする現在のエネルギー産業の構造を
大きく塗り替えうるという可能性は、
オイルメジャーにとっては脅威だった。
だから、ロビー活動によって電気自動車を殺した、と
だいたいこんな感じの映画だった。
アメリカの政治と大企業のべったりの関係の典型事例のようだったし、
技術を社会に結びつける、経営や世論や法といった枠組みが
いかに簡単に、その技術の首を絞めることができるのか、という実例でもあった。
そしてエンディング。やっぱりアメリカ万歳、自由万歳、でハッピーに終えちゃう辺りが
アメリカらしいというか。

28.9.09

ジョルジュ・バランディエ『舞台の上の権力』

マツリゴトは象徴と想像力の集団妄想喚起であり、
合理性と大衆性と大規模さをまといつつ現代でもその本質は不変である、
といった内容。原題はLe pouvoir sur scènesで、
scènesの複数形が、権力の絶対性を相対化するがごとく皮肉っぽくてよい。
もとは叢書の一冊だったらしく、確かに筋立ては、
権力というものの演劇制をめぐって、
舞台装置、ハレとケ、ベネディクト・アンダーソン、マクルーハンが
溶かし込まれつつするすると進行してゆく、といったもの。
内容的にはさほど新しい発見はなかったが、読みやすく、表現が巧い。

しばしば引かれる例がよかった。もっとあれば楽しめたはず。
例えば、1561年のオメガングの祭(アントワープ)での出し物は
「戦争が惹き起こされるかどうかは、新たに作り出される経済条件の如何による」
という、すさまじい事実に題材を求めていた。
祭という非日常が日常を強化する場において、
戦争という、経済面でまったく祭祀と趣を同じくする事項をパロディ化しちゃう、
この事例は、もっと知りたい。
ロマンの謝肉祭の事例は、その存在は知っていた。
これの専門書があるはず。探してみたいとも思う。

中世から近代、現代へ移行する中で、
知識人が体制外から内部へと取り込まれてきた、という指摘があった。
むしろ現代は、科学信仰や合理性礼讃という意味で、知識人は完全に体制側にいる。
これは近代国家の形成時、象徴を操ることのできる人物というだけでなく
支配力の合理性に長けた人物を取り込んでいった、という人材発掘の転換点なのかもしれない。
あるいは科挙のように、国家が貴族制の壁を低くするとき、
あくまでも保つ敷居として知力の優劣で篩をかけたからか。

22.9.09

カール・ポランニー『経済と文明』

西アフリカのダホメ王国と、中立港ウィダについての、
詳細な文化人類学的レポート。社会史的でもある。
子安貝を通貨とした徹底的な管理通貨制では、
経済ではなくポリティックな姿としての市場や流通が現出している。
また、奴隷制による西欧諸国との貿易で制度や通貨が
どのように作用したかが描かれている箇所は、
交換=コミュニケーション(柄谷的には交通か)が
いかにして共同体同士の壁を克服しようとしたかの一例として読める。

子安貝は貨幣でありながら、その機能は純粋に交換手段である。
言い換えれば、貯蓄手段ではない。
金本位制であったヨーロッパから視ると稚拙かもしれぬが
(金はまさに財を貯蓄するための代表的手段である)、それは違う。
共同体内部でしか通用しないという点、
貯蓄というより交換を指向していると云う点は、
グローバリズムと均一化に抵抗しようとする
地域通貨そのものではないか。

読みながら、こういうことを思った:
貨幣の粘着性(貯蓄志向)を削ぐために
時間経過に依って価値が逓減する貨幣が有効、という説があるが、
それならば価値の逓減しない商品が本位の
通貨制度に移行するだけだ(例えば金とか)。

現在、一国一通貨が当然であるが、
身分制度を固定するための貨幣制度というものが
歴史的に存在した、と知った。驚きだった。
イヴン・バットゥータによると、14世紀のニジェールでは
太い銅線と細い銅線という二種類の貨幣が存在し、
その購買範囲に差があったのだという。
ハムラビ法典に記されていたところによると、
小麦で返済する借金と銀で返済する借金では利率が違った。
ではなぜ、一国一通貨がかくも徹底されるようになったのか。
これは私の想像だが、国という共同体の権力の増加によって
管理通貨制度が可能となった現在、
貨幣を複数設定することでお互いに相対化しあうことを、
防いでいるのではないか?
もちろん、身分制のない平等な社会、という建前もあろうが、
それは歴史的に後の話だ。

徹底された子安貝管理通貨制度では、
商品の値段すら王権が決定していたが、
西欧からの子安貝流入により、そのレートは一気に崩れた。
つまり、インフレになったのだ。
ポリティックな範囲から流通制度が分離して経済に変わる瞬間だ、と私は思う。
これは非常に注目しておくべき事項だ。
経済がもはや誰の手にも止められなくなった現在においては特に。

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G20で、トービン税の導入の是非が話し合われたとロイターで読んだ。
ぜひとも導入すべきだ。
それ以外に、ネーションステートが金融に
くびきをかける現実的な手段は、はっきり云って、ない。


ポランニーといえば『大転換』が有名だが、それは未読。
politiqueをポリティックと片仮名表記しているのは、
「政治的」だけでなく「政策的」とも含意させたいから。

21.9.09

関外から関内へ、横浜の多面

昨日まで三日間、連続してプールで泳いだ。
今日は休刊日、そう思い立って午后三時に出立。

保土ケ谷区岩井町の東トンネルを経て坂を上り、清水ヶ丘公園。
休日ののんびりした雰囲気で、家族も多い。
東を望んでも海面は見えるか見えないかだ。
坂を下り、市立横浜商業高校の脇を抜けて蒔田へ。
あとは大岡川に沿って平坦な道が続き、
バイパスをくぐれば吉田新田内となる。
坂の多い横浜で唯一、平地が続くところだ。

伊勢佐木へのんびりとペダルを漕ぐ。
道路はまっすぐで区画は条里のようだが、
街の雰囲気が大阪っぽい雑多な下町であることに気づいた。
休日の夕時前というのもあるのかもしれないが、
のんびりとした活気は天王寺のよう。いや、鶴橋か。
横浜がこんなにも親しみやすさをもって近づいてきたのは初めてだった。

関外から関内へ近づく。吉田新田内には二つ、視るべきものがある。
一つは黄金町。
旧青線地帯であり横浜一の麻薬地帯、人種の坩堝だったところだ。
いまでは浄化作戦が功を奏したか、面影は半ば消えている。
もう一つは関内の裏手の寿町。
東京の山谷、大阪の釜ヶ崎に並ぶドヤ街として知られる。
恥ずかしいことに、日雇い労働の街に踏み入れたのは初めてだった。
大阪に生まれ育ち、友人の親が「カマやん」の作者であるにも拘らず。

寿町は石川町駅からほど近い。
同様に、山手の高級住宅街も目と鼻の先だが、
中村川とその上の首都高によって断ち切られている。
寿町に入ると、まず初老男性の多さですぐにわかる。
ドヤの多さ、路上で寝ている人、酒の臭い。
ゴミ捨て場でゴミ袋の堆積に並んで蒲団が敷いてあったり、
路上での飲酒を禁じる看板が掲げてあるそばで地べたの酒宴をしていたりする。
これはカルチャーショックだった。
みながみな初老で、だらっとしている。
しかし責めることはできない。彼らは間違いなく、
高度経済成長を文字どおり背負って年老いていった。
思い出したのは、ある漫画での科白だった。
だいたいこんな科白だった。
「ほんまに資本主義が徹底されとったら、日本中が釜ヶ崎や」
(ありむら潜『HOTEL NEW 釜ヶ崎』)

関内へ抜け出る道はほんのわずかに上る。
埋め立て地ではなく本来の横浜村だった証だ。
横浜スタジアムでは阪神戦が終わったところだったようで、
あのユニフォームを着た応援の人々が散見された。
象の鼻パークを過ぎ、みなとみらいの海岸に沿って走る。
至るところ、滑稽なほどカップルが多い。何が楽しいのだろう?
何が楽しかったのだろう? という自問にもなった。

桜木町を過ぎ日産自動車新社屋を越え、
横浜駅を抜けて帰宅。横浜はあまりに人が多い。

13.9.09

宮坂宥勝『空海』、黒沢清『カリスマ』

・宮坂宥勝『空海』

四国遍路の予習として読み始めたのに、読み了えたのは今日になってしまった。
空海とその著作を中心に、あれこれの雑誌に寄稿された小論をまとめたもので、
統一感はなく話の重複がけっこうあって、
空海の入門書としては仏教史や用語に不慣れでは読みづらかった。
まぁ、概観できたからいいかな、とも思うが。
四国遍路の成立に関する記事は、実際に行っていただけあって、
場所や雰囲気等が実感でき、面白く読めた。


・黒沢清『カリスマ』

個の而立か集団の調和か。
相反する二者をめぐって外部が繰り広げる戦い。
重要なのは、排他的な一者をカリスマと名づけるのは外部だ、ということだ。
あるいは、カリスマと名づけられたから排他的な而立になるのかもしれない。
これは、薮池が桐山にカリスマだと云われたことと、最後の結末とを結びつけると、そうなる。
カリスマの死が集団の調和を乱すということなのか。
カリスマ、という語でこの映画を括ると、そういうことになる。
だが、薮池いわく、「森は森ではなく、木が一本一本あるだけだ」。
カリスマという幻想をめぐって周りが動くが、
その幻想そのものはあっけなく燃やされて果てる。そういうことだ。
だが…ならあの結末はどういうことなのだろうか?
直前の部長の携帯電話での問いかけは、意味を求めて虚しく伸びた腕のようだった。
それすらあっさりと受け入れられてこそ、
そういった二項対立(その極地としての現実-幻想)を越えた「カリスマ」だ、ということ?
え、じゃあ龍樹みたい。

12.9.09

五十嵐太郎『新宗教と巨大建築』

新書版ではなく、ちくま学芸文庫版。

空間を区切り、装飾や機能によって用途や雰囲気を作り出す
という作業が建築である以上、
独特の精神世界や世界観を演出する必要のある宗教は、
その信条に一致した建築を志向する。
新宗教が、どのようにして、その世界観や思想と合一して
建築設計や都市設計を行ったかが、克明な調査で明らめられている。

宗教と建築の関係を論じて、議論は伝統宗教である仏教・神道の建築にも及ぶ。
特に、近代以降の神社建築における
木かコンクリートかを巡る議論は、近代と伝統がどう鬩ぎあったのか
知る上で、大変面白かった。
ナショナルなマツリの場として大正時代に建てられた明治神宮を基軸に
1940年の東京五輪が設計されたという事実は、
1936年の某五輪の実質機能と似通っていて非常に不気味。
植民地時代の朝鮮半島・台湾の神社も紹介されている。

アメリカのキリスト教右派の権化のようなモルモン教や、
タイのカオダイ教なども取材されていて、おもしろかった。
たぶん、建築雑誌の「カーサ ブルータス」より
遥かにお腹いっぱいになる。遥かに遠い話題だけど。

8.9.09

帰浜

帰浜!
やっぱ、ちょっと陽焼けした気がする。固より黒いけど。

さて、今回の遍路のテーマ曲は二つ。
一つはもちろん般若心経のラップ。心憎いです。



二つ目は、高知あたりでラジオからたまたま流れた曲。
MINMIの「シャナナ☆」。テンションええわー。聴きまくってる。



さて、昨日はミナミに行ってきた。大阪人やのに初の道頓堀。
難波からほんまにすぐやってことすら知らへんかった。
んで、日本橋と新世界を歩いて、天王寺から帰った。
このところの奔放ぶり、自分はまだ学生上がりどころか学生なんちゃうか。
まぁ、あかんことあらへんやろ!

7.9.09

びんづるさま

軽自動車で、四国八十八ヶ所霊場の通し打ちをした。
八月三十日に出立し、九月六日に帰宅。
うち投宿、車内泊がともに三度。

初日は明石海峡大橋を抜けて四国入りし、
第一の霊山寺から第十の切幡寺までを行う。
二日目は第十一の藤井寺から第二十三の薬王寺に至り
発心の阿波は終了。
三日目は室戸岬の最御崎寺から第三十四の種間寺まで参り
夜は高知市内を歩き、高知城を上れるところまで見学。
四日目は土佐市清瀧寺に始めて足摺の岬を経て
修行の土佐を過ぎ菩提の伊予で、さらに道を行った。
西予の明石寺(第四十三)を夜に拝し、
内子を通って久万高原へ。
翌日は早速、同町の大寶寺に始める。
今治市第五十五番南光坊にて五日目を終え、
松山市に戻って夕食と温泉。
六日目は泰山寺から、伊予最後の第六十五番三角寺。
七日目の雲辺寺より涅槃の讃岐に至り、
空海生誕の善通寺にも参拝。
八日目、七十八番郷照寺から大窪寺にまで行い、
遍路の旅は無事に了った。

旅程をこうして綴るは易いが、各院どれにも思いがある。
山深くの箇所があれば同じ境内に二箇所を通ったり、
駐車場の場所に迷ったり、乱暴な道行きもあった。
しかし、少なくない出会いや発見もあった。
ここには書けない。多すぎる。

自分にとって、今回の遍路は巡礼というより旅だった。
不思議な体験も、信仰の芽生えもなかった。
だが、全箇所を廻るという唯一の目的を達して
「還俗」した自分が、これから(大文字での)旅で何ができるか。

23.8.09

古井由吉『円陣を組む女たち』/逗子から鎌倉へ抜ける

十時半、逗子駅に停まった電車から降立った人々は、
みなサンダルであり、すぐに脱いで水着になれる恰好で
歩いていた。その流れは海へと繋がれていて、
楽しそうにしゃべりながら足を進めていた。

浜は人ごみだった。
頭の空っぽな楽しさが間延びしたような陽気さだった。
海は綺麗なのにヨットや水上バイクで渋滞していた。
靴の私は浜沿いの国道を歩き、平べったい楽園を遠ざかった。

山道に入る。鬱蒼とした草木の緑が、途端に海を覆い隠す。
ただ登る。足を取られそうなぬかるみ、半ば崩れた階段も。
蝉や虫の声の奥に追いやられて、水上バイクの騒音は依然聞こえる。
だがそれもゆっくり遠ざかり、突如、披露山公園に出ている。

葉山から江ノ島まで、湘南が一望できる。
海も空も、ぼかしたような締まらない色をどこまでも拡げている。
少しだけ色の濃い海のところどころに、ヨットとその引いた波がある。
富士山も見えるらしいが、夏の午は霞んだ江ノ島で充分。

披露山庭園住宅はどの家も庭も広大で、手入れの欠けたところがない。
道も広く電線はない。歩いても歩いても景色が進まない。
ようやく出ると家々の間隔がぐっと狭くなり、見慣れた宅地に戻る。
その間を縫う細い道を、小坪マリーナへと下る。

小坪マリーナは川端康成の自殺した地として有名。
材木座海岸を通っても観光一色の海だから、名越切通しに向かう。
時間の死んだような道路をひたすら汗を拭って歩く。
ロードバイクが幾台も、海を目指して駆け下りてゆく。

再び近づく山の緑。道路を逸れて階段を上り、山道に入る。
名越切通しは鎌倉七口の一、名は「難越」に由来するという。
岩盤に細い道を貫いただけの無骨なその姿は、いかにも切通しという趣き。
鎌倉がいかに地の利を防御に用いた設計か、大いに実感できる。

草が顔を撫で、虫が無数に飛び交い、晴天続きなのにぬかるみに靴をとられる。
曼荼羅堂跡への道は、落書き等が絶えないらしく塞がれていた。
岩盤に刳り貫いた横穴に、石塔や地蔵が置かれ、異様な雰囲気なのだという。
鎌倉の果ての境目にして、彼岸と此岸の境目だったのだという。

再び陽の下に姿をさらせば、すでに鎌倉市に入っている。
さっき抜けた山を、トンネルが横須賀線を通している。
山際の田舎の景色を、人を満載した鉄道が揺さぶる。
行けば、日蓮宗の寺が二つある。長勝寺と安国論寺。

ナショナリズムとしての仏教を立てて他宗排斥に臨んだタカ派宗派の色が、
偶像の明示と、比較的派手な様式にも表れているように感じた。
日蓮を皇国史観から紹介した1941年設置の碑さえ、安国論寺の門前に残る。
このタカ派さが、創価学会や立正佼成会といった日蓮宗系新興宗教の多さかもしれぬ。

あとはただ鎌倉駅へ向けて歩き、帰宅した。

22.8.09

是枝裕和『花よりもなほ』/夏の夜の音

是枝裕和『花よりもなほ』

おもしろい映画だった。結末もよかった。うまく紡がれて廻った感じ。
でも、親の仇、戦死した父親、太平の世の武士という自家撞着的存在、etc.、etc.…。
人はそんなにも過去に落とし前をつけないといけないものかね。
ねじ曲がった過去を正していけば、おのずとストーリーになるんだろうけど。
でも、こんなことを云っては、かなり多くの物語に茶々を入れてしまうなぁ……。

自分は、ただがむしゃらに、やり過ごすようにして時を生きてきたから、
ひとたび昔を振り返れば、過去はまるで
手のつけられなくなった不法投棄のように、山をなしている。
結ばれなかった許嫁、というのも出てくるが、
人は実際にはそんなにねちっこくないと思う。経験上。


心底から頼った掌を返されること数知れず。
その落下経験の多さは、私を打たれ強くするのではなく、
掌を頼ることそのものを忌避させるようになった。
最近、ドライだと云われる。自分でもそう思う。
所詮は表面の付き合いだから、湿けている必要を感じない。
茨木のり子だったと記憶しているが、
「乾いた感受性を人のせいにするな」みたいな詩があった。
何だよその精神論は、と、今は思う。

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私の家は、丘の登り坂が勾配を次第に急に傾ける中腹にあり、
夏でも夜は涼風が窓から入り、対面の窓から抜ける。
窓の外、木々と下草の風に揺れるあたりは、夜なので漆黒の闇だが、
そこからスズムシの鳴き声がやわらかく響いてくる。
ときどき遠い踏切の警報音が混じり、
このとき耳を凝らせば、電車が線路を駆ける音が仄聞こえる。

21.8.09

塚本邦雄『定家百首』、ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』

・塚本邦雄『定家百首』

しばしば技巧的に過ぎるといわれる新古今の、
代表歌人である藤原定家。
その名歌の百首を編んで訳と解説を附した著作。
打ち消しの美学と余韻、現実ではなくイデア世界の描写、
時間推移までも読み込む言葉択び、などなど、
和歌に明るくない自分でもはっとするような和歌ばかりで、
800年前の和の繊細さ・藝術性に驚かされた。


・ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』

人は外部に規定される。
「学校」があるから生徒を演じ、「恋」があるから恋人を演じる。
そんな、普通の捉えられ方からの顛倒に人間の本質を見るのは、
経験主義ではヒュームの「知覚の束」であったり
サルトルの「l'être d'autrui」だったりする。
……とまぁ、そんな固い話は措いておいて、
『フェルディドゥルケ』は、うまいこと場の空気にあわせようとして
頑張るんだけど、やっぱり居心地が悪くて暴れちゃう、みたいな話。
それは「恋」に至ってすらそうだ。

 恋する気持はしあわせの一語に尽きるということを知っていたので、幸せだった。

となってしまう。「恋をしていたので幸せだった」のではない。
恋をする者に幸せを強いるような暗黙の了解が至るところにあって、
主人公だけがそこを抜け出そうとしてもがき苦しみ続ける。
主体ってどこよ? そんな哲学的な主題を
グロテスクにパロディ化した小説として、自分は読んだ。

9.8.09

村上春樹『1Q84 Book1』『1Q84 Book2』

頭の中で村上の文学性にけりをつけられていないため、
ジョージ・オーウェルを意識した明らさまなタイトルも手伝い、
手に取ることを敬遠していた本新作。
いざ読み始めると、二三日で一気に読んでしまった。
これは純粋に面白い小説だった。

外枠には確かに『1984』があるかもしれない、
しかしその世界の有り様への疑問のおこりは、
むしろ『競売ナンバー49の叫び』を思わせたし、
カルト宗教への問題意識は、同作者のノンフィクションの
『アンダーグラウンド』を素地に見出せた。
チェーホフ、フレイザー、マクルーハン、その他さまざまな引用を
小道具として入れ込んじゃうあたり、巧い。
もはや、初期の村上春樹と同一人物なのかもわからない。

もっとも、こういう手合いの「解説」って、
何の面白みもないから、もうやめる。
でも、この作品は非常に面白いし、
バブル前、最後の輝きを誇った日本経済の裏で
誰も気づかないうちに進行した精神的な問題を
いくつか問いかけているように感じてならない。

特に、ビッグ・ブラザーに対するリトル・ピープルは、
現代では匿名な多数の何がディストピアを生むのかという
鋭い指摘になっている。
それは匿名性に覆われた情報化社会か? メディアなのか?
あるいは、メディアを批判しようともその代替案を提示できずに
何に判断材料を求めればよいかわからずに保守に迷走するネット右翼?
あるいはその帰結がたまたま逆になったネット左翼?

ネタの尽きない面白い作品だった。

5.8.09

高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』

エピソードの断片とそれに対する徒然な解釈を織ってゆくような、
章立てをかなり区切ってゆくようなこの書き方って、
明らかに村上春樹の初期二短篇の影響を受けている。
もっとも、そのことと内容とは、あまり関係はない。

この文章は小説だが、あらすじを語るのは無意味というか無謀だ。
それでも知りたい人もいるかもしれないから、
一応書いておこう。こんな感じだ。

 「さようなら、ギャングたち」が主人公の名前で、
 その名の通り、ギャングたちと劇的な別れを告げる。

はい、これがあらすじ。
あらすじというか、あらすじ群の主な一本…?(笑)

この小説はとても文学的。というか、「文学」学的。
例えば、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の引用を見つけて、
ちょっとテンションが上がった。

かつて読んだ同作者の『ジョン・レノン対火星人』よりは摑めたような気がする。
次は『優雅で感傷的な日本野球』を読もうかな。

26.7.09

こんな時代

こんな時代に生まれました。 ──上松秀実

高橋和巳、庄司薫、大江健三郎、三田誠広のような世代論がないのが
我々、1980年後半生まれの特徴かもしれない。
四十年代前半には戦争文学、後半から五十年代にかけては戦後派、
六十年代には第三の新人、内向の世代、と続いて……それから何があった?
Jブンガク? それは世代関係ないよね?
私は密かに、我々の年代の代弁者たる文学は枯渇していて、
残念な綿矢りさとか、よくて金原ひとみとか、その程度しか文学史に時代を残せないまま
死んでしまうかもしれない、と、死後の世界を恐れるような漠々たる危惧を感じている。
(羽田圭介? ハッ。)
もちろん、我々を昭和最終期とか平成生まれとかいうのはおかしい。
昭和は実際的には1970年代あたりで終焉しているし、
1980年代後半生まれと平成(1990年)生まれとの間に、決定的な違いはないからだ
(いわゆるゆとり世代との峻然だる境界を見出すならその間かもしれないが、
 極論するなら、ゆとり世代は、隔週週休二日制を経験した我々をも含みうる)。
むしろ、平成という年号は、かつてないほど軽く受け止められてきたし、
バブル後の不況から現在までの、日本経済の成長幻想からの後味ばかり悪い寝覚めと
同一のものとして使用されてきた。

あ、もうやめよう。イオンで買った安い白ワインを呑みながらの徒然な文章なんて。
でも、白ワインをなめんなよ。
私はこれでも県番号67のアルザシアン、ストラスブルジョワなのだから。
基督の精液を一瓶分、たった今飲み干したる私なのだから。

上記、上松秀実の出身の佐渡に行こうとして、結局天候が悪くて行けんかった。
しかし、新潟は私の日本観に静かに影響を与えたように思う。
例えば、関東平野を差し置くような広い平野を実感したし、
行政区画(市町村)の、実情を無視した横暴たる拡大、など。
なぁ、財政が厳しいからって市町村合併を促進するなんて、
M&Aの下剋上を国が支援するのと同じことじゃないのかい?

サラマーゴ『あらゆる名前』、猪野健治『やくざと日本人』/選挙前の雑感

・サラマーゴ『あらゆる名前』

サラマーゴは仮想現実的、思考実験的な舞台を作図し、
ボルヘスはメタ小説、虚構を材に取ったジャーナリズムである。
そして、ボルヘスの『バベルの図書館』とサラマーゴの『あらゆる名前』は
完全に交叉しているように思った。
『バベルの図書館』は文学の極北だと思う。
この万能知から出発して文学を生き生きと蘇らせることができるか、
これが現代文学の重要な一課題だと。
日本文学では、庄司薫が『白鳥の歌なんか聞こえない』で、
そして初期の村上春樹が消極的にこの問題に真っ向から取り組んだ。
だが、それはやはり、お手上げ、という結論が仄めいてはいなかったか。
サラマーゴは、辛うじて人間が主体性を維持できていると表明した。
だが、それは情報社会がITからICTへ着々と推移する現代社会にも通用するのだろうか。


・猪野健治『やくざと日本人』

「そんな物騒な題材の本を読んで」と嫌悪した者を、私は嫌悪する。
これはやくざの社会史であって、やくざを通して視た日本社会・政治史だ。
大枠には、やくざは地元ののし上がり的な名士だった。
港湾や炭坑といった警察力の届かない領域を実行支配した裏の警察力だから、
悪とすれば必要不可欠な悪だった。
帝国議会の衆議院が単なる地方地方のお山の大将の寄せ集めに過ぎなかったのと
全く同じ理由で、戦前なら政友会や民政党とやくざは当然のように癒着するし、
跡を継いで戦後は自民党との癒着が政治史に見え隠れするやくざの存在は、
ルソーのいう特殊意志に雁字搦めになった議会制民主主義の調整役だった。
そして東京五輪の時期に頂上作戦によって一気に勢力を殺がれて市民の理解を失ってから、
アジア系裏社会と対立しつつさらに見えない地下へ潜ってゆく。
日本における権力とは何か、という現実を視る上で、これほどの名著はない。
近づく総選挙の投票先の参考にするという意味で、特に自民支持層には読んでほしい。
その上で、「自民のいう『経済政策』の実態は何なのか」を考えてほしい。

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最近の雑感として、自民党と公明党はもはやどう違うのかがわからない。
もちろん支持母体や成り立ちは違うが、やっていることや協力の親密さという実態の部分で
自民党と公明党にどれだけの差異があるだろうか。

加えて、上の『やくざと日本人』にちらと出てきた
「戦後の保守の流れには、吉田と鳩山の二大勢力が原則としてあった」という指摘。
民主党はその意味でも、小沢の後釜に鳩山を据えるべきではなかった。
麻生(吉田茂の孫)vs鳩山では、五十五年体制は異様な再現度を保って持続しているし、
民主党は社民党と接近しているとはいえ中枢は依然として保守であって、
決して海外の新聞で短絡に附記されるように中道左派の政党ではないからだ。
もちろん、利権維持のためでしかない保守よりは民主党のほうがはるかにマシだが、
長期的に民主党が政権を維持しては、再び自民党の亜種が出来上がるだけだ。
だから今回の選挙では民主党の首に縄をかけておく意味を込めて
社民党が伸びてくれることを希うのが、戦略的に正しいのかもしれない。

17.7.09

一ヶ月半

初めより全き気の一致を覚うる人すらなほ後に別る、況んや然らぬ人に於てをや。
というわけで、別れました。

14.7.09

黒沢清『トウキョウソナタ』

本当に黒沢清の映画作品? という大いなる疑問。
我慢して世間の目線に合わせて撮ったような違和感が、
違和感というよりむしろ妥協?を感じてしまったのだけれども。
クロキヨならもっと謎を提起して欲しい。
なんか、中途半端に解けている。これではどうなのか。

12.7.09

鎌倉の名刹を過ぎ海に出る

北鎌倉駅に降りた。
円覚寺へは駅下車徒歩五分とかからない。
その唐様の舎利殿で名高い。
しかし、臨済宗の日本に導入された経緯を鑑みるとむしろ、
唐様をおいて他があり得ないと知れる。
さらには、唐「様」として日本化されるところに、
日本の風土の一般形を感じる。

鎌倉時代・室町時代の新しい大陸との結びつきとして禅宗が機能したことは、
建長寺が明らかに中国の影響を受けた様式であることから、容易に見て取れた。
もう一つの日本の首都だった京都に対抗して
文明の先進性を確保しようという執権の意図は、
後に院政にも踏襲された。

一つ一つの建物、庭園がでかい。敷地も広い。平地の少ない北鎌倉にもかからわず。
これも京都の仏教への対抗心なのだろうか。

扇ガ谷の切り通しを抜け、小寺院の脇を抜けて、横須賀線に平行するように南下。
初め、次に来たときのために帰浜しようと思っていたが、
さほど海までは遠くないらしかったので、さらに南下して由比ケ浜へ。
五時を過ぎても明るい空と海を前に、ゆっくりしようかとも思ったが、
人の多さに辟易して切り上げて、再び鎌倉駅へ。
そこから帰浜。

5.7.09

毒は吾にとって地の塩

不安なる今日の始まりミキサーの中ずたずたの人参廻る  塚本邦雄

所在ない孤独は不健康に過ぎる。空梅雨の曇り空は気軽な外出をも許さない。
書を捨てることも街に出ることもできず、狭い部屋をうろうろする。
恐ろしいことに、この退屈のなか時間は幾時間も飛び去るのだ。

今日したことに特別なことは何もない。
そういえば、夕、フライパンでおびただしい数の豆鯵を熱した。
木べらで掻き回すと、みなやすやすと破れ、引き千切れた。
さらに無惨に、醤油と味噌を注いでこねくり回した。
魚たちは潰されて泥のようになった。
このおもちゃにされた屍骸を、私は弁当箱に詰める。
明日の昼に玄米とともに饗されるだろう。

残忍? 否、さのみにあらず。
今日、贄と化した鯵とほぼ同数が、冷蔵庫で次回を待っている。

ミシュレ『魔女』

中世、権力と結びついて世界を停滞させたキリスト教から
いかにして科学は萌芽したか。
信仰を司る役割を牛耳った聖職者たちが、
庶民の盲目的な信仰をいかに都合良く切り売りしたか。

ラテン語とロマンス諸語との分離が象徴するような
理論と現実の乖離を放置した結果なのか、
教義、理論、伝承の巨大な複合体と化したために
至るところに聖への落とし穴が開いたためか。

魔女および魔女裁判とは、現代アメリカのパラノイア的病理との
重なりを見出さざるを得なかった。
一つの風潮、一つの世論、一つの判断基準が絶対的に人々に君臨し、
逸脱を許さないまま廻転してゆく。
そして逸脱はほんの些細なところにも適用され、
万人が疑心暗鬼を生じる過程。
逸脱者への恐怖の助長と、基準の厳格化の、無限ループ。

18.6.09

今年の新卒

日経ビジネスオンラインに、新卒社員の取り扱い方、のような記事の割合が目立つ。
あるいは自分が張本人だからかもしれないが。

彼ら(十から廿ほど年上の連中?)に云わせると我々は、
  欲がなく、それなりのもので充足し、
  ストレスも達成感もない低温な人間で、
  コミュニケーションが欠如しており、付き合いが淡白、
であるらしい。

記事はこう続く。
  彼らの世代はバブル後の先行きのない不景気しか経験せず、
  親がリストラに怯えるのをずっと見続けて育ってきたため、
  頑張っても結果が出るとも生活や世界が良くなるとも考えることができない。
  週休二日制が漸進的に施行され、個性を重視し教育を受けたため、
  集団の調和より個を大切にする。
  インターネット、携帯電話の普及の恩恵を受けた最初の若年層であるため、
  濃密な体面コミュニケーションより、便利でデジタルなコミュニケーションを好む。

そうかも、と思えるような分析である。さらに、
  「キレる17歳」という言葉に象徴されたように
  世代まるごとを括って捉え、大人の都合で先入観と偏見にさらされた。
とでも付け加えておけば、よりいっそう的確かもしれない。

だが、ひどいのが結論。
  何を考えているかわからない彼らも同じ人間なのだから、
  腹を割って話せば理解しあえる。
  幼稚かもしれないが、あいさつやコミュニケーションを基本から教えよう。
  誉めて伸ばそう。
精神論ですか。
「頭でっかちで理屈が得意」と分析しておきながら、精神論で片づけようとするならば、
むしろ大人の側が我々を本気で理解しようとは考えていない証左だ。
こっちから近づくのはいやだ、そっちから来やがれ、と云っているのではない。
我々は大人に理解されなくても構わない。
(「キレる17歳」のときから、我々はずっと理解されてはこなかった。
 バブル崩壊後20年も社会は低迷しているにも関わらず
 社会を良くできると思い込んで残業に勤しむ大人たちの方が、
 我々からすれば宇宙人、あるいは高度成長の過去に取り憑かれた亡霊だ。)

そもそも、現代社会が躍起になっているものが、我々からすれば莫迦らしい。
内需が経済成長を支える、というかけ声とともに
必要のないモノを買わせようと四苦八苦している
(給付金? エコポイント? 笑ってまうわ!)。
モノではないんだよ、不安のない生活が欲しいのだ。
綿矢りさが『インストール』で描いたように、
部屋のものをすべて捨てても、ネットに繋がってさえいれば我々は平気なのだ。
そんな我々を「最近の若者はクルマを欲しがらなくなった」と指摘したところで、
何を今さら、笑止千万。

なのに人口減、福祉問題、年金問題、食の不安、といった
先行き不安は手つかずのまま残されている。
それらの基盤を万全にしてからこその物欲ではないのか?
安寧を寄越せ。

新卒がヘンだ、と疑問視するのではなく、
むしろその不都合を鏡として自分たちを見つめ直すという姿勢が皆無だ。
大人は不動なのか? それならば、こんな袋小路に陥った社会を作った罪で、引退すれば良い。
我々は我々なりの社会を作る。もちろん、その機会は数十年後に確実に訪れるのだが。
そのときの新人もやはり理解できない存在であろうが、
今の大人たちの連中のようによそ者扱いするのではなく、そこから学ぼうという姿勢で望みたい。

14.6.09

横浜市史、靖国、華果西遊記、茶道

6/6(土)
横浜市歴史博物館にて「開港場横浜の風景」を観る。
吉田新田、横浜村と神奈川湊の連関などを学ぶ。

6/10(水)
短期プログラム受け入れ外国人学生の引率。
靖国神社に赴き、資料館を観る。
館内の説明は和歌に至るまで英訳が併置されていることに、
無駄に漲る自負が読み取れた。
第二次大戦の展示では、美談ばかりがやたらと開陳され、
軍の官僚主義や愚かな精神論はまるで見せない。
そして最も笑止なのは、日本を欧米とは異なる神国と前提しながらも
欧米的帝国主義を露骨に後追いするやり方を全面肯定しているところ。
午后は国立劇場に移動し、歌舞伎「華果西遊記」を観賞。
初めて観る歌舞伎。
隣席の学生が歌舞伎の大ファンで、種々教えてくれた。
題目の故もあったが、予想以上のダイナミックさには驚かされた。
なお、瑣事だが、一件隣りの最高裁判所の建物を垣間見ることができた。

6/14(日)
同プログラム、市民との交流会。
茶道体験があり、自分にとって初めての茶道の経験だった。
帰宅後、鰯の手抜き煮込み、蕨の生姜醤油和えを作って食した。

1.6.09

カール・シュミット『中立化と脱政治化の時代』、吉田満『戦艦大和ノ最期』、若合春侑『腦病院へまゐります。』

・カール・シュミット『中立化と脱政治化の時代』

政治において決定とはいかなるものか。
その決定主体のヨーロッパ史的な推移を、シュミットは、
神学→形而上学→科学・実証 という流れに見出そうとする。
科学・実証が客観性として機能している現在は、
神学も形而上学も本質的ではもはやなく、一概念である。
そして本論文の後半では、科学的態度というものが
実は決定プロセスを有さない(=蓋然性への議論あるのみ)ということが明かされる。
それが、実存的な不安から逃れられない無数の大衆を産んだのだ、と。

この問題を「近代の超克」として不問に附したフランシス・フクヤマのような
アメリカ民主主義崇拝の態度は、いかに乱暴なものか。
やはりカントのような市民像が求められているのか、
それともこのまま大衆は「歴史の終わり」を信じ込まされて
『1984』(『1Q84』?)に邁進するのか?


・吉田満『戦艦大和ノ最期』

官僚主義に陥って自滅した旧日本軍の象徴である軍艦大和の記録文学として名高い。
少尉として実際に乗り組んだ著者が綴る、
みすみす死ぬとわかっていて出撃せざるを得ない海兵たちの苦悩。
一億玉砕に猛進するという精神論に陥って国民を巻き込んだ軍部暴走の先端として
譬喩ではなく実際に玉砕する、という無益で無謀な作戦は
「世界ノ三馬鹿、無用ノ長物ノ見本──万里ノ長城、ピラミッド、大和」と
出撃前の乗組員たちに云わしめ、
著者本人にも「海戦史ニ残ルベキ無謀愚劣ノ作戦」と結論づけさせた。

精神論への傾斜から日本が「負ケテ目ザメル」ことで
再生を望んだ臼淵大尉の意図とは逆に、
ここ最近、特攻やらを美化する阿呆な浪漫主義が復活し始めていることに
危惧を覚えずにはいられない。


・若合春侑『腦病院へまゐります。』

圧倒的で一気に読ませる、内容の強烈さが残る作品。
谷崎を敬愛する登場人物なれども、谷崎のような立場の逆転ではない。
こじれた関係のだらだらという意味ではコンスタン『アドルフ』の亜種かな。

31.5.09

petite amie

今日、彼女ができた。
これからどうなってゆくかは未知数。

27.5.09

ポー『黒猫・黄金虫』

新潮文庫版。
目当ては、暗号解読があまりに有名な「黄金虫」ではなく
その抑制ある格調高さで著名な「アッシャー家の崩壊」であり、
ボードレールが心酔した先進性を探るためだった。
気魄ある幻想文学とでもいえるような作品は、象徴主義のきらめく標柱と感じた。

24.5.09

ラフマニノフ『チェロ・ソナタ ト短調』『パガニーニの主題による狂詩曲』

ラフマニノフについてはもっぱら、『ピアノ協奏曲 第3番 作品30』の
第1、第3楽章ばかりを好んで聴いていたのだが、
最近、他のものも、ということで、
『チェロ・ソナタ ト短調 作品20』
『パガニーニの主題による狂詩曲』
を、ひとまず入手、ここ数日浸りきっている。

ラフマニノフの荒々しさって、全然ごつごつしていないので、
バルトークなんかはちょっと岩っぽい、と感じてしまう自分にとって、
ゆったりと身を浸すにはもってこいだ。

メロディーの激動はうち震わせるがごとく、
その音律の流れは水のごとく。
この両立が奇蹟的だと思う。

22.5.09

夢野久作『ドグラ・マグラ』

これは小説なのか、擬似科学物語なのか。
現代人はこの小説を読んでも気はおかしくならないだろうが、
執拗すぎるロジックさに思いを馳せると、確かに変になりそう…。

早稲田大学に行ったところ、古本の露店をやっていた。
・吉田満『戦艦大和ノ最後』
・小川国夫『アポロンの島』
以上の二冊を購入。

20.5.09

アジア的福岡・小倉への旅

法事のため小倉に行って、今日帰宅した。
帰路の飛行機からの景色がおもしろかった。
人口比から推して大した大きさではないという予想は裏切られ、
福岡空港から飛んで俯瞰する福岡市街は、
仙台の二倍以上は確かにあった。
それは街の賑わいを実際に歩いてもそうだった。
これまで訪れた国内でもっともアジア的な雰囲気がある街だと思う。
そして、そんな土地の記憶の残り香を嗅ぎながらぶらつくのが好きだ。

小倉は血の濃そうな雰囲気があった。
駅や小倉城の周辺はそんな過去と絶縁するような小綺麗さだったが。
そこには父方の墓があり、生き別れた故郷であり、
仮に1945年8月9日に曇天ではなかったら私はこの世にいない。

帰路の飛行機からは、伊豆諸島の伊豆大島、利島、新島が見えた。
しばらくして房総半島の上空に至り、
九十九里浜を見晴るかしながら次第に高度を下げ、
再び海上に出て、台場の脇をすり抜けて羽田に着いた。

17.5.09

Adieu, ma mémoire.

自分の死せる魂の救済は進まず、
しかるべき情熱は、倦怠している。

バックミラー越しに見る過去は、
本来の姿より光きらめく幻想の調べ。
浸るには小さすぎ、しかも離れすぎた。

アルコールでもランボーでもいい、
谷崎や若合の情痴の果てでも黒い水脈の深みでもいい、
俺の感覚の束を引きちぎって、彼方へ遣れ。
ここか黒井千次でなければ、どもでもかまわないから。

失望せずに安住できる物語がどこにも見当たらない。
共同体に走る右翼も、貨幣とヘーゲルに呑まれた左翼も、
夢物語はどこまでも馬車に乗って。

打ち身がまだ痛む。
肋骨が折れてしまえばいいのに、押せば軋むだけ。

人を生半可にしか信用できない。
信じれば裏切られた経験が累積して、この感情を産んだ。

6.5.09

岩井俊二『花とアリス』『四月物語』、成瀬巳喜男『秀子の車掌さん』

・岩井俊二『花とアリス』

ちょいちょい聞いていたので観てみた。
自分としては……私個人としての感想だよ、
そこんとこ取り違えないでほしいんだけど……かったるかった。
綿矢りさ崩れみたいなちょっとイイ話みたいなのは、
もう食傷も食傷。


・岩井俊二『四月物語』

と云いつつ、さらに観た岩井俊二。
『PiCNiC』みたいな映像作品は他にないの?


・成瀬巳喜男『秀子の車掌さん』

これまた牧歌的。
時代の風景画みたいな映画。
それを支える会社がハリボテってのがまたいい。

4.5.09

赤司道雄『聖書 これをいかに読むか』、アーサー・ミラー「セールスマンの死」、マルグリット・デュラス『破壊しに、と彼女は言う』

・赤司道雄『聖書 これをいかに読むか』

久しぶりの新書。
聖書に(神話学・民俗学的)興味を持ってからそう短くないのに
解説本に当たってこなかった怠慢さがあった。
最近では単なる箴言集のようになってしまった聖書を、
改めて統一的・有機的に時分の頭の中で組み立てたく思っていた。
そんなわけで、家の隅にあったこの新書。
もちろん入門書でしかないのだけれど、
導入としてよい本だったと思う。


・アーサー・ミラー「セールスマンの死」

戯曲でも、こういうふうにして幻想を織り交ぜられるのか、と
ちょっと驚きだった。
そして、この作品が書かれて60年たった今でも
この作品の提起する問いかけが現代の社会問題として取り扱われ、
解決のわずかな糸口すらつかめていないことに、
哀れさと滑稽さを感じる。
そんなわけで、戦後に拓けた郊外の住宅地というのは
無数のセールスマンの墓場なわけ。
仙台市泉区とか、八王子市とか、横浜市田園都市線沿線とかね。
痛々しいね、でもこれが経済だから。資本主義だから。


・マルグリット・デュラス『破壊しに、と彼女は言う』

« DÉTRUIRE DIT-ELLE » が原題。
破壊「しに」、なのかなぁ? それはええとして。
読めばわかるけど、dit-elle. がいたるところに。
そして、会話。舞台はホテルの一階だけど、非常に抽象的。
登場人物は男二人の会話。あと数人出てくるけど、
実在しないように思われる。
そして、物語は、題名どおり破壊されていて、
脈絡を作り出そうという意図がところどころで現れても
それは沈黙その他によって切断されてしまう。
さらに云えば、この作品は小説というよりは
戯曲だし、でも根底では小説だし、
何なんだろう。
現代の「饗宴」? でも、誰も何も食べない。
眠りが眠られているだけ。

3.5.09

メトロ浅草巡礼

浅草に行ったところ、人が多くてやれんよ。

仲見世の、小さな仏像とかを売っている店で、
商品に魅入る子供への、おばあちゃんの声。
「そんなにいろいろ買ってたらお小遣いなくなっちゃうでしょ。
前に阿修羅像を買ったばかりじゃないの」。
どんな将来が待っているのか、一同、期待を膨らませたり。

女性が猿を廻していた。

隅田公園で、明治天皇の秘技「花ぐわし」を発見。

吾妻橋を渡って、アサヒビール本社のflamme d'orを見て、
水上バスの対岸でぼーっと空と川とを眺めていた。

乗った地下鉄は、副都心線・有楽町線・都営新宿線・都営浅草線・銀座線。
さながらメトロ巡礼の旅だった。

東京メトロはたいてい、ホームの両脇を電車が走るという、
大阪市営地下鉄と同じ構図だが、
都営は逆にホームが両岸に分かれていて
線路を挟み込むという、パリのメトロに近い配置。
マルセイユではどうだったか忘れたが、
マドリッドやバルセロナはパリメトロ型、
北京は東京メトロ型だった。
海外ではだいたい、「白線の内側」が電車側、というのは
そういうことなのか、と、今日にして腑に落ちた。

1.5.09

高尾山、南町田、ルイ・マル『さようなら子供たち』、コーエン兄弟『バーン・アフター・リーディング』

高尾山は平日なのに人が多く、
だから逆に、人のことなど何も考えないでよい。
景色はというと、八王子の自然が広がり、
それはそれで綺麗なのだが、
ところどころに置かれた地図にあるようには
東京の区部なんてちっとも見えない。
人は六等星まで見える、という単なる理論値を
万人に該当するかのように語る教科書のようだ。
そも、遊山に来たのに、どうしてあえて
都会の雑踏を見やらないといかんのだ。

南町田は、綻びたメルヘンのような、物悲しい街だった。
昼はまだそうでもなかったが、
夜はあまりに光が統制されていて、
人の存在が邪魔でしかないミニチュアセットのよう。

夜の蠢く人間は、横浜駅のような汚いカオスが丁度よい。
お好み焼きを食べてビールを飲んで、人の流れを眺めて、帰宅。
つまるところ、自分も人の流れだ。

28.4.09

コンパニョン「今日の写真小説」、マン『ヴェニスに死す』、サラマーゴ『見知らぬ島への扉』

・コンパニョン「今日の写真小説」

25日、東京大学・本郷キャンパスで聴講した講演。
フランス語の講演を無線イヤホンで日本語同時通訳。
最初はフランス語で聴いていたが、
結局日本語へと敗走した。
語る、という小説の根源的な目的の援用として、
写真という形式がどのように藝術史的に機能してきたか、
という流れがあって、特に、
バルトの「写真は一枚ごとに固有である」という考えから
ボルタンスキーの「写真は匿名で、情報改竄が本質的に可能」
という指摘へ、という逆転が面白かった。
写真をめぐる技術の向上が根底にあるのだろうが、
技術屋さんはそんなことは考えないからね。
写真というものの証拠性はおそらく将来
瓦解するだろうという、不確実性への恐怖と、
写真に意味を付与させる(語らせる)余地がある、という
藝術性への期待と、
両方を胸に、雨中の帰浜。


・マン『ヴェニスに死す』

観念的すぎてあまり面白くなかった、というのが本音。
ちょいちょい主人公が熟しすぎた果物を食べる下りも
狙いすぎてる感じがして冷めた。
当時は、斬新だったのか?


・サラマーゴ『見知らぬ島への扉』

こういう寓話って、なんかいいよね。

19.4.09

コンスタン「赤い手帖」、李纓『靖国 YASUKUNI』

・コンスタン「赤い手帖」

『アドルフ』のあの精緻な文体を求めて読んだが、
小説として書かれたわけではなく
どちらかというと日記なので、
期待ほどではなかったが、内容に次第に惹かれた。
特に、父がどういう存在であったかが興味深い。
絶対者のように精神の上に君臨し、
どれだけ好き放題に振る舞おうとも
決して父に直接背くことはしない、考えもできない。
『アドルフ』で、父がデウス・エクス・マキナのように
黒幕のような影を落としていることは、
こういうことだったのか、と思った。
というか、コンスタンって、こんな放蕩しときながら
大成するって、すごいな。


・李纓『靖国 YASUKUNI』

よく云われたような「偏り」を、自分はさほど感じなかった。
しゃちほこばって参拝してる軍服姿の老人たちの映像が長いし、
靖国刀鍛冶への取材態度もきちんとしている。
むしろ右翼は、これに対抗して溜飲の下るような映画でも
作れば良かったのに。
そして左翼も文句をつけようと思えばできたのでは。

出演の菅原龍憲さんが云っていたように、
靖国神社の合祀の考え方は
「戦死者は死後も国のものだから、合祀は取り消さない」
という非常に明確なもの。
だが、その一刀両断の態度というのは小回りが利かず、
だからこそ、合祀を望まない遺族や、
「日本人」として合祀されている台湾人遺族は
どうしようもないのだと。

そういう、際の部分の曖昧さが見えるのは、
星条旗を片手に小泉靖国参拝支持をするアメリカ人の場面。
初めは感激して友好的に握手したり
ビラ配布を手伝う日本人の周囲ばかりだった。
同盟国だからと握手したり、靖国がいいって話で同調したり。
だが、他の右翼が文句を付け始めて、
それに周囲は一斉になびいて、結局そのアメリカ人を追い出した。
こういう大衆心理的なものが、国粋というロマン主義の本髄だと思う。

同様の際の部分は、終盤にも出てきて、
それは国歌斉唱の場に殴り込みをかけた青年が駆逐される場面。
おじさんがどこまでもついてきて
「中国帰れ!」とひたすら怒号するのだが、
実際は青年は日本人だった。
靖国は日本人で靖国反対は中国・韓国、
という非常にわかりやすく短絡な思考。
それがまかり通るあの聖なる境内では
そもそも国際社会なんて堕落だ、と
本気で考えているかもしれない。

去年だったか、国会で問題となったのを端緒に
右翼が脅しをかけてあまり上演されなかった映画。
その旨は、確かフランスに住んでいた時分に
フランス誌でもちょっと記事になっていた。
日本の右翼が映画上演妨害、みたいな感じで。
右翼って「自国を誇れないような恥ずべき国は日本だけだ」
みたいに云うけど、
そんなに外の目が気になるなら、
そんな偏狭っぽさを外国に報道される方が
よっぽど恥だ、と感じたのを憶えている。

18.4.09

都電荒川線はべらんめぇを乗せて

友人に会うべく、荒川区に行った。
午后の半日を、旅行中のごとき徒歩量で歩き通した。

東京都区内であることをしばしば忘れてしまいそうな、
こぢんまりとした町らしい、ゆるやかな時の流れがあった。
路面電車のようなバスのような、時代を感じる電気軌道が、
その思いを荒川というトポスに縫いつける。

何があるわけでもない。
でも、一度足跡を縫いつけてしまえば
容易に記憶から剥がれないだろう、
そんな土地の雰囲気があった。

17.4.09

泉鏡花「高野聖」、石川淳「佳人」

泉鏡花「高野聖」
高僧が煩悩をお上品に丸出しにして出くわしたお伽話、というか。
耽美的だが、その耽美がけっしてお上品でなく、
籠る自然の草いきれなところがよかった。

石川淳「佳人」
読みにくいし、そう読んでいて面白くもなかった。
だが、思い返すと、一読では駄目だな、と思う、そんなブンガク。
単なる記録っぽいけど、実際はかなり、
文学や藝術というものに対してメタなものがあるように思った。
1930年代の文学ってのは、なんでこう、
グロいものをちょびっと裏に秘めてるんだろう。
それが時代閉塞ってやつなんだろうか。
…………じゃあ、現代って………?

明日は荒川区に、来月は福岡県に行く。

11.4.09

大阪には戻らない

 僕は18年間、そこで実に多くを学んだ。街は僕の心にしっかりと根を下ろし、想い出の殆んどはそこに結びついている。しかし大学に入った春にこの街を離れた時、僕は心の底からホッとした。
 (村上春樹『風の歌を聴け』)

ほんのときどきだけど、村上春樹の『風の歌を聴け』を読み返したくなる。
それは故郷の大阪を遠く離れた仙台の大学に入ってからのことで、
読んでいるときの気分は、ありもしない過去を
代筆で仕上げてもらった回想録に浸っているようだ。

風が心地よいので、窓を明けっ放しにして、
畳に寝転んで、がらんとした家にいる。

狭い1Kに二人で棲んでいたことも、そういえばあった。
近づいてくる出国日の別れを世界の終りのように思いながら、何度も涙した。
でも、もちろん世界は終わらずに、
いろいろなことを巻き込みながら、淡々と時間が過ぎた。
自分は帰国し、やがて独りぼっちになって仙台を離れた。

今は2DKに独りで棲んでいて、だらだらと終わらない本の整理をしている。
過去にあったさまざまなことも、ほとんど忘れてしまった。

6.4.09

岩井俊二『PiCNiC』


寓話ですね。すごく単純で配置が綺麗な。

岩井俊二って、乾いた日常を切り取って見せてくれる印象があったけど、
映像をもっぱら魅せる感じは、むしろ『式日』っぽかった(監督違うけど)。

映画というよりイメージビデオだった。
音楽と、Charaの声と、光と影と、黒と白(と血)との。
その境目を隔てる塀を歩き歩いて、紡がれていく。

5.4.09

桜に想うことごと

路沿いのそこここに、あるいはずらりと、桜が満開になっている。
はっきり云って見慣れてしまったので、綺麗と感じない。
夕陽に照らされて赫く輝きつつ、裏側に影を帯びた
鰯雲の群れのほうが、よっぽど綺麗だ。

汚らしく色彩の散らかった街に桜が咲いたところで
ごてごてしさが増すだけなので、
桜は人家のない山で観るべきだ。
夏前のまだ濃い緑の一面に混じって、桜が見えると、
それこそ、心からタナトスを感じるだろう。
坂口安吾のように、強盗や戦争の栄えを見出だすだろう。

私の場合は、馬鹿騒ぎを誘発する厄介なハレなどごめんだ、とばかり、
世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし、と
在原業平の一歌が浮かんだ。
そして、坂の上から遠近に咲く花を見下ろして、
その毒々しさを厭わしく感じた。

3.4.09

島田雅彦『僕は模造人間』

島田雅彦の小説をこれまでに三作ほど読んだが、そのいずれでも、
遠出が、起承転結の転として機能しているのは、偶然だろうか。
ただ、それよりも重要に思われるのは、彼の作品の隠れテーマとして、
肉体と精神の主従関係みたいなものが、常につきまとっている。
『溺れる市民』でもそうだった記憶があるし、
今回読んだ『僕は模造人間』では、まさにそうである。

その二項対立の接点に性欲が置かれていて、
そして、特異なのだろうが、その性欲の処理としての自慰が、
そのまんまとしての自慰のほかに、一人で思考が連綿と続くところの理屈、
としても描かれているところが、この作品では面白かった。
最後、意識と肉体は完全に切り離される。
こうすると、結末で示されるように、もはや悲劇は存在しない。
そもそも、悲劇も喜劇も、まったく同一の題材に対して両立する。
悲劇か喜劇か分けるのは、視点が題材に対して主観的か客観的かだ。

31.3.09

小津安二郎『お早よう』、島田雅彦『自由死刑』

・小津安二郎『お早よう』

団地や建売の個性なき家屋の連なりに住むという、
資本主義なのか社会主義なのかわからない高度成長下日本の家族群像でもあるし、
挨拶って、という子供の必死で純粋で滑稽な反抗の顛末でもある。
こんなに詰め込んで90分内という密度と、それを感じさせないゆるい展開と。
噛み締めるように観てこその映画なんやろな、と。


・島田雅彦『自由死刑』

冒頭、妙にぶった口調で現代の閉塞と疲弊を語るよ、と思っていた。
途中、車谷長吉の『忌中』を、似た物語として思い出した。
彼の初期作品は社会概念の戯れ・揶揄だが
後は人それぞれの生きざまに焦点を当てて、
だから、天皇の『おことば』みたいな、政治機能と個人という天皇の両機能を
混同するようなもんを書いたりしたのかな、と思ったりもした。
終盤、そんな個々人それぞれの生きざまから
社会風刺を透けさせるというやり手さを、『退廃姉妹』とは別の切り口で見た。
「自由死刑」の語。思えば人生って、「自由死刑」。
数年から数十年の自由を、デン、と押しつけられて、
その先にあるのは例外なく死刑、というのだから、まさにそのとおりだ。

あとね、旅と、ぐいぐいひっぱる加速度。すげーおもろかった。

30.3.09

塚本邦雄歌集『寵歌變』


市立図書館に行った。
啓蒙ではなく経済効果に統べられた煉瓦作りである
(おざなりの仮カウンターだけで利用者を捌き続けた後、
 この決算期に耐震工事を終えて再開したのだから、間違いない)。

その、夥しい新陳代謝と、弛緩し切った雑文の林立する中に
塚本邦雄の歌集を見つけたときには、まるで癌だな、とにやりとした。
借りて、手許にあるが、棚に置いておけば、じくじくと反乱をしてくれたろうか?

「日本人靈歌」は、高度成長下の黒い部分をぎらぎらと照らしていて、
でも、バブル崩壊後の迷走するニッポンしか知らない私には、
その良い面も悪い面も、お祭りのような賑やかさに感じられる。


 暗渠詰まりしかば春暁を奉仕せり噴泉・La fontaine  (「日本人靈歌」より)

詰まった排水溝の汚さから、春の日の出、そして噴水へ、という流れの、
あまりに綺麗な風景、そして、日本社会の空気をそこに込めるのは塚本ならでは。
朝っぱらからそんな労働に駆り出された(おそらく)土工をも包む、
この漲るような高度成長の空気って、どうよ?
「噴泉」も「La fontaine」も「ラ・フォンテーヌ」とルビで読ませていて、
そのルフランと、漢字からフランス語への書き方の変更が、
連想の流れを異国にぶっ飛ばしてくれるかのよう。

他のどの歌も、かくもといわんばかりの着眼点と破壊力をもって迫ってくるので、
嘆息に嘆息を重ねてばかりいる。

 萬國旗つくりのねむい饒舌がつなぐ戰爭と平和と危機と (「水葬物語」より)

28.3.09

ドストエフスキー『地下室の手記』 「ライ麦畑」型物語のアンチテーゼ


今流行の新訳ではなく、新潮社版の江川卓訳。

1864年発表なので、その内容はあまりに斬新すぎたろう。
それはいいとして、気づいた点をメモするにとどめる。

Ⅱ部について。
私は、この物語の筋に、「ライ麦畑」的プロットの
原型および批判を見出だした。
類似としては、
「日常生活への鬱屈を煮詰めたような出来事」→
「彷徨、その果てにささやかな邂逅」
という、主人公の一日の筋書き。
批判としては、
邂逅が主人公にとって浄化になる(=「ライ麦畑」型物語)
のではない、という結末が提示してあるということ。
浄化は示唆されながらもなされず、
主人公が結局撥ね付けてしまうという、読者への裏切りは、
「ライ麦畑」的なある種のファンタジックな現実逃避への
警告と非難であるように、思えてならなかった
(「ライ麦畑」型の諸物語がどれも『地下室の手記』の後発なのにも拘らず)。

じゃあ同著者の『罪と罰』って? と私の思考は続いた。
「ライ麦畑」型というのは、彷徨の果ての邂逅が、
ある種の免罪符のように働き、主人公は恍惚としながら一瞬で転向する、
それゆえに、「罪と特赦」といえるのではないか。
一方『罪と罰』では、ソーニャは彷徨の果ての邂逅として機能するものの
ラスコーリニコフはシベリアへの流刑となる。
罪は恍惚的な改悛によって消滅するようなやわなもんではなく、
同じくらい重くて辛い罰によってのみ償われる。

27.3.09

ウォーラーステインへのインタビュー「資本主義 その終りの始まり」の拙訳 2

(承前)

──あなたが述べられたような、現況への前例というようなものはあったのでしょうか?

人類の歴史の中で幾度もありました。このことは、マルクス主義的見方にもあるような、継続的で不可欠な進歩という、19世紀に作り上げられた歴史像から想起されるものとは、正反対です。私としては、進歩の可能性というテーマにこだわりたいのであって、進歩の不可避性には興味はないのです。確かに資本主義は、尋常ならざる驚くべきやり方で財や富を最大限に生産するということを、ノウハウとして持っています。だが、見ておかねばならないのは、同じ過程で環境や社会に対して齎される損失の総体なのです。唯一の美点は、理性的で知的な生活を最大多数が享受できるという点です。

ところで、今日の危機に一番近くに起きた類型は、15世紀中葉と16世紀中葉の間での、ヨーロッパの封建制の瓦解、そして、資本主義制への移行です。その時期には宗教戦争とともに最高潮を迎えるのですが、王権や領主権や教会権が、最も富を蓄えた農村や都市に対して保持していた支配力が、崩壊するときだったのです。まさにそのときが、脈々たる試行錯誤と意図せざるやり方でもって、不測の解決策が打ち立てられていたわけです。その達成は資本主義という形態のもとで少しずつ理解されながら、「システムづくり」を最後に迎えるのです。

26.3.09

菅原孝標女『更級日記』、谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」


菅原孝標女『更級日記』

日常の過ぎゆく淡々たる記述なのに、
どこかしら諦観というか淋しさが漂っていて、興味深かった。


谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」

「鍵」といい、これといい、片仮名で綴られていたが、
意外にもすんなりと読めた。
この勢いに乗って『戦艦大和ノ最期』も行けるんじゃないか。
それはいいとして、谷崎潤一郎からみたら
山田詠美の初期作品なんか、まるでそっくりなのかも。
時代推移に伴う(であろう)日本人と西洋人の力関係の逆転や
視点が男か女かの相違はあれど。
もっとも、谷崎はやはりどうしてもマザコンっぽい。
主人公が老人になってもね。

-------

今日、仙台を訪れる最後の機会から帰浜した。
慈愛の輝き、という感じの最後だった。

22.3.09

青山真治『サッド・ヴァケイション』/再会/「人道的施設」アウシュヴィッツ

le 22 fév. 青山真治『サッド・ヴァケイション』

これ、中上健次? 主人公の名前、健次やし。
でも、中上よりも、女、という螺旋軸があって、
それがまたはっきりと「無限カノン」的な感じ。
北九州だから、港湾都市ということで、
神戸や函館みたいな荒さがあるのは、
前に文學界か何かで、対談してたのを見たような。


le 23 fév. 再会のさわり

久しぶりに会うには時間が短すぎた。
次の帰阪ではもっと得るものも多かろう。


le 24 fév.アウシュヴィッツは人道施設だった。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090319/189540/
ナチスの遵法性、経済政策としての人種政策、がテーマ。
アイヒマン実験など心理学サイドからよく云われる、
ナチスの残虐性が万人に起こりうることが、
非常によく示されていることに、瞠目した。
ナチスとは国家の暴走、
最高決定機関としての国家の暴走なのだな、と思った。
大西巨人が『神聖喜劇』で見せた「責任阻却の論理」が
これと同質であると考えるとき、
決して国家の暴走は他山の石ではない。
もちろん、国家の本質が変わっていない以上、
現代でも最重要問題として思考されなければならない。

そして、日本。
官僚制と中央集権が、当時のナチスに非常に似通っている。
ナチスは、現状打破のヒーローとして
当時のドイツに生を受けたが、
行政の根幹がすでに硬直していたために
国民の願うような情況の急変とはならなかったのではないか。
進歩には、漸進的なものしか実にならないのだ。
現在の日本のような、政治と国民生活がまるで乖離している状態は、
そのような「救世主」に暴走を許す下地であるから、
非常に危ない。
小泉人気、ヒトラー人気はその意味で同質である。
以上のことはもちろんすでに云われていることで、
『ブリュメール18日』に詳細に検討されている。

21.3.09

伊丹十三『タンポポ』、谷崎潤一郎「鍵」/国語科への提案

・伊丹十三『タンポポ』

テーマはずばり美食。
で、ストーリーの破天荒さはもちろんコメディ。
いくつかの挿話があるのが面白かった。
特に、食にまるで精通していない重役たちのエピソードと、
本篇でのものごっつう舌の越えたホームレスたちが
対比されているようで、笑えた。

数日前に観たものを、感想の書き忘れのため、ここに記す。


・谷崎潤一郎「鍵」

さて、どちらが嗾けた死亡遊戯なのか。
谷崎って、後期で「陰翳礼讃」風になってしまうまで
ほぼすべてと云ってよいほど、立場の逆転、の過程の物語だが、
これもまたそうだった。もちろん、面白く読んだ。

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急に実家に帰らざるを得なかったので、
中学高校時の国語科教材『国語便覧』を参照してみた。
谷崎の項は、「女性の官能美」「耽美派」とある。
はっきり云って、中高生には刺戟の強すぎる谷崎を
ぼかそうぼかそうとしてヘマをしている。
短篇「小さな王国」なんかは、官能美でも耽美派でもない。
谷崎は何を隠そう、「日本版SM」「倒錯」が正しい。
『細雪』『陰翳礼讃』で谷崎を代表させておくほうが
PTA的にも安心、というだけにすぎない。
ここを余すことなく中学で教えれば、
絶対に国語好きなんか増えると思うねんけどなあ…て、
親御さんどもが許すまいなぁ。

19.3.09

島田雅彦『退廃姉妹』、成瀬巳喜男『乱れる』


・島田雅彦『退廃姉妹』

「頽廃」の語は、姉妹にかかるのではなくて、
斜陽とか堕落と同様、敗戦後の占領期の日本、の意味だろうと思う。
姉妹の変化は頽廃ではなく脱皮だったし、
時代が時代でも若さ故か輝いて、
姉の西行きの旅は、あまりに雅があった。
その意味では、散る花の美しさのような日本の美があって
敗戦期の話とはまるで思えないし、
特攻隊も軍部腐敗も、官僚制の産物として笑う態度は
同じ日本の負をしかと見つめる態度として、
阿呆な耽美派右翼よりも冷静だった。
日本という文化は、どれもそうだけど、容れ物であって、
生け花とか茶道とかいう安直な上っ面ではない。
だから、闇市や占領期がそこに入ったところで、
日本式に換骨奪胎されるのだ。
だから、戦後に姉妹はアメリカを乗っ取ろうとするし、
エピローグに示されるように、姉妹は日本史に遍在する。


・成瀬巳喜男『乱れる』

乱れた場面なんてほとんどなかった。
義理の行く末をどこまでも描き切る、という感じはやはり流石。
終盤なのに、汽車に乗って舞台飛ぶしね。
清水だったのが、山形の大石田、銀山温泉まで。
高峰秀子の、翻弄されながらも哀しく耐える役柄って、いいね。
鼻にかかる話し方が、『浮雲』でも感じたが、
尾を引く過去のしがらみを背後に感じさせて、
損と云えば損なそんな役回りにぴったり。

18.3.09

夏目漱石『草枕』


枕草子草枕。回文?
いや、なんかタイトルだけ見ると似てるなぁって。

藝術の根本が耽美にあった時代だな、と思った。
シュールレアリスムも自然主義も、まだまだ新流派だったのだな、と。
でも、瞠目して観る態度は、藝術にとっては変わらない。
その意味で、単なる藝術論の随筆のようなこの小説は面白かったし、
第一に、文章の精度に酔うも心地よい。
ストーリーと藝術論が合致する結末は、鮮やかというほかない。

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ここ三日間ほど、横浜の生活に慣れ始めた気がする。
自転車にて家を出て、横浜駅西口を放浪したり、
海浜の公園で、音もない波を感じながら読書にあくびを交えたり、
県立や市立の図書館に行って開架を眺め歩いたり、
地名と地図を交互ににらめっこしながら道を誤ったり、
春だとて安い野菜を買ったり、炒めたり、煮たり。

15.3.09

吉田喜重『鏡の女たち』、夏目漱石『道草』、成瀬巳喜男『あにいもうと』


・吉田喜重『鏡の女たち』

女が鏡である。割れていても、記憶が戻らずとも、
原爆があろうと男が関わってこようと、
受け止めて生きてゆく。
ヒロシマさえ相対化されて見えてくるほど、
強さとしなやかさと、健気さがあった。


・夏目漱石『道草』

漱石らしくない。
自然主義ではないよね、漱石って? と確認してしまう。
自然主義的な切り口で、書き口は心理小説。
題材を見れば私小説。
天才文豪は何でも書けるのだな、と恐れ入った。
人間観察の鋭さは、さすが学問からその外部を見つめた漱石だ。


・成瀬巳喜男『あにいもうと』

室生犀星が原作だが、読んだっけ…?
犀星の小説はほとんど読んでいるはずだが、
ストーリーは記憶にない。
成瀬らしい愛憎の折り重なりを期待したが、
うーん…という感じだった。

ウォーラーステインへのインタビュー「資本主義 その終りの始まり」の拙訳 1

世界的な経済危機を受け、2008年10月11日のLe Mondeに、
イマニュエル・ウォーラーステインのインタビューが
Le capitalisme touche à sa fin. というタイトルで掲載された。
http://www.lemonde.fr/la-crise-financiere/article/2008/10/11/le-capitalisme-touche-a-sa-fin_1105714_1101386.html
世界システムという長期的展望からみると
今回の金融危機はどう捉えられるのか?
その点から、この記事は非常に興味深く、読む価値があるので、
邦訳し、以下に載せることにした。
ひどい訳だが、大意をとる程度には役立つかもしれない。



資本主義 その終りの始まり

──あなたは、2005年のポルト・アレグレでの社会フォーラム(「オルタナティブな世界のための12の提案」)の宣言の調印者であるとともに、オルタナティブな世界を推進する運動の提唱者とも捉えられています。ビンガムトンにあるニューヨーク市立大学でフェルナン・ブローデル研究所を設立・運営し、歴史システムや文明といった経済活動の研究をしていらっしゃいますが、現在起こっている経済金融危機は、資本主義の歴史という長いスパンにおいてどのように位置づけられるとお考えですか?

 フェルナン・ブローデル(1902-1985)は「長期持続」を時間と区別しました。人間から物質環境までの諸関係を支配するシステムが人間の歴史の中で続いてゆくのを観察できるための概念です。その諸局面の内部で時間は、さまざまな取り巻き環境の長いサイクルであり、ニコライ・コンドラチェフ(1892-1930)やヨーゼフ・シュンペーター(1883-1950)といった経済学者によってそれぞれ指摘されてきました。現在は明らかに、30年から35年前に始まった、コンドラチェフの波のB局面にあります。その前にあったA局面は資本主義社会の歴史の150年で最も長く続きました(1945年から75年)。

 A局面では、利潤は物質的、産業的あるいは他の生産によって生み出されます。一方でB局面では、資本主義が利潤追求を続けるためには、金融商品や投機に走らざるを得ません。30年以上前から、企業、国、世帯は全体的に借金をしています。コンドラチェフの波のB局面末期にあたる現在は、潜在していた凋落が現実的な問題に変わり、バブルが次々と崩壊してゆく時節に当たります。具体的には、倒産が数重なり、資本の集中が顕著となり、失業が進み、そして経済は現実にデフレの状況を経験することになります。

 しかし今日、取り巻き環境のサイクルの時節が、長期持続のふたつのシステムの間で推移しようとする時期と重なっていて、結果的にその変化を深刻化させています。結局のところ、30年前にもう資本主義システムの終局に入ってしまっていたのではないでしょうか。以前の取り巻き状況サイクルの不断の継続からこの局面を区別する根本としては、資本主義はもはや、物理化学者イリヤ・ブリゴジン(1917-2003)の云う意味での「システムづくり」に到らないということにあります。つまり、生物的にしろ化学的にしろ社会的にしろ、あるシステムが安定状態からあまりに強くあまりに頻繁に外れたとき、平衡状態に戻ることはもはやなく、分岐点にさしかかる、ということです。

 状態というものは、あるときまでそれを支配していた力にとっても混沌として手に負えないものになります。そしてシステム維持の賛成と反対が対立するだけでなく、何を後釜に据えるかという件であらゆる参与がぶつかり合います。こういうときにこそ「危機」という言葉が使用されるべきでしょう。我々は危機状況にあるわけで、資本主義が終りの始まりを迎えているのですから。

──これまでにも、結局は商業資本主義から産業資本主義の推移があったわけですし、産業資本主義から金融資本主義への移り変わりもありました。なぜ、資本主義の新形態はさほど言及されないのでしょうか。

 資本主義は雑食性です。あるときふと最重要物が利潤となれば、その利潤を呑み込みます。小さな限界利潤では飽き足らず、寡占状態を作り出すことで利潤を最大化しようとします。最近ではバイオテクノロジーや情報科学においてもそのように振る舞おうとしていました。しかし思うに、システムの現実の蓄積の可能性は、限界に達しています。資本主義は16世紀後半に出現して以来、利潤の集中する中央と、どんどん貧困化する周縁部(必ずしも地理的な意味ではない)との間で、富の差異を喰いものにしてきました。

 この点について、東アジア、インド、ラテンアメリカの高度経済成長は、蓄積費用をもはや制御できないヨーロッパが作り出した「世界経済(l'économie-monde)」にとって、抑えがたい驚異となっています。人件費、原材料、税金という三つの世界価格はここ数十年、どの地域でも強い上昇を見せています。現在終焉しつつある新自由主義的な短い期間は、一時的にこの傾向に歯止めをかけました。つまり、90年代末、これらの価格は確かに70年代より低水準でしたが、それでも45年よりずっと上でした。ところが実際は、現実の蓄積というものの末期にあたる「栄光の30年」(1945-1975)はあり得なかったのです。というのは、ケインズ主義をとった国々は資本の供給に力を注ぎました。しかし、そのときからすでに、限界が来ていたのです。

(続く)

14.3.09

信仰を司る脳(ル・モンドより、拙訳)

【原文】Le cerveau à la foi(Le Monde au 10 mars 2009より)

Des chercheurs déclarent, dans le journal américain Proceedings of the National Academy of Sciences du 9 mars, avoir localisé la zone du cerveau qui contrôle la foi religieuse. Selon leurs travaux relatés dans The Independant, la croyance en un pouvoir supérieur, céleste, est un atout de l'évolution qui aide les hommes à survivre.

La croyance en un dieu serait profondément ancrée dans le cerveau humain, qui serait programmé pour l'expérience de la religiosité. Pour le professeur Jordan Grafman, du National Institute of Neurological Disorders and Stroke à Bethesda, près de Washington, "la foi et le comportement religieux sont des traits de la vie humaine qu'on retrouve dans toutes les cultures et qui sont sans équivalent dans le règne animal". "Nos résultats démontrent que les constituants spécifiques de la croyance religieuse concernent des circuits du cerveau connus."


"L'AIRE DE LA FOI"

Les scientifiques qui cherchaient "l'aire de la foi", supposée contrôler la croyance religieuse, pensent qu'il n'y pas une mais plusieurs zones du cerveau qui forment les fondations biologiques de la foi. Le cerveau aurait évolué en devenant plus sensible à toute forme de croyance qui améliore les chances de survie. Ce qui pourrait expliquer pourquoi la croyance en un dieu et au surnaturel est si répandue à travers le monde.

La communauté scientifique, les philosophes et les théologiens sont divisés sur l'origine de la foi. Pour certains elle est d'origine biologique, pour d'autres culturelle. Des théoriciens de l'évolution prétendent que la sélection naturelle darwinienne a pu mettre l'accent sur les individus qui sont croyants et dont les chances de survie seraient supérieures à ceux qui ne croient pas. D'autres ont suggéré que la foi était juste la manifestation du phénonomène biologique intrinsèque qui fait du cerveau humain un organe si brillant et adaptable.



【拙訳】信仰を司る脳

『アメリカ科学界会報』誌は3月9日、脳において宗教的な信仰を司る領域が特定されたと発表した。The Independant誌にその成果が詳しく述べられており、それによると、高次的な天の力を信じることは、ひとが生き延びるのに役立つ発達の一つの切り札であるという。

神的存在を信じることはヒトの脳に深く根を下ろしていて、宗教経験に適合するようプログラムされていると考えられる。国立神経疾患・脳卒中研究所(ワシントン近郊ベゼスタ)のジョーダン・グラフマン教授は、次のように語っている。「宗教的な信仰と活動というのは、ヒトの生活の特徴だ。すべての文化に見いだすことができ、動物界には例がない」。「この研究成果の示すところは、宗教信仰の特定の構成要素は、ありふれた脳回路と関わりがある」。


  信仰野

宗教信仰を司るとされる「信仰野」を研究してきた科学者は、信仰の生物学的機能を形成する脳の領域は一箇所ではなく複数あると考えている。脳は、生き延びるための機会を活かす思考のあらゆる形式に対して敏感になることで発達してきたのかもしれない。神や超自然的なものをなぜ信じるのかを説明しうることは、世界中でよく知られている。

科学界、哲学者、神学者は信仰の起原について、生物学に端緒を求めたり、文化的な産物とみなすなど、意見を対立させている。進化論の理論家の主張では、ダーウィニズム的な自然淘汰で信仰ある個体を際立たせ、生き延びる機会が無信仰の個体を優越したのだという。異見では、信仰は単なる生物学に固有の現象の顕われに過ぎず、そのことがヒトの脳を適応力の高い優れた器官にしたとされる。

11.3.09

l'affectation 配属

J'ai beau avoir presque oublié l'anglais,
on m'a affecté à la section d'echanges universitaires.
英語が朧げなのに、配属は留学課となった。

10.3.09

侯孝賢『珈琲時光』、芦奈野ひとし『ヨコハマ買い出し紀行』』/郵貯通帳に黙祷


侯孝賢『珈琲時光』

自分としては、……、という感じ。
小津安二郎? いや、吉田修一か初期の長嶋有だな。
光が綺麗だったし、役者が自分まんまって感じ。
……こういうドシロウト批評って、どうなんやろうか。
私は映画好きであるより何十倍も読書好きなので、
こんな、映画というより小説的な切り口になるのは
仕方ないのかもしれへんが。


芦奈野ひとし『ヨコハマ買い出し紀行』

漫画! 久しぶりの。
しかも、耽美派。
こういう気分転換も悪くないけど、中毒には注意やね。
カフェインのようにゆっくり来そう。

------

弟が大学に合格した。
三度も住所を変えた私の歴史ある通帳が
莫迦な郵便局員によって、
四度目を手に入れる直前に、勝手に新通帳に役目を譲らされた。
望む前進と不本意の進展。

9.3.09

岩井俊二『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』、溝口健二『赤線地帯』/帰浜


岩井俊二『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』

『ラブ&ポップ』の監督だな、と思った。日常の描き方が。
端緒はどうでもええ事柄やのに忘れ得ない出来事にまで
物語が膨らんでゆく、というような流れとかが。
カメラワークは控えめやったけど、色遣いはやはり絶妙。
特に、夜のプールになずなが立てた波、とか、いろいろ。


溝口健二『赤線地帯』

こんなに衝撃的で、なのに尾を引く幕切れってあるか!?
頂点でぷっつりと切られた感じ。
まるで軽やかな擱筆を見せる小説のようだった。
そして、それぞれの売笑婦たちの身に起きる哀愁の
どれをとっても、封切られた時代背景を考えると鋭く刺さる。
下手なお化け屋敷みたいなBGMも、妙にマッチしていた。

----

昨日は、生れて初めて阪急箕面線牧落駅を使った。
実家の阪急の最寄り駅なのにね。
帰宅時、何の気なしに乗った電車が終発だった。セーフ。

今日は京急の神奈川駅で人身事故、私も影響を受けた。
http://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryivmar090377/
十分か二十分程度だろうけれどもね。
妙にゆっくりと進む車窓のすぐ向こうで警官が何人も歩いていて、
最後尾の車輌の一番後ろ側に座っていたので、
おそらく亡くなった方だろう、ブルーシートが線路脇に見えた。
ゆっくりと後ずさる電車からその光景を見ながら、合掌。

8.3.09

リュック・ベッソン『ニキータ』


ボブといいマルコといい、
ニキータが駆け抜けた直後のニキータの残像を
愛でていた、ただそれだけなんじゃないかと思った。
だから、最後にいなくなってしまい、
お互い淋しくなるな、なんて云っても、
もとより少しずつ募っていた淋しさなのだ。
あ、でも、マルコは最後に追いつきかけたかな。

直前の自分を摑んでくれるひとはいても
自分の置かれた情況を理解してくれる人をニキータは持たず、
そして守秘義務ゆえに持てない。
初めて情で訴えかけたヴィクトルに決定的に打ち負かされた、
まさにそのことによって、彼女は地の果てに消える。

あんまし関係ないけど、聴き取りやすいフランス語だった。

7.3.09

帰阪、城崎、ほか近況


24日。横浜は霙、後に雪が降った。
羽田から神戸に飛び、帰阪。

2日から4日、城崎。
不本意ながら旅先に出石を含んだ。
10時から15時までを彷徨するにも、
それを収める大きさもない小さな温泉街。
温泉はどれも心地よかった。
着物も下駄も、但馬牛も、まぁ蟹も。

6日、お初天神附近にてF118号室の(?)同窓会。
提供される一品ずつの量がでかい。
種々の話のどれにも興じた。
学生時代も次第に暮れゆく。

7日、待兼山の大学図書館にて『御堂関白記』の註釈を参照。
書き下し方の確信のほかは
興味深い情報は得られず。

23.2.09

坂口安吾『桜の森の満開の下』、川端康成『眠れる美女』

このところ無意識ながら本のセレクションが「女」と「妖」。

・坂口安吾『桜の森の満開の下』
幻想小説というか、幻惑小説というか。
美の崇高さと冷酷さ、この不可分の特に後者が出ていて、
おどろおどろしかったけど綺麗で妖艶で。
狂ってると片づけられなくて、中世の両義性?
(あかんなぁ、最近こういう民族学的な片づけ方ばかり……)
もちろん、それは一面でしかないやんねー。あーあ。
とにかく、色鮮やか。満開の桜色、山々の緑。
その下で「狂って」ゆく男、女、そして時空。
印象的だった。柔らかい色なのに、歪んでゆくんだから。

・川端康成『眠れる美女』
何人もの美女を通じて老人の人生の性の来歴が振り返られ、
だからどの美女でも良いわけではなくて、
最後におかみさんに「みんな一緒でしょ」みたいに云われて興醒め。
「美」という一般形があるように描写しておいて
実際には一意ではなくて差異に基づく、みたいな、
その隙間を飄々とゆくような美しい文章が続くのが、すごく心地よい。

21.2.09

久々の読書 谷崎潤一郎『痴人の愛』、坂口安吾『戦争と一人の女』


一月末に仙台にいる意味を失ってから、ようやく仙台を出た。
今は東京にいて、精神の安寧を取り戻している。

谷崎潤一郎『痴人の愛』

Naomiという音の愛撫から始まるので、
ナボコフの『ロリータ』を下敷きにしているのかと思ったが、
それだけでない、日本文学としての味つけとして
西洋崇拝も随所に散りばめられている。
ナオミ-譲治の主従の基盤にそれがあるのだ。
谷崎とはとかく主従関係の逆転だが、
恋愛の駆け引きに埋め込まれ、なお面白く読んだ。
いかんね、感想を書くとこうも分析的になって。
読後、女性に未練の残るときに薬になるな、と思った(笑)

坂口安吾『戦争と一人の女』『続戦争と一人の女』

破壊が創造の補完であることは山口昌男などから周知だが、
傍目からは「堕落」であろうのにそんな感じのしない、
むしろ不思議な作品で、非常に面白かった。
敗戦色の濃い日本に根を張った夫婦生活、これが舞台なのかな。
非日常に根を張った日常、自家撞着的なこのスタンスには、
自然と、緊張感としぶとさと頽廃さが漲っている。
高橋しんの漫画『最終兵器彼女』に少し似ているように思った。
特に、自分たちだけが最後に生き残ろう、として
焼夷弾の夜襲で赤く染まった夜空の下で、消火に我を忘れるところが。
自分たち即世界という、神話的ですらある短絡・明快さが似ている。
もっとも、この作品は、高揚の醒める敗戦が
全てをぶちこわしてしまうから、あsる意味でいいんだけど。

18.2.09

橋下府知事は地方分権をどう捉えているのか?

府立大と市大の合併案を述べたことに関して。

彼の持論は地方分権で、霞ヶ関を諸悪の根源としているが、
伊丹空港廃止論にしろ大学合併にしろ、
いまはとにかく不財政の支出抑制だけに頭が行っていて
そのお眼鏡にかなったそこそこの建前でしかないような気がする。
ビルト&スクラップではなく、スプラップ&スクラップなので、
財政支出は短期的に抑制できても、
間違って投資分まで削ってしまいかねず、
長期的展望はあまり望めないように思われる。

伊丹は関西、神戸を差し置いて名実ともに大阪の空の商業玄関口だから、
それをうっちゃって利便性の悪い関空を持ち上げようとしたところで
中部空港と羽田=成田空港に水を空けられるばかり。
関空をこんなへんなところに作る羽目になった元凶の
国土交通省を攻めるなら、まだ地方分権論者として一貫しているのに。

両公立大学合併にしても、競争率を高める意図にしろ予算削減にしろ、
無益なところに頭を突っ込もうとしているように思われる。
地方分権の観点で云えば、単なる総合大学ってんじゃなくて、
もっと大阪独自の大学にするとかあると思う。
なぜそんな抽象的なことを云うのかというと、
それは、現在の市大も府大も、京大-阪大-神戸大-市大-府大、という
没個性的な偏差値順に甘んじて択ばれているだけの存在なので、
人材育成を、その所在地・設置者の地方自治体のための投資であるとは
一概には云えないのだ。
(もっとも、その最悪の例が、吾が母校たる東北大学だと私は思う。
 仙台の産業的な自立性は無いに等しく、いわば都心部の出先機関だ)

ちなみに、同じ論理は医学科にも敷衍できる。
医学科の偏差値が他の学科に較べて遥かに収斂されているのは、
医学科受験が全国区だからだ。
医学生のうち、卒業した大学所在地附近にとどまって医業を始める者の割合は、
地方部であるほど少ないと聞く。
だから、各都道府県が金を出し合って自治医科大学なるものを設置したり、
最近では地方枠を定員に組み入れたりと、苦肉の策を出しているのだ。
公立大学は医学科設置維持費用を、
その地方の医者養成という投資ではなく
捨てている(あるいは都市部に上納している)といえる。

偏差値の序列に搦めとられただけの大学では、
医学科のみならず、大学そのものが個性を出し得ない。
そして、偏差値という全国区で学力云々をほざいても、
それは地方分権ではなくて、中央集権制度下の地方の足掻きだ。
大阪府あるいは大阪市に人材を根づかせるための議論がされないから、
市大・府大が単にずるずるとあって金を食うから駄目、という短絡な話になるのだ。

亀井亨『病葉流れて』、成瀬巳喜男『浮雲』


・亀井亨『病葉流れて』
こういうせせっこましい堕落論はあんまり好きじゃない。
後半部を欠いた大島渚の『青春残酷物語』みたいだ。

・成瀬巳喜男『浮雲』
『鰯雲』とともに戦後の、社会がたち直ろうとしていた時期の話にして、
自分をすっかりと虜にしてしまった。
なんでこんなに人間の愛憎を表現するのがうまいんだろう。
話は、コンスタンの『アドルフ』のようで、
もう関係はこじれてるんだけど結局別れられずに
ずるずると舞い戻っちゃうというやつ。
だが、この作品で凄いのは、終盤で、そんな関係で落ち着いて
不思議な仲として短い幸せを摑みかけるという
微妙で繊細な心情を織り込めたところじゃないかと思う。
天才だなぁ、とつくづく思った。
それと、やはりカタルシスとしての死は、最大限の効果としてこそ生きる。
(中原昌也の対極、って感じ?)

17.2.09

モーガン・スパーロック『スーパーサイズ・ミー』、大島渚『悦楽』、成瀬巳喜男『鰯雲』


・モーガン・スパーロック『スーパーサイズ・ミー』
これのパロディーや批判作品はけっこうあるけど、
問題はその舞台がアメリカであるということだから、
オランダでやろうと日本でやろうと無駄だと思う。
結局、自由の国アメリカの自由ってのは新自由主義の自由だってことね。
カネだよ、カネ。あーやだやだ。
まぁ、それはええとして、いい映画だったと思う。
肩も凝らず、楽しめたし、へー、みたいなのもあった。

・大島渚『悦楽』
ありそうなシナリオで、大島らしさもあんまり感じられんかった。

・成瀬巳喜男『鰯雲』
カラー! 舞台は厚木! の、農村で、電車が走り始めている。
戦後の変化の波、特に農地改革に振り回されながら
ゆっくりと漕ぎ出す旧家の、没落? いや、変革。
淡島千景が名演技すぎる。
原節子が霞んでしまうのではないか、というくらい。
木村功も中村鴈冶郎も、みなはまり役で、
自分としては、どの点から云っても
成瀬巳喜男の最高傑作なのではないかと思う。

14.2.09

近況


NRJを聴きながら部屋の片付け。
手始めに大学の講義メモとハンドアウトの整理。
今後参照することなさそうなものを30%ほど削減。
孤独って、事実関係を抜きにしてもそう感じれば孤独なんだなぁ。
強い風とともに、仙台も暖かくなってきた。

曲。
サカナクション「セントレイ」
Unchain「Across the Sky」
Raphaël « Le Vent de l'Hiver »
Katy Perry "Hot'n Cold"
Alesha Dixon "The Boy Does Nothing"
Lady GaGa "Poker Face"
Antoine Clamaran "Gold"
上から三つ目の歌詞にある lettres jetés au feu が、
自分の場合は jetés au destructeur de document だ。

それにしても、片付けが遅々として進まぬ。
強風で洗濯物ばかり早く乾く。
20日に仙台を発つ。

11.2.09

塚本晋也『東京フィスト』 いかにして血を流すか/北野と塚本との暴力の比較

塚本晋也は東京を批判的に視ているのだなと思った。
無機的な街に殺されて妻をも獲られたセールスマンが
いかにしてその状況に立ち向かってゆくかを辿るとき、
不断の苦しみと、いじめのような鈍重な暴力が
やむことなく続けられる。
そうして、都市生活という埋没から少しずつ脱するように
他の者ではないという差異(個性)が浮き上がってくる。
対極にあるのは、没我、安楽、死、清潔、など。
そこから浮かび上がろうとする努力が、
死のすれすれの血みどろである。

冒頭の「こんなに近いのね」「でも、こことは天国と地獄ですよ」、
あるいは中盤の、主人公の父が「まったく苦しまずに亡く」なった、
これらが象徴的である。

暴力的。
その意味合いが、北野武の映画と塚本晋也のそれとでまるっきり違うのは、
北野は鋭利かつ瞬間的に描こうとし、
間合いや、緊迫、風景などの静謐で上品に包むのに対し、
塚本の暴力は持続的で即物的で、血腥い。
だから北野は銃を好み、塚本は肉弾戦を頻用する。
しかし、暴力性の現れが対蹠的であれ、その意味も相対するわけではない。
北野の暴力性はやはり静謐の緊張感を追求していて、
そこには漫才で多用される「間(ま)」の昇華が見られる
(同じく漫才師の松本人志も「間」を映画で描こうとしたがまるで能わなかった)。
一方で塚本の暴力は、その泥臭さの正反対である大都会のビル群への
アンチテーゼとして明らかに表れている。

9.2.09

市川準『トニー滝谷』

祖父が亡くなったので急遽帰阪、明日に仙台に戻る。

『トニー滝谷』。原作の村上春樹っぽさを残した文体のナレーションで、
村上春樹ってのは叙事詩だな、と思った。
短篇としては大昔、そうだな、六年ぐらい前に読んでいたが、
映画を観て、すっかり忘れていることに気づいた。
名前の由来からして人と人とのすれ違いと偶然からぽっと現れた、
そんな、来歴ともいえぬ出自をもつ一人の男が、
いかにして孤独を見出だし、生きてきたかが、
常に左から右へスライドするカメラワークにのって淡々と綴られる。
孤独な雰囲気が孤独を語るから、
孤独なんぞ何でもないというように物語は進む。
それが、一番つらく、一番心惹かれた。

4.2.09

石井克人『鮫肌男と桃尻女』


……。前半だるかった。ばらばらで個々ばかり際立ってて
統一感・リアルさがなかったし、
どうでもいい細部ばかりに手を回してかっこつけてた。
後半……。あーぁ、これは正直につまらなかった。

2.2.09

『あの夏、いちばん静かな海。』『山の音』


北野武『あの夏、いちばん静かな海。』

海岸の場面が半分ぐらい。行っては返し、行っては返し。
英語題A Scene at the Seaだからというわけではないと思うけど、
海のシーンはこの海岸線ひとつだけ。
海の波も、サーフィンも、ゴミ収集も、人の命も、
言葉もなく、その流れだけが寄せては返す。
冷酷だけど、あたたかかった。


成瀬巳喜男『山の音』

強烈だった。『東京物語』のような静かで辛辣な強烈。
たぶん、不和のきっかけはほんの些細なものだったんだろう。
でも、それの膨れてゆくのを、どうしようもできないもどかしさ。

1.2.09

映画三昧ふたたび 『blue』『晩菊』『山のあなた』


安藤尋『blue』

原作は魚喃キリコ。クレベール広場のクレベール書店で
フランス語版を買おうか何度も悩んで、結局買わなかった。
科白が一連の表白ではなくて、小泡の羅列のように、
プツリ、プツリと発せられては消えて、また発せられる。
登場人物はそばにいようとしながら隔たっているし、
カメラも人を被写体に移動はするけど風景を撮っているよう。
つまらなそうな田舎と中途半端な街と灰色校舎の学校が舞台、
でもそのそばに海がひらけていて、どこまでも海岸が続いている。
どっちにも惹かれ、どっちにも溶け込めないで、
ただ漂うばかりも青さだった。青春なんやろか。
青春って、ほんま醜くてぶざまで、でも海がそばにあるからええなぁ。


成瀬巳喜男『晩菊』

哀愁ばかり漂う現実感で、救いがなくてちょっと辛かった。
原作が林芙美子だから?
にしても、戦後の日本の民家って、本当に「路地」やね。
中上健次ばかりが路地文学ではないのかも。
逆に、青山真治も阿部和重も北九州と山形に
サーガを作ろうとしたんだから、
中上健次の出自が路地の背景にあるからといって路地文学というのは
本質を見失ってるのかもしれない。なんて、全然映画関係ないやん。
でも、同じ路地でも義理人情を素朴に出せばこういう感じ、
歴史の因果と円環を見出せば中上になる、ということはいえるかも。
コンクリートジャングルの迷子たちの世界になったいま、
失った人情を手のひらで転がして酒を飲めば村上春樹?


石井克人『山のあなた』

草彅剛の演技がうまいっ! に尽きるかな。

31.1.09

吹雪をやりすごす読書と映画鑑賞 『海辺のポーリーヌ』『新宗教 その行動と思想』『パビリオン山椒魚』


エリック・ロメール『海辺のポーリーヌ』
(« Pauline à la plage » d'Éric Rohmer )

やっぱり追求すると愛って摑めないものなんだねぇ。
今の自分の境遇に、ほんのちょっとした慰めになったような気がする。
それにしても、軽々と大それたことを見せつけてくるね、ロメールは。
小津安二郎に妖艶さを溶かし込んだ感じか。
海がなんともいえず良い。
中沢けいの『海を感じる時』と同じような、
未熟な、世界の端にあって、何か魅了される、そんな海。


村上重良『新宗教 その行動と思想』

明治前後から戦後にかけて林立した新興宗教は数知れないが、
天理教、金光教、PL、立正佼成会、創価学会などよく知られたものを
その成立、宗教観と、駆け足ながら要点を押さえて概説したもの。
たいていどの国でも信仰の自由は保障されているが、
なぜ日本において、このような比類ない宗教の多さがみられるのか、
概説ではあるがその理由がおぼろげながら見えてくる。
(メモ、考察)
・明治政府の国家神道体制に乗っかる形で
 新興宗教の多くは萌芽・揺籃期を経た後、
 教派神道と認められることで、政府からの弾圧を防いだ。
 これは、明治政府の国家神道体制が、
 実質は宗教国家でありながらも、
 「神道は宗教ではない」と建前づけられたものであった、という
 背反する二面性の隙間をつくようなものである。
 斜陽期・安定期に右傾化を経る事例が多いのは、
 宗教であるのに権威を得られぬため、
 不足分を国家権力から「注入」しようとしてか。
・新興宗教を弾圧する際に不敬罪を立ててしまうと、
 国会神道との教義のぶつけ合いが
 天皇の正統性の相対化へと帰着する恐れがあった。
 それを防ぐため、あえて精神病ということで
 不問に附す、というやり方で水に流すこともあった。
 (『狂気と王権』の主張に合致)
・新興宗教に神道系や仏教系などネタ元があるのは、
 教祖の宗教観が、堀一郎のいう「民間信仰」に育まれるからと考えてよい。
・法華系の新宗教は、日蓮そのものが先鋭的かつ排他的だった伝統をふむ。
・創価学会の思想の特徴は、「価値観の優劣」「民主主義と相容れない中世的政治観」。
 「公利=善」であるから、公利は価値の最上級に位置づけられる。
 「創価」の名の示すとおり、公利の規定は創価学会の私釈にゆだねられる。
 つまり、信者の価値観、生き方が創価学会本位となる。


冨永昌敬『パビリオン山椒魚』

何なんでしょう。いや、むしろ、どれなんでしょう。
自分は阿部和重『ニッポニアニッポン』みたいな、
中心人物がぽっかり空いちゃってる日本風刺を観た。
いいでしょう、山椒魚がタイトルでもあって、ど真ん中にいるんだから。
でも、それだけじゃない。もっといろいろある。
もう一度、時間をあけて観たい作品。

30.1.09

『ナイスの森〜The First Contact〜』


初め、意味が分からずに観るの止めよかなとも思ったが、良かった。
訳がわからないけれども、みんな関わり合えるんだよ、という
明るさが前面に出ていて、しかし、
そんなことない、という現実的な反駁も、
滑稽さのオブラートに包まれながらしっかりと出ている。
もちろん、シュール。でも、何かを伝えるってことはすでにシュール。
『茶の味』の断絶と間はしっかり継承され、作品の空気感に根づいているが、
その生々しい現実に、新しい方向性を示そうとしたように思えた。

28.1.09

堤幸彦『包帯クラブ』


青春群像劇ってかんじで、まぁ、そんな感じの映画。
傷ついたときの場所を包帯で手当てする、っていう
そんな優しい譬喩が、心地よかった。
もし自分がしてもらえたら、掛け値なしに嬉しいと思うだろう。

27.1.09

ジャン・ジュネ「女中たち」、日端康雄『都市計画の世界史』


「女中たち」
倒錯なのか、劇化なのか。
意味に縛られているのか、意味から解かれた行く末なのか。
わからない。これはすごい。

『都市計画の世界史』
地図上に示されるがごとく、点であることに都市の特質はある。
点が周囲を支配し、生産を喰い尽くす。
集落がどうやって都市となり、秩序が守られるのか。
興味深かったが、政策と失敗(と成功)の単なるシーソーゲームの歴史、
という感じがしてしまったのが、都市を都市としてのみ考察する
(しかも新書一冊分で)ことの不可能性だから?

26.1.09

fin d'amour

Nous avons rompu.
待ち人と別れた。

考えがいろいろわかったけれど、同意できなかった。
私の幼さを彼女は我慢できなかったし、
彼女の割り切り方の華麗さが私には冷酷すぎた。
それだけのことなのにこんなに時間がかかったと、
彼女なら託っているかもしれない。
でも、残るものはきっとある。
何もないならそこから出発できないまま、
過ごしたのと同じ時間の穴を埋める苦痛を
忍ばなければならないだろうから。
でも、自分は今回、意外にも割り切れそうだ。
いろいろなものを得たからだと思う。

20.1.09

「夢ん中で人殺して罪になるか? こんなクソ東京、全部夢だよ」 塚本晋也『BulletBallet』

『TOKYO!』という映画、観てはいないがおそらく、
TokyoをParisの巨大版だと勘違いした映画だ。
東京は、もっと無秩序で、一つの有機物で、
大友克洋『AKIRA』で描かれるネオ・トーキョーは
東京湾に浮かぶ不気味な臓器のようだが、
現実の東京はまさにそうだ。
それは巨大になりすぎて黒々したものを吐き出しながら
まだ喰うのをやめない顔ナシ。
実際、埼玉県の中心は池袋にあり、
横浜と川崎の田園都市線沿線部は渋谷が統べ、
そもそも横浜は明治に拵えられた、江戸と日本の要港機能でしかない。
浸食はいや増し、茨城にも栃木にも山梨にも都民は増殖する。
そして、県民を「千葉原人」などと蔑むことで
地方色の欠落を特長のように見せ、人をおびき寄せる。
皇居が東京の抱えるvideなら、東京は日本の抱えるブラックホールだ。

アメリカの湯水のような消費によって成り立ってきた
マネーゲーム経済がサブプライムローン問題によって破綻しても、
当のアメリカを笑うことはできない。
アメリカとは世界の消費を担う首都、東京とは日本の消費を担う首都。
もっとも東京には、一極集中による税収入独占というカラクリがあるから
破綻せずに不気味に膨張し続ける。

夢から醒めるのはいつになるのか?
すでに気息奄々の地方がとうとう破綻するとき?



(注)これは、東京批判ではなくて映画批評です。

14.1.09

理論と現実の狭間 フェルナン・ブローデル『交換のはたらき 1』

代表的なアナール学派歴史学者の一人である
Fernand Braudelの « Les Jeux de l'Échange » の上巻の邦訳。
ヨーロッパが中心だが、イスラム世界、インド、中国や日本の東アジア圏、
そして時代が下るにつれアメリカ、アフリカの植民地が俎上に置かれ、
交換が商業、産業にまで変化してゆく社会史の流れが細かく描かれる。

グローバル化という言葉がいかにアルカイックであることかがよくわかる。
世界は何世紀も前からグローバルに動いていた。
国や出自に関係なく、商人は価格の差(利潤)を求めて世界中をこぎ回る。
13世紀にイタリアで出現した預かり証が貨幣代わりの手形となり、
仕入れ地で資金を調達するために不可欠となった。
商人は地中海を出てトルコやインドや中国を経由して東行し、
京都でもものを売り、仕入れていったのである。
幕藩体制下で鎖国する日本でさえ、グローバル下という状況は同じである。
出島や朝鮮通信使だけが、国外に開かれた小さな窓であったとしても、
閉ざすものでありかつ経路でもある海を通じて貿易は行われていたし、
産出した金や銀は、貨幣や賃銀となって世界中に散らばった。

まるでフラクタルを見ているようだった。
パリを中心にイル・ド・フランスの町村との生産-消費関係ができ、
都市・主要港間でも分業が成立して主従関係がみえてくるからだ。
たとえばリカードの比較生産費説がそこから見出だされるが、
固定した枠組みとしてではなく、必然的にそうなって
しかも崩れつつ変化してゆくものとして提示されているから、
制度学派みたいな考え方だって見出せるのだ。
あるがままに見て、謙虚にまとめてゆく感じ。
だから提唱する概念「世界-経済 économie-monde」も
あまりに理論じみた強固なものではない。

ヘーゲル的な発展は、しかし、第2巻初めに退けられる。
マニュファクチュアから工場へという「発展的」推移は、
決して必然的ではないというからだ。
この断絶を偶然かなにかで乗り越えたヨーロッパでは産業革命が起こり、
乗り越える機会のなかった日本を含めアジアが、
後にそれを模倣することになったというのは、ここにあると思われる。
もっとも、ここからのことを語る第2巻に入ったばかりだから、
これから読み進めてゆくのが楽しみだ。

10.1.09

山口昌男『道化の民俗学』

アルレッキーノ(ハーレクイン、アルルカン)、ヘルメス、エシュ、クリシュナ、
これらトリックスターたちを個別に分析する詳細さにもかかわらず、
立ち現れてくる役割が、なんという類似に貫かれていることか。
彼らは権力を徹底的に相対化しそこから逃れながらも権力を有し、
意味をずらしながら無限の意味を振りまき、文化を生み出す。
そして中心は周縁となり、老人と子供が合一し、汚物は恵みとなり、
王は嘲笑を受けながら殺され、時空は軽く飛び越えられるのだ。
創造とは「ずらし」のことであり、
異端が中心に置かれたマツリゴト(政)こそ権力構造。

まさに、莫迦と天才は紙一重。
間に挟まれたるは、目盛りに閉じ込められて正規分布状に配された凡庸ども。

ラスコーリニコフは端にいたかもしれないが、やはり尺度を超えられなかった。
そして……人類が二元論を超えるというのは、夢のまた夢なのだろうか。

7.1.09

柄谷行人『マルクスその可能性の中心』

マルクス主義とは、マルクス誤解の総体である。──ミッシェル・アンリ

マルクスについての論ではあるが、全然「いわゆるマルクス」っぽさなんてない。
あるのは純度の高い哲学。マルクスとソシュールとヴァレリーとニーチェと……が、
貨幣、言語、藝術、道徳、という別々のものを語りながら、
実際には、概念と差異を超えるために同じことを考えていた……ということが語られる。
唯物史観と階級闘争がマルクスであるという固定観念を、マルクスそのものが覆すという、
痛快とも皮肉ともいえる試みこそが、この論文の醍醐味かもしれない。
唯物史観なんて、マルクスは一言も云っていないんだとさ!