今年読んだ本は60作品、観た映画は44本。
とても決めにくいことだが、読んだ中で最も印象的だったのは、
リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』だろうか。
三本のストーリーの混じり合いの妙といい、
枝葉に散りばめられた知的な議論といい、
一つの作品に詰め込めるだけ詰め込んだだけあって、
読みごたえは申し分なかったし、オチも良かった。
東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』、
平野啓一郎『決壊』も素晴らしかった。
『クォンタム・ファミリーズ』は面白くて夢中に読めた。
SFを小説と区別する基準たる現実そのものが
情報化に飲まれてどろどろと変容している中で、
控えめながら倫理的な問いかけに思えた。
『決壊』は、あまりに酷い事件を巡っての小説だが、
単にいま起きていないだけというほど現実味を帯びて迫った。
映画では、一つに絞ることは難しい。
トム・ティクヴァ『ラン・ローラ・ラン』と
セルジュ・ブルギニヨン『シベールの日曜日』が良かった。
『ラン・ローラ・ラン』は、不可逆でリニアな時間軸に抗おうとする
試みが新鮮だった(『メメント』もそうだが)し、
アニメを混ぜ込んだ作りも新しかった。
実験作ながら、テンポの良さが心地よい。
『シベールの日曜日』は、シベールの愛くるしさもさることながら、
画面の構成や台詞の細部が作り込まれていたように思う。
極言するに、カットの一つ一つが綺麗なら、映画は美しい。
趣は異なるがジェイク・クレネル『大阪恋泥棒』も印象に残っている。
日常面を振り返れば、関東での知人がいっぺんに増えた。
職業でいえば編輯者、弁護士から漫画家、ギャンブラー、経営者まで、
大阪や仙台や横浜にこもっていては出会えなかっただろう人々と知りあった。
このカオスとしての人間宇宙こそ、社会だ。
そのほんの一断片に触れ合うことすら困難だから、
ある種の人々はステレオタイプに陥って閉塞するわけだ。
そうではない複雑系たる生きた雑多を、面白いと思えた。
31.12.10
是枝裕和『ワンダフルライフ』
人は死後に一週間かけて、人生から一つだけ思い出を選び、
その思い出だけを記憶に懐いて天国で永遠に暮らす。
人により長短はあれ、たった一つしか人生を記録できない。
死者たちは懸命に思い出を選び、悩み、あるいは選択を拒絶する。
この淡々とした進行は、心地よかった。
ただ、こういった設定を通じて人生を振り返るということで、
何が見えるのだろう。いや、何が見えなくなるのだろう。
設定そのものが、誰もがブログと回想録を残そうと
躍起になる現代に特有のものと感じた。
誰もが一つ以上、美しい思い出を持つ必要があるとするのは、
それだけ個が充足されている証である一方で、
第三次産業(サービス業)中心の消費社会のきらいが見え隠れして思えた。
思い出を再現した映像を通じて、その瞬間を呼び起こすという手間を経るのは、
記憶から余分を排し、美化するという、
記憶そのものの作用を踏んでいるように感じた。
その思い出だけを記憶に懐いて天国で永遠に暮らす。
人により長短はあれ、たった一つしか人生を記録できない。
死者たちは懸命に思い出を選び、悩み、あるいは選択を拒絶する。
この淡々とした進行は、心地よかった。
ただ、こういった設定を通じて人生を振り返るということで、
何が見えるのだろう。いや、何が見えなくなるのだろう。
設定そのものが、誰もがブログと回想録を残そうと
躍起になる現代に特有のものと感じた。
誰もが一つ以上、美しい思い出を持つ必要があるとするのは、
それだけ個が充足されている証である一方で、
第三次産業(サービス業)中心の消費社会のきらいが見え隠れして思えた。
思い出を再現した映像を通じて、その瞬間を呼び起こすという手間を経るのは、
記憶から余分を排し、美化するという、
記憶そのものの作用を踏んでいるように感じた。
30.12.10
ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』
この小説を読んで、他者性とは文脈=来歴=物語の絶対的な断絶だ、と感じた。
共同体的なものではあれ、それに先立ち
個人的、感情的、無意識的な領域なのだ、と。
その類似が人間性であり、他方にあるごくわずかな「百万分の一の」差異が、
みんなの大好きな「個性」なるシロモノである。
この捉え方はとても鋭い批判だ。
それらは、「理解されなかったことばの小辞典」として纏められている。
他者性の濫觴というものの一般性を求めるなら、必読の箇所のように思われる。
吟味的な語りから導かれる箴言は他にも多い。
自分としては、キッチュ「俗悪なもの」についての吟味が面白かった(p.291)。
終盤、すでに愛の終わったトマーシュとテレザの夫婦が、
影のあるかないかわからないソビエト共産主義に怯えながら
小村で身をやつして暮らす描写が続く。
夫婦の気持ちのすれ違い、淋しさ、辛み、が
序盤、中盤ほどではないがやはり説明的な饒舌で語られるが、
これは語り手が前に出るというよりは
行き場のない心情が吐露されているようで辛かった。
メモ:相変わらず文体について。
この小説は回想や吟味が多く描かれ、そこでの文体は混み入っている。
過去の叙述、それを捉える現在の吟味、そしてその行く末としての現状の叙述。
さらには、思考主体が登場人物か語り手かわからないまま
吟味が(ときには一般化されて)進み、
最後にその結論を登場人物の一人に帰せられる、という場合もある。
例えばベケットのような、問題定期だけを針のように細く研ぎ澄ませた文体ではなく、
問いかけ、語り、思考する文体だ。
読者はただ追認してゆけばよい。
共同体的なものではあれ、それに先立ち
個人的、感情的、無意識的な領域なのだ、と。
その類似が人間性であり、他方にあるごくわずかな「百万分の一の」差異が、
みんなの大好きな「個性」なるシロモノである。
この捉え方はとても鋭い批判だ。
それらは、「理解されなかったことばの小辞典」として纏められている。
他者性の濫觴というものの一般性を求めるなら、必読の箇所のように思われる。
吟味的な語りから導かれる箴言は他にも多い。
自分としては、キッチュ「俗悪なもの」についての吟味が面白かった(p.291)。
終盤、すでに愛の終わったトマーシュとテレザの夫婦が、
影のあるかないかわからないソビエト共産主義に怯えながら
小村で身をやつして暮らす描写が続く。
夫婦の気持ちのすれ違い、淋しさ、辛み、が
序盤、中盤ほどではないがやはり説明的な饒舌で語られるが、
これは語り手が前に出るというよりは
行き場のない心情が吐露されているようで辛かった。
メモ:相変わらず文体について。
この小説は回想や吟味が多く描かれ、そこでの文体は混み入っている。
過去の叙述、それを捉える現在の吟味、そしてその行く末としての現状の叙述。
さらには、思考主体が登場人物か語り手かわからないまま
吟味が(ときには一般化されて)進み、
最後にその結論を登場人物の一人に帰せられる、という場合もある。
例えばベケットのような、問題定期だけを針のように細く研ぎ澄ませた文体ではなく、
問いかけ、語り、思考する文体だ。
読者はただ追認してゆけばよい。
27.12.10
トラン・アン・ユン『ノルウェイの森』、よしながふみ『きのう何食べた?』(〜4巻)
トラン・アン・ユン『ノルウェイの森』
新宿三丁目のバルト9にて鑑賞。
上下巻ある長篇の原作をどう映画一本に収めるのか、興味があった。
トラン・アン・ユンらしく、綺麗なシーンの断片を繋いで
どんどん物語内の時計の針が進んでゆく、そんな進行だった。
だからすでに原作を読んだ観客には、
ありありと現前した要約を走り読む心地よさがあったし、
読んだことがなくても、細部を繋ぎあわせる余情が味わえたろう。
原作の帯びには「喪失と再生」という表現があったような気がする。
直子と緑、あるいは、京都の深い森と東京の喧騒、と言い換えてもよい。
もちろん、キズキと僕、でも。
映画では前者が主題であり、ことさらに喪失と死が際立っていた。
原作終盤で再生の大きな第一歩たる(ように思われる)レイコさんとの交わりも、
喪失に楔を打つような涙にくれたシーンだった。
映画館で涙が流れたのは本当に久しい体験だったが、
それはこの原作解釈のゆえだと思う。
後半の幾箇所ですでに涙腺はゆるゆるだった。
もっとも心に響いたのは、二つ。
初美さんの死をエピソード的に告げるナレーションと、
エンドロールの音楽The Beatles "Norwegian Wood (This Bird Has Flown)"の
劇場ならではの大音響で鋭いギター。
エンディングテーマで泣くのは理解されがたいだろうが、
柔らかく聴き心地の良さをもっぱら好んで聴いていた曲だけに、
映画全体の冷たい悲しみを帯びて歯向かってきたような。
よしながふみ『きのう何食べた?』(〜4巻)
さほど難しそうなレシピはないとはいえ、
こんだけ真面目にきちんと
味つけや下茹でなどできれば本当にすごいと思う。
ずぼらでいい加減で作り置き中心の怠惰な一人暮らしの身として反省。
新宿三丁目のバルト9にて鑑賞。
上下巻ある長篇の原作をどう映画一本に収めるのか、興味があった。
トラン・アン・ユンらしく、綺麗なシーンの断片を繋いで
どんどん物語内の時計の針が進んでゆく、そんな進行だった。
だからすでに原作を読んだ観客には、
ありありと現前した要約を走り読む心地よさがあったし、
読んだことがなくても、細部を繋ぎあわせる余情が味わえたろう。
原作の帯びには「喪失と再生」という表現があったような気がする。
直子と緑、あるいは、京都の深い森と東京の喧騒、と言い換えてもよい。
もちろん、キズキと僕、でも。
映画では前者が主題であり、ことさらに喪失と死が際立っていた。
原作終盤で再生の大きな第一歩たる(ように思われる)レイコさんとの交わりも、
喪失に楔を打つような涙にくれたシーンだった。
映画館で涙が流れたのは本当に久しい体験だったが、
それはこの原作解釈のゆえだと思う。
後半の幾箇所ですでに涙腺はゆるゆるだった。
もっとも心に響いたのは、二つ。
初美さんの死をエピソード的に告げるナレーションと、
エンドロールの音楽The Beatles "Norwegian Wood (This Bird Has Flown)"の
劇場ならではの大音響で鋭いギター。
エンディングテーマで泣くのは理解されがたいだろうが、
柔らかく聴き心地の良さをもっぱら好んで聴いていた曲だけに、
映画全体の冷たい悲しみを帯びて歯向かってきたような。
よしながふみ『きのう何食べた?』(〜4巻)
さほど難しそうなレシピはないとはいえ、
こんだけ真面目にきちんと
味つけや下茹でなどできれば本当にすごいと思う。
ずぼらでいい加減で作り置き中心の怠惰な一人暮らしの身として反省。
20.12.10
ポール・ヴァレリー『精神の危機』
岩波文庫版で、表題作のほか15の評論を編む。
あるものは講演だし、あるものは答辞だが、
どれも同じく«ヨーロッパ精神の危機»を扱っている。
それは第一次大戦に端を発する、
科学・技術の暴力的な二面性の発見、
ヨーロッパ的な理性の崩落、
ナショナリズム意識の萌芽、だ。
「『精神』の政策」という一篇が面白かった。
内容や論点はH.D.ソローの文明批判に近い。
が、「精神」という多義的な一語を軸に、
その多義性に呑み込まれないでうまく議論を立ち回らせる流れは
読んでいて心地よく、これぞ評論文学と嘆息するものだった。
鋭いのは、古代から現代にいたるまで、
文明の基盤はあくまで「信用」であるという指摘。
それを紙に象徴させ、紙が世界から消えたときの大混乱を仮定する下りがある。
情報伝達やマスメディア、書物、そして
経済活動や金融決済までもが電子化された現在でいうと、
すべてのネットワークが遮断されたとする思考実験のようなものだ。
この脆さが社会の精神的性格だ、とヴァレリーはいう。
そして、絶対的基盤が交換という経済活動の俎上に乗り、
相対的なものへ推移してしまうことが、ヴァレリーのいう危機だ。
だからこそ、ヨーロッパ的という絶対点に縋った。
「精神の危機」はタイトルからすぐさま、
フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機』を連想する。
書かれた頃合いも両大戦間期という同時期の論文だ。そして内容も近い。
こちらは主に自然科学における絶対点の喪失の話だけれど、
人文科学と自然科学が哲学を接点として
このように歩みを同じくしていると云うのはおもしろい。
あるものは講演だし、あるものは答辞だが、
どれも同じく«ヨーロッパ精神の危機»を扱っている。
それは第一次大戦に端を発する、
科学・技術の暴力的な二面性の発見、
ヨーロッパ的な理性の崩落、
ナショナリズム意識の萌芽、だ。
「『精神』の政策」という一篇が面白かった。
内容や論点はH.D.ソローの文明批判に近い。
が、「精神」という多義的な一語を軸に、
その多義性に呑み込まれないでうまく議論を立ち回らせる流れは
読んでいて心地よく、これぞ評論文学と嘆息するものだった。
鋭いのは、古代から現代にいたるまで、
文明の基盤はあくまで「信用」であるという指摘。
それを紙に象徴させ、紙が世界から消えたときの大混乱を仮定する下りがある。
情報伝達やマスメディア、書物、そして
経済活動や金融決済までもが電子化された現在でいうと、
すべてのネットワークが遮断されたとする思考実験のようなものだ。
この脆さが社会の精神的性格だ、とヴァレリーはいう。
そして、絶対的基盤が交換という経済活動の俎上に乗り、
相対的なものへ推移してしまうことが、ヴァレリーのいう危機だ。
だからこそ、ヨーロッパ的という絶対点に縋った。
「精神の危機」はタイトルからすぐさま、
フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機』を連想する。
書かれた頃合いも両大戦間期という同時期の論文だ。そして内容も近い。
こちらは主に自然科学における絶対点の喪失の話だけれど、
人文科学と自然科学が哲学を接点として
このように歩みを同じくしていると云うのはおもしろい。
17.12.10
フランソワ・オゾン『ふたりの5つの分かれ路』
原題は « 5×2 » (Cinq fois deux) 。
主題として置かれるようにして、夫婦の離婚シーンから始まる。
そこから時系列を遡って、4つの時節が描かれる。
倦怠、出産、結婚、出会い。
遡るごとに互いの眼差しが生き生きとし、笑みに溢れてゆく。
だから映画を観た直ぐ後は(出会いの綺麗なシーンだから)、
ハッピーエンドっぽく感じられる。が、
行く末はすでに知れているから口許が歪む。
ここに、オゾンのなんともいえない皮肉と諧謔を感じた。
ジルとマリオンが出会うシーンでは、ジルの彼女のヴァレリーが出てくる。
二人はすでに4年の仲の倦怠で、
性交中のヴァレリーの、天井を仰ぐ冷めた眼差しが、
後に(映画では冒頭に)ジルとマリオンの間で繰り広げられる。
この連鎖はあわれ。
視線の反らし、が印象的な映画だった。
離婚後のシーンではマリオンが極力視線を避けるし、
出会いのときは逆に、ジルの顔を盗み見るようにすがりつく。
他のどのシーンでも、視線の交わりは仲を象徴して綿密に描かれていた。
主題として置かれるようにして、夫婦の離婚シーンから始まる。
そこから時系列を遡って、4つの時節が描かれる。
倦怠、出産、結婚、出会い。
遡るごとに互いの眼差しが生き生きとし、笑みに溢れてゆく。
だから映画を観た直ぐ後は(出会いの綺麗なシーンだから)、
ハッピーエンドっぽく感じられる。が、
行く末はすでに知れているから口許が歪む。
ここに、オゾンのなんともいえない皮肉と諧謔を感じた。
ジルとマリオンが出会うシーンでは、ジルの彼女のヴァレリーが出てくる。
二人はすでに4年の仲の倦怠で、
性交中のヴァレリーの、天井を仰ぐ冷めた眼差しが、
後に(映画では冒頭に)ジルとマリオンの間で繰り広げられる。
この連鎖はあわれ。
視線の反らし、が印象的な映画だった。
離婚後のシーンではマリオンが極力視線を避けるし、
出会いのときは逆に、ジルの顔を盗み見るようにすがりつく。
他のどのシーンでも、視線の交わりは仲を象徴して綿密に描かれていた。
14.12.10
是枝裕和『幻の光』
尼崎の路地裏と輪島の海辺、昼と夜、四季、
淡々とストーリーが進むにつれて、景色も情景もただ淡々と追ってゆく。
だからこそ、祖母の失踪と夫の自殺が、
言葉少なく謎として大きく取り残される。
それを静かに受け止め、深く心に負って、
20代から30代へと歳をとってゆく主人公の姿を、
あわれでむなしい思いで観た(自分が近しい年齢だからかもしれないが)。
画面の右の窓から眺めやるシーンが反復されて、印象的だった。
あまりカメラワークのない場面の切り取りは、
しばしば陰翳の深い逆光だったりして、
詩的な印象を受けた。
最後、入り江の夕暮れの場面は、申し分なく美しかった。
寄せる波の穏やかな音に、
暮れなずんだ夕空をバックにした黒い影が内海にも逆映りしている。
そうして歩く二人が近づきつ遠ざかりつする。
淡々とストーリーが進むにつれて、景色も情景もただ淡々と追ってゆく。
だからこそ、祖母の失踪と夫の自殺が、
言葉少なく謎として大きく取り残される。
それを静かに受け止め、深く心に負って、
20代から30代へと歳をとってゆく主人公の姿を、
あわれでむなしい思いで観た(自分が近しい年齢だからかもしれないが)。
画面の右の窓から眺めやるシーンが反復されて、印象的だった。
あまりカメラワークのない場面の切り取りは、
しばしば陰翳の深い逆光だったりして、
詩的な印象を受けた。
最後、入り江の夕暮れの場面は、申し分なく美しかった。
寄せる波の穏やかな音に、
暮れなずんだ夕空をバックにした黒い影が内海にも逆映りしている。
そうして歩く二人が近づきつ遠ざかりつする。
11.12.10
ビクトル・エリセ『ミツバチのささやき』
科白と音楽を最小限に切り詰めて、動きをどこまでも排し、
シーンを淡々と繋げてゆく、
そしてそのどのシーンも単純な構成なだけに、
色も線も鮮やいで美しい。
はしゃぐ子供らがぐるぐると焚火を飛び越える映像、
水際に怪談のような顔が照らされる映像は、いうに及ばず、
毒茸を踏みつけるところ、
銃声とともに光の点がまたたいて果てる景色、
どれも短い一シーンなのに深く尾を引く。
表情の揺れがおずおずと心境を語る。
このさまがとても繊細でたおやかだった。
カットは多いのかもしれないが、それを感じさせない静謐さ。
時間が過ぎ去ってゆく心地がしない。
シーンを淡々と繋げてゆく、
そしてそのどのシーンも単純な構成なだけに、
色も線も鮮やいで美しい。
はしゃぐ子供らがぐるぐると焚火を飛び越える映像、
水際に怪談のような顔が照らされる映像は、いうに及ばず、
毒茸を踏みつけるところ、
銃声とともに光の点がまたたいて果てる景色、
どれも短い一シーンなのに深く尾を引く。
表情の揺れがおずおずと心境を語る。
このさまがとても繊細でたおやかだった。
カットは多いのかもしれないが、それを感じさせない静謐さ。
時間が過ぎ去ってゆく心地がしない。
7.12.10
穂村弘・タカノ綾『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』
穂村弘の第三歌集。
穂村弘宛にひたすら手紙を送るまみの言葉、が歌になっている、という設定。
言葉=短歌は現にあるのだから、まみが架空か実在か、それはどちらでもよい。
でも、ぜひ実在してくれたら好いのに、とは思う。
等身大で舌足らずでとりとめのない、だが鋭利に心えぐる、
十代後半の詩人のまみ、は確実に歌に透けて揺らいで、影が見えてくる。
タカノ綾の、艶かしくも肌透きとおる挿絵が、歌とよくマッチしていて好い。
不思議だわ。あなたがギターじゃないなんて、それはピックじゃなくて舌なの?
と、はじけるような今に相手に肉薄する歌や、
それはそれは愛しあってた脳たちとラベルに書いて飾って欲しい
のように、いとおしい今がますます切なくなってしまう哀しみの呻きまで。
難解な歌も交えながら、しかし感覚感触で読み捉えてゆける。
三十一音の一行詩ならではのスピード感も、現代短歌に伍しては抜群。
穂村弘宛にひたすら手紙を送るまみの言葉、が歌になっている、という設定。
言葉=短歌は現にあるのだから、まみが架空か実在か、それはどちらでもよい。
でも、ぜひ実在してくれたら好いのに、とは思う。
等身大で舌足らずでとりとめのない、だが鋭利に心えぐる、
十代後半の詩人のまみ、は確実に歌に透けて揺らいで、影が見えてくる。
タカノ綾の、艶かしくも肌透きとおる挿絵が、歌とよくマッチしていて好い。
不思議だわ。あなたがギターじゃないなんて、それはピックじゃなくて舌なの?
と、はじけるような今に相手に肉薄する歌や、
それはそれは愛しあってた脳たちとラベルに書いて飾って欲しい
のように、いとおしい今がますます切なくなってしまう哀しみの呻きまで。
難解な歌も交えながら、しかし感覚感触で読み捉えてゆける。
三十一音の一行詩ならではのスピード感も、現代短歌に伍しては抜群。
29.11.10
ポール・オースター『ムーン・パレス』
物語が端々で袂を折り重ねながら延びてゆく。
小説、というか、物語り。心地よくページが進む。
ユタの沙漠での孤独な生活のありさまが、印象的だった。
世界がどこまでも広いほど、その壁は厚く孤独を強いる感覚、
身体の境界が消えて時の流れと同化する心境。
旅の楽しみに近しい気もした。
同著者『忘却の書』によく似ているのは、所々で伏線を振り返る語りと、
登場人物がみな過去形、通り過ぎてしまって決して帰ってこない過去形であること、か。
でも、『ムーン・パレス』は、その喪失感を言い当てる象徴的な言葉があった。
僕らはつねに間違った時間にしかるべき場所にいて、しかるべき時間に間違った場所にいて、つねにあと一歩のところでたがいを見出しそこない、ほんのわずかのずれゆえに状況全体を見通しそこねていたのだ。要するにそこに尽きると思う。失われたチャンスの連鎖。断片ははじめからすべてそこにあった。でもそれをどう組み合わせたらいいのか、だれにもわからなかったのだ。(p.293)
この達観した視座の結びと、端正な文章の味わいが、オースターの小説。
だから、喪失すら心地よさとして響く心地がある。
小説、というか、物語り。心地よくページが進む。
ユタの沙漠での孤独な生活のありさまが、印象的だった。
世界がどこまでも広いほど、その壁は厚く孤独を強いる感覚、
身体の境界が消えて時の流れと同化する心境。
旅の楽しみに近しい気もした。
同著者『忘却の書』によく似ているのは、所々で伏線を振り返る語りと、
登場人物がみな過去形、通り過ぎてしまって決して帰ってこない過去形であること、か。
でも、『ムーン・パレス』は、その喪失感を言い当てる象徴的な言葉があった。
僕らはつねに間違った時間にしかるべき場所にいて、しかるべき時間に間違った場所にいて、つねにあと一歩のところでたがいを見出しそこない、ほんのわずかのずれゆえに状況全体を見通しそこねていたのだ。要するにそこに尽きると思う。失われたチャンスの連鎖。断片ははじめからすべてそこにあった。でもそれをどう組み合わせたらいいのか、だれにもわからなかったのだ。(p.293)
この達観した視座の結びと、端正な文章の味わいが、オースターの小説。
だから、喪失すら心地よさとして響く心地がある。
25.11.10
塚本邦雄『王朝百首』
「百人一首に秀歌なし」との挑戦的な文言とともに、
塚本の美学の撰んだ百首がきらめく。
「定家百首」とはまた違ったアンソロジーとして、
春夏秋冬花鳥風月を愛でる一巡として素晴らしい材であるとともに、
日本語文学の表現技法の結晶のかずかずであり、
また、もちろん和歌の勉強にもなるといえばなる。
「移香の身にしむばかりちぎるとて扇の風の行方たづねむ」(定家)
というあまりに官能的な、それでいて粘着せず上下句の隙に揺らぎを持つ歌から、
「おぼつかな何しに来つらむ紅葉見に霧のかくせる山のふもとに」(小大君)
といった、穂村弘のような口語現代短歌っぽいのまで、果ては、
「あひ見てもちぢに砕くるたましひのおぼつかなさを思いおこせよ」(藤原元真)
と、恋の身の震えるような金言まで、種々を収める。
最低限の註釈と訳が付くことが多いので、
短歌を味わう初学者である自分にも読みやすかった。
また、歌を愛でる塚本邦雄の言葉そのものも端正で美しい。
批評もまた文学作品である以上、この著作は味わうに申し分ない。
あとがきに謳われた和歌の鑑賞法も幽玄だ。
講談社文芸文庫は隠れた名作揃いだが、本作もそれに漏れない。
誕生月のリクエストでこの本を贈ってくだすった方に多謝。
塚本の美学の撰んだ百首がきらめく。
「定家百首」とはまた違ったアンソロジーとして、
春夏秋冬花鳥風月を愛でる一巡として素晴らしい材であるとともに、
日本語文学の表現技法の結晶のかずかずであり、
また、もちろん和歌の勉強にもなるといえばなる。
「移香の身にしむばかりちぎるとて扇の風の行方たづねむ」(定家)
というあまりに官能的な、それでいて粘着せず上下句の隙に揺らぎを持つ歌から、
「おぼつかな何しに来つらむ紅葉見に霧のかくせる山のふもとに」(小大君)
といった、穂村弘のような口語現代短歌っぽいのまで、果ては、
「あひ見てもちぢに砕くるたましひのおぼつかなさを思いおこせよ」(藤原元真)
と、恋の身の震えるような金言まで、種々を収める。
最低限の註釈と訳が付くことが多いので、
短歌を味わう初学者である自分にも読みやすかった。
また、歌を愛でる塚本邦雄の言葉そのものも端正で美しい。
批評もまた文学作品である以上、この著作は味わうに申し分ない。
あとがきに謳われた和歌の鑑賞法も幽玄だ。
講談社文芸文庫は隠れた名作揃いだが、本作もそれに漏れない。
誕生月のリクエストでこの本を贈ってくだすった方に多謝。
24.11.10
市川段治郎・市川春猿『夢十夜』(朗読)
11月23日、渋谷のセルリアンタワー地下の能楽堂にて。
出演は市川段治郎と市川春猿、新内剛士が三味線。
建物全体の埃ひとつない立ち居といい、
能楽堂から入口の桟すべての木が正目なのといい、
渋谷らしくない重厚さがあった。
夏目漱石『夢十夜』は第四話あたりまでという
なんともぶざまな状況だったから、
このような形で"読了"できてよかった。
第五夜あたりまでは内田百閒のような幻想的な寓話だったが、
次第に、床屋や戦争の話が出てきて、そちらも好かった。
にしても、やはり役者の朗読だからか、情景や描写がありありと頭に浮かぶ。
幻想的な寓話だから、街や家のごちゃごちゃした背景に
煩わされず、心身の動きのみを追うことができるからなのかもしれないが。
漱石の文体の描写の的確さも、もちろんそれを一番底から支える。
あまり朗読によって読むことに慣れず、内容も頭に入らないと思っていたから、
この会に参列できて、本当に良かった。
舞台の上で、葛桶に腰掛けてただ読むばかりではなく、
花道を振り返ったり、二人すれ違ったりと、
それも朗読内容を豊かに表現していた。
綺麗な声はもちろん、礼のときの首筋のなめらかな動きまで、
春猿の女形の居住まいは徹底して綺麗だった。
---
夕刻、足の向くままに原宿の明治神宮に行った。
新嘗祭の贄(にえ)が各都道府県ごとに並び、
近郊の農業組合からの野菜が飾ってあった。
「なんという土人の国に住んでいるのか」という浅田彰の言葉を思い出しつつ眺めた。
出演は市川段治郎と市川春猿、新内剛士が三味線。
建物全体の埃ひとつない立ち居といい、
能楽堂から入口の桟すべての木が正目なのといい、
渋谷らしくない重厚さがあった。
夏目漱石『夢十夜』は第四話あたりまでという
なんともぶざまな状況だったから、
このような形で"読了"できてよかった。
第五夜あたりまでは内田百閒のような幻想的な寓話だったが、
次第に、床屋や戦争の話が出てきて、そちらも好かった。
にしても、やはり役者の朗読だからか、情景や描写がありありと頭に浮かぶ。
幻想的な寓話だから、街や家のごちゃごちゃした背景に
煩わされず、心身の動きのみを追うことができるからなのかもしれないが。
漱石の文体の描写の的確さも、もちろんそれを一番底から支える。
あまり朗読によって読むことに慣れず、内容も頭に入らないと思っていたから、
この会に参列できて、本当に良かった。
舞台の上で、葛桶に腰掛けてただ読むばかりではなく、
花道を振り返ったり、二人すれ違ったりと、
それも朗読内容を豊かに表現していた。
綺麗な声はもちろん、礼のときの首筋のなめらかな動きまで、
春猿の女形の居住まいは徹底して綺麗だった。
---
夕刻、足の向くままに原宿の明治神宮に行った。
新嘗祭の贄(にえ)が各都道府県ごとに並び、
近郊の農業組合からの野菜が飾ってあった。
「なんという土人の国に住んでいるのか」という浅田彰の言葉を思い出しつつ眺めた。
15.11.10
ヴィム・ヴェンダース『パリ、テキサス』、松岡政則『草の人』
ヴィム・ヴェンダース『パリ、テキサス』
マジックミラー越しのトラヴィスとジェーンのやりとりは、完璧。
構図の妙はもちろんのこと、
ジェーンの恰好や口紅の原色のあざやぎの場末の安っぽさ、
トラヴィスの押し殺したような無表情と声、
淡々と語られる真実。
絵画として脳裡に焼きつく場面だった。
トラヴィスの放浪と失った母親という労苦もどこ吹く風といったように
無邪気なハンターが、最後に母親のジェーンに正面からそっと近づいて
腰に抱きつく姿は、柔らかい。
柔らかで暖かい場面が印象的なのは、トラヴィスの放浪する沙漠や
自動車でひた走るテキサスの荒野の隙間でのひとときだからなのかもしれない。
風をかき鳴らすようなライ・クーダーの音楽の挿入も素晴らしい。
松岡政則『草の人』
何年か前に読んだ『金田君の宝物』がずっと胸の中にあったので、手に取った同著者の詩集。
題名にあるとおり草が主題だが、正直、さほど青臭く煙るような詩は多くなかった。
反=自然として対比させられた「記号」や「都市」「街」が、
あまり実感としてではなく概念のままごろんと転がされていて、
それほど言葉から沁み出して感じられなかった。
(こんな云い方は僭越とはわかっているけど)
すごく言葉を興すのに苦労して、出た思いを削って磨いて
やっと縦に字を連ねている、そんな気がした。
つるつるに研磨されて、一読にはするっと柔らかく、毒を残さない気がした。
もちろん謂いは毒だけれど、言葉そのものは毛羽立っていない。
マジックミラー越しのトラヴィスとジェーンのやりとりは、完璧。
構図の妙はもちろんのこと、
ジェーンの恰好や口紅の原色のあざやぎの場末の安っぽさ、
トラヴィスの押し殺したような無表情と声、
淡々と語られる真実。
絵画として脳裡に焼きつく場面だった。
トラヴィスの放浪と失った母親という労苦もどこ吹く風といったように
無邪気なハンターが、最後に母親のジェーンに正面からそっと近づいて
腰に抱きつく姿は、柔らかい。
柔らかで暖かい場面が印象的なのは、トラヴィスの放浪する沙漠や
自動車でひた走るテキサスの荒野の隙間でのひとときだからなのかもしれない。
風をかき鳴らすようなライ・クーダーの音楽の挿入も素晴らしい。
松岡政則『草の人』
何年か前に読んだ『金田君の宝物』がずっと胸の中にあったので、手に取った同著者の詩集。
題名にあるとおり草が主題だが、正直、さほど青臭く煙るような詩は多くなかった。
反=自然として対比させられた「記号」や「都市」「街」が、
あまり実感としてではなく概念のままごろんと転がされていて、
それほど言葉から沁み出して感じられなかった。
(こんな云い方は僭越とはわかっているけど)
すごく言葉を興すのに苦労して、出た思いを削って磨いて
やっと縦に字を連ねている、そんな気がした。
つるつるに研磨されて、一読にはするっと柔らかく、毒を残さない気がした。
もちろん謂いは毒だけれど、言葉そのものは毛羽立っていない。
8.11.10
エリック・アマディオ『After Sex アフターセックス』
同じ事後でも、後朝(きぬぎぬ)っていうような趣のあるもんじゃなくて、
価値観のぶつかり合いにしろ、打ち解けて喋るにしろ、現代的やわな。
同性間が珍しくないのもそうだし。
いきなり母親が帰ってくるパターンは受けた。
実家暮らしも楽じゃないよ。
価値観のぶつかり合いにしろ、打ち解けて喋るにしろ、現代的やわな。
同性間が珍しくないのもそうだし。
いきなり母親が帰ってくるパターンは受けた。
実家暮らしも楽じゃないよ。
4.11.10
ロバート・ログバル『神の子どもたちはみな踊る』
原作の舞台は東京だが、映画ではロサンゼルス。
父親が"神"でコリアンタウンに住む中国系アメリカ人、名は日本的でケンゴ。
本当の父親と思しき、耳のちぎれた医者を追ってとうとう捕まえ損ねる、
星条旗やアメリカ本土図のシルエットが
その中で二度ほど映り込んだのが印象的だった。
すると即座に、アイデンティティーと国籍、という解釈軸が出てきてしまう。
ならば地震は父権の崩壊?
…あぁ、印象批評の虚しさよ。
この映画で面白かったのはむしろ、
ストーリーの進む背景で絡みあった糸が
あちこちから一気に引っぱられて解けようとしている、
その緊張感の瞬間なのに、淡々としているカメラワークと色遣いだった。
勿論、意味を持たせるために回想シーンが入り込むけれど、
それはそれで平凡な風景ではある。
だから、最も劇的な場面は、何のことのないセックスシーンだったりして。
六本木シネマートにて鑑賞。
その後、六本木ヒルズの入り組んだ構造を彷徨し、
赤坂の東京ミッドタウンへ遊んだ後、
旧名・麻布六本木町の酒場とバーで飲んだ。
探る言葉と追う影。
父親が"神"でコリアンタウンに住む中国系アメリカ人、名は日本的でケンゴ。
本当の父親と思しき、耳のちぎれた医者を追ってとうとう捕まえ損ねる、
星条旗やアメリカ本土図のシルエットが
その中で二度ほど映り込んだのが印象的だった。
すると即座に、アイデンティティーと国籍、という解釈軸が出てきてしまう。
ならば地震は父権の崩壊?
…あぁ、印象批評の虚しさよ。
この映画で面白かったのはむしろ、
ストーリーの進む背景で絡みあった糸が
あちこちから一気に引っぱられて解けようとしている、
その緊張感の瞬間なのに、淡々としているカメラワークと色遣いだった。
勿論、意味を持たせるために回想シーンが入り込むけれど、
それはそれで平凡な風景ではある。
だから、最も劇的な場面は、何のことのないセックスシーンだったりして。
六本木シネマートにて鑑賞。
その後、六本木ヒルズの入り組んだ構造を彷徨し、
赤坂の東京ミッドタウンへ遊んだ後、
旧名・麻布六本木町の酒場とバーで飲んだ。
探る言葉と追う影。
2.11.10
トマス・ド・クインシー『阿片常用者の告白』
終盤、夜な夜なうなされる夢の記述は鬼気迫っていた。
文体を念頭に読んだ。
硬質な文体が、小説頭にはこれほどまでに読みにくいものか。
勿論、随筆調の散文だからこれでよいのかもしれないけれど、
小説の文体はミクロには詩とリズムと間でないと、と思った。
文体を念頭に読んだ。
硬質な文体が、小説頭にはこれほどまでに読みにくいものか。
勿論、随筆調の散文だからこれでよいのかもしれないけれど、
小説の文体はミクロには詩とリズムと間でないと、と思った。
31.10.10
ペドロ・アルモドバル『ボルベール〈帰郷〉』、塚本晋也『六月の蛇』
ペドロ・アルモドバル『ボルベール〈帰郷〉』
例えば死んだパコの処分や叔母の葬儀など劇的なはずの場面も、
あっさり起こっては疲れた日常に紛れるように受容される、
そんな感じに描かれて、なかなかとりとめがないように感じた。
過去にばかり拘泥しているストーリー展開だし。
主題がいくつもあるのにどこに主眼を置けばよいか分からない交響曲のよう。
最後に母親の口から明かされる代々の因縁に、
一つずつの出来事が渦を巻いて呑み込まれる。
それも救いとはいかず、どこへ向かうのかよくわからない。
観客に任される、というよりは、その圧倒と余韻を楽しんだ。
登場する女性たちのなかでずば抜けて綺麗かつ化粧の濃い
ペネロペ・クルス演じるライムンダが、
初めから終わりまでずっと自己中心的に動き回るが、
最後は母親と出会って家族とともに落ち着くという、
映像的にはそんな感じだった。
塚本晋也『六月の蛇』
久しぶりに観た塚本晋也だった。
都会と暴力、というより(それもあるけど)、
『VITAL』みたいな執念を感じた。
青一色の暗い舞台と、陰に縁取られた人物のアップと、雨と湿度。
レンズが至るところに在る、という謂いは凡庸でも、
それが本性と人格を剥ぎ取ってとんでもないところへもってゆく
ストーリーが、まぁ気持悪かった。
♀部がベースで♂部が展開、両者の変な合一が虚妄、になるんだろうか。
妻とストーカーと夫と、三者が袋小路で織りなす場面は
印象的だっただけでなく、象徴的だった。
カメラのレンズはただ映す。
だが被写体の仮面どころか本性まで剥ぎ取ろうとするストーカーと、
自らがまるで妄想するレンズそのものになってしまう夫と。
例えば死んだパコの処分や叔母の葬儀など劇的なはずの場面も、
あっさり起こっては疲れた日常に紛れるように受容される、
そんな感じに描かれて、なかなかとりとめがないように感じた。
過去にばかり拘泥しているストーリー展開だし。
主題がいくつもあるのにどこに主眼を置けばよいか分からない交響曲のよう。
最後に母親の口から明かされる代々の因縁に、
一つずつの出来事が渦を巻いて呑み込まれる。
それも救いとはいかず、どこへ向かうのかよくわからない。
観客に任される、というよりは、その圧倒と余韻を楽しんだ。
登場する女性たちのなかでずば抜けて綺麗かつ化粧の濃い
ペネロペ・クルス演じるライムンダが、
初めから終わりまでずっと自己中心的に動き回るが、
最後は母親と出会って家族とともに落ち着くという、
映像的にはそんな感じだった。
塚本晋也『六月の蛇』
久しぶりに観た塚本晋也だった。
都会と暴力、というより(それもあるけど)、
『VITAL』みたいな執念を感じた。
青一色の暗い舞台と、陰に縁取られた人物のアップと、雨と湿度。
レンズが至るところに在る、という謂いは凡庸でも、
それが本性と人格を剥ぎ取ってとんでもないところへもってゆく
ストーリーが、まぁ気持悪かった。
♀部がベースで♂部が展開、両者の変な合一が虚妄、になるんだろうか。
妻とストーカーと夫と、三者が袋小路で織りなす場面は
印象的だっただけでなく、象徴的だった。
カメラのレンズはただ映す。
だが被写体の仮面どころか本性まで剥ぎ取ろうとするストーカーと、
自らがまるで妄想するレンズそのものになってしまう夫と。
30.10.10
セルジュ・ブルギニヨン『シベールの日曜日』、磯田道史『武士の家計簿』
セルジュ・ブルギニヨン『シベールの日曜日』
原題はCybèle ou les dimanches de ville d'Avray。
記憶喪失の奥に兵士として少女を撃ち殺した葛藤を抱えたピエールが、
寄宿学校に捨てられたシベールに惹かれたのは、
記憶に疼くものがあったからだろう。
シベール役のパトリシア・ゴッジの
容姿と仕草のかわいらしさが光る作品でありつも、
カメラワークが繊細で詩的だったのが印象的。
「寄宿学校のベッドで作り物の青い石が肩に触れたときに
ピエール(Pierre=石)のキスを感じた」というシベールの独白も、
曇ったガラス越しに池を眺めるピエールの眼差しも、
Cybèleの名が明されたときすぐさま同音のsi belleに変じ
その美しい風景がクリスマスの夜にすぐに消えてしまうはかなさも。
池のほとりのカフェで暖炉の火に照らされる陰翳の美しさは白黒とは思えない。
磯田道史『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』
加賀藩の御算用者の猪山家がどのように取り立てられ、
廃藩置県を経て海軍省官僚として身を立てたかが時系列をもって開陳される過程が、
たいへん史料考証的で面白かった。
原題はCybèle ou les dimanches de ville d'Avray。
記憶喪失の奥に兵士として少女を撃ち殺した葛藤を抱えたピエールが、
寄宿学校に捨てられたシベールに惹かれたのは、
記憶に疼くものがあったからだろう。
シベール役のパトリシア・ゴッジの
容姿と仕草のかわいらしさが光る作品でありつも、
カメラワークが繊細で詩的だったのが印象的。
「寄宿学校のベッドで作り物の青い石が肩に触れたときに
ピエール(Pierre=石)のキスを感じた」というシベールの独白も、
曇ったガラス越しに池を眺めるピエールの眼差しも、
Cybèleの名が明されたときすぐさま同音のsi belleに変じ
その美しい風景がクリスマスの夜にすぐに消えてしまうはかなさも。
池のほとりのカフェで暖炉の火に照らされる陰翳の美しさは白黒とは思えない。
磯田道史『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』
加賀藩の御算用者の猪山家がどのように取り立てられ、
廃藩置県を経て海軍省官僚として身を立てたかが時系列をもって開陳される過程が、
たいへん史料考証的で面白かった。
21.10.10
福永信『星座から見た地球』
A、B、C、Dの四人の小話が一段落ずつ、順繰りに延々と続く。
シャボン玉やバスの話、病院での奇妙な冒険譚、出会い、別れ、生、死、…。
そのときどきで、AはさっきのAと別の子(猫?)だし、
時間軸を遡ったり、あっちこっちでエピソード同士が重なったり翳めたりする。
ストーリーはない。いや、無数にある。
風景の点描からあぶり出されるような淡い物語のかずかずだ。
大きな一本のストーリーとしての小説を予想すると、見事に裏切られる。
なんか、ふっと暖かい。
大人のわからないところで、子供や猫や、まだ産まれていない胎児や、雰囲気が、
そっとことの成り行きを見守りつつくすくす笑っているような。
シャボン玉やバスの話、病院での奇妙な冒険譚、出会い、別れ、生、死、…。
そのときどきで、AはさっきのAと別の子(猫?)だし、
時間軸を遡ったり、あっちこっちでエピソード同士が重なったり翳めたりする。
ストーリーはない。いや、無数にある。
風景の点描からあぶり出されるような淡い物語のかずかずだ。
大きな一本のストーリーとしての小説を予想すると、見事に裏切られる。
なんか、ふっと暖かい。
大人のわからないところで、子供や猫や、まだ産まれていない胎児や、雰囲気が、
そっとことの成り行きを見守りつつくすくす笑っているような。
20.10.10
ポール・オースター『幻影の書』
無声映画で活躍し忘れられた役者ヘルター・マンの失われた一代記があり、
導入と狂言回しには語り手の悲劇と復活がある。
死後に伝記を出版するという執拗なまでに完璧で逆説的な手法が
シャトーブリアンとアルマと語り手デイヴィッドの三重奏で綴られ、
その連関と気づきが物語をどんどん明らかにしてゆく、
この冒険感はたまらなかった。
その中で語られるメタな物語の精巧さ(特に映画の描写)が美しい。
三重奏になっているのは、すでに失われかけたものを捉えて記述する流れ。
過去と折り合いをつけるべく図り、行為するなかで、
次第に芽生える未来が、最後にはっきりと記述される下りは、
じつに淡々としているが、力強い。
私的メモ。
改めて、文体について考えた。
説明においては思考し、行動においては先回りしする文体、とでも云おうか。
この体験をさせられたのは、3年ほど前に読んだサラマーゴ以来。
導入と狂言回しには語り手の悲劇と復活がある。
死後に伝記を出版するという執拗なまでに完璧で逆説的な手法が
シャトーブリアンとアルマと語り手デイヴィッドの三重奏で綴られ、
その連関と気づきが物語をどんどん明らかにしてゆく、
この冒険感はたまらなかった。
その中で語られるメタな物語の精巧さ(特に映画の描写)が美しい。
三重奏になっているのは、すでに失われかけたものを捉えて記述する流れ。
過去と折り合いをつけるべく図り、行為するなかで、
次第に芽生える未来が、最後にはっきりと記述される下りは、
じつに淡々としているが、力強い。
私的メモ。
改めて、文体について考えた。
説明においては思考し、行動においては先回りしする文体、とでも云おうか。
この体験をさせられたのは、3年ほど前に読んだサラマーゴ以来。
12.10.10
福永信『アクロバット前夜90°』
福永信の第一短篇集。
もっともこちらは「90°版」で、元は特徴的なヨコ組。
文章が改行されずにページを跨いで延々と一行目を走り、
その果てでようやく二行目に、…というもの。
福永信の短篇はどれも不思議だ。
物語が進行しているのに、記述は表面をなぞるばかりで、
意味や背景や思考は語られない。
そして語りはときに符牒や暗示を孕むが、
それがどういった意味と因果を持つのかは、やっぱりわからない。
わけのわからないまま物語であるというだけの理由で
物語を抱えて、語る言葉を駆け抜けてゆく感覚。
書き下ろし短篇「五郎の五年間」は措いて、
ほかのどれもテーマとしては、擬態と偵察だろう。
そしてそれが、ある一者の立ち位置から書き始められるものの、
結局はほかの無数に紛れ、惑わされるようにしてわからなくなる。
文体自体がそうという、なんとも煙に巻かれたような読後感だ。
もっともこちらは「90°版」で、元は特徴的なヨコ組。
文章が改行されずにページを跨いで延々と一行目を走り、
その果てでようやく二行目に、…というもの。
福永信の短篇はどれも不思議だ。
物語が進行しているのに、記述は表面をなぞるばかりで、
意味や背景や思考は語られない。
そして語りはときに符牒や暗示を孕むが、
それがどういった意味と因果を持つのかは、やっぱりわからない。
わけのわからないまま物語であるというだけの理由で
物語を抱えて、語る言葉を駆け抜けてゆく感覚。
書き下ろし短篇「五郎の五年間」は措いて、
ほかのどれもテーマとしては、擬態と偵察だろう。
そしてそれが、ある一者の立ち位置から書き始められるものの、
結局はほかの無数に紛れ、惑わされるようにしてわからなくなる。
文体自体がそうという、なんとも煙に巻かれたような読後感だ。
10.10.10
J.M.クッツェー『マイケル・K』
クッツェーは『夷狄を待ちながら』以来。
社会集団vsその中の個、という構造が
あまりに生々しく描かれた文体を再びなぞりたくて手に取った。
この作品では、その構図はより飄々と摑みどころがないが、
終盤で全貌を突きつけられる感じだ。
無数にあるキャンプのどこにも属さず、
大地に向かいあってgardenerとして生きること、として。
この作品で際立っていたのは、何より暴力の描写。
アパルトヘイトによる内戦で疲弊する国土と、大衆の心。
『夷狄を待ちながら』では、暴力は怒りの感情豊かに表現されていたが、
それと打って変わってこうも淡々と延々と綴られては、
救いもないし、もうどうしようもなく首を竦めてやり過ごすだけ。
それは、とにもかくにも目的地へ向かうというマイケル・Kの思考回路だ。
夜間外出禁止令や警察や軍隊の間を愚直に狡猾にすり抜け、
とうとう辿り着いた大地での生活も、理想化されずに描き込まれる。
そしてその終わりを象徴するような、地雷を埋める兵士の描写が印象的だった。
社会集団vsその中の個、という構造が
あまりに生々しく描かれた文体を再びなぞりたくて手に取った。
この作品では、その構図はより飄々と摑みどころがないが、
終盤で全貌を突きつけられる感じだ。
無数にあるキャンプのどこにも属さず、
大地に向かいあってgardenerとして生きること、として。
この作品で際立っていたのは、何より暴力の描写。
アパルトヘイトによる内戦で疲弊する国土と、大衆の心。
『夷狄を待ちながら』では、暴力は怒りの感情豊かに表現されていたが、
それと打って変わってこうも淡々と延々と綴られては、
救いもないし、もうどうしようもなく首を竦めてやり過ごすだけ。
それは、とにもかくにも目的地へ向かうというマイケル・Kの思考回路だ。
夜間外出禁止令や警察や軍隊の間を愚直に狡猾にすり抜け、
とうとう辿り着いた大地での生活も、理想化されずに描き込まれる。
そしてその終わりを象徴するような、地雷を埋める兵士の描写が印象的だった。
8.10.10
カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』
幸せな学校生活が、喜怒哀楽を伴うエピソードの羅列として綴られてゆく。
小説舞台の仕組みに行を費やすなんてことはない。
暮らす学校やコテージの描写、そこに満ちた会話や考えが、
ときに明らかにときに暗に、照らし出してゆく形。
その徹底でありながら、一つのSF的な世界が描かれているのだ。
SFはその世界の精度や問題を投げかける、
だがそれが小説である限り、その状況をどう懸命に生きるかだ。
世界を描く方法の中で一番やわらかい、と感じた。
徹頭徹尾が経験だから、頭ではなく心で追体験する。
制度への"人道的"疑問ではなく、ていねいに記憶された細部から、
そして、それを奪われてゆく淡々としたストーリーから、考えさせられる。
表題ともなっているNever let me goのシーンは、泣きたくなる。
小説舞台の仕組みに行を費やすなんてことはない。
暮らす学校やコテージの描写、そこに満ちた会話や考えが、
ときに明らかにときに暗に、照らし出してゆく形。
その徹底でありながら、一つのSF的な世界が描かれているのだ。
SFはその世界の精度や問題を投げかける、
だがそれが小説である限り、その状況をどう懸命に生きるかだ。
世界を描く方法の中で一番やわらかい、と感じた。
徹頭徹尾が経験だから、頭ではなく心で追体験する。
制度への"人道的"疑問ではなく、ていねいに記憶された細部から、
そして、それを奪われてゆく淡々としたストーリーから、考えさせられる。
表題ともなっているNever let me goのシーンは、泣きたくなる。
5.10.10
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
米川正夫訳で読んだ。
このすさまじくも暖かい長篇を読み了るまで、一ヶ月もかかった。
今日、残る1/6ほどを一思いに読み切った。
主題は幾つも挙げられよう。
ロシアの精神性や庶民性、教育論、父と子の関係、冤罪、
そしてドストエフスキーという作家の主題である魂の救済…。
ひとまずここでは、自分の気づいた点だけ感想代わりにメモしておく。
記述(著者の視点というべきか)が非常に記者的だということが気になった。
文体と片づける以上のものがあるように思えてならない。
ドミートリイの行動を逐一追って記述が展開されるだけでなく、
検事側と弁護士側、そして大衆がそれぞれその流れをなぞる、
その行為そのものが野家啓一ふうにいえば「物語の再構成」になるからだ。
そして、そうして取りこぼされた事実のために、あってはならない冤罪が生じる。
これが一点。
そして、最後に殺される「父親」フョードルという、ある種の諸悪の根源に、
ドストエフスキーはなぜ自分の名を冠したのだろうか、という疑問。
物語の末尾で子供たちの挿話では、
半気狂いの両親と友人たちに見送られながらイリューシャが弔われる。
これは、弁護士の弁論で主張される教育論とも共鳴するし、
カラマーゾフ親子の悲劇的結末の裏返しにもなっている。
親から子へ、さらにその子へ、と連鎖する悲劇の頂点にいるからということでなのか。
もちろん、ありきたりな名前だからそんな疑問は愚かしい、といえようけれど。
このすさまじくも暖かい長篇を読み了るまで、一ヶ月もかかった。
今日、残る1/6ほどを一思いに読み切った。
主題は幾つも挙げられよう。
ロシアの精神性や庶民性、教育論、父と子の関係、冤罪、
そしてドストエフスキーという作家の主題である魂の救済…。
ひとまずここでは、自分の気づいた点だけ感想代わりにメモしておく。
記述(著者の視点というべきか)が非常に記者的だということが気になった。
文体と片づける以上のものがあるように思えてならない。
ドミートリイの行動を逐一追って記述が展開されるだけでなく、
検事側と弁護士側、そして大衆がそれぞれその流れをなぞる、
その行為そのものが野家啓一ふうにいえば「物語の再構成」になるからだ。
そして、そうして取りこぼされた事実のために、あってはならない冤罪が生じる。
これが一点。
そして、最後に殺される「父親」フョードルという、ある種の諸悪の根源に、
ドストエフスキーはなぜ自分の名を冠したのだろうか、という疑問。
物語の末尾で子供たちの挿話では、
半気狂いの両親と友人たちに見送られながらイリューシャが弔われる。
これは、弁護士の弁論で主張される教育論とも共鳴するし、
カラマーゾフ親子の悲劇的結末の裏返しにもなっている。
親から子へ、さらにその子へ、と連鎖する悲劇の頂点にいるからということでなのか。
もちろん、ありきたりな名前だからそんな疑問は愚かしい、といえようけれど。
2.10.10
九月の旅:釜山、ソウル、函館、室蘭、札幌
9月は旅ばかりしていた気がする。
中旬に釜山とソウル。一週間後に函館、室蘭、札幌。
○釜山、ソウル
韓国は出張りだが、私事としても楽しめた。
釜山は中心地ではなく郊外のリゾート地のようなところに少しだけいた。
広安大橋に沿ったビーチで、のんびりビールを飲んだぐらい。
ソウルは驚くほどの大都市で、東京より巨大かもしれない印象だった。
看板の犇めく小道、といったアジア的風景は、都心にはほとんど残っていない。
ハングルのわからない自分にとって、
街の風景は意味を介さずにただ高層ビルが建ち並び、
イルミネーションが輝き、賑わう。
漢字と仮名のわからない外国人にとって、東京はこんな感じだろう。
無国籍的で、人と車だけが多く、ときに過剰なほど整備されている。
コンビニが多く、マンションと商店が入り雑じり、
電線が張り巡らされている、といった街並は、日本と違わない。
それでも、違うところもあちこちにある。
まず、建築物の高さ規制が異なるためだろう、
おしなべて街のビルは20階ぐらいある。
また、90年代にICT化に国力を挙げた結果として、
地下鉄や店舗の標示はすべて大きな液晶画面だったりする。
公共交通機関の磁気カード化は日本より早かったし、
車輌内の冷房が効き過ぎていれば、
車掌に云うのではなく携帯メールで本社に伝えることで
すぐに対応してもらえるという。
ちなみに、ソウル地下鉄の磁気カード導入は、
現大統領李明博がソウル市長時代に進めた。
大統領にソウル市長経験者が多いのは、
票の集中という意味で一極集中の弊害だろう。
SKYを頂点とする学歴、日本占領中に完全に確立された学制のなごりで、
旧京城帝国大学のソウル大学校は、今なお学歴の頂点にある。
内申点が大学受験にまでものをいうため、
ボランティア活動などの実績はアルバイトに代行されることさえあるらしい。
現代やロッテやLGといった財閥の支配する社会では、
経済活動はすべて財閥が担うため、
メセナは望ましいもの以上に、格差是正としてなくてはならない。
また、ごく最近に民法が改正されるまでは、同じ名字の氏族同士では
たとえはるか遠い親戚であっても結婚はできなかったらしい。
日本以上に厳しい家制度が色濃く残っているのだ。
これらのことは、通訳と話して初めて知ったことだ。
日本文化が全面解禁されて10年も経たないとは。
首都の賑わいと地方の疲弊の格差は日本以上だが、
アジア的な一極集中型経済成長のためか、
日本と同様の格差の端緒なのかはわからない。
世界遺産の宗廟に赴いた。
チマチョゴリを着たガイドが日本語で随所を解説してくれる。
一見すると日本と変わらない歴史的建造物も、
池の四角や木々の配置が陰陽道に基づいていたりして、違いがある。
また、三一独立運動の起こった都心の公園なども観た。
○函館、室蘭、札幌
朝の五時前に起き、早朝便に自転車ごと乗って八時に来函。
トラピスチヌ修道院を見物してから、海岸線に沿って市内へ向かう。
五稜郭には箱館奉行所が復元されていて、観光客も多かった。
ストラスブールの博物館で観た
古い星状形の城壁(三重ほどもあったが)を思い出した。
それに較べれば五稜郭はやはり簡素で、国衙と呼ぶのがふさわしい印象。
北海道教育大学函館校へ迂回してから、路面電車に沿って旧市街へ。
途中、吉田商店で食べたスープカレーは非常に美味だった。
箱館山の脇を抜けて立待岬へ。
晴れていて、下北半島も津軽半島も見えた。
波の風と照り返しが心地よく、いつまでもいたかった。
箱館山の山道を伝って市街地へ戻る途中、
木々の隙間から俯瞰する景色は、綺麗だった。
陸繋島の上にという函館の立地が、一目瞭然。
元町の教会を見物し、西の海岸にある寺も見た。
函館八幡宮、函館護国神社を含めてむしろ寺院に興味があったのは、
江戸から明治の時代に平定した土地が
どのように日本に組み入れられたかを知る重要な史跡だからだ。
予想通り、各宗派の寺や八幡宮は松前藩時代(あるいはそれ以前)からある。
そして、中央集権的な東本願寺や護国神社は、教会とともに明治期に現れた。
古い寺が、旧市街地から続く西海岸沿いからみた郊外に建ち、
外国人居留地として開発された元町に新しい寺と教会が並ぶ、
というコントラストが、この歴史を裏打ちしているように思えた。
函館市文学館の石川啄木の詳細な解説は、なかなか見所があった。
明治の文学者らしくジャーナリスティックな正義感が貫かれていた。
旧イギリス領事館の中には、見所はなかった。
翌朝、函館本線の特急にて輪行した。
東室蘭駅からバス風の一両編成に乗って、室蘭駅に到着。
がらんとした旧駅舎で観光地図を得て、
白鳥大橋のあたりから少し丘を登る。
大黒島へ伸びた防波堤、大橋や風力発電、その向こう岸の工場が、
海とともに一つの景色に入っていて、綺麗だった。
丘には団地、家々がゆとりを持って立ち並ぶ。
緑と空が暖かい。夏も終わる。
市街地に戻ってカレーラーメンなるものを食べたのち、再び海岸線へ。
室蘭の外海の海岸線は、どこも崖になっている。
崖に挟まれた電信海岸は入り江のように湾曲していて、
中上健次『奇蹟』の冒頭の描写を思い出させた。
近くの本町神社は倒潰していた。
道路に沿って地球岬へ。
海岸線の地名はチャラツナイ、トッカリショなど、アイヌ神話の宝庫だ。
チケプというアイヌ地名に由来する地球岬は、
観光客と観光オブジェの多い興醒めなところだったが、
それでも眺望の感動には代えられない。
東室蘭へ向かう道道に沿って走る。海側はススキ野原になっていて、
崖の岩肌の落ち込む下が海岸だ。
人はいない、風がたえず耳に鳴るのみ。殺伐としている。
次第に、一戸建ての団地が道路沿いに見える。
見下ろすと、巨大な工場が煙を吐いている。
室蘭は観光客が来るとはいえ、あくまで新日鐵の街だ。
事前の観光下調べでは情報不足だったし、
宿泊施設も少なかった、その理由を見た気がした。
平地は建物も煤けて見える。
そのために、宅地は山を上ったのかもしれない。
東室蘭に着いた。団地がちの街には、何もない。
印象深かった長嶋有の『猛スピードで母は』の舞台は、
室蘭駅周辺ではなくこちらだろう、と直感した。
夕食の場所を探すのに苦労し、結局は地元民で賑わう廻転寿司に落ち着いた。
掛け値なしに旨かった。
ただし、あまりに何もないあまり、朝は朝食場所に苦労することになる。
都市間高速バスに乗って、札幌へ。
移動途中は雨天だったが、到着直前に陽が射した。
札幌ではつてを借り、北大恵迪寮に二泊させてもらう。
手土産として酒を買い込んだ。
寮の屋上に上がると、パノプティコン的な配置がよくわかる。
また、札幌のビル群が一望できた。
知人の寮部屋の人たちとともにラーメンを食した後、自転車で出発。
大通公園を西へ走って、円山公園と北海道神宮を見物。
さらに道行きを進め、宮の森ジャンプ台を見上げてから、帰寮。
晩は、寮生が共用棟で寮歌を歌う"寮歌勉(りょかべん)"や、
週に一度、自治会によって振る舞われる"スペシャル"に、
奇しくも行き当たることができた。
手土産に一箱持って行ったサッポロクラシックに、大いに盛り上がった。
自治寮同士、交流があるようだ。
東北大学の自治寮の云々も、詳しい人は知っていた。
札幌二日目。モエレ沼公園に赴く。
イサム・ノグチ設計の幾何学的な庭園だ。
圧巻という噴水は残念ながら観られなかったが、
折しも、ツール・ド・北海道なるものを実施していて、
種々のロードバイクや、さらにはリカンベントも見かけた。
綺麗な円錐形のモエレ山に登ると、
すごい強風で、人々はみな声を張っていた。
いつまでも風に身をはためかせながら佇んでいたかった。
市街地に戻り、サッポロビール博物館で雨に降り籠められた。
雨後、道いっぱいに広がった水たまりの照り返しに、
わずかも目を開けていられなかった。
次に行った中島公園にて陽が暮れた。
夕は、留学仲間で札幌にUターン就職した友人に三年ぶりに会った。
夕食をとりつつお互いに近況を報告しあい、楽しかった。
帰寮すると、部屋員の多くが出ていて、
昨日とは打って変わった静かな夜だった。
夕食は食べたものの、エッセンは頂いた。
旅行最終日。
札幌駅前で、往路と同じようにリアディレイラーを外して
スポークに固定し、折り畳んで輪行袋に入れて肩から提げた。
空港内で食べたモスバーガーの地域限定メニューのザンギバーガーは、
帰浜後にさっそく横浜駅西口のモスバーガーで幟を見かけ、落胆した。
夏の終わりの四泊五日の道南の旅は、これで終了。
天気予報を見ながら最後まで決しかねた輪行は、結局して正解だった。
また、飛行機の預け荷物としても、車体に傷はつかなかったし、
自転車が足となることで、函館と室蘭の二市では主な名所史跡はほぼ網羅できた。
また、室蘭の海岸沿いのサイクリングは、本当に心地よかった。
中旬に釜山とソウル。一週間後に函館、室蘭、札幌。
○釜山、ソウル
韓国は出張りだが、私事としても楽しめた。
釜山は中心地ではなく郊外のリゾート地のようなところに少しだけいた。
広安大橋に沿ったビーチで、のんびりビールを飲んだぐらい。
ソウルは驚くほどの大都市で、東京より巨大かもしれない印象だった。
看板の犇めく小道、といったアジア的風景は、都心にはほとんど残っていない。
ハングルのわからない自分にとって、
街の風景は意味を介さずにただ高層ビルが建ち並び、
イルミネーションが輝き、賑わう。
漢字と仮名のわからない外国人にとって、東京はこんな感じだろう。
無国籍的で、人と車だけが多く、ときに過剰なほど整備されている。
コンビニが多く、マンションと商店が入り雑じり、
電線が張り巡らされている、といった街並は、日本と違わない。
それでも、違うところもあちこちにある。
まず、建築物の高さ規制が異なるためだろう、
おしなべて街のビルは20階ぐらいある。
また、90年代にICT化に国力を挙げた結果として、
地下鉄や店舗の標示はすべて大きな液晶画面だったりする。
公共交通機関の磁気カード化は日本より早かったし、
車輌内の冷房が効き過ぎていれば、
車掌に云うのではなく携帯メールで本社に伝えることで
すぐに対応してもらえるという。
ちなみに、ソウル地下鉄の磁気カード導入は、
現大統領李明博がソウル市長時代に進めた。
大統領にソウル市長経験者が多いのは、
票の集中という意味で一極集中の弊害だろう。
SKYを頂点とする学歴、日本占領中に完全に確立された学制のなごりで、
旧京城帝国大学のソウル大学校は、今なお学歴の頂点にある。
内申点が大学受験にまでものをいうため、
ボランティア活動などの実績はアルバイトに代行されることさえあるらしい。
現代やロッテやLGといった財閥の支配する社会では、
経済活動はすべて財閥が担うため、
メセナは望ましいもの以上に、格差是正としてなくてはならない。
また、ごく最近に民法が改正されるまでは、同じ名字の氏族同士では
たとえはるか遠い親戚であっても結婚はできなかったらしい。
日本以上に厳しい家制度が色濃く残っているのだ。
これらのことは、通訳と話して初めて知ったことだ。
日本文化が全面解禁されて10年も経たないとは。
首都の賑わいと地方の疲弊の格差は日本以上だが、
アジア的な一極集中型経済成長のためか、
日本と同様の格差の端緒なのかはわからない。
世界遺産の宗廟に赴いた。
チマチョゴリを着たガイドが日本語で随所を解説してくれる。
一見すると日本と変わらない歴史的建造物も、
池の四角や木々の配置が陰陽道に基づいていたりして、違いがある。
また、三一独立運動の起こった都心の公園なども観た。
○函館、室蘭、札幌
朝の五時前に起き、早朝便に自転車ごと乗って八時に来函。
トラピスチヌ修道院を見物してから、海岸線に沿って市内へ向かう。
五稜郭には箱館奉行所が復元されていて、観光客も多かった。
ストラスブールの博物館で観た
古い星状形の城壁(三重ほどもあったが)を思い出した。
それに較べれば五稜郭はやはり簡素で、国衙と呼ぶのがふさわしい印象。
北海道教育大学函館校へ迂回してから、路面電車に沿って旧市街へ。
途中、吉田商店で食べたスープカレーは非常に美味だった。
箱館山の脇を抜けて立待岬へ。
晴れていて、下北半島も津軽半島も見えた。
波の風と照り返しが心地よく、いつまでもいたかった。
箱館山の山道を伝って市街地へ戻る途中、
木々の隙間から俯瞰する景色は、綺麗だった。
陸繋島の上にという函館の立地が、一目瞭然。
元町の教会を見物し、西の海岸にある寺も見た。
函館八幡宮、函館護国神社を含めてむしろ寺院に興味があったのは、
江戸から明治の時代に平定した土地が
どのように日本に組み入れられたかを知る重要な史跡だからだ。
予想通り、各宗派の寺や八幡宮は松前藩時代(あるいはそれ以前)からある。
そして、中央集権的な東本願寺や護国神社は、教会とともに明治期に現れた。
古い寺が、旧市街地から続く西海岸沿いからみた郊外に建ち、
外国人居留地として開発された元町に新しい寺と教会が並ぶ、
というコントラストが、この歴史を裏打ちしているように思えた。
函館市文学館の石川啄木の詳細な解説は、なかなか見所があった。
明治の文学者らしくジャーナリスティックな正義感が貫かれていた。
旧イギリス領事館の中には、見所はなかった。
翌朝、函館本線の特急にて輪行した。
東室蘭駅からバス風の一両編成に乗って、室蘭駅に到着。
がらんとした旧駅舎で観光地図を得て、
白鳥大橋のあたりから少し丘を登る。
大黒島へ伸びた防波堤、大橋や風力発電、その向こう岸の工場が、
海とともに一つの景色に入っていて、綺麗だった。
丘には団地、家々がゆとりを持って立ち並ぶ。
緑と空が暖かい。夏も終わる。
市街地に戻ってカレーラーメンなるものを食べたのち、再び海岸線へ。
室蘭の外海の海岸線は、どこも崖になっている。
崖に挟まれた電信海岸は入り江のように湾曲していて、
中上健次『奇蹟』の冒頭の描写を思い出させた。
近くの本町神社は倒潰していた。
道路に沿って地球岬へ。
海岸線の地名はチャラツナイ、トッカリショなど、アイヌ神話の宝庫だ。
チケプというアイヌ地名に由来する地球岬は、
観光客と観光オブジェの多い興醒めなところだったが、
それでも眺望の感動には代えられない。
東室蘭へ向かう道道に沿って走る。海側はススキ野原になっていて、
崖の岩肌の落ち込む下が海岸だ。
人はいない、風がたえず耳に鳴るのみ。殺伐としている。
次第に、一戸建ての団地が道路沿いに見える。
見下ろすと、巨大な工場が煙を吐いている。
室蘭は観光客が来るとはいえ、あくまで新日鐵の街だ。
事前の観光下調べでは情報不足だったし、
宿泊施設も少なかった、その理由を見た気がした。
平地は建物も煤けて見える。
そのために、宅地は山を上ったのかもしれない。
東室蘭に着いた。団地がちの街には、何もない。
印象深かった長嶋有の『猛スピードで母は』の舞台は、
室蘭駅周辺ではなくこちらだろう、と直感した。
夕食の場所を探すのに苦労し、結局は地元民で賑わう廻転寿司に落ち着いた。
掛け値なしに旨かった。
ただし、あまりに何もないあまり、朝は朝食場所に苦労することになる。
都市間高速バスに乗って、札幌へ。
移動途中は雨天だったが、到着直前に陽が射した。
札幌ではつてを借り、北大恵迪寮に二泊させてもらう。
手土産として酒を買い込んだ。
寮の屋上に上がると、パノプティコン的な配置がよくわかる。
また、札幌のビル群が一望できた。
知人の寮部屋の人たちとともにラーメンを食した後、自転車で出発。
大通公園を西へ走って、円山公園と北海道神宮を見物。
さらに道行きを進め、宮の森ジャンプ台を見上げてから、帰寮。
晩は、寮生が共用棟で寮歌を歌う"寮歌勉(りょかべん)"や、
週に一度、自治会によって振る舞われる"スペシャル"に、
奇しくも行き当たることができた。
手土産に一箱持って行ったサッポロクラシックに、大いに盛り上がった。
自治寮同士、交流があるようだ。
東北大学の自治寮の云々も、詳しい人は知っていた。
札幌二日目。モエレ沼公園に赴く。
イサム・ノグチ設計の幾何学的な庭園だ。
圧巻という噴水は残念ながら観られなかったが、
折しも、ツール・ド・北海道なるものを実施していて、
種々のロードバイクや、さらにはリカンベントも見かけた。
綺麗な円錐形のモエレ山に登ると、
すごい強風で、人々はみな声を張っていた。
いつまでも風に身をはためかせながら佇んでいたかった。
市街地に戻り、サッポロビール博物館で雨に降り籠められた。
雨後、道いっぱいに広がった水たまりの照り返しに、
わずかも目を開けていられなかった。
次に行った中島公園にて陽が暮れた。
夕は、留学仲間で札幌にUターン就職した友人に三年ぶりに会った。
夕食をとりつつお互いに近況を報告しあい、楽しかった。
帰寮すると、部屋員の多くが出ていて、
昨日とは打って変わった静かな夜だった。
夕食は食べたものの、エッセンは頂いた。
旅行最終日。
札幌駅前で、往路と同じようにリアディレイラーを外して
スポークに固定し、折り畳んで輪行袋に入れて肩から提げた。
空港内で食べたモスバーガーの地域限定メニューのザンギバーガーは、
帰浜後にさっそく横浜駅西口のモスバーガーで幟を見かけ、落胆した。
夏の終わりの四泊五日の道南の旅は、これで終了。
天気予報を見ながら最後まで決しかねた輪行は、結局して正解だった。
また、飛行機の預け荷物としても、車体に傷はつかなかったし、
自転車が足となることで、函館と室蘭の二市では主な名所史跡はほぼ網羅できた。
また、室蘭の海岸沿いのサイクリングは、本当に心地よかった。
3.9.10
武蔵野輪走記
9月1日 東京都心縦断
9時前に横浜を出発し、国道1号線沿いに北上。
池上本門寺にて、一般公開していた松濤園を見学。
国道に戻ってさらに道行きを続ける。
町並みが高層ビルを孕み始め、高層ビルばかりになり、
さらに高層化しつつ道路が太くなり複雑に交差を始める、
有機体のような街の深部へと走る。
桜田門から内堀国民公園へ入って一休みし、
大手前から御茶ノ水へ。
体裁がまるで寺の湯島の聖堂を見学し、
名がなければ見向きもしない昌平坂を通る。
外堀通(都道405号線)を西へ向かい、
水道橋から白山通り(都道301号線)を北へ。
東大本郷キャンパスでの食事は、
学食でのカツ丼に個人的な思い入れがあるので、カツ丼。
東北大の方が量も多いし安いし、美味だ、と思った。
七大戦の幟が立っていた。今年は東大での実施か。
本郷通り(都道455号線)を北上する道には、思いのほか寺が多い。
千代田城の北東の鬼門を塞ぐべく、昔は寺内町だったのかもしれない。
小石川で不忍通り(都道437号線)へ入って南下、護国寺を見物。
徳川にしろ宮家にしろ、庇護を受けた寺社というのは
正統派の構えのためか見所は少ない。
首都高速5号池袋線の下の道路を走って
東池袋を通って明治通り(都道305号線)を北へ。
サドルと体重に挟まれた臀部と、
前傾姿勢とハンドルの隙の掌が、共に痛くなる。
王子駅手前の飛鳥山で、渋沢史料館が有料というのに失望してから
北本通り(国道122号線)に沿ってひたすらペダルを漕ぐ。
赤羽岩淵から環状八号(都道331号線)に入り、高島平を目指す。
しかしうまく都営三田線に沿うことが出来ないまま東武東上線を横断。
ようやく軌道を修正して沿線上を北上、成増に到着。
まだ時間があったので、埼玉県和光市から
県道88号線に沿うように走り、荒川の土手へ。
夕陽はそこから眺める中で地平の平たい山々に沈んだ。
風が心地よかった。
走行距離75km。
9月2日 埼玉県中部の田園と川越
成増駅から東武東上線森林公園駅(埼玉県比企郡滑川町)へ輪行。
森林公園緑道の自転車道に沿ってから森林公園南入口で折れ、
県道307号線に入って森林公園中央入口を横切る。
森林公園の敷地面積の広さに驚く。
そのまま東へ向かうつもりが県道391号線へと
入ってしまい、東松山市中心部へ至った。
吉見町にある岩室観音堂と吉見百穴を見物。
吉見百穴は古墳時代の横穴で、第二次大戦中は
遺跡を破壊して地下軍需工場が建設されたところ。
明治の最初の調査では、土蜘蛛人の
住居跡などという珍説があったらしい。
ヒカリゴケも自生しているらしく、覗いてみたが、
光っていると云われれば光っている気がしないでもない、
まぁその程度のものだった。
国道407号線、一部で県道27号線を通って南へひた走る。
道幅が狭い上に産業道路化しており、
自転車にとって走りにくかった。
県道256号線に入り、田畑と集落の隙間を縫うように迷いながら
順調に川越市街へ向かう。
集落内の少なくない家々が家紋の入った土倉を有しており、
江戸時代に商品作物で財を成したのだろうか、と勘ぐってみた。
中仙道のバイパスとして賑わった川越街道の終着点の川越は、
小江戸として町屋や蔵造りの並ぶ街並みでも知られる。
高麗通り(県道39号線)から市街地入りし、
菓子屋横丁を歩いて通過、川越氷川神社で休憩。
南下し、街並みを見ながらさらに進む。
大正ロマン通り、なんてのもあった。
寺社めぐりもそこそこに、川越駅から東上線に乗った。
ただし、乗るべき電車を間違えて、池袋をUターンして成増へ帰着。
走行距離45km。
この日に供されたスープカレーは、いつものどおり、
そしていつにも増して美味しかった。
9月3日 野火止用水、多摩湖、所沢
埼玉県和光市を出発し、国道254号線に沿って朝霞市を抜け、新座市へ。
新座署の交差点で国道を離れ、
平林寺の脇を通って野火止用水に沿ってひたすら進む。
水道道路という名称で、交通量は比較的多い。
新座市から東京都東久留米市に入って都道15号線になる。
川崎市にある二ヶ領用水は知っていたが、野火止用水は知らなかった。
武蔵野台地の乾燥地には必需品だったのだろうという連想よりも、
野火を止めようというその名称の必死さを思い浮かべた。
都道15号線から新青梅街道(都道5号線)へ折れる角に、
東京ガスの運営する「がす資料館」というのがあったので、
休憩も兼ねて見学。「ガスピアノ」なる楽器と、
時代を見透かせる広告の変遷が、面白かった。
小平霊園の脇を抜けて、西武多摩湖線に導かれるようにして多摩湖へ。
東京水道局管轄の溜め池で、東京の水がめということになるだろう。
湖に沿って自転車道があり、楽しめた。
多摩湖と狭山湖はほぼ隣接するが、前者は東京都、後者は埼玉県の域内だ。
二つの湖に挟まれた西武球場の近くに、金乗院、狭山不動尊があった。
金乗院は丹や群青が鮮やかなだけでなく柱や塀に龍が縁取られていたりと、
変わった風貌の建物だった。
狭山不動尊は徳川家光の縁起。
県道55号線に沿って所沢市街へと走り、所沢航空記念公園へ。
日本初の飛行成功と日本初の飛行機事故の場所だ。
駅前のYS-11と記念館前のC-46を除いて見所はなかったので、
自転車置き場でサックスを吹き続けていた老人の脇で地図を見て出発。
産業道路化して大型車両ばかりがすれすれを通過する国道463号線を走り、
滝の城址公園へ行き損ねて通過した県道179号線、
再び国道463号線を経て、往路の国道273号線へ入り、南下して和光市へ帰着。
走行距離55km。
9時前に横浜を出発し、国道1号線沿いに北上。
池上本門寺にて、一般公開していた松濤園を見学。
国道に戻ってさらに道行きを続ける。
町並みが高層ビルを孕み始め、高層ビルばかりになり、
さらに高層化しつつ道路が太くなり複雑に交差を始める、
有機体のような街の深部へと走る。
桜田門から内堀国民公園へ入って一休みし、
大手前から御茶ノ水へ。
体裁がまるで寺の湯島の聖堂を見学し、
名がなければ見向きもしない昌平坂を通る。
外堀通(都道405号線)を西へ向かい、
水道橋から白山通り(都道301号線)を北へ。
東大本郷キャンパスでの食事は、
学食でのカツ丼に個人的な思い入れがあるので、カツ丼。
東北大の方が量も多いし安いし、美味だ、と思った。
七大戦の幟が立っていた。今年は東大での実施か。
本郷通り(都道455号線)を北上する道には、思いのほか寺が多い。
千代田城の北東の鬼門を塞ぐべく、昔は寺内町だったのかもしれない。
小石川で不忍通り(都道437号線)へ入って南下、護国寺を見物。
徳川にしろ宮家にしろ、庇護を受けた寺社というのは
正統派の構えのためか見所は少ない。
首都高速5号池袋線の下の道路を走って
東池袋を通って明治通り(都道305号線)を北へ。
サドルと体重に挟まれた臀部と、
前傾姿勢とハンドルの隙の掌が、共に痛くなる。
王子駅手前の飛鳥山で、渋沢史料館が有料というのに失望してから
北本通り(国道122号線)に沿ってひたすらペダルを漕ぐ。
赤羽岩淵から環状八号(都道331号線)に入り、高島平を目指す。
しかしうまく都営三田線に沿うことが出来ないまま東武東上線を横断。
ようやく軌道を修正して沿線上を北上、成増に到着。
まだ時間があったので、埼玉県和光市から
県道88号線に沿うように走り、荒川の土手へ。
夕陽はそこから眺める中で地平の平たい山々に沈んだ。
風が心地よかった。
走行距離75km。
9月2日 埼玉県中部の田園と川越
成増駅から東武東上線森林公園駅(埼玉県比企郡滑川町)へ輪行。
森林公園緑道の自転車道に沿ってから森林公園南入口で折れ、
県道307号線に入って森林公園中央入口を横切る。
森林公園の敷地面積の広さに驚く。
そのまま東へ向かうつもりが県道391号線へと
入ってしまい、東松山市中心部へ至った。
吉見町にある岩室観音堂と吉見百穴を見物。
吉見百穴は古墳時代の横穴で、第二次大戦中は
遺跡を破壊して地下軍需工場が建設されたところ。
明治の最初の調査では、土蜘蛛人の
住居跡などという珍説があったらしい。
ヒカリゴケも自生しているらしく、覗いてみたが、
光っていると云われれば光っている気がしないでもない、
まぁその程度のものだった。
国道407号線、一部で県道27号線を通って南へひた走る。
道幅が狭い上に産業道路化しており、
自転車にとって走りにくかった。
県道256号線に入り、田畑と集落の隙間を縫うように迷いながら
順調に川越市街へ向かう。
集落内の少なくない家々が家紋の入った土倉を有しており、
江戸時代に商品作物で財を成したのだろうか、と勘ぐってみた。
中仙道のバイパスとして賑わった川越街道の終着点の川越は、
小江戸として町屋や蔵造りの並ぶ街並みでも知られる。
高麗通り(県道39号線)から市街地入りし、
菓子屋横丁を歩いて通過、川越氷川神社で休憩。
南下し、街並みを見ながらさらに進む。
大正ロマン通り、なんてのもあった。
寺社めぐりもそこそこに、川越駅から東上線に乗った。
ただし、乗るべき電車を間違えて、池袋をUターンして成増へ帰着。
走行距離45km。
この日に供されたスープカレーは、いつものどおり、
そしていつにも増して美味しかった。
9月3日 野火止用水、多摩湖、所沢
埼玉県和光市を出発し、国道254号線に沿って朝霞市を抜け、新座市へ。
新座署の交差点で国道を離れ、
平林寺の脇を通って野火止用水に沿ってひたすら進む。
水道道路という名称で、交通量は比較的多い。
新座市から東京都東久留米市に入って都道15号線になる。
川崎市にある二ヶ領用水は知っていたが、野火止用水は知らなかった。
武蔵野台地の乾燥地には必需品だったのだろうという連想よりも、
野火を止めようというその名称の必死さを思い浮かべた。
都道15号線から新青梅街道(都道5号線)へ折れる角に、
東京ガスの運営する「がす資料館」というのがあったので、
休憩も兼ねて見学。「ガスピアノ」なる楽器と、
時代を見透かせる広告の変遷が、面白かった。
小平霊園の脇を抜けて、西武多摩湖線に導かれるようにして多摩湖へ。
東京水道局管轄の溜め池で、東京の水がめということになるだろう。
湖に沿って自転車道があり、楽しめた。
多摩湖と狭山湖はほぼ隣接するが、前者は東京都、後者は埼玉県の域内だ。
二つの湖に挟まれた西武球場の近くに、金乗院、狭山不動尊があった。
金乗院は丹や群青が鮮やかなだけでなく柱や塀に龍が縁取られていたりと、
変わった風貌の建物だった。
狭山不動尊は徳川家光の縁起。
県道55号線に沿って所沢市街へと走り、所沢航空記念公園へ。
日本初の飛行成功と日本初の飛行機事故の場所だ。
駅前のYS-11と記念館前のC-46を除いて見所はなかったので、
自転車置き場でサックスを吹き続けていた老人の脇で地図を見て出発。
産業道路化して大型車両ばかりがすれすれを通過する国道463号線を走り、
滝の城址公園へ行き損ねて通過した県道179号線、
再び国道463号線を経て、往路の国道273号線へ入り、南下して和光市へ帰着。
走行距離55km。
31.8.10
セドリック・クラピッシュ『PARIS』
パリ賞賛の、すなわち恋愛賞賛の、群像劇。
冷静なのか激情なのかわからないけど、
それでも街全体が熱を帯びて回り続けてるパリにあっては、
それを逃れられないような気がする。
みんな懸命に生きて、それでも誰かを求めてる、というような。
あ、これは映画の感想というよりパリの感想だ。
それにしてもクラピッシュって、みんなで入り乱れて踊るシーン好きだなぁ。
冷静なのか激情なのかわからないけど、
それでも街全体が熱を帯びて回り続けてるパリにあっては、
それを逃れられないような気がする。
みんな懸命に生きて、それでも誰かを求めてる、というような。
あ、これは映画の感想というよりパリの感想だ。
それにしてもクラピッシュって、みんなで入り乱れて踊るシーン好きだなぁ。
25.8.10
平野啓一郎『決壊』/ゼロ世代〜2010年代日本文学勢力図の印象
物語が進行を始める場の形成まで、登場人物間の会話がリニアなところが気になったが
(それはもしかすると、テレビのワイドショー的ですらあるかもしれない)、
物語がプレ段階を終えて本式に進み始めてから、嘆息の連続だった。
スケッチのような描写の的確さも、ボードリヤールのような
匿名ネット社会に関する哲学・社会学への深い智識を動員した思索も、息つかせず面白かった。
小説ではありながら余りに現実的で「単に起きなかっただけ」と錯覚する、
そんな物語を分析的に構成するアイディアと筆力。
その試みの中では、主題に関しては何も取捨されず、ありのままに現前するかのよう。
だから、容易な「物語」が渇望するような、完璧な善も完璧な悪もいなくて、
誰もが白黒の決着のつかない灰色の濃淡を行きつ戻りつしながらそれぞれの立場を必死で苦しむ。
この本は、現代社会について考えるあらゆる人間が読めばよいと思う。
無関心と多極主義で平板になった命が多数に蠢く群れとしての社会で、
どうやって人を愛し、倫理を打ち立てられるか?
カントをモチーフにした科白を悪魔が吐くあたりで、倫理という言葉そのものが霞みそうだけど、
それでも、生きることを肯定するには、どうすればよいのか?
その一筋縄では到底いかない提起を、その複雑さをそのまま露出させるようにして書かれた、
この物語は、本当に素晴らしいと思った。
twitterに書いたが、
村上春樹『1Q84』、東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』、平野啓一郎『決壊』は、
「無数の匿名の視線と介入」がどういうものかを解こうと
試みていて、ネット社会の文脈で読まれるべきだ。
一方で現代作家には、舞城王太郎、佐藤友哉、岡田利規、長嶋有、田中慎弥、
その他諸々の「内向のゼロ世代」がいて、
「無数の匿名の視線と介入」に背を向ける形で彼らに対峙する。
彼ら「内向のゼロ世代」は、個人あるいは内輪だけで、物語が閉じている。
そうではなく、物語を愚直かつ真摯に語り、生きることによって、
物語を開こう、紡ごう! そう、村上や東、平野が語っている。
…そんな現代文壇の構図を、自分勝手に予想した。
そして、その接点が、おずおずとながら福永信にある気がする。
(それはもしかすると、テレビのワイドショー的ですらあるかもしれない)、
物語がプレ段階を終えて本式に進み始めてから、嘆息の連続だった。
スケッチのような描写の的確さも、ボードリヤールのような
匿名ネット社会に関する哲学・社会学への深い智識を動員した思索も、息つかせず面白かった。
小説ではありながら余りに現実的で「単に起きなかっただけ」と錯覚する、
そんな物語を分析的に構成するアイディアと筆力。
その試みの中では、主題に関しては何も取捨されず、ありのままに現前するかのよう。
だから、容易な「物語」が渇望するような、完璧な善も完璧な悪もいなくて、
誰もが白黒の決着のつかない灰色の濃淡を行きつ戻りつしながらそれぞれの立場を必死で苦しむ。
この本は、現代社会について考えるあらゆる人間が読めばよいと思う。
無関心と多極主義で平板になった命が多数に蠢く群れとしての社会で、
どうやって人を愛し、倫理を打ち立てられるか?
カントをモチーフにした科白を悪魔が吐くあたりで、倫理という言葉そのものが霞みそうだけど、
それでも、生きることを肯定するには、どうすればよいのか?
その一筋縄では到底いかない提起を、その複雑さをそのまま露出させるようにして書かれた、
この物語は、本当に素晴らしいと思った。
twitterに書いたが、
村上春樹『1Q84』、東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』、平野啓一郎『決壊』は、
「無数の匿名の視線と介入」がどういうものかを解こうと
試みていて、ネット社会の文脈で読まれるべきだ。
一方で現代作家には、舞城王太郎、佐藤友哉、岡田利規、長嶋有、田中慎弥、
その他諸々の「内向のゼロ世代」がいて、
「無数の匿名の視線と介入」に背を向ける形で彼らに対峙する。
彼ら「内向のゼロ世代」は、個人あるいは内輪だけで、物語が閉じている。
そうではなく、物語を愚直かつ真摯に語り、生きることによって、
物語を開こう、紡ごう! そう、村上や東、平野が語っている。
…そんな現代文壇の構図を、自分勝手に予想した。
そして、その接点が、おずおずとながら福永信にある気がする。
20.8.10
東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』
読んでいて、今年の本で最も面白いのではないかと思った。
前期ウィトゲンシュタインの言語的可能世界をモチーフにしたような、
相互に「語る」(シミュレート)なしには世界を同定できないという平行世界の併存、
そのSF的背景のつくりが緻密で、一気に引き込まれた。
それでいて、問いかけるのは、家族という結びつきについて。
厳密には血の繋がらない、歴史も共有していない家族が、
家族として思いあうのは妄想ではないか?
平行する世界で別の人生を歩む、少しずつ差異のある相手を、
すべて相手として同一視して想うことができるのか?
これを解決するのは、あきらかに物語というあまりに人間的な想像力だ。
「宇宙は物語でできている、原子からではない」とは、
詩人ミュリエル・ルーカイザーの言葉だが、
それがなければ自己を同定できなず、
物体が存在そのものの質感をグロテスクに露出させた世界に包まれて狂うことになる。
生きるとは何か、一度きりの不可逆の線形時間を生きるとはどういうことかを、
物語の可能性とともに強く諭す、そのような小説として、私は読んだ。
悪く云えば虚妄でしかないよすがに縋り、
しかし自分を見失いで生き抜くひたむきさは、強く心を打った。
「なぜそこではなくてここにいるのか」というトポス論は、
技術の進歩によって次第に無効化されつつ、
物理的制約とノスタルジーで成り立っている。
ともすれば感傷的な、そんなことも考えた。
前期ウィトゲンシュタインの言語的可能世界をモチーフにしたような、
相互に「語る」(シミュレート)なしには世界を同定できないという平行世界の併存、
そのSF的背景のつくりが緻密で、一気に引き込まれた。
それでいて、問いかけるのは、家族という結びつきについて。
厳密には血の繋がらない、歴史も共有していない家族が、
家族として思いあうのは妄想ではないか?
平行する世界で別の人生を歩む、少しずつ差異のある相手を、
すべて相手として同一視して想うことができるのか?
これを解決するのは、あきらかに物語というあまりに人間的な想像力だ。
「宇宙は物語でできている、原子からではない」とは、
詩人ミュリエル・ルーカイザーの言葉だが、
それがなければ自己を同定できなず、
物体が存在そのものの質感をグロテスクに露出させた世界に包まれて狂うことになる。
生きるとは何か、一度きりの不可逆の線形時間を生きるとはどういうことかを、
物語の可能性とともに強く諭す、そのような小説として、私は読んだ。
悪く云えば虚妄でしかないよすがに縋り、
しかし自分を見失いで生き抜くひたむきさは、強く心を打った。
「なぜそこではなくてここにいるのか」というトポス論は、
技術の進歩によって次第に無効化されつつ、
物理的制約とノスタルジーで成り立っている。
ともすれば感傷的な、そんなことも考えた。
野又穫『ALTERNATIVE SIGHTS―もうひとつの場所』(画集)
2004年の同じ画家の画集『Point of View 視線の変遷』を、
私は持っていないが知っている。
その、前の画集を買えなかった反動か、今回の画集はすぐさま購入した。
そこからの最も大きな変遷は、
バベル的な建物群と、イリュミネーションに光る建物群だ。
また、前作では、世界は無人のまま、ただ吹く風を感じさせるものが多かった。
今回の画集に入っている作品にはもちろん重複はあるが、新作の多くは、
巨大な高層建築として統一的にデザインされながらも細部がわずかに綻びていたり、
八割方建てられているバベルの塔の周囲に飯場とおぼしき小屋があったり、
建造物というよりむしろオブジェのように光る周囲に祭りめいた光りが瞬いていたりと、
遥かに遠い人の気配が仄かながら感じられるような気がした。
野又は若い頃によく臨海へ景色を観に行ったと、画集末尾の寄稿にあったが、
今日、根岸線の根岸駅から新杉田駅までの車窓から見える工場群を眺めて、
彼の作品に見えるその影響を感じずにはいられなかった。
野又穫の絵は、おそらく誰の心をも摑むだろう。
ネットで検索していくつかの作品を見れば、
不思議な感覚に包まれるその絵の魅力はすぐに知れるはずだ。
私は持っていないが知っている。
その、前の画集を買えなかった反動か、今回の画集はすぐさま購入した。
そこからの最も大きな変遷は、
バベル的な建物群と、イリュミネーションに光る建物群だ。
また、前作では、世界は無人のまま、ただ吹く風を感じさせるものが多かった。
今回の画集に入っている作品にはもちろん重複はあるが、新作の多くは、
巨大な高層建築として統一的にデザインされながらも細部がわずかに綻びていたり、
八割方建てられているバベルの塔の周囲に飯場とおぼしき小屋があったり、
建造物というよりむしろオブジェのように光る周囲に祭りめいた光りが瞬いていたりと、
遥かに遠い人の気配が仄かながら感じられるような気がした。
野又は若い頃によく臨海へ景色を観に行ったと、画集末尾の寄稿にあったが、
今日、根岸線の根岸駅から新杉田駅までの車窓から見える工場群を眺めて、
彼の作品に見えるその影響を感じずにはいられなかった。
野又穫の絵は、おそらく誰の心をも摑むだろう。
ネットで検索していくつかの作品を見れば、
不思議な感覚に包まれるその絵の魅力はすぐに知れるはずだ。
15.8.10
ヨーロッパ極右政党による靖国参拝
ル=ペンほか欧州極右政党幹部と一水会による靖国参拝について
フランス紙の速報記事を訳してみた。
ソースはLe Pointすなわち「論点」、政治中心の議論的な週刊誌。
なお、写真および全文は下リンクから。
http://www.lepoint.fr/monde/visite-controversee-de-jean-marie-le-pen-au-japon-15-08-2010-1225332_24.php
---------↓以下、段落ごとに拙訳↓---------
Visite controversée de Jean-Marie Le Pen au Japon
議論を呼ぶジャン=マリ・ル=ペン訪日
Des dirigeants politiques européens d'extrême droite, notamment Jean-Marie Le Pen et Bruno Gollnisch, ont visité, samedi, à Tokyo le sanctuaire controversé de Yasukuni qui honore la mémoire des soldats tombés pour le Japon lors de la Deuxième Guerre mondiale et celles de 14 criminels de guerre condamnés par les Alliés.
ヨーロッパ極右政治家の幹部たち、特にジャン=マリ・ル=ペンとブリュノ・ゴルニシュが土曜日[訳註:2010年8月14日]、東京の靖国神社を訪問した。靖国神社は議論の的になっている神社で、第二次大戦時に死亡した兵士たちおよび同盟国側によって処刑された戦争犯罪人14人の栄誉を讃えている。
Interrogé à ce sujet, Jean-Marie Le Pen avait déclaré, jeudi, n'avoir "aucun complexe". "Cela ne me gêne pas d'honorer les anciens combattants d'un pays adversaire ou ex-ennemi", avait-il dit. "Le criminel de guerre n'est pas une exclusivité des vaincus. Il y en a aussi parmi les vainqueurs", avait-il ajouté en évoquant les bombes atomiques larguées par les Américains sur Hiroshima et Nagasaki en août 1945. "Des gens qui décident de tuer des centaines de milliers de civils pour obtenir la capitulation militaire du pays, ne sont-ils pas eux aussi des criminels de guerre ?" avait-il demandé.
この点に関してジャン=マリ・ル=ペンは木曜日に「ややこしいことは何も」ないと宣言していた。「敵国や旧対戦国の昔の兵士に敬意を表することに、何の遠慮もない」と彼は言っていた。「戦争犯罪は敗戦国にしかないわけではない。戦勝国にも同じようにある」と彼はつけ加え、1945年8月にアメリカ軍によって広島と長崎に投下された原子爆弾について言及した。「多くの市民を殺害して降伏させようと決断した人々は、同じように戦争犯罪人ではないのか?」と彼は問い質した。
Contrairement à la plupart des pays européens, le Japon n'a pas de parti politique d'extrême droite, mais uniquement des organisations nationalistes. C'est l'une d'elles, Issuikai, dirigée par Mitsuhiro Kimura, qui est à l'origine de ce colloque inédit rassemblant Jean-Marie Le Pen, 82 ans, président du Front national, Adam Walker, numéro deux du Parti national britannique (BNP) et des représentants venus de six autres pays européens (Autriche, Belgique, Espagne, Hongrie, Portugal, Roumanie). Issuikai, fondée en 1972 et qui ne rassemble qu'une centaine de membres, nie, entre autres, l'ampleur des atrocités attribuées à l'armée impériale nippone en Asie avant et pendant la Deuxième Guerre mondiale.
欧州諸国の多くとは反対に、日本には極右政党は存在せず、国粋主義団体があるだけだ。そのうちの一つ、木村三浩の率いる一水会が、この新しい枠組みの集まりを発起した。集まったのは、国民戦線党首ジャン=マリ・ル=ペン(82歳)、英国国民党ナンバー2アダム・ウォーカーほか欧州6国(オーストリア、ベルギー、スペイン、ハンガリー、ポルトガル、ルーマニア)の党首たち。一水会は1972年に設立され、100人ほどしか構成員はいないが、それぞれが第二次対戦前および対戦中のアジアにおける日本帝国軍によってなされた残虐行為の広がりを否定している。
フランス紙の速報記事を訳してみた。
ソースはLe Pointすなわち「論点」、政治中心の議論的な週刊誌。
なお、写真および全文は下リンクから。
http://www.lepoint.fr/monde/visite-controversee-de-jean-marie-le-pen-au-japon-15-08-2010-1225332_24.php
---------↓以下、段落ごとに拙訳↓---------
Visite controversée de Jean-Marie Le Pen au Japon
議論を呼ぶジャン=マリ・ル=ペン訪日
Des dirigeants politiques européens d'extrême droite, notamment Jean-Marie Le Pen et Bruno Gollnisch, ont visité, samedi, à Tokyo le sanctuaire controversé de Yasukuni qui honore la mémoire des soldats tombés pour le Japon lors de la Deuxième Guerre mondiale et celles de 14 criminels de guerre condamnés par les Alliés.
ヨーロッパ極右政治家の幹部たち、特にジャン=マリ・ル=ペンとブリュノ・ゴルニシュが土曜日[訳註:2010年8月14日]、東京の靖国神社を訪問した。靖国神社は議論の的になっている神社で、第二次大戦時に死亡した兵士たちおよび同盟国側によって処刑された戦争犯罪人14人の栄誉を讃えている。
Interrogé à ce sujet, Jean-Marie Le Pen avait déclaré, jeudi, n'avoir "aucun complexe". "Cela ne me gêne pas d'honorer les anciens combattants d'un pays adversaire ou ex-ennemi", avait-il dit. "Le criminel de guerre n'est pas une exclusivité des vaincus. Il y en a aussi parmi les vainqueurs", avait-il ajouté en évoquant les bombes atomiques larguées par les Américains sur Hiroshima et Nagasaki en août 1945. "Des gens qui décident de tuer des centaines de milliers de civils pour obtenir la capitulation militaire du pays, ne sont-ils pas eux aussi des criminels de guerre ?" avait-il demandé.
この点に関してジャン=マリ・ル=ペンは木曜日に「ややこしいことは何も」ないと宣言していた。「敵国や旧対戦国の昔の兵士に敬意を表することに、何の遠慮もない」と彼は言っていた。「戦争犯罪は敗戦国にしかないわけではない。戦勝国にも同じようにある」と彼はつけ加え、1945年8月にアメリカ軍によって広島と長崎に投下された原子爆弾について言及した。「多くの市民を殺害して降伏させようと決断した人々は、同じように戦争犯罪人ではないのか?」と彼は問い質した。
Contrairement à la plupart des pays européens, le Japon n'a pas de parti politique d'extrême droite, mais uniquement des organisations nationalistes. C'est l'une d'elles, Issuikai, dirigée par Mitsuhiro Kimura, qui est à l'origine de ce colloque inédit rassemblant Jean-Marie Le Pen, 82 ans, président du Front national, Adam Walker, numéro deux du Parti national britannique (BNP) et des représentants venus de six autres pays européens (Autriche, Belgique, Espagne, Hongrie, Portugal, Roumanie). Issuikai, fondée en 1972 et qui ne rassemble qu'une centaine de membres, nie, entre autres, l'ampleur des atrocités attribuées à l'armée impériale nippone en Asie avant et pendant la Deuxième Guerre mondiale.
欧州諸国の多くとは反対に、日本には極右政党は存在せず、国粋主義団体があるだけだ。そのうちの一つ、木村三浩の率いる一水会が、この新しい枠組みの集まりを発起した。集まったのは、国民戦線党首ジャン=マリ・ル=ペン(82歳)、英国国民党ナンバー2アダム・ウォーカーほか欧州6国(オーストリア、ベルギー、スペイン、ハンガリー、ポルトガル、ルーマニア)の党首たち。一水会は1972年に設立され、100人ほどしか構成員はいないが、それぞれが第二次対戦前および対戦中のアジアにおける日本帝国軍によってなされた残虐行為の広がりを否定している。
北野武『菊次郎の夏』
ヤクザ映画ではないが、間あいの取り方がやはり良かった。
終盤、キャンプで遊ぶシーンは、『ソナチネ』に似ている気がした。
底の張り詰めた雰囲気はなく、もっとユーモラスだったとはいえ。
これも一つの大きな間あいだ。
菊次郎って少年の名前じゃなくておっさんのほうなのか。
人々が奇妙に繋がる、その別れの挨拶がすべて「またね」だったのが良かった。
おそらくはもう二度と会わないだろうのに。
終盤、キャンプで遊ぶシーンは、『ソナチネ』に似ている気がした。
底の張り詰めた雰囲気はなく、もっとユーモラスだったとはいえ。
これも一つの大きな間あいだ。
菊次郎って少年の名前じゃなくておっさんのほうなのか。
人々が奇妙に繋がる、その別れの挨拶がすべて「またね」だったのが良かった。
おそらくはもう二度と会わないだろうのに。
14.8.10
レーモン・クノー『地下鉄のザジ』
主人公以外の登場人物もそれぞれ際立った群像劇で、
口語の多いドタバタとスピード感が読み心地よい。
フランス語の言葉遊びの部分が、邦訳ではかなり隠れるのは残念。
作品の発表が1959年ということもあり、
種々を笑い飛ばしてしまう(作者や書く行為をも)態度が、
庄司薫的な文壇に対する挑発行為だったのか、とも思った。
実際、訳者の生田耕作は後書きで、実存主義と抵抗文学で
重苦しくなった読書界に非常に受けた、ということを書いている。
口語の多いドタバタとスピード感が読み心地よい。
フランス語の言葉遊びの部分が、邦訳ではかなり隠れるのは残念。
作品の発表が1959年ということもあり、
種々を笑い飛ばしてしまう(作者や書く行為をも)態度が、
庄司薫的な文壇に対する挑発行為だったのか、とも思った。
実際、訳者の生田耕作は後書きで、実存主義と抵抗文学で
重苦しくなった読書界に非常に受けた、ということを書いている。
11.8.10
エマニュエル・ル=ロワ=ラデュリ『南仏ロマンの謝肉祭(カルナヴァル) 叛乱の想像力』
原題は « Le Carnaval de Romans de la Chandeleur au Mercredi des Cendre 1579-1580 »。
1580年、ロマン・シュル・イゼール(Romans-sur-Isère, Dauphiné)の
謝肉祭で、都市手工業者と農民、新教徒過激派が叛乱を起こした。
この事件は謝肉祭というハレの文法に則って行われたことで、
フランス中世社会史的には有名。
おこりの特殊な構造と、日常空間と祝祭空間がどのように溶け合っていたのか、
それを知るために手に取ったこの本は、全700ページほどもある大著だった。
地理、身分、宗教、貧富、職業などが
複雑に積み重なり絡み合った位相として、叛乱は惹き起こされる。
叛乱への前過程・背景として大きく章を割いているのは、
所得や身分ごとの人口比とその納税額。
新興貴族階級の免税特権批判と第三身分の負担軽減を求める声は
かなり強まっていた。
1579年のカトリーヌ・ド・メディシス巡察時、
民衆派弁護士ド・ブールによって陳述書が直訴されていたことからも伺える。
税の負担や特権に関するだけでも、
不在地主の納税という都市-農村の対立、
人的課税を批判しローマ法的な物的課税を求める
第三身分の声(貴族・聖職者-民衆の対立)、
同じドーフィネ地方内でも貴族の免税特権のない都市の存在などの位相がある。
17世紀に入っても、民衆派の論客たちの主張が
身分制批判ではないというところが興味深かった。
むしろ、身分制を擁護したうえで、序爵を買ったような新興貴族への批判や、
貴族という身分が本来果たすべき役割を問うような批判だった。
アリストテレス的調和論、プトレマイオス的世界観がよく表れている。
エドモンド・リーチなどによれば、祝祭は
日常から祝祭への突入(仮面舞踏会など)、
逆転や周縁の強調(死の踊り、無礼講、など)、
日常への再統合(偽王の処刑など)の三位相に分類される。
反体制側の動きは第二相的で、体制側は第三相的に動いた。
動乱とその封じ込めのどちらも露骨に政治的だが、
祝祭に重ねられている以上、
諸事項に込められた意味はきわめて祝祭的に多重に解釈される。
例えば、手工業者の守護聖人ブレーズの祝日に叛乱は起き、
ブランルという踊りが踊られる。
足に鈴をつけることで教会(鐘)の権威を地に落とし、
また、死や脱聖化を意味する。
とはいえむしろ、この叛乱は心性にどうこうというより、
この祝祭によって緊張関係が頂点に達したことで、
祝祭のコードが体よく利用された、かなり政治的な事件だっただけ、
という気もする(首領部はけっこう冷めている)。
もっとも、謝肉祭そのものが、見方によっては政治的・反動的なのだが。
だから物語展開は大江健三郎『万延元年のフットボール』とよく似た心地がした。
1580年、ロマン・シュル・イゼール(Romans-sur-Isère, Dauphiné)の
謝肉祭で、都市手工業者と農民、新教徒過激派が叛乱を起こした。
この事件は謝肉祭というハレの文法に則って行われたことで、
フランス中世社会史的には有名。
おこりの特殊な構造と、日常空間と祝祭空間がどのように溶け合っていたのか、
それを知るために手に取ったこの本は、全700ページほどもある大著だった。
地理、身分、宗教、貧富、職業などが
複雑に積み重なり絡み合った位相として、叛乱は惹き起こされる。
叛乱への前過程・背景として大きく章を割いているのは、
所得や身分ごとの人口比とその納税額。
新興貴族階級の免税特権批判と第三身分の負担軽減を求める声は
かなり強まっていた。
1579年のカトリーヌ・ド・メディシス巡察時、
民衆派弁護士ド・ブールによって陳述書が直訴されていたことからも伺える。
税の負担や特権に関するだけでも、
不在地主の納税という都市-農村の対立、
人的課税を批判しローマ法的な物的課税を求める
第三身分の声(貴族・聖職者-民衆の対立)、
同じドーフィネ地方内でも貴族の免税特権のない都市の存在などの位相がある。
17世紀に入っても、民衆派の論客たちの主張が
身分制批判ではないというところが興味深かった。
むしろ、身分制を擁護したうえで、序爵を買ったような新興貴族への批判や、
貴族という身分が本来果たすべき役割を問うような批判だった。
アリストテレス的調和論、プトレマイオス的世界観がよく表れている。
エドモンド・リーチなどによれば、祝祭は
日常から祝祭への突入(仮面舞踏会など)、
逆転や周縁の強調(死の踊り、無礼講、など)、
日常への再統合(偽王の処刑など)の三位相に分類される。
反体制側の動きは第二相的で、体制側は第三相的に動いた。
動乱とその封じ込めのどちらも露骨に政治的だが、
祝祭に重ねられている以上、
諸事項に込められた意味はきわめて祝祭的に多重に解釈される。
例えば、手工業者の守護聖人ブレーズの祝日に叛乱は起き、
ブランルという踊りが踊られる。
足に鈴をつけることで教会(鐘)の権威を地に落とし、
また、死や脱聖化を意味する。
とはいえむしろ、この叛乱は心性にどうこうというより、
この祝祭によって緊張関係が頂点に達したことで、
祝祭のコードが体よく利用された、かなり政治的な事件だっただけ、
という気もする(首領部はけっこう冷めている)。
もっとも、謝肉祭そのものが、見方によっては政治的・反動的なのだが。
だから物語展開は大江健三郎『万延元年のフットボール』とよく似た心地がした。
31.7.10
森鷗外『渋江抽斎』
「歴史そのまま」を標榜して晩年に書かれ、
評価の分かれる作品であることは云うに及ばず。
歴史とは、有象無象の事象の羅列が一本の物語として編集された形である以上、
それが「そのまま」として無為自然の顔をしているのは矛盾している。
ならば「歴史そのまま」ってのはどういうことなんだろう、
という疑問から、この作品を手に取ることにした。
語りは、鷗外が古書の蒐集の過程で
渋江の蔵書印の多いことに気づくところから始まり、
その末裔との接触など、渋江抽斎の生きた痕跡を調べる過程が綴られる。
続いて、抽斎とその周辺の人々の氏、名、号、職業、石高などと来歴が語られ、
そしてようやく、人と人が動いて繋がってゆく。
紀伝のような記述だと思った。
それは、遺された書物や日記から過去を再現するからなのだろう。
実際、抽斎の死後に時が下って、存命の人々の描写となると、
人物像や言動はかなり息づいてくる。
ただ、それがおもしろいかどうかは、本当に素材次第になるんじゃないか…。
実際、抽斎の生き様は小官僚みたいでそんなに惹かれなかったが、
その妻の五百の話は面白かった。
でもそれは題材に面白いが「偶然」もぐり込んだだけだ。
小説にこの偶然性が許されるのか? それはないだろう。
小説のみならず、「話」には起伏のなさは許されない。
それでよいのか、ということだ。
評価の分かれる作品であることは云うに及ばず。
歴史とは、有象無象の事象の羅列が一本の物語として編集された形である以上、
それが「そのまま」として無為自然の顔をしているのは矛盾している。
ならば「歴史そのまま」ってのはどういうことなんだろう、
という疑問から、この作品を手に取ることにした。
語りは、鷗外が古書の蒐集の過程で
渋江の蔵書印の多いことに気づくところから始まり、
その末裔との接触など、渋江抽斎の生きた痕跡を調べる過程が綴られる。
続いて、抽斎とその周辺の人々の氏、名、号、職業、石高などと来歴が語られ、
そしてようやく、人と人が動いて繋がってゆく。
紀伝のような記述だと思った。
それは、遺された書物や日記から過去を再現するからなのだろう。
実際、抽斎の死後に時が下って、存命の人々の描写となると、
人物像や言動はかなり息づいてくる。
ただ、それがおもしろいかどうかは、本当に素材次第になるんじゃないか…。
実際、抽斎の生き様は小官僚みたいでそんなに惹かれなかったが、
その妻の五百の話は面白かった。
でもそれは題材に面白いが「偶然」もぐり込んだだけだ。
小説にこの偶然性が許されるのか? それはないだろう。
小説のみならず、「話」には起伏のなさは許されない。
それでよいのか、ということだ。
29.7.10
中上健次『地の果て 至上の時』
すべてをお見通しの存在として君臨していた浜村龍造が弱まり、
他の登場人物が輝き出すという、多極化してばらばらになりそうな設定、
これを一本にまとめあげる力を、神話というのだろう。
秋幸と浜村龍造の立場の違いと同一性が浮き彫りにされながら、
終わり=円環の始まり に向かって進んでゆく一本の筋だけでは、
この厚みにはならない。
路地の消失と再現、開発の波、新興宗教、そして他の若い勢力の擡頭、
これらがどれ一つとっても濃い謂いを有していることが、
この厚みと、『枯木灘』に較べて一見遅い進行だ。
『百年の孤独』にまで神話的文学を求めなくとも、
本作が現代に神話を、あまりに現実が生々しい神話を、現出させている。
ヒントがささくれのようにあちこちに飛び出していて
どう分析してもおもしろい、だから当然ながら再読したくなる。
他の登場人物が輝き出すという、多極化してばらばらになりそうな設定、
これを一本にまとめあげる力を、神話というのだろう。
秋幸と浜村龍造の立場の違いと同一性が浮き彫りにされながら、
終わり=円環の始まり に向かって進んでゆく一本の筋だけでは、
この厚みにはならない。
路地の消失と再現、開発の波、新興宗教、そして他の若い勢力の擡頭、
これらがどれ一つとっても濃い謂いを有していることが、
この厚みと、『枯木灘』に較べて一見遅い進行だ。
『百年の孤独』にまで神話的文学を求めなくとも、
本作が現代に神話を、あまりに現実が生々しい神話を、現出させている。
ヒントがささくれのようにあちこちに飛び出していて
どう分析してもおもしろい、だから当然ながら再読したくなる。
25.7.10
綿矢りさ「勝手にふるえてろ」、松本人志『しんぼる』
綿矢りさ「勝手にふるえてろ」
イチ(一宮)という、『蹴りたい背中』の蜷川に似た男子が出てきて、
主題もあんまり変わらない。
ただ、主人公が社会人になることによる
ありきたりな人間関係の諸問題が搦められる。
粗筋は非常に簡単。
イチといういじられキャラに恋したまま大人になった内気な女の子が
ニという別の平凡な男と付き合うのをようやく納得するまでの話だ。
世の凡百な人物像をネット検索で見つけて
そのまま持ってきたような登場人物はまぁさておき、
独白体で書かれた小説における主人公の思考の凡庸さは致命的だ。
文章が綴る感情を読まなくとも、そう考えてるんだろうな、ってのが読めちゃう。
だから、真剣に吐露されても、ふーん、って感じだし、
クライマックスもあまりカタルシス的には働かない。
ここまで書いてて、ほんとに自分は
綿矢りさのような狭く完結した小説は嫌いなんだなと思う。
井の中の蛙のような題材が世界をどのようであれ表象していること、
それが小説ってもんだろう。
日常を描くにしても、例えば保坂和志みたいな切り取り方がある。
ちょっと雑感。
平野啓一郎『顔のない裸体たち』を読んで、
傍系がない、という感想を抱いたのと同じ理由だが、
短篇に一本のストーリーを盛られ、
想部がストーリーの大きな下支えとなっている場合、
登場人物がほんとにそれだけの経験しかしてない哀れな方々、になってしまい、
厚みがないというか、読み応えがあんましなくなるきらいがあるような気がする。
枚数ゆえにそう思わせないほど細部を描けない、というのはあるかもしれないが、
回想ってのは要は、意味付けされて編集された過去、であって、
過去そのものではないから、なのだろう。
松本人志『しんぼる』
「で?」って感じ。
印象批評はいろいろできそうだけどね。
イチ(一宮)という、『蹴りたい背中』の蜷川に似た男子が出てきて、
主題もあんまり変わらない。
ただ、主人公が社会人になることによる
ありきたりな人間関係の諸問題が搦められる。
粗筋は非常に簡単。
イチといういじられキャラに恋したまま大人になった内気な女の子が
ニという別の平凡な男と付き合うのをようやく納得するまでの話だ。
世の凡百な人物像をネット検索で見つけて
そのまま持ってきたような登場人物はまぁさておき、
独白体で書かれた小説における主人公の思考の凡庸さは致命的だ。
文章が綴る感情を読まなくとも、そう考えてるんだろうな、ってのが読めちゃう。
だから、真剣に吐露されても、ふーん、って感じだし、
クライマックスもあまりカタルシス的には働かない。
ここまで書いてて、ほんとに自分は
綿矢りさのような狭く完結した小説は嫌いなんだなと思う。
井の中の蛙のような題材が世界をどのようであれ表象していること、
それが小説ってもんだろう。
日常を描くにしても、例えば保坂和志みたいな切り取り方がある。
ちょっと雑感。
平野啓一郎『顔のない裸体たち』を読んで、
傍系がない、という感想を抱いたのと同じ理由だが、
短篇に一本のストーリーを盛られ、
想部がストーリーの大きな下支えとなっている場合、
登場人物がほんとにそれだけの経験しかしてない哀れな方々、になってしまい、
厚みがないというか、読み応えがあんましなくなるきらいがあるような気がする。
枚数ゆえにそう思わせないほど細部を描けない、というのはあるかもしれないが、
回想ってのは要は、意味付けされて編集された過去、であって、
過去そのものではないから、なのだろう。
松本人志『しんぼる』
「で?」って感じ。
印象批評はいろいろできそうだけどね。
8.7.10
ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』、平野啓一郎『顔のない裸体たち』
・ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』
移動の軸線に気を配って書いたという作者自身のあとがきからもわかるが、
とにかく放浪彷徨、移動が多い。
主人公H・Hが旧世界からの移民だし、
二度の結婚を経てロリータとのボヘミアン生活もそう。
旧世界では移動はその土地々々の意味を帯び過ぎてしまう。
新世界の未開の荒野だからこそ、
移動はノスタルジックな単なる空虚さに荒ぶのだ。
ニンフェット崇拝がいつの間にかロリータ固執に変じるのは
やはりH・Hが過去のみを向いた人間だからだろう。
それが物語、云い換えればアイデンティティとなる。
だから、物語はいつの間にかわずか三日という綻びを来して
現実と虚構の区別が曖昧になっても、なお終局を求めて走る。
・平野啓一郎『顔のない裸体たち』
読み物としては面白いけれど、題材といい人物のつくりといい、
当世もっともらしくて当たり障りがないと思った。
観念で物語を執拗に引っぱった感じ。
それゆえ描写は澱まず蛇行せずに粗筋をなぞってゆくし、
あまり印象に残る場面がない。
移動の軸線に気を配って書いたという作者自身のあとがきからもわかるが、
とにかく放浪彷徨、移動が多い。
主人公H・Hが旧世界からの移民だし、
二度の結婚を経てロリータとのボヘミアン生活もそう。
旧世界では移動はその土地々々の意味を帯び過ぎてしまう。
新世界の未開の荒野だからこそ、
移動はノスタルジックな単なる空虚さに荒ぶのだ。
ニンフェット崇拝がいつの間にかロリータ固執に変じるのは
やはりH・Hが過去のみを向いた人間だからだろう。
それが物語、云い換えればアイデンティティとなる。
だから、物語はいつの間にかわずか三日という綻びを来して
現実と虚構の区別が曖昧になっても、なお終局を求めて走る。
・平野啓一郎『顔のない裸体たち』
読み物としては面白いけれど、題材といい人物のつくりといい、
当世もっともらしくて当たり障りがないと思った。
観念で物語を執拗に引っぱった感じ。
それゆえ描写は澱まず蛇行せずに粗筋をなぞってゆくし、
あまり印象に残る場面がない。
5.7.10
アラン・レネ『去年マリエンバートで』、マーティン・スコセッシ『タクシードライバー』
アラン・レネ『去年マリエンバートで』
ちょっとわからない。
ストーリーもわからなかったし、
どこがどう折れ曲がり、過去と現在が切れているのか、
わからなかった。
何年か前に観た『ミュリエル』にしても、レネはちょっと苦手。
マーティン・スコセッシ『タクシードライバー』
やり場のない焦燥と怒りの気だるい雰囲気が、
タクシーのフロントガラスにゆるゆると過ぎ去る歓楽街の夜景、
サックスのゆるいBGMと、よく溶けあっている。
けだるい中、別に何も起きない。
ふられた女の子が選挙事務所だから次期大統領候補を暗殺しようとし、
たまたま売春する少女を見つけたから救い出そうとヒーローめく。
しかし筋書き通りにはいかず、物語は始まらない。
意味を見出だすための映画ではなく、
空っぽになった主人公に自分の姿を見出だすための映画。
矛先を一点に定めると大島渚みたいになりそうだけど、
おそらく主人公にはそんな気概はかけらも残っていない。
ちょっとわからない。
ストーリーもわからなかったし、
どこがどう折れ曲がり、過去と現在が切れているのか、
わからなかった。
何年か前に観た『ミュリエル』にしても、レネはちょっと苦手。
マーティン・スコセッシ『タクシードライバー』
やり場のない焦燥と怒りの気だるい雰囲気が、
タクシーのフロントガラスにゆるゆると過ぎ去る歓楽街の夜景、
サックスのゆるいBGMと、よく溶けあっている。
けだるい中、別に何も起きない。
ふられた女の子が選挙事務所だから次期大統領候補を暗殺しようとし、
たまたま売春する少女を見つけたから救い出そうとヒーローめく。
しかし筋書き通りにはいかず、物語は始まらない。
意味を見出だすための映画ではなく、
空っぽになった主人公に自分の姿を見出だすための映画。
矛先を一点に定めると大島渚みたいになりそうだけど、
おそらく主人公にはそんな気概はかけらも残っていない。
3.7.10
石川啄木『時代閉塞の現状・食うべき詩』
岩波文庫版。啄木の論評が時代順に編まれ、
彼の思想の変遷がよくわかる。
啄木がいかに愚直かつ鋭く、文学について、
そして時代について考えていたか、
非常に心打たれた。
まず、閉塞感に啄木自身が取り憑かれている。
浪漫主義は「弱い心の所産である」と知っていながら、
少年雑誌から懐かしさを覚えて自らを慰撫したり、
自然主義の虚無感に対抗しようとしつつ、
何を以て対抗できるか見出だせない。
しかし、「時代閉塞の現状」において、
啄木は自然主義=時代閉塞の原因を、制度の成熟と欠陥に見出だした。
制度が精密に閉じたときにこそ、欠陥は多く浮き彫りになる。
そこから目を逸らすために幸徳事件が喧伝されると云う国家の手続きから、
啄木は時代閉塞に立ち向かう糸口を発見した。
制度の成熟と時代閉塞は、世界史的にも歩みを同じくしている。
古くは、第二次産業革命が全土に及んだ後、ヴィクトリア朝の後期のイギリス。
日本では、明治維新の一段落した啄木の明治末のほか、
大正デモクラシー後の二次大戦前、そしてバブル後の現在。
近代以降に集中するのは、制度というものが
ネーションに敷衍されての時代閉塞だからだろう。
彼の思想の変遷がよくわかる。
啄木がいかに愚直かつ鋭く、文学について、
そして時代について考えていたか、
非常に心打たれた。
まず、閉塞感に啄木自身が取り憑かれている。
浪漫主義は「弱い心の所産である」と知っていながら、
少年雑誌から懐かしさを覚えて自らを慰撫したり、
自然主義の虚無感に対抗しようとしつつ、
何を以て対抗できるか見出だせない。
しかし、「時代閉塞の現状」において、
啄木は自然主義=時代閉塞の原因を、制度の成熟と欠陥に見出だした。
制度が精密に閉じたときにこそ、欠陥は多く浮き彫りになる。
そこから目を逸らすために幸徳事件が喧伝されると云う国家の手続きから、
啄木は時代閉塞に立ち向かう糸口を発見した。
制度の成熟と時代閉塞は、世界史的にも歩みを同じくしている。
古くは、第二次産業革命が全土に及んだ後、ヴィクトリア朝の後期のイギリス。
日本では、明治維新の一段落した啄木の明治末のほか、
大正デモクラシー後の二次大戦前、そしてバブル後の現在。
近代以降に集中するのは、制度というものが
ネーションに敷衍されての時代閉塞だからだろう。
1.7.10
フィリップ・ロス『いつわり』
徹頭徹尾が男女の対話になっていて、
行間を読むという小説の愉しみが出歯亀的面白さと渾然一体。
結末の、物語全体の結論の持ってゆき方は、
小説論のようになっていながらも、
男女の奥ゆかしい駆け引きでもある。
会話そのものが実際になされたのか、
それともいつわりだったのか、といった塩梅。
その両極端のどの中間点をとっても解釈できそうな
巧妙な物語、なのかもしれないし、
出来事ではなくそれを解釈で濾過したものとしての話し言葉の堆積だから
そのように宙ぶらりんに事実から乖離できる、のかもしれない。
不思議な、しかし心地よい、見知らぬ表現型式だった。
行間を読むという小説の愉しみが出歯亀的面白さと渾然一体。
結末の、物語全体の結論の持ってゆき方は、
小説論のようになっていながらも、
男女の奥ゆかしい駆け引きでもある。
会話そのものが実際になされたのか、
それともいつわりだったのか、といった塩梅。
その両極端のどの中間点をとっても解釈できそうな
巧妙な物語、なのかもしれないし、
出来事ではなくそれを解釈で濾過したものとしての話し言葉の堆積だから
そのように宙ぶらりんに事実から乖離できる、のかもしれない。
不思議な、しかし心地よい、見知らぬ表現型式だった。
28.6.10
鈴木博之『東京の地霊(ゲニウス・ロキ)』
東京のいくつかのまとまった土地の由縁を語る、というもの。
所有者や利用の変遷を時系列に沿って云々すれば、
その土地を透かして時代そのものの流れがおのずと垣間見える。
読み物としてはなかなか面白かったし、
やはり東京は千代田城=皇居あっての物種なんだな、と思った。
バルトの云ったような、空洞を持つ東京像だ。
だからといって、ことさらちょっとした名所を取り立てて、
やれ強い土地だの弱い土地だの、ゲニウス・ロキだのとあげつらうのは、
正直云ってどうかと思った。
「こんな素晴らしい由緒ある土地を自分は歩いているんだ!」という
貴種流離譚の亜種のような、御上に跪いて喜ぶ凡人のような根性が
垣間見えた気がして、なんかちょっと珍奇な心地がした。
時代を経ている限り、何にでも由縁はある。
だからといって、それを必要以上に尊ぶような真似事を始めれば、
あらゆるものに縁起のタグを貼付けなければならないし、
本来自由であるはずの行く末を雁字搦めにしかねない。
そうして附属物に覆われた世界をまともに見るために、
やがて「現象そのものへ!」とフッサールみたいなことを叫ばなければいけなくなる。
まぁ、人の目というものは、何かを知覚しているようで
実は何もまともに視ていないということの一事例か。
所有者や利用の変遷を時系列に沿って云々すれば、
その土地を透かして時代そのものの流れがおのずと垣間見える。
読み物としてはなかなか面白かったし、
やはり東京は千代田城=皇居あっての物種なんだな、と思った。
バルトの云ったような、空洞を持つ東京像だ。
だからといって、ことさらちょっとした名所を取り立てて、
やれ強い土地だの弱い土地だの、ゲニウス・ロキだのとあげつらうのは、
正直云ってどうかと思った。
「こんな素晴らしい由緒ある土地を自分は歩いているんだ!」という
貴種流離譚の亜種のような、御上に跪いて喜ぶ凡人のような根性が
垣間見えた気がして、なんかちょっと珍奇な心地がした。
時代を経ている限り、何にでも由縁はある。
だからといって、それを必要以上に尊ぶような真似事を始めれば、
あらゆるものに縁起のタグを貼付けなければならないし、
本来自由であるはずの行く末を雁字搦めにしかねない。
そうして附属物に覆われた世界をまともに見るために、
やがて「現象そのものへ!」とフッサールみたいなことを叫ばなければいけなくなる。
まぁ、人の目というものは、何かを知覚しているようで
実は何もまともに視ていないということの一事例か。
27.6.10
リチャード・パワーズ『囚人のジレンマ』
前作と同じく、三部同時進行の構成となっている。
しかし、それらは意を翳めつつ一本には収斂しないところが、
前作との最大の違いであり、かつ、本書の難解さだろう。
ゲーム理論の基本モデルそのまんまのわかりやすいタイトルとは裏腹。
ウォルト・ディズニーの夢のある虚構の話が、一つの通気口となっている。
むしろ、それがないことには、病める父の過去を遡行することは出来ないし、
家族内での囚人のジレンマ状態が続いた。
そして、ディズニーの話における囚人のジレンマは、
日系人収容の閉塞を打ち砕くことぐらいしか現れていない。
そこに大きく打ち立てられるのは、
信頼しあうことの絶対的必要性という陽と、
その信頼が実は完全なる虚構だという陰。
そのことに気づくとともに父親を失った家族には、
囚人のジレンマ状態を打ち破った成果としての家庭的な暖かみが残る…?
なんか保守的だなぁ。
あんまり生産的な結末じゃない気がしてしまった。
しかし、それらは意を翳めつつ一本には収斂しないところが、
前作との最大の違いであり、かつ、本書の難解さだろう。
ゲーム理論の基本モデルそのまんまのわかりやすいタイトルとは裏腹。
ウォルト・ディズニーの夢のある虚構の話が、一つの通気口となっている。
むしろ、それがないことには、病める父の過去を遡行することは出来ないし、
家族内での囚人のジレンマ状態が続いた。
そして、ディズニーの話における囚人のジレンマは、
日系人収容の閉塞を打ち砕くことぐらいしか現れていない。
そこに大きく打ち立てられるのは、
信頼しあうことの絶対的必要性という陽と、
その信頼が実は完全なる虚構だという陰。
そのことに気づくとともに父親を失った家族には、
囚人のジレンマ状態を打ち破った成果としての家庭的な暖かみが残る…?
なんか保守的だなぁ。
あんまり生産的な結末じゃない気がしてしまった。
26.6.10
根岸吉太郎『ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜』、ジャン=ジャック・アノー『愛人/ラマン』
根岸吉太郎『ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜』
佐知、もてすぎなのに一途で、出来過ぎてるよなぁ。
最後に加えられたさくらんぼは短篇「桜桃」の主題で、
もっと場末で汚らしく描けばもっと良かったのに、と思った。
全体的にシーンが小綺麗だ。もっと土ぼこりの匂いのする光景がよかった。
広末涼子演じる秋子のぴらぴらな妖艶さが、なんかよかった。
ジャン=ジャック・アノー『愛人/ラマン』
恥ずかしながらデュラスの原作が未読のままに観た。
揺れる心のひだまで透かすような、綺麗な物語の進みだった。
下の兄が泣きながらピアノを弾き、
上の兄がジェーン・マーチを売女と責める場面の最後、
Salope! という科白でカットが入るのが印象的だった。
阿片を吸う梁家輝の変わり果てた目の曇りも。
佐知、もてすぎなのに一途で、出来過ぎてるよなぁ。
最後に加えられたさくらんぼは短篇「桜桃」の主題で、
もっと場末で汚らしく描けばもっと良かったのに、と思った。
全体的にシーンが小綺麗だ。もっと土ぼこりの匂いのする光景がよかった。
広末涼子演じる秋子のぴらぴらな妖艶さが、なんかよかった。
ジャン=ジャック・アノー『愛人/ラマン』
恥ずかしながらデュラスの原作が未読のままに観た。
揺れる心のひだまで透かすような、綺麗な物語の進みだった。
下の兄が泣きながらピアノを弾き、
上の兄がジェーン・マーチを売女と責める場面の最後、
Salope! という科白でカットが入るのが印象的だった。
阿片を吸う梁家輝の変わり果てた目の曇りも。
22.6.10
村上春樹『1Q84 Book3』
面白かったので、二、三日で一気に読み通した。
ただし、単に物語に没頭したわけではなく、
一方で物語性と文体について考えていた。
村上春樹の文体の特徴は、あまり必要なく付け足された挿入句だ、ということ。
アガンベン『スタンツェ』にて取り上げられた洒落男ブランメルと酷似している。
それを私は長い間、他者性の欠如と考えていた。
まだそう思っているが、今ではその文体はむしろ、余裕やくつろぎに思われる。
本作を読んで一縷の光と見えたのは、
その他者性なき文体が「敵側」たる牛河の語りをも始めたからだった。
しかし、それはあまり関係ないまま了った。
物語性、とここで書くのは、柄谷行人の「構成力」というもののこと。
時代性を相対化する庄司薫の意志を継いだ初期中篇二作からは、
遥かに遠いところに来たという気がした。
しかし、本当にそうなのだろうか。
むしろ、その精神は強固にされて再生されたのではないか。
現代という、よくわからないけれど渾沌とした闇を、
濾過して具現化されたものが、リトル・ピープルであり、
新興宗教=NHKという、いわばサーバ型ネットワークのような
鍋蓋式の階層システムなのだ。
これからの物語の運びが楽しみ。
それは、物語・歴史という虚構マトリクスを一度括弧に入れるような
冷めた見方からしても、そうだ。
ただし、単に物語に没頭したわけではなく、
一方で物語性と文体について考えていた。
村上春樹の文体の特徴は、あまり必要なく付け足された挿入句だ、ということ。
アガンベン『スタンツェ』にて取り上げられた洒落男ブランメルと酷似している。
それを私は長い間、他者性の欠如と考えていた。
まだそう思っているが、今ではその文体はむしろ、余裕やくつろぎに思われる。
本作を読んで一縷の光と見えたのは、
その他者性なき文体が「敵側」たる牛河の語りをも始めたからだった。
しかし、それはあまり関係ないまま了った。
物語性、とここで書くのは、柄谷行人の「構成力」というもののこと。
時代性を相対化する庄司薫の意志を継いだ初期中篇二作からは、
遥かに遠いところに来たという気がした。
しかし、本当にそうなのだろうか。
むしろ、その精神は強固にされて再生されたのではないか。
現代という、よくわからないけれど渾沌とした闇を、
濾過して具現化されたものが、リトル・ピープルであり、
新興宗教=NHKという、いわばサーバ型ネットワークのような
鍋蓋式の階層システムなのだ。
これからの物語の運びが楽しみ。
それは、物語・歴史という虚構マトリクスを一度括弧に入れるような
冷めた見方からしても、そうだ。
12.6.10
福永信『コップとコッペパンとペン』、レティシア・コロンバニ『愛してる、愛してない…』/上演阻止デモ
○福永信『コップとコッペパンとペン』
行為や状況が、その意味する裏を読めないまま、延々と羅列される。
さながら内田百閒の短篇のよう。
だから、物語が始めろうとしているとも、始まっているのかも、わからない。
それでいて状況は進行し、それなりにいろいろ起きて時間は経過している。
かなり印象論だけれど、
都市あるいは郊外にぽつんと取り残された一人一人が
その孤独を意識しながらおっかなびっくり人と繋がりを試みているような、
だから何かよくわからない暖かさと不安が入り雑じっている読後感がある。
この不思議な感触は、2002年の「文學界」で表題作を読んだときから変わらない。
砕かれた物語を、新たな時代の手で繋ぎあわせてゆくような
ゼロ世代、って感じの大いにある小説だと思っている。
Z文学賞という、パロディなのかれっきとした賞なのか、
そんなよくわからない形でしか評価はされていないみたいだけど…。
でも、大化けするならこの作家(か青木淳悟)であってほしい。
○レティシア・コロンバニ『愛してる、愛してない…』
オドレイ・トトゥ演じるアンジェリクと、その不倫相手のロイックとの
進展しそうでしない関係にやきもきしているうちに、
観客は事の真相を次第に明かされる。
この見事な視点のすり替え!
アンジェリクの一途さが、やがてどんどん不気味になってゆく。
後味としては、ホラーと同じといって差し支えまい。
さながら、メディアの情報操作というか、捏造、の実例だった。
そう読み取った自分は、おそらく穿っていたのかもしれない。
でも、そう読まれることに充分に耐える作品だし、
その意味でも確信をついているところがある。
----
『ザ・コーブ』の上演阻止の中継を、昼の1〜2時間ほど見ていた。
伊勢佐木町だったから行けばよかったんだけど、
逆に中継で映画館支配人のインタビューが聞けた。
淡々としてて好印象ってのも素朴にあったけど、
「上映してるからって即座に国賊とか云われるのは、
私だって日本人ですから、悲しくなりますよね」っていう発言なんかは、
阻止側の脳内にあるのだろう愛国vs左翼の二項対立が
いかに単純な幻想なのかを、よく表していた。
撮影の経緯や、もちろん題材の是非はあれ、
反対か賛成か議論するにはまず観なければ始まらないのに、
それを阻止するというこのムラ社会状態に、非常に懸念を覚える。
議論で堂々と渉りあうという手段をはなから無視して
阻止というゲリラ的な手法に出るという専制的な短絡さもあるし、
それで実際に上映を中止してしまう映画館の存在も、かなりイタい。
彼らの感情って、おそらく、
「ガイジンに土足で踏み込まれて勝手に撮影された」
ことが我慢ならないんであって、
その内容はあまり何でも良いんじゃないか…。
『YASUKUNI』にときもそうだが、監督は日本人じゃないし、
その見方が批判的であることに、というか冷めていることに、
我慢ならないんじゃないだろうか
(『買ってはいけない!』は発売禁止も自粛もなかった)。
逆に云えば、おそらく上映阻止側の人々ってのは、
とにかく何かにすがって熱狂していたいんだと思う。
今はちょうど、日の丸にすがるのが大義名分的にちょうど良い、と
まぁ、そういうことなのだろうよ。
にしても、日本人ってのは本当に国外からの目に弱いんだな、と思う。
映画自体は大したことがないのは、
もはや食用文化の廃れつつあるクジラより
さらに消費量が少ないことからもわかるし、
よって、映画のせいで風評被害で経済的にどうのこうの、というのは
ほとんど皆無だと、容易に想像はつくからだ。
その意味では、『スーパー・サイズ・ミー』なんかのほうが
はるかに影響力があっただろう。
『ザ・コーブ』も、ほっとけばよいのに
アナフィラキシーかっていうくらい過剰な反応をして、
逆に世界に日本のムラ社会性をアピールしてしまっている始末だ。
行為や状況が、その意味する裏を読めないまま、延々と羅列される。
さながら内田百閒の短篇のよう。
だから、物語が始めろうとしているとも、始まっているのかも、わからない。
それでいて状況は進行し、それなりにいろいろ起きて時間は経過している。
かなり印象論だけれど、
都市あるいは郊外にぽつんと取り残された一人一人が
その孤独を意識しながらおっかなびっくり人と繋がりを試みているような、
だから何かよくわからない暖かさと不安が入り雑じっている読後感がある。
この不思議な感触は、2002年の「文學界」で表題作を読んだときから変わらない。
砕かれた物語を、新たな時代の手で繋ぎあわせてゆくような
ゼロ世代、って感じの大いにある小説だと思っている。
Z文学賞という、パロディなのかれっきとした賞なのか、
そんなよくわからない形でしか評価はされていないみたいだけど…。
でも、大化けするならこの作家(か青木淳悟)であってほしい。
○レティシア・コロンバニ『愛してる、愛してない…』
オドレイ・トトゥ演じるアンジェリクと、その不倫相手のロイックとの
進展しそうでしない関係にやきもきしているうちに、
観客は事の真相を次第に明かされる。
この見事な視点のすり替え!
アンジェリクの一途さが、やがてどんどん不気味になってゆく。
後味としては、ホラーと同じといって差し支えまい。
さながら、メディアの情報操作というか、捏造、の実例だった。
そう読み取った自分は、おそらく穿っていたのかもしれない。
でも、そう読まれることに充分に耐える作品だし、
その意味でも確信をついているところがある。
----
『ザ・コーブ』の上演阻止の中継を、昼の1〜2時間ほど見ていた。
伊勢佐木町だったから行けばよかったんだけど、
逆に中継で映画館支配人のインタビューが聞けた。
淡々としてて好印象ってのも素朴にあったけど、
「上映してるからって即座に国賊とか云われるのは、
私だって日本人ですから、悲しくなりますよね」っていう発言なんかは、
阻止側の脳内にあるのだろう愛国vs左翼の二項対立が
いかに単純な幻想なのかを、よく表していた。
撮影の経緯や、もちろん題材の是非はあれ、
反対か賛成か議論するにはまず観なければ始まらないのに、
それを阻止するというこのムラ社会状態に、非常に懸念を覚える。
議論で堂々と渉りあうという手段をはなから無視して
阻止というゲリラ的な手法に出るという専制的な短絡さもあるし、
それで実際に上映を中止してしまう映画館の存在も、かなりイタい。
彼らの感情って、おそらく、
「ガイジンに土足で踏み込まれて勝手に撮影された」
ことが我慢ならないんであって、
その内容はあまり何でも良いんじゃないか…。
『YASUKUNI』にときもそうだが、監督は日本人じゃないし、
その見方が批判的であることに、というか冷めていることに、
我慢ならないんじゃないだろうか
(『買ってはいけない!』は発売禁止も自粛もなかった)。
逆に云えば、おそらく上映阻止側の人々ってのは、
とにかく何かにすがって熱狂していたいんだと思う。
今はちょうど、日の丸にすがるのが大義名分的にちょうど良い、と
まぁ、そういうことなのだろうよ。
にしても、日本人ってのは本当に国外からの目に弱いんだな、と思う。
映画自体は大したことがないのは、
もはや食用文化の廃れつつあるクジラより
さらに消費量が少ないことからもわかるし、
よって、映画のせいで風評被害で経済的にどうのこうの、というのは
ほとんど皆無だと、容易に想像はつくからだ。
その意味では、『スーパー・サイズ・ミー』なんかのほうが
はるかに影響力があっただろう。
『ザ・コーブ』も、ほっとけばよいのに
アナフィラキシーかっていうくらい過剰な反応をして、
逆に世界に日本のムラ社会性をアピールしてしまっている始末だ。
11.6.10
フアン・ルルフォ『燃える平原』
短篇集。
地の文、なんてものはほとんどなくて、
常に誰かの口調が物語を喋る。
それが二重鍵括弧になったり、どこからともなく別の声が割り入ったりして、
多重音声が物語を進める。
その技巧を駆使したのは『ペドロ・パラモ』で、
この短篇はその文体の編曲と云うか、萌芽を感じられる。
かくして得られる、土着が物語る、という独特の雰囲気は、
ラテンアメリカ文学のマジックリアリズムの鼻祖としてうべなるかな。
メキシコ革命頃の殺伐とした雰囲気にまず目がいくが、
国なんてない、村や集落のような共同体のみが人の生活圏だった時代が、
かなりなまなましく描かれているように思った。
だから、深沢七郎『楢山節考』を髣髴とさせたが、
そんなに上品ではなく、人はどんどん殺しあって死ぬし、
ムラっぽい縁の結びつきの美徳というより、
縁に雁字搦めになりながら蟻のように小さく逞しい生き様、という感じ。
これをもっと濃密に物語にしたのが、
後を継いだガルシア=マルケスだったりするんじゃないか。
地の文、なんてものはほとんどなくて、
常に誰かの口調が物語を喋る。
それが二重鍵括弧になったり、どこからともなく別の声が割り入ったりして、
多重音声が物語を進める。
その技巧を駆使したのは『ペドロ・パラモ』で、
この短篇はその文体の編曲と云うか、萌芽を感じられる。
かくして得られる、土着が物語る、という独特の雰囲気は、
ラテンアメリカ文学のマジックリアリズムの鼻祖としてうべなるかな。
メキシコ革命頃の殺伐とした雰囲気にまず目がいくが、
国なんてない、村や集落のような共同体のみが人の生活圏だった時代が、
かなりなまなましく描かれているように思った。
だから、深沢七郎『楢山節考』を髣髴とさせたが、
そんなに上品ではなく、人はどんどん殺しあって死ぬし、
ムラっぽい縁の結びつきの美徳というより、
縁に雁字搦めになりながら蟻のように小さく逞しい生き様、という感じ。
これをもっと濃密に物語にしたのが、
後を継いだガルシア=マルケスだったりするんじゃないか。
6.6.10
ジェイク・クレネル『大阪恋泥棒』、ポール・オースター『幽霊たち』
映画と小説を一つずつ。
どちらも、作用反作用の法則が人間関係に露になっているような、
そんな作品だった、というのが、印象論だけど感想。
要は、構造は単純なんだけど大いなる謎、みたいなところ。
○ジェイク・クレネル『大阪恋泥棒』
タイトルはふざけているが、ドキュメンタリー。
そのふざけた感じを地で行く、つまり、
生々しい映像を虚構だと笑い飛ばせない戦慄が、
この映画にはあった。
日本では公開されていない。
もっとも、制作国イギリスでも劇場ではなく
Google Videoに公開されたらしい。
ミナミのあるホストクラブのホスト達へのインタビューと、
客達へのインタビューが、クラブ内の"日常"の断片で紡がれる。
夢を売る、人は弱い、癒しを求める、愛、云々、が
まるで道徳の教科書を要約したように語られ、消費される。
ホストの一人に思い入れて通い詰め、
それをどこまでもはぐらかしながら通わせ、払わせる。
「大体の子はいくつものクラブに通って、
それぞれの所で誰かに熱を上げている」、
というのが、考えればそりゃあり得そうだと気づくことだけれども、
改めて気づかされ、驚かされた。
この人、と品定めをして惚れ込む、という行為すら、
もはや代替可能な商品なのだ。
嘘みたいに単純な心理戦なのに、
把握可能なほど単純であるにもかかわらず、
その構図を巡って一晩に何百万円がやりとりされる、
このことに何より驚いた。呆れられもしない。
客層はほとんどが風俗関係らしい。
風俗へ流れてホストへ貢がれる金額の出所は、
昼の社会の抑圧=ストレスだ。
サラリーマン達を癒す女性達をホストが癒す。
孤独を切り詰めて働きあい、散財し、そして溺れるスパイラル。
○ポール・オースター『幽霊たち』
登場人物が「定義」される出だしは、クンデラっぽいと思った。
しかし読み進めるとベケットで、着地はカフカだった。
物語の終わったあとに、人はどうできるんだ、ということを考えさせられる。
記憶喪失の人のエピソードとか、自分が誰かわからなくなる混乱とか、
ブラックが妙に文学者のエピソードに入れ込んでいるか、とか。
過去から現在、そして未来までを一本に貫いて説明したいのだ、人は。
それがアイデンティティだからね。
でも人物というのは、細部と風景だけ細かくて、
しかし一色に塗られた影なのだ。
しかもブラックとブルーは完全に重複して、同じ経路を辿る。
文章が散文詩っぽいから、ぐいぐい読めるし、面白かった。
どちらも、作用反作用の法則が人間関係に露になっているような、
そんな作品だった、というのが、印象論だけど感想。
要は、構造は単純なんだけど大いなる謎、みたいなところ。
○ジェイク・クレネル『大阪恋泥棒』
タイトルはふざけているが、ドキュメンタリー。
そのふざけた感じを地で行く、つまり、
生々しい映像を虚構だと笑い飛ばせない戦慄が、
この映画にはあった。
日本では公開されていない。
もっとも、制作国イギリスでも劇場ではなく
Google Videoに公開されたらしい。
ミナミのあるホストクラブのホスト達へのインタビューと、
客達へのインタビューが、クラブ内の"日常"の断片で紡がれる。
夢を売る、人は弱い、癒しを求める、愛、云々、が
まるで道徳の教科書を要約したように語られ、消費される。
ホストの一人に思い入れて通い詰め、
それをどこまでもはぐらかしながら通わせ、払わせる。
「大体の子はいくつものクラブに通って、
それぞれの所で誰かに熱を上げている」、
というのが、考えればそりゃあり得そうだと気づくことだけれども、
改めて気づかされ、驚かされた。
この人、と品定めをして惚れ込む、という行為すら、
もはや代替可能な商品なのだ。
嘘みたいに単純な心理戦なのに、
把握可能なほど単純であるにもかかわらず、
その構図を巡って一晩に何百万円がやりとりされる、
このことに何より驚いた。呆れられもしない。
客層はほとんどが風俗関係らしい。
風俗へ流れてホストへ貢がれる金額の出所は、
昼の社会の抑圧=ストレスだ。
サラリーマン達を癒す女性達をホストが癒す。
孤独を切り詰めて働きあい、散財し、そして溺れるスパイラル。
○ポール・オースター『幽霊たち』
登場人物が「定義」される出だしは、クンデラっぽいと思った。
しかし読み進めるとベケットで、着地はカフカだった。
物語の終わったあとに、人はどうできるんだ、ということを考えさせられる。
記憶喪失の人のエピソードとか、自分が誰かわからなくなる混乱とか、
ブラックが妙に文学者のエピソードに入れ込んでいるか、とか。
過去から現在、そして未来までを一本に貫いて説明したいのだ、人は。
それがアイデンティティだからね。
でも人物というのは、細部と風景だけ細かくて、
しかし一色に塗られた影なのだ。
しかもブラックとブルーは完全に重複して、同じ経路を辿る。
文章が散文詩っぽいから、ぐいぐい読めるし、面白かった。
4.6.10
丸谷才一『たった一人の反乱』
その一人は誰を指すのか、というより、
大衆が群れていながらもみんな一人一人で小さく勝手にやってる、
という感じの印象を受けた。
通産省の元キャリアで防衛庁への出向を断り
歳の離れたモデルの22歳と付き合ったあげく結婚した主人公もそうだし、
若くて血の気の多い写真家もそうだし、
何十年もひっそり女中をした後に袂を分かった女中もそうだし、
舅の助教授も、出戻りの義理の祖母も。
面白かった。波瀾万丈があり、それぞれの登場人物が生き生きとして。
物語、読み物、としてはね。
ただ、まぁ、至って真面目なんだよな。
婚外交渉にしろ通産省官僚の防衛庁出向を断るにしろ、
世に問いかけながらも吟味に手を抜かない手筈の良さというか。
そして、種々のエピソードが纏め上げられるキーワードが
市民と時計、なんだから、王道というか意外性のない学術書というか。
そこは良くも悪くも、昭和40年代の純文学長篇小説、という趣き。
福田章二が庄司薫名義として発表した処女作が、
いかに世に背を向けていると批判されたか、よくわかろうというもの。
大衆が群れていながらもみんな一人一人で小さく勝手にやってる、
という感じの印象を受けた。
通産省の元キャリアで防衛庁への出向を断り
歳の離れたモデルの22歳と付き合ったあげく結婚した主人公もそうだし、
若くて血の気の多い写真家もそうだし、
何十年もひっそり女中をした後に袂を分かった女中もそうだし、
舅の助教授も、出戻りの義理の祖母も。
面白かった。波瀾万丈があり、それぞれの登場人物が生き生きとして。
物語、読み物、としてはね。
ただ、まぁ、至って真面目なんだよな。
婚外交渉にしろ通産省官僚の防衛庁出向を断るにしろ、
世に問いかけながらも吟味に手を抜かない手筈の良さというか。
そして、種々のエピソードが纏め上げられるキーワードが
市民と時計、なんだから、王道というか意外性のない学術書というか。
そこは良くも悪くも、昭和40年代の純文学長篇小説、という趣き。
福田章二が庄司薫名義として発表した処女作が、
いかに世に背を向けていると批判されたか、よくわかろうというもの。
31.5.10
フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』
時間と登場人物が交錯し、円環する。
こんなに不思議で神秘的で神話的で構造的で冷徹な小説は、読んだことがない。
一人称がどんどん入れ替わり、思い出を語り、思い出はさらに過去を語る。
声と過去が層を織りなし、それが生きられた歴史なのか、みないなくなった残滓なのか。
とにかく物悲しい。そして、これは文学だと思った。
街にいた神父が叛乱軍に加わり街を見捨てた、という語りは、物語の円環においても
暴力的な外部として、決定的に状況をずらす。
その下りは非常に胸を打った。
神父だけではない、みな悩んで悔いて、考え、語りあい、そしてずるずると朽ちてゆく。
一生懸命に朽ちてゆくのだ。
街からは誰もが消えて、影と声だけを発する死者たちが残される。
何度か読まねば。ちょっとまだわかりかねている。
こんなに不思議で神秘的で神話的で構造的で冷徹な小説は、読んだことがない。
一人称がどんどん入れ替わり、思い出を語り、思い出はさらに過去を語る。
声と過去が層を織りなし、それが生きられた歴史なのか、みないなくなった残滓なのか。
とにかく物悲しい。そして、これは文学だと思った。
街にいた神父が叛乱軍に加わり街を見捨てた、という語りは、物語の円環においても
暴力的な外部として、決定的に状況をずらす。
その下りは非常に胸を打った。
神父だけではない、みな悩んで悔いて、考え、語りあい、そしてずるずると朽ちてゆく。
一生懸命に朽ちてゆくのだ。
街からは誰もが消えて、影と声だけを発する死者たちが残される。
何度か読まねば。ちょっとまだわかりかねている。
27.5.10
カルロ・ゴルドーニ『抜目のない未亡人』、アンヌ・フォンテーヌ『ドライ・クリーニング』
・カルロ・ゴルドーニ『抜目のない未亡人』
劇作家ゴルドーニを知ったきっかけは、
ジャック・リヴェットの映画『恋ごころ』と山口昌男の評論『道化の民俗学』。
つまり、偶然。
特に後者でゴルドーニに興味を持ったので、
アルレッキーノの振る舞いに注目して読んだ。
もっとも、この作品では、混ぜっ返し役としてではなく、
もっぱらメッセンジャーの役割だった。
作品は西欧諸国のステレオタイプの男たちが登場する。
もっと卑近に言い換えれば、自らのキャラが毀れないように腐心する連中だ。
これは誰の近辺にも少なからずいるだろう。
もっとも笑われるべき、硬直した連中だ。
その隙をアルレッキーノやロザーウラが縫う。
それがないと、粗筋はもっと演繹的論証みたいになってつまらない。
・アンヌ・フォンテーヌ『ドライ・クリーニング』
ベースに描かれる生活の倦怠のえげつなさ、処置なさが、凄まじかった。
舞台はFlanche-Comté地方のBelfort。
存在は知っていたものの、まぁ何もなさそうな町だ。
クリーニング屋の夫妻が、仲睦まじそうに見えるが、
実際にはどうしようもない倦怠と閉塞に取り憑かれている。
夫の無表情と視線の泳ぎなんてもう、
「一家の主人という役柄にしがみついて怯える夫」そのもの。
この破滅の物語をドライクリーニングと題してしまう突き放し方がすごい。
妻役のmiou-miouが綺麗。
劇作家ゴルドーニを知ったきっかけは、
ジャック・リヴェットの映画『恋ごころ』と山口昌男の評論『道化の民俗学』。
つまり、偶然。
特に後者でゴルドーニに興味を持ったので、
アルレッキーノの振る舞いに注目して読んだ。
もっとも、この作品では、混ぜっ返し役としてではなく、
もっぱらメッセンジャーの役割だった。
作品は西欧諸国のステレオタイプの男たちが登場する。
もっと卑近に言い換えれば、自らのキャラが毀れないように腐心する連中だ。
これは誰の近辺にも少なからずいるだろう。
もっとも笑われるべき、硬直した連中だ。
その隙をアルレッキーノやロザーウラが縫う。
それがないと、粗筋はもっと演繹的論証みたいになってつまらない。
・アンヌ・フォンテーヌ『ドライ・クリーニング』
ベースに描かれる生活の倦怠のえげつなさ、処置なさが、凄まじかった。
舞台はFlanche-Comté地方のBelfort。
存在は知っていたものの、まぁ何もなさそうな町だ。
クリーニング屋の夫妻が、仲睦まじそうに見えるが、
実際にはどうしようもない倦怠と閉塞に取り憑かれている。
夫の無表情と視線の泳ぎなんてもう、
「一家の主人という役柄にしがみついて怯える夫」そのもの。
この破滅の物語をドライクリーニングと題してしまう突き放し方がすごい。
妻役のmiou-miouが綺麗。
24.5.10
柄谷行人『日本近代文学の起源』
読まねばとばかり思いつつ敬遠していた作品。
ようやく手に取ることができ、安堵している。
根源的な思索と、歴史をも問い直す遡行の手さばきは、流石。
実際に語られているのは、非西欧の西欧化の意識転回だ。
このことへの気づきは、英語版への序文によって著者自身に触れられ、
韓国語版への序文によって決定的になっている。
特にそのような制度創出として書かれているのは、
言文一致、内面性の発見、ジャンル、についての箇所だ。
言文一致は普通教育を、
内面性の発見は普通選挙を(cf.柄谷行人『日本精神分析』)、
ジャンルは国史の作成を、それぞれ表している。
言文一致という俗語創出が、内面事象の記述手段の獲得として、
告白という文学ジャンルへ繋がる、この議論の進行は、ダイナミックだった。
つまり、文語文がその型式に囚われるあまり、
内省を抑圧する装置として働いていたということが、逆に驚きだった。
マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』を読んだとき印象的だった、
表音文字による文字文化についての執拗な分析が思い出された。
マクルーハンの語彙で云えば、「ホットなメディア」たる声が文字に記録され、
それが音読ではなく醒めた目に晒されて意識内で反復するときが、
「クールなメディア」の始まりだった。
これが西欧での「内面の発見」だったということになる。
活版印刷術を経験しても。表意文字と文語文によって抑圧された内面が現れるためには、
どうしても言文一致(発話文法=音声 の優位)が必要だったのだ。
だから日本では言文一致運動が起き、中国では白話文学が興り、
トルコではローマ字採用が進んだ。もちろんこれは、
国民国家の必要条件たる均質な国民という意識を誘発する。
方言ではない人工言語が標準づらをして、国内の隅々まで行き渡るからだ。
ようやく手に取ることができ、安堵している。
根源的な思索と、歴史をも問い直す遡行の手さばきは、流石。
実際に語られているのは、非西欧の西欧化の意識転回だ。
このことへの気づきは、英語版への序文によって著者自身に触れられ、
韓国語版への序文によって決定的になっている。
特にそのような制度創出として書かれているのは、
言文一致、内面性の発見、ジャンル、についての箇所だ。
言文一致は普通教育を、
内面性の発見は普通選挙を(cf.柄谷行人『日本精神分析』)、
ジャンルは国史の作成を、それぞれ表している。
言文一致という俗語創出が、内面事象の記述手段の獲得として、
告白という文学ジャンルへ繋がる、この議論の進行は、ダイナミックだった。
つまり、文語文がその型式に囚われるあまり、
内省を抑圧する装置として働いていたということが、逆に驚きだった。
マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』を読んだとき印象的だった、
表音文字による文字文化についての執拗な分析が思い出された。
マクルーハンの語彙で云えば、「ホットなメディア」たる声が文字に記録され、
それが音読ではなく醒めた目に晒されて意識内で反復するときが、
「クールなメディア」の始まりだった。
これが西欧での「内面の発見」だったということになる。
活版印刷術を経験しても。表意文字と文語文によって抑圧された内面が現れるためには、
どうしても言文一致(発話文法=音声 の優位)が必要だったのだ。
だから日本では言文一致運動が起き、中国では白話文学が興り、
トルコではローマ字採用が進んだ。もちろんこれは、
国民国家の必要条件たる均質な国民という意識を誘発する。
方言ではない人工言語が標準づらをして、国内の隅々まで行き渡るからだ。
22.5.10
ドン・デリーロ『コズモポリス』
SF映画を観ているような感覚だった。
違うのは、SFがハイテクを背景として無自覚にハイテクを礼讃するのに対し、
ハイテクを背景とすることでハイテクを相対化することなく吟味していること。
ハイテクに対して身体性が描かれるが、ハイテクはすでに生活に埋め込まれているため、
二項対立の一方として相対化できない。
金融市場経済の数字ゲームに思考を侵されるあまり、
万物が記号じみて捉えられた記述となる。
基軸通貨がネズミとなり、
椅子の部品としての脚という名称に疑問を感じ、
非対称を怖れる。
違うのは、SFがハイテクを背景として無自覚にハイテクを礼讃するのに対し、
ハイテクを背景とすることでハイテクを相対化することなく吟味していること。
ハイテクに対して身体性が描かれるが、ハイテクはすでに生活に埋め込まれているため、
二項対立の一方として相対化できない。
金融市場経済の数字ゲームに思考を侵されるあまり、
万物が記号じみて捉えられた記述となる。
基軸通貨がネズミとなり、
椅子の部品としての脚という名称に疑問を感じ、
非対称を怖れる。
18.5.10
東浩紀×北田暁大『東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム』
都市の郊外化に最近興味がある。その範疇で手に取った本の一つ。
ただ主題は郊外ではなく、東京という一つのシミュラークルをどうやって一実体として捉えるか。
最も興味深かったのは、郊外化とは都市を中心のその周辺を従属させる動き、というのではなく、コンビニ的ライフスタイルを創出するための無機質な周辺環境(これを首都圏の幹線道路から「16号線的」といっている)と捉え、よって都心部の郊外化が現象として現れ始めている、という指摘だった。実際、恵比寿や品川を訪れるときに漠然と感じる薄っぺらさは感じていたが、それをズバリと言い当てられたような気がした。
加えて、バリアフリーの名の下で行われる大規模な再開発が、雑多なその街の個性を一掃するという今後の趨勢。足立区と荒川区の雰囲気の違いが一例とされていた。街が八方美人となり、穴場の店や細い路地といった隠れ家がすべてなくされること、イコール、16号線化、とすると、これはまさにシミュラークルだ。すべてが明るみに出されていて隠すところがない、しかしそれでいて薄っぺらくて捉えどころがない、という難点。
晴海などウォーターフロントの工業地帯の再開発・宅地化が、高層マンションとその生命線たるイオンの合体、というミニマムな16号線的な街となる、というのは、まさにそのため。工業地だったため道路はもともと見通しよく整備され、商店街や個人経営店舗といった住環境の歴史がない。
高所得と低所得の区分が必ずしも生活の質の上流と下流を区分しなくなった、という指摘は、ここから導かれる。チェーン店文化ではせいぜいスタバとドトールの上下関係しかあり得ない。一方で、足立区や川崎市のブルーカラー域と、23区西部といったホワイトカラー域と、居住がかなり明確に分離している。それでいて、それぞれを歩いてもさほど格差を感じさせないのはどうしてか? ここで見方を反転させて、16号線化が生活水準の差異を覆い隠す装置として機能している、としたところは、けっこう頷けた。
若林幹夫の新書と同様に、郊外の実体験から語られ始める。郊外を単に伝統の喪失とか画一化といった外からのステレオタイプで捉えられないためには、やはりそれを実体験として知っておく必要があるためなのか、それとも、郊外という摑みどころのない多元的な状況を現象学的に捉えるためには内から見つめるしかないためなのか。とにかく、そうやって大雑把に体験から語り始めることで、「ファスト風土」とかそういった保守的な批判からは距離を置いて、多角的に議論されていたように思う。だから、面白かった。
ただ主題は郊外ではなく、東京という一つのシミュラークルをどうやって一実体として捉えるか。
最も興味深かったのは、郊外化とは都市を中心のその周辺を従属させる動き、というのではなく、コンビニ的ライフスタイルを創出するための無機質な周辺環境(これを首都圏の幹線道路から「16号線的」といっている)と捉え、よって都心部の郊外化が現象として現れ始めている、という指摘だった。実際、恵比寿や品川を訪れるときに漠然と感じる薄っぺらさは感じていたが、それをズバリと言い当てられたような気がした。
加えて、バリアフリーの名の下で行われる大規模な再開発が、雑多なその街の個性を一掃するという今後の趨勢。足立区と荒川区の雰囲気の違いが一例とされていた。街が八方美人となり、穴場の店や細い路地といった隠れ家がすべてなくされること、イコール、16号線化、とすると、これはまさにシミュラークルだ。すべてが明るみに出されていて隠すところがない、しかしそれでいて薄っぺらくて捉えどころがない、という難点。
晴海などウォーターフロントの工業地帯の再開発・宅地化が、高層マンションとその生命線たるイオンの合体、というミニマムな16号線的な街となる、というのは、まさにそのため。工業地だったため道路はもともと見通しよく整備され、商店街や個人経営店舗といった住環境の歴史がない。
高所得と低所得の区分が必ずしも生活の質の上流と下流を区分しなくなった、という指摘は、ここから導かれる。チェーン店文化ではせいぜいスタバとドトールの上下関係しかあり得ない。一方で、足立区や川崎市のブルーカラー域と、23区西部といったホワイトカラー域と、居住がかなり明確に分離している。それでいて、それぞれを歩いてもさほど格差を感じさせないのはどうしてか? ここで見方を反転させて、16号線化が生活水準の差異を覆い隠す装置として機能している、としたところは、けっこう頷けた。
若林幹夫の新書と同様に、郊外の実体験から語られ始める。郊外を単に伝統の喪失とか画一化といった外からのステレオタイプで捉えられないためには、やはりそれを実体験として知っておく必要があるためなのか、それとも、郊外という摑みどころのない多元的な状況を現象学的に捉えるためには内から見つめるしかないためなのか。とにかく、そうやって大雑把に体験から語り始めることで、「ファスト風土」とかそういった保守的な批判からは距離を置いて、多角的に議論されていたように思う。だから、面白かった。
16.5.10
リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』
http://www.getty.edu/art/gettyguide/artObjectDetails?artobj=40905&handle=li
物語は作者がボストンでザンダーの写真作品「三人の農夫」に感銘を受けるところから始まる。
それとは無関係に、別の二つの物語が開始する。
一方は1914年5月、プロイセンのラインラント、写真の撮られた時と場所。
もう一方は現在、ボストンの八階のオフィスから同僚とパレードを見下ろすメイズ。
初めは別々に流れた物語が、次第に絡みあい、写真を軸としてやがて重なる。
ちょうど中盤あたりからのその華麗な流れを、私は今日の半日で読み終えた。
向かう舞踏会とは第一次大戦だ。
具体的には? とさらに問うと、意味は様々な様相を帯びる。
写真、総力戦、フォードに始まり、
デトロイトの終焉とコンピュータ技術への以降に終わるテクノロジー、
国民意識、協商国と連合国に始まり、
移民とアメリカに終わるナショナリティ、
電波、モルガン商会、ラジオ、大衆紙に始まり、
電話と空売り、粉飾決算に終わる市場型・情報型資本主義。
この小説がすごいのは、単に三つの物語が交錯するだけではなく、
その都度、写真論を始めとする厖大な智識が註釈のように物語を裏打ちし、
背景や描写を豊かにしているからだ。
あと、言葉の云い間違い・聞き間違いで進行がずれることが時々あって、それも良かった。
ピンチョンの『V.』と似ていると思って読み進めていた。
細部が細かいとか、二つの主軸の物語があるとか、
一つが過去から未来へ進行し、もう一つが未来から過去へ遡行するところとか。
しかし、ピンチョンのように情報過多が大きな主題というわけではないし、
情報が「ステンシル化」されることも(あまり)ないから、比して読みやすかった。
物語は作者がボストンでザンダーの写真作品「三人の農夫」に感銘を受けるところから始まる。
それとは無関係に、別の二つの物語が開始する。
一方は1914年5月、プロイセンのラインラント、写真の撮られた時と場所。
もう一方は現在、ボストンの八階のオフィスから同僚とパレードを見下ろすメイズ。
初めは別々に流れた物語が、次第に絡みあい、写真を軸としてやがて重なる。
ちょうど中盤あたりからのその華麗な流れを、私は今日の半日で読み終えた。
向かう舞踏会とは第一次大戦だ。
具体的には? とさらに問うと、意味は様々な様相を帯びる。
写真、総力戦、フォードに始まり、
デトロイトの終焉とコンピュータ技術への以降に終わるテクノロジー、
国民意識、協商国と連合国に始まり、
移民とアメリカに終わるナショナリティ、
電波、モルガン商会、ラジオ、大衆紙に始まり、
電話と空売り、粉飾決算に終わる市場型・情報型資本主義。
この小説がすごいのは、単に三つの物語が交錯するだけではなく、
その都度、写真論を始めとする厖大な智識が註釈のように物語を裏打ちし、
背景や描写を豊かにしているからだ。
あと、言葉の云い間違い・聞き間違いで進行がずれることが時々あって、それも良かった。
ピンチョンの『V.』と似ていると思って読み進めていた。
細部が細かいとか、二つの主軸の物語があるとか、
一つが過去から未来へ進行し、もう一つが未来から過去へ遡行するところとか。
しかし、ピンチョンのように情報過多が大きな主題というわけではないし、
情報が「ステンシル化」されることも(あまり)ないから、比して読みやすかった。
9.5.10
鹿島田真希『六〇〇〇度の愛』
『モデラート・カンタービレ』を下敷きにしたような構成と思ったが、
それは表面の一部だった。
原爆に生を奪われた長崎を自らの死場所と重ねた郊外の主婦の物語。
その再生の過程が、現在形で語られる物語を含めたいくつもの譬喩を経る。
アメリカ映画のハッピーエンドとは違う、心底からの再生だ。
短い文章、濃い独白と洞察に支えられた、素晴らしい作品だった。
青年がアダムに、そして(皮膚炎から)ヨブに比せられ、
さらに娼婦ソーニャに、生を奪われた長崎に、比せられる。
女にとっての兄が、解し難い。
キリスト教・ロシア正教に非常に共感を示しつつ反論を暗示しているような気が、
非常に淡く、そして不確実ながら、感じられた。
でもそれは、なんというか、反動を内包しない世界観があり得ないからなのか、
そんな一般論ではなく何か深い意味があるのか、よくわからない。
ただ、そう感じたメモとして、記しておく。
それは表面の一部だった。
原爆に生を奪われた長崎を自らの死場所と重ねた郊外の主婦の物語。
その再生の過程が、現在形で語られる物語を含めたいくつもの譬喩を経る。
アメリカ映画のハッピーエンドとは違う、心底からの再生だ。
短い文章、濃い独白と洞察に支えられた、素晴らしい作品だった。
青年がアダムに、そして(皮膚炎から)ヨブに比せられ、
さらに娼婦ソーニャに、生を奪われた長崎に、比せられる。
女にとっての兄が、解し難い。
キリスト教・ロシア正教に非常に共感を示しつつ反論を暗示しているような気が、
非常に淡く、そして不確実ながら、感じられた。
でもそれは、なんというか、反動を内包しない世界観があり得ないからなのか、
そんな一般論ではなく何か深い意味があるのか、よくわからない。
ただ、そう感じたメモとして、記しておく。
8.5.10
アルモドバル『トーク・トゥ・ハー』、オゾン『スイミング・プール』
・ペドロ・アルモドバル『トーク・トゥ・ハー』
昏睡状態に陥った女と、それに語りかける男、の男女が二組。
ベニグノのひた向きさと愚かしさが分ち難くて、それがまた胸を打つ。
にしても、アルモドバルの映す女性は綺麗で、思わず嘆息する。
・フランソワ・オゾン『スイミング・プール』
プール、性衝動、本、家族関係、…。
筋がありすぎて摑みどころがない感じ。
サラとジュリ、どちらも典型的なイギリス人と南仏人の様式、が、
お互いに惹かれあって交錯しているのか。
推理小説家サラの側にある虚構が、ジュリを通して現実にも溶けてきている、
そんなふうな謎の多い作品だった。面白かった。
昏睡状態に陥った女と、それに語りかける男、の男女が二組。
ベニグノのひた向きさと愚かしさが分ち難くて、それがまた胸を打つ。
にしても、アルモドバルの映す女性は綺麗で、思わず嘆息する。
・フランソワ・オゾン『スイミング・プール』
プール、性衝動、本、家族関係、…。
筋がありすぎて摑みどころがない感じ。
サラとジュリ、どちらも典型的なイギリス人と南仏人の様式、が、
お互いに惹かれあって交錯しているのか。
推理小説家サラの側にある虚構が、ジュリを通して現実にも溶けてきている、
そんなふうな謎の多い作品だった。面白かった。
6.5.10
アーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』、ダニー・ボイル『トレインスポッティング』/快晴飛行
・アーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』
書き出しは、He was an old man who fished alone in a skiff(以下略)
福田恆存はこう訳した。「彼は歳をとっていた。メキシコ湾流に小舟を浮かべ、(以下略)」
名訳でなくてなんだろう。関係代名詞なんて不自然だから訳さないスタンス。
それはさておき…息を吐かせない描写に圧倒された。
専門用語や魚名をここまで持ち出して、なのに散文として違和感がない。
緻密、とはまた違う。緻密といえばスピード感が澱む。単純に嘆息。
・ダニー・ボイル『トレインスポッティング』
偶然と幸運が散りばめられた主人公が、にんまり笑いながら脇を出し抜く、
その心地よさと毒が良かった。観ていて素直にのめり込んでしまう。
役も一人々々立っていて好い。
ストーリーがプロット過ぎないところも。
----
帰浜した。快晴で地表がずっと見えていた。
人生で二十回は伊丹から飛ぶが、こうも見晴るかした経験は初めてだ。
千里、万博記念公園、モノレール、果ては山科まで。
明るくない東海地方でも、木曽三川、富士山、御前崎、伊豆半島、が
うろ覚えながら特徴ある地形から知れた。
書き出しは、He was an old man who fished alone in a skiff(以下略)
福田恆存はこう訳した。「彼は歳をとっていた。メキシコ湾流に小舟を浮かべ、(以下略)」
名訳でなくてなんだろう。関係代名詞なんて不自然だから訳さないスタンス。
それはさておき…息を吐かせない描写に圧倒された。
専門用語や魚名をここまで持ち出して、なのに散文として違和感がない。
緻密、とはまた違う。緻密といえばスピード感が澱む。単純に嘆息。
・ダニー・ボイル『トレインスポッティング』
偶然と幸運が散りばめられた主人公が、にんまり笑いながら脇を出し抜く、
その心地よさと毒が良かった。観ていて素直にのめり込んでしまう。
役も一人々々立っていて好い。
ストーリーがプロット過ぎないところも。
----
帰浜した。快晴で地表がずっと見えていた。
人生で二十回は伊丹から飛ぶが、こうも見晴るかした経験は初めてだ。
千里、万博記念公園、モノレール、果ては山科まで。
明るくない東海地方でも、木曽三川、富士山、御前崎、伊豆半島、が
うろ覚えながら特徴ある地形から知れた。
ドン・デリーロ『ホワイト・ノイズ』
目まぐるしいものの数、エピソードの数。
それらが、背景とも前景ともつかずに飛び回る感覚。
内包と構造が溶け合うような描写。
ソローが指摘した、テクノロジー社会における「卵が先か鶏が先か」状態と、
自分の知らないところで自分が手玉に獲られる不安、
ものと「生」の二項対立ではなく、
「生」はものに取り巻かれて途方に暮れている、
そう読める箇所があったような気がする。
冒頭の雑多なキャンパス風景は氾濫した無秩序(=ゴミ)だし、
ところどころ家のものを捨てる主人公、ゴミ圧縮機の中身、などなど。
重要なのは、誰しもがその行き来をせざるを得ないということ。
毒ガス流出や巨大資本の魔の手に搦めとられることによって。
そして、その被害者は誰でもいい
(ニュースでそうであるように、数が確保されれば良い)のだ。
「自分ではなくてよかった」と頻りに
登場人物たちが口にするのは、そういうことだ。
最後に、もっとも気に入った箇所を書き写しておく。
「ぼくは自分のもの以外のノスタルジアは誰のものでも信じない。ノスタルジアは不満と怒りの産物だよ。それは現在と過去のあいだの苦情の種が据え置かれたものがだ。ノスタルジアが強ければ強いほど、人は暴力に近づいていく。戦争は人が自分の国について何か良いことを言うように強制されたときに、ノスタルジアが取る一形式さ」(p.276)
それらが、背景とも前景ともつかずに飛び回る感覚。
内包と構造が溶け合うような描写。
ソローが指摘した、テクノロジー社会における「卵が先か鶏が先か」状態と、
自分の知らないところで自分が手玉に獲られる不安、
ものと「生」の二項対立ではなく、
「生」はものに取り巻かれて途方に暮れている、
そう読める箇所があったような気がする。
冒頭の雑多なキャンパス風景は氾濫した無秩序(=ゴミ)だし、
ところどころ家のものを捨てる主人公、ゴミ圧縮機の中身、などなど。
重要なのは、誰しもがその行き来をせざるを得ないということ。
毒ガス流出や巨大資本の魔の手に搦めとられることによって。
そして、その被害者は誰でもいい
(ニュースでそうであるように、数が確保されれば良い)のだ。
「自分ではなくてよかった」と頻りに
登場人物たちが口にするのは、そういうことだ。
最後に、もっとも気に入った箇所を書き写しておく。
「ぼくは自分のもの以外のノスタルジアは誰のものでも信じない。ノスタルジアは不満と怒りの産物だよ。それは現在と過去のあいだの苦情の種が据え置かれたものがだ。ノスタルジアが強ければ強いほど、人は暴力に近づいていく。戦争は人が自分の国について何か良いことを言うように強制されたときに、ノスタルジアが取る一形式さ」(p.276)
5.5.10
帰阪ついでの旅(メモ)
1日。
清荒神清澄寺、売布神社、中山寺へ。
どれも阪急宝塚線の駅ながら、自転車にて赴く。
新緑の色鮮やかと、ようやく初夏めき始めた陽、
そして、宝塚のあの辺の住宅地の静かさと、溜池の多さ。
清澄寺の涼しげで綺麗な水盆が印象的だった。
それと、端正ながら妙な異彩を放っていた四人家族が。
3日。
夏日となったんではないかな。以後三日間、晴天だった。
下鴨神社にて流鏑馬を観た。
テレビのニュースとは異なり、開始までの間合いがいやに長く、
放たれた矢は必ずしも的を割らず、馬の走りが予想以上に速かった。
清水寺から見はるかす葉々の色合いがどれも若く、
遠くに霞む京都市街を覆って綺麗だった。
案内役を務めてくれた友人に感謝。
4日。
大阪城公園でのダウンな活気が大阪らしくて好い。
園内を周回し、何もない難波宮蹟を過ぎて、
祭りの中之島を西へ。大阪化されたパリのシテ島って気がする。
八百八橋の町、あるいは水都、の雅名をちょっとだけ実感。
難波へ。日本橋から新世界、そしてここ数年で急成長したオタロードを抜ける。
電気屋の激減は内心で驚きだった。
梅田へ。スカイビルから大阪を一望、と思いきや
梅田のビル群に阻まれて南の眺望は難しかった。
夕方のお初天神。いつも夜ばかり赴いていたため、初めて堂が開いていた。
夕食は、同行の人生初のお好み焼きとなった。
5日。
南森町の大阪天満宮を観て、帰摂。
清荒神清澄寺、売布神社、中山寺へ。
どれも阪急宝塚線の駅ながら、自転車にて赴く。
新緑の色鮮やかと、ようやく初夏めき始めた陽、
そして、宝塚のあの辺の住宅地の静かさと、溜池の多さ。
清澄寺の涼しげで綺麗な水盆が印象的だった。
それと、端正ながら妙な異彩を放っていた四人家族が。
3日。
夏日となったんではないかな。以後三日間、晴天だった。
下鴨神社にて流鏑馬を観た。
テレビのニュースとは異なり、開始までの間合いがいやに長く、
放たれた矢は必ずしも的を割らず、馬の走りが予想以上に速かった。
清水寺から見はるかす葉々の色合いがどれも若く、
遠くに霞む京都市街を覆って綺麗だった。
案内役を務めてくれた友人に感謝。
4日。
大阪城公園でのダウンな活気が大阪らしくて好い。
園内を周回し、何もない難波宮蹟を過ぎて、
祭りの中之島を西へ。大阪化されたパリのシテ島って気がする。
八百八橋の町、あるいは水都、の雅名をちょっとだけ実感。
難波へ。日本橋から新世界、そしてここ数年で急成長したオタロードを抜ける。
電気屋の激減は内心で驚きだった。
梅田へ。スカイビルから大阪を一望、と思いきや
梅田のビル群に阻まれて南の眺望は難しかった。
夕方のお初天神。いつも夜ばかり赴いていたため、初めて堂が開いていた。
夕食は、同行の人生初のお好み焼きとなった。
5日。
南森町の大阪天満宮を観て、帰摂。
26.4.10
若林幹夫『郊外の社会学』
郊外の形成とその思想。
自分にとって収穫だったのは、パルコの文化的なイメージ戦略だった。
おそらくその上位には現代思想ブームがあるのだろう。
古くはボードレール、そしてベンヤミンが明らかにした、商品的な生活が、
郊外にはうずたかく積まれて、新築された瞬間から黴び始めている。
それを更新しつつ、郊外は生き続ける。
また、郊外は都市との関係性(sub-urb)でのみ成立し、
それは都市の外部に厚みをもって広がる匿名性のベッドタウンであるということ。
そして、その有様が、戦後このかたの住宅供給の長い歴史の中で、
住宅や生活がブランド性を志向しておきながら
実際にはそうではなかったという本音の結末なのだ。
匿名の存在であることを多くの人が望んだ結果である、という
宮台真司の(すごく宮台らしい)指摘の似合う結末。
触れられていなかったが、この匿名の漸進に対応するようにして、
都心は急激に消費社会の発信源となっている。
郊外の顔のなさは、それ自体としての特徴でありながら、
やはり都心との対比によって捉えられる代物ではないだろうか。
また、ワンルーム=実家、という主従関係を
各個室=リビング、の拡張概念として捉える思考は、なかなか興味深かった。
新書を読んだのは久しぶり。あまりに読みやすくて2時間もかからなかった。
自分にとって収穫だったのは、パルコの文化的なイメージ戦略だった。
おそらくその上位には現代思想ブームがあるのだろう。
古くはボードレール、そしてベンヤミンが明らかにした、商品的な生活が、
郊外にはうずたかく積まれて、新築された瞬間から黴び始めている。
それを更新しつつ、郊外は生き続ける。
また、郊外は都市との関係性(sub-urb)でのみ成立し、
それは都市の外部に厚みをもって広がる匿名性のベッドタウンであるということ。
そして、その有様が、戦後このかたの住宅供給の長い歴史の中で、
住宅や生活がブランド性を志向しておきながら
実際にはそうではなかったという本音の結末なのだ。
匿名の存在であることを多くの人が望んだ結果である、という
宮台真司の(すごく宮台らしい)指摘の似合う結末。
触れられていなかったが、この匿名の漸進に対応するようにして、
都心は急激に消費社会の発信源となっている。
郊外の顔のなさは、それ自体としての特徴でありながら、
やはり都心との対比によって捉えられる代物ではないだろうか。
また、ワンルーム=実家、という主従関係を
各個室=リビング、の拡張概念として捉える思考は、なかなか興味深かった。
新書を読んだのは久しぶり。あまりに読みやすくて2時間もかからなかった。
20.4.10
トマス・ピンチョン『V.』
生きているうちに読めるのだろうか、と内心で按じていた小説。
かくも浩瀚な物語! とでもいうべき読後感は、満腹そのもの。
巻末のVノートを読めば、一通りその世界観は俯瞰できるので、
あえてここには記さない。
プロフェインの生きる現在の漠然とした怠惰な日常から
透かし出される、歴史のカナメの残存から、
ステンシルがそれらを遡行して探求して
ついにV.が(語り手によって)明かされるまでの本流と、
その譬喩や寓意を散りばめられた無数の挿話。
この厖大な情報量そのものが、浩瀚と感じさせる由縁。
ステンシルの探求する、ステンシル父の生きた時代への収斂、
そして、それらが、温室=街頭の二項対立へと収斂する。
ちょうどV字の下部のように。
この二項対立が、他のそれをすべて収斂してゆく。
男女、地上と地下、海と陸、西洋と東洋、大人と子供、
右翼と左翼、過去と未来、etc.、etc.、……。
ものでありかつ生命である、この二項対立の収斂者たるV.、
そして、V.はどこから派遣されたのか?
はっきり云って、一読ではさっぱりわからない。
何度も読んでは附箋を加えていかないと、全体像は摑めそうにない。
逆に、いくらでも読めば発見がありそう。
エントロピー的というよりむしろサイバネティクス的だと、読んで感じた。
複雑系を文学に模写する試みとしての文体は、エントロピー的であるにしても。
2年ほど前にふと気づいたことだが、
物語は構造と題材からなり、前者は有限、後者はほぼ無限だ。
後者をめまぐるしく入れ替えながら、前者の類型を無数に積み重ね、
その随所にリンクを貼る。
『V.』はそのようだと感じた(だから何、というくらい大雑把な捉え方だが)。
だから、小林恭二の『小説伝』を思い出させもした。
かくも浩瀚な物語! とでもいうべき読後感は、満腹そのもの。
巻末のVノートを読めば、一通りその世界観は俯瞰できるので、
あえてここには記さない。
プロフェインの生きる現在の漠然とした怠惰な日常から
透かし出される、歴史のカナメの残存から、
ステンシルがそれらを遡行して探求して
ついにV.が(語り手によって)明かされるまでの本流と、
その譬喩や寓意を散りばめられた無数の挿話。
この厖大な情報量そのものが、浩瀚と感じさせる由縁。
ステンシルの探求する、ステンシル父の生きた時代への収斂、
そして、それらが、温室=街頭の二項対立へと収斂する。
ちょうどV字の下部のように。
この二項対立が、他のそれをすべて収斂してゆく。
男女、地上と地下、海と陸、西洋と東洋、大人と子供、
右翼と左翼、過去と未来、etc.、etc.、……。
ものでありかつ生命である、この二項対立の収斂者たるV.、
そして、V.はどこから派遣されたのか?
はっきり云って、一読ではさっぱりわからない。
何度も読んでは附箋を加えていかないと、全体像は摑めそうにない。
逆に、いくらでも読めば発見がありそう。
エントロピー的というよりむしろサイバネティクス的だと、読んで感じた。
複雑系を文学に模写する試みとしての文体は、エントロピー的であるにしても。
2年ほど前にふと気づいたことだが、
物語は構造と題材からなり、前者は有限、後者はほぼ無限だ。
後者をめまぐるしく入れ替えながら、前者の類型を無数に積み重ね、
その随所にリンクを貼る。
『V.』はそのようだと感じた(だから何、というくらい大雑把な捉え方だが)。
だから、小林恭二の『小説伝』を思い出させもした。
19.4.10
トム・ティクヴァ『ラン・ローラ・ラン』、フランソワ・トリュフォー『ピアニストを撃て』
・トム・ティクヴァ『ラン・ローラ・ラン』
20分以内に大金を用意するという難題と
そのために走る主人公、という主題がそうだが、
カット多用、BGM、すべてスピード感に満ちている。
三回、主題となる20分がなされる。
階段を駆け下りるときのわずかな時間のズレによるもので、
その時間差により、随所々々の出来事が、シナリオが変化する。
偶然によって支配された外界との邂逅も、
意外な親和感をもって立ち現れてくるように感じて、不思議だった。
ボルヘスの短篇「八岐の園」を思わせた。
・フランソワ・トリュフォー『ピアニストを撃て』
ピストルの撃ち合いが、アメリカ映画っぽかった。
それでいて、ピストル的な刹那の勝敗ではなく、
しかも、そのようなアメリカ映画っぽさをフランスのエスプリで包むような
気の利いた科白なんかもあって、面白かった。
いいなぁ、トリュフォー。
20分以内に大金を用意するという難題と
そのために走る主人公、という主題がそうだが、
カット多用、BGM、すべてスピード感に満ちている。
三回、主題となる20分がなされる。
階段を駆け下りるときのわずかな時間のズレによるもので、
その時間差により、随所々々の出来事が、シナリオが変化する。
偶然によって支配された外界との邂逅も、
意外な親和感をもって立ち現れてくるように感じて、不思議だった。
ボルヘスの短篇「八岐の園」を思わせた。
・フランソワ・トリュフォー『ピアニストを撃て』
ピストルの撃ち合いが、アメリカ映画っぽかった。
それでいて、ピストル的な刹那の勝敗ではなく、
しかも、そのようなアメリカ映画っぽさをフランスのエスプリで包むような
気の利いた科白なんかもあって、面白かった。
いいなぁ、トリュフォー。
4.4.10
中島隆博・小林康夫編『いま、<古典>とはなにか』
東京大学「共生のための国際哲学交流センター」ブックレットの一つで、
「クラシカル・ターンを問う」という副題が附いている。
無駄に漠然とした空論が訓古学的に廻転するだけのマニフェストかと懸念したが、
かなり実のある対談が収録され、読みやすくもあり、よかった。
和辻哲郎批判はラディカルで面白かった。
が、それより何より、やはり日本の人文科学の閉塞は、
受け皿としての教育機関が、もはや保守的な存在に堕していることが
根源的に問題だろう。
東大が知に活力を再生しようとUTCPを作っても、
それは東大の枠組みであり、教授の下に多くの研究員が非常勤という
組織の規約みたいなところは、何一つ変わっていないのだ。
参考:博士が100人いる村
http://www.geocities.jp/dondokodon41412002/
大学解体とは大学紛争で叫ばれた言葉だが、
それは大正期も同様だ(「大学は出たけれど」)。
現在の大学変革の最大の問題点は、トップダウンであることと、
そのトップが新自由主義的な意志である(あった)こと。
つまり、大学という枠組みは不変なのだ。
その中で、国公私立関係なく、大学がどんどん専門学校化してゆく。
もはやuniversityではなく、単なるcollegesの連合体でしかない。
それでいて、外見や機能(学位生産体、知の集合体)は、変わらない。
古典とは教養主義的な存在だ。
教養部なき(あっても各学部に分断された実情の)現在の大学に、何ができるのか。
もちろん、これは組織の問題ではない。
取り組みは各個人によって手探りで進んでいる。
しかし、それを組織レベルにまで引き上げないことには、
運動の継承は期待できないだろう。
「クラシカル・ターンを問う」という副題が附いている。
無駄に漠然とした空論が訓古学的に廻転するだけのマニフェストかと懸念したが、
かなり実のある対談が収録され、読みやすくもあり、よかった。
和辻哲郎批判はラディカルで面白かった。
が、それより何より、やはり日本の人文科学の閉塞は、
受け皿としての教育機関が、もはや保守的な存在に堕していることが
根源的に問題だろう。
東大が知に活力を再生しようとUTCPを作っても、
それは東大の枠組みであり、教授の下に多くの研究員が非常勤という
組織の規約みたいなところは、何一つ変わっていないのだ。
参考:博士が100人いる村
http://www.geocities.jp/dondokodon41412002/
大学解体とは大学紛争で叫ばれた言葉だが、
それは大正期も同様だ(「大学は出たけれど」)。
現在の大学変革の最大の問題点は、トップダウンであることと、
そのトップが新自由主義的な意志である(あった)こと。
つまり、大学という枠組みは不変なのだ。
その中で、国公私立関係なく、大学がどんどん専門学校化してゆく。
もはやuniversityではなく、単なるcollegesの連合体でしかない。
それでいて、外見や機能(学位生産体、知の集合体)は、変わらない。
古典とは教養主義的な存在だ。
教養部なき(あっても各学部に分断された実情の)現在の大学に、何ができるのか。
もちろん、これは組織の問題ではない。
取り組みは各個人によって手探りで進んでいる。
しかし、それを組織レベルにまで引き上げないことには、
運動の継承は期待できないだろう。
1.4.10
Ipsa scientia potestas est.
知は力なり。 ──フランシス・ベーコン
知が力であるという、スコラ哲学に対する反感だけではない。
知が権力であるという、来るべき制度を要請する発言である。
実際、ベーコンがデカルトとともに開いた近代において、
知はそのように振る舞えた。資本主義ならぬ知本主義。
一方で、知は啓蒙的であるべきという桎梏に囚われたとはいえまいか。
知が倫理観や良心の足枷に囚われていた、と言い換えてもよい。
サドやイジドール・デュカスが、アンチテーゼ的ながら一つの知であると
認識されるまで、この枷との戦いだった。
マルクス=アウレリウスの『自省録』のような、
主観である自分をも客観的に視ることのできる態度こそが知だった。
啓蒙主義は知か?
思考することを促しはするが、その道筋を過剰に操作するならば
それは洗脳としての危険を孕む。
19世紀の啓蒙君主とは、自分が思考主体となることで
国民の思考を括弧に入れてしまい
近代型の国民国家における国民の均一性を保つ、そういう制度なのではないか。
知が力であるという、スコラ哲学に対する反感だけではない。
知が権力であるという、来るべき制度を要請する発言である。
実際、ベーコンがデカルトとともに開いた近代において、
知はそのように振る舞えた。資本主義ならぬ知本主義。
一方で、知は啓蒙的であるべきという桎梏に囚われたとはいえまいか。
知が倫理観や良心の足枷に囚われていた、と言い換えてもよい。
サドやイジドール・デュカスが、アンチテーゼ的ながら一つの知であると
認識されるまで、この枷との戦いだった。
マルクス=アウレリウスの『自省録』のような、
主観である自分をも客観的に視ることのできる態度こそが知だった。
啓蒙主義は知か?
思考することを促しはするが、その道筋を過剰に操作するならば
それは洗脳としての危険を孕む。
19世紀の啓蒙君主とは、自分が思考主体となることで
国民の思考を括弧に入れてしまい
近代型の国民国家における国民の均一性を保つ、そういう制度なのではないか。
28.3.10
西山雄二『哲学への権利』/蕨での晩餐会
27日土曜日午后、東京大学駒場キャンパス18号館にて
『哲学への権利──国際哲学コレージュの軌跡』鑑賞。
(公式HP:http://rightphilo.blog112.fc2.com/)
デリダ創設のCollège internationale de Philosophieの現状について、
現在のコレージュ関係者の哲学者たちが、
種々の問いに対して答えてゆくという形式。
哲学分野の社会教育の可能性が新自由主義下の社会において
どう可能なのかを考えるとき、やはり閉塞感は滲み出ていた。
しかし、大学ではない在野組織としての研究教育機関は
可能性として捨て難いし、必要だろう。
「価値」についての話で面白かったのは、カトリーヌ・マラブーが
「価値すなわち効用性、貨幣価値」ではない、と云っていたこと。
哲学やコレージュにどういう価値があるのか、という問いは、
このドグマに気づかずに埋もれている例だろう。
なお、映画は、握手のシーンをロゴのように反復していたのが印象的。
上映後の討論までおらずに退席。
「共生のための国際哲学教育研究センター」(東大グローバルCOE)の
ブックレットが一揃いあったので貰い、移動の電車内で読んでいた。
紀要のような役割付けの冊子と思いきや、非常に面白い。
埼玉県蕨市のフランス料理店にて先輩主宰の夕食会。
大日本雄辯會、輯英社、新声社それぞれの編集者がいて、
作家のランク付けの話で盛り上がったのが面白かった。
鹿島田真希の高評価が(自分の不勉強にとって)意外で、興味を持った。
(もっとも、こういうランク付けってNewsweek的というか、
価値を効用性に一本化して計るアングロサクソン的な思考だな、と後で思った。
でも、ワイン片手の話なんだから、いいでしょ)
その後、新宿に場所を移して再び飲む。
28日日曜日昼前。和光市を辞して目黒区にて桜を観る。
目黒川と云う名の掘割に散り落ちた花びらが
すべて同じ早さでゆっくり流れてゆくのが、綺麗だった。
両岸の商業活動が無駄に活気があっても、
桜の木々が空から威圧的なので、
さほど興醒めもせず、むしろ一緒に狂う感じ。
『哲学への権利──国際哲学コレージュの軌跡』鑑賞。
(公式HP:http://rightphilo.blog112.fc2.com/)
デリダ創設のCollège internationale de Philosophieの現状について、
現在のコレージュ関係者の哲学者たちが、
種々の問いに対して答えてゆくという形式。
哲学分野の社会教育の可能性が新自由主義下の社会において
どう可能なのかを考えるとき、やはり閉塞感は滲み出ていた。
しかし、大学ではない在野組織としての研究教育機関は
可能性として捨て難いし、必要だろう。
「価値」についての話で面白かったのは、カトリーヌ・マラブーが
「価値すなわち効用性、貨幣価値」ではない、と云っていたこと。
哲学やコレージュにどういう価値があるのか、という問いは、
このドグマに気づかずに埋もれている例だろう。
なお、映画は、握手のシーンをロゴのように反復していたのが印象的。
上映後の討論までおらずに退席。
「共生のための国際哲学教育研究センター」(東大グローバルCOE)の
ブックレットが一揃いあったので貰い、移動の電車内で読んでいた。
紀要のような役割付けの冊子と思いきや、非常に面白い。
埼玉県蕨市のフランス料理店にて先輩主宰の夕食会。
大日本雄辯會、輯英社、新声社それぞれの編集者がいて、
作家のランク付けの話で盛り上がったのが面白かった。
鹿島田真希の高評価が(自分の不勉強にとって)意外で、興味を持った。
(もっとも、こういうランク付けってNewsweek的というか、
価値を効用性に一本化して計るアングロサクソン的な思考だな、と後で思った。
でも、ワイン片手の話なんだから、いいでしょ)
その後、新宿に場所を移して再び飲む。
28日日曜日昼前。和光市を辞して目黒区にて桜を観る。
目黒川と云う名の掘割に散り落ちた花びらが
すべて同じ早さでゆっくり流れてゆくのが、綺麗だった。
両岸の商業活動が無駄に活気があっても、
桜の木々が空から威圧的なので、
さほど興醒めもせず、むしろ一緒に狂う感じ。
27.3.10
最近思うことのメモランダム(du postmodernisme)
postmodernismeについて。
モダンが修正主義的なものだとすると、ポストモダンはラディカルだ。
モダンに対してではなく、モダン以前すべてに対して。
そして、モダンはアンチテーゼ的だが、ポストモダンはその対立から浮遊し、寄る辺のなさを立場としている。
なのに、モダン、ポスト・モダンという名称なのは、やはり違う気がする。
ポストモダンという(初期化のような)パラダイム転換の前段階として、
折り合いをつける意味合いでのモダン。
日本でこうも痛切にポストモダンをひとつの断絶として感じるのは、
やはりバブル後の長きに渡っている時代閉塞ありきだろう。
バブルはとてもモダン的だったし、
バブル後(ポストバブル)は(経済的、表現的)規制緩和によって
すべての物語が破壊され、一様化された。
そんな中に、どうやって文学は可能なのだろう?
現在の流れは、回帰。ré-actionだ。
だが、主体性という意味では、モダンに戻るだけではどうにもならない。
かなり根源的(ラディカル)に問いつめる必要があるだろう。
共同体について。
国民国家という共同体の形式は、かなりトップダウンなネットワークだ。
次の共同体の形式はP2P的な形式ではないかと、ここ1年ほど考えている。
実際にそれはすでにあった。口コミやサークルとして。
しかし、それはひとたび固定化されるとP2P的ではなくなる。
出入りが自由な流動性を伴うことで、主流になり始めたのは、ごく最近だ。
転送量(=情報量=影響力)を各個体のサイズによって決めてしまっては、
これまでどおりの企業型資本主義と変わらない。
各個体が1として均等であれば、それは自由な発言の場として、
企業の暴力的な巨大さを排除できるんじゃないか?
(例:SMS、twitter)
これは、連邦制国家において、各邦の代表からなる上院の役割とよく似ている。
(人工の少ない邦の意見を確保することができる)
問題は、その枠組みを誰が提供するか。
ここにこそ合議のくじ引きを導入すべき(cf.柄谷行人『日本精神分析』)。
モダンが修正主義的なものだとすると、ポストモダンはラディカルだ。
モダンに対してではなく、モダン以前すべてに対して。
そして、モダンはアンチテーゼ的だが、ポストモダンはその対立から浮遊し、寄る辺のなさを立場としている。
なのに、モダン、ポスト・モダンという名称なのは、やはり違う気がする。
ポストモダンという(初期化のような)パラダイム転換の前段階として、
折り合いをつける意味合いでのモダン。
日本でこうも痛切にポストモダンをひとつの断絶として感じるのは、
やはりバブル後の長きに渡っている時代閉塞ありきだろう。
バブルはとてもモダン的だったし、
バブル後(ポストバブル)は(経済的、表現的)規制緩和によって
すべての物語が破壊され、一様化された。
そんな中に、どうやって文学は可能なのだろう?
現在の流れは、回帰。ré-actionだ。
だが、主体性という意味では、モダンに戻るだけではどうにもならない。
かなり根源的(ラディカル)に問いつめる必要があるだろう。
共同体について。
国民国家という共同体の形式は、かなりトップダウンなネットワークだ。
次の共同体の形式はP2P的な形式ではないかと、ここ1年ほど考えている。
実際にそれはすでにあった。口コミやサークルとして。
しかし、それはひとたび固定化されるとP2P的ではなくなる。
出入りが自由な流動性を伴うことで、主流になり始めたのは、ごく最近だ。
転送量(=情報量=影響力)を各個体のサイズによって決めてしまっては、
これまでどおりの企業型資本主義と変わらない。
各個体が1として均等であれば、それは自由な発言の場として、
企業の暴力的な巨大さを排除できるんじゃないか?
(例:SMS、twitter)
これは、連邦制国家において、各邦の代表からなる上院の役割とよく似ている。
(人工の少ない邦の意見を確保することができる)
問題は、その枠組みを誰が提供するか。
ここにこそ合議のくじ引きを導入すべき(cf.柄谷行人『日本精神分析』)。
23.3.10
フランソワ・オゾン『8人の女たち』、コレット『シェリ』
・フランソワ・オゾン『8人の女たち』
事件という事態が、これまで隠していた事実を次々に明らかにしてゆくストーリー。
仮面同士の付き合いに過ぎなかった日常を示唆する。
うわべだけだったからこその円満な日常が
どんどん毀れて、お互いに信じられなくなる。
オゾンは家族を役付けとして捉えていて、
それを演じるのをやめたときの、
頬が痙攣するような不条理な笑いを見せつける。
それが非常に徹底的で、姉妹、親子はもちろん、
使用人とメイドの関係までも断たせるほど。
作用は解放にも働き、だからみな女性になる。綺麗に。
ふと、『12人の優しい日本人』を思わせた。
変に思ったが、共通点としては、
・一つの事件を検証して話が進む。
・常に同じ場が舞台。
・複数が形勢関係を揺らがせつつ動く。
などなど。題名の構造もなんとなく似ている。
・コレット『シェリ』
la vie parisienneを彩る物欲の目眩と、
それに似て破天荒に遊び狂うパリ社交界と。
初め、その駆け引きが、物欲じみてあからさまな気がして(現代よりははるかに繊細だけど)、
心地よい、しかし気取った印象を受けていた。
心象と視覚と、この二つの描写について、
コンスタン『アドルフ』は内が外を完全に優越しているとすれば、
『シェリ』は外が内を率いている、そう思っていた。
終盤の急展開は驚いた。
散りばめられた物欲の目眩が一気に洗い流され、心理小説だった。
文章は繊細ながら、大胆にも本筋を突く。
恋の名言集、あるいは恋の散文詩とも感じた。
事件という事態が、これまで隠していた事実を次々に明らかにしてゆくストーリー。
仮面同士の付き合いに過ぎなかった日常を示唆する。
うわべだけだったからこその円満な日常が
どんどん毀れて、お互いに信じられなくなる。
オゾンは家族を役付けとして捉えていて、
それを演じるのをやめたときの、
頬が痙攣するような不条理な笑いを見せつける。
それが非常に徹底的で、姉妹、親子はもちろん、
使用人とメイドの関係までも断たせるほど。
作用は解放にも働き、だからみな女性になる。綺麗に。
ふと、『12人の優しい日本人』を思わせた。
変に思ったが、共通点としては、
・一つの事件を検証して話が進む。
・常に同じ場が舞台。
・複数が形勢関係を揺らがせつつ動く。
などなど。題名の構造もなんとなく似ている。
・コレット『シェリ』
la vie parisienneを彩る物欲の目眩と、
それに似て破天荒に遊び狂うパリ社交界と。
初め、その駆け引きが、物欲じみてあからさまな気がして(現代よりははるかに繊細だけど)、
心地よい、しかし気取った印象を受けていた。
心象と視覚と、この二つの描写について、
コンスタン『アドルフ』は内が外を完全に優越しているとすれば、
『シェリ』は外が内を率いている、そう思っていた。
終盤の急展開は驚いた。
散りばめられた物欲の目眩が一気に洗い流され、心理小説だった。
文章は繊細ながら、大胆にも本筋を突く。
恋の名言集、あるいは恋の散文詩とも感じた。
21.3.10
クリストファー・ノーラン『メメント』、(小津安二郎『お早よう』)
・クリストファー・ノーラン『メメント』
今のことしか憶えていない主人公の、犯人探し。
時間を遡行して進行する映画って初めて。
事実は起きてから忘却されるまでに、
真実と、真実だと信じているもの、の間でゆれる。
映画が過去へと進むに従い、事実には疑問符が附され、嘘になって散る。
そんな中で、本当のこととは何なのだろう?
・小津安二郎『お早よう』
再生を始めたときに既視に気づいたが、折角なので再度観た。
世界がゆっくりしているので、観た後で歩く街の喧噪が、摑みどころがなかった。
今のことしか憶えていない主人公の、犯人探し。
時間を遡行して進行する映画って初めて。
事実は起きてから忘却されるまでに、
真実と、真実だと信じているもの、の間でゆれる。
映画が過去へと進むに従い、事実には疑問符が附され、嘘になって散る。
そんな中で、本当のこととは何なのだろう?
・小津安二郎『お早よう』
再生を始めたときに既視に気づいたが、折角なので再度観た。
世界がゆっくりしているので、観た後で歩く街の喧噪が、摑みどころがなかった。
19.3.10
アガンベン『スタンツェ』、講談社文芸文庫編『戦後短篇小説再発見10』
・ジョルジョ・アガンベン『スタンツェ 西洋文化における言葉とイメージ』
主体と客体、象徴と記号、シニフィアンとシニフィエ、固有と非固有、実と譬喩。
これらの近代的二項対立を、「物神崇拝(フェティッシュ)」の概念で溶けあわせる試論。
もっとも興味深かったのは、「第二章 オドラデクの世界で」。
19世紀末の万国博覧会が象徴するように、
藝術が陳列されて商品化されようとする潮流に対し、ボードレールが
異化効果によってその均一化に対抗しようとしたと紹介するくだり。
または、消費社会へと世界史上で初めて移行した時代の
ロンドンのBeau Brummell(洒落男ブランメル)。
その生態ははっきりいって、化粧と身だしなみに浮身を窶す現代人そのもの。
要は、商品に違和感なく埋没すること。
加えて、わずかに斜に構えて自分のうわべの優位をみせること。
「君はこの品物をジャケットと呼ぶのかい」という、
意味ありげながら空虚な科白に明らかな通りだ。
バルザックが「優雅な生活」にて、この新時代のクールさと商品の連関を見抜いていた
(それは思うに、王侯貴族的優雅さから第三身分的優雅さ(=消費社会)への移行が、
優雅さは正統性を失っても存在するという発見として現れたのではないか)。
中世医学で、精気(プネウマ)や四体液説が
如何に認識論や心理学を牛耳っていたか。
だからこそ、デカルトの心身二元論は革命的だったろうし、
それでいて後に、脳の一器官で心身の交感、と
云ってしまう不徹底は除去されきれなかったのだろう。
スフィンクスとオイディプスが、
象徴と記号(シニフィアン)の鬩ぎあい、として捉えられている。
しかし、「断片ゆえの完全性」という
偽ディオニュソス・アレオパギトゥス的な議論から、
この対立は二項的では決してない、と明かされる。
ここでふと思ったこと。
「(断片的なものとしての)象徴:(明晰なものとしての)記号」の関係から
商品について考えると、どうなるか?
文庫だから決して浩瀚というわけではない、しかし大変な読み応えだった。
・講談社文芸文庫『戦後短篇小説再発見10 表現の冒険』
高橋源一郎の「連続テレビ小説ドラえもん」を読みたくて手に取った。
常に一定型のコードに嵌め込まれて
友人関係、家族関係、などが語られる「ドラえもん」に対して、
徹底的にアンチテーゼをふっかける。
一話ずつが非常に短くて済むというのは、
語りが描写を欠いて物語の進行のみでも
漫画やアニメの絵を共有できるためか。
特に面白かったのは筒井康隆「遠い屋敷」と、吉田知子「お供え」。
「お供え」は、語りは私小説ながら、
断片(不安)を象徴(強引な統合・理解)に昇華するという現代宗教じみた事態、
そしてその新秩序に抗えない社会と個人、を題材として、面白かった。
「遠い屋敷」は、初めの歌のくだりが、屋敷の連なりとどう関わるのかがちと難しい。
無限に連なる屋敷という不条理すぎる世界観への意味づけ、現実感の付与か。
主体と客体、象徴と記号、シニフィアンとシニフィエ、固有と非固有、実と譬喩。
これらの近代的二項対立を、「物神崇拝(フェティッシュ)」の概念で溶けあわせる試論。
もっとも興味深かったのは、「第二章 オドラデクの世界で」。
19世紀末の万国博覧会が象徴するように、
藝術が陳列されて商品化されようとする潮流に対し、ボードレールが
異化効果によってその均一化に対抗しようとしたと紹介するくだり。
または、消費社会へと世界史上で初めて移行した時代の
ロンドンのBeau Brummell(洒落男ブランメル)。
その生態ははっきりいって、化粧と身だしなみに浮身を窶す現代人そのもの。
要は、商品に違和感なく埋没すること。
加えて、わずかに斜に構えて自分のうわべの優位をみせること。
「君はこの品物をジャケットと呼ぶのかい」という、
意味ありげながら空虚な科白に明らかな通りだ。
バルザックが「優雅な生活」にて、この新時代のクールさと商品の連関を見抜いていた
(それは思うに、王侯貴族的優雅さから第三身分的優雅さ(=消費社会)への移行が、
優雅さは正統性を失っても存在するという発見として現れたのではないか)。
中世医学で、精気(プネウマ)や四体液説が
如何に認識論や心理学を牛耳っていたか。
だからこそ、デカルトの心身二元論は革命的だったろうし、
それでいて後に、脳の一器官で心身の交感、と
云ってしまう不徹底は除去されきれなかったのだろう。
スフィンクスとオイディプスが、
象徴と記号(シニフィアン)の鬩ぎあい、として捉えられている。
しかし、「断片ゆえの完全性」という
偽ディオニュソス・アレオパギトゥス的な議論から、
この対立は二項的では決してない、と明かされる。
ここでふと思ったこと。
「(断片的なものとしての)象徴:(明晰なものとしての)記号」の関係から
商品について考えると、どうなるか?
文庫だから決して浩瀚というわけではない、しかし大変な読み応えだった。
・講談社文芸文庫『戦後短篇小説再発見10 表現の冒険』
高橋源一郎の「連続テレビ小説ドラえもん」を読みたくて手に取った。
常に一定型のコードに嵌め込まれて
友人関係、家族関係、などが語られる「ドラえもん」に対して、
徹底的にアンチテーゼをふっかける。
一話ずつが非常に短くて済むというのは、
語りが描写を欠いて物語の進行のみでも
漫画やアニメの絵を共有できるためか。
特に面白かったのは筒井康隆「遠い屋敷」と、吉田知子「お供え」。
「お供え」は、語りは私小説ながら、
断片(不安)を象徴(強引な統合・理解)に昇華するという現代宗教じみた事態、
そしてその新秩序に抗えない社会と個人、を題材として、面白かった。
「遠い屋敷」は、初めの歌のくだりが、屋敷の連なりとどう関わるのかがちと難しい。
無限に連なる屋敷という不条理すぎる世界観への意味づけ、現実感の付与か。
18.3.10
ジョエル・セリア『小さな悪の華』
原題:Mais nous ne délivrez pas du mal
『悪の華』よりむしろ『マルドロールの歌』だと思った。
性が商業的に氾濫した現在では、もうさしてスキャンダラスではないだろう。
耽美的な映画だった。
『悪の華』よりむしろ『マルドロールの歌』だと思った。
性が商業的に氾濫した現在では、もうさしてスキャンダラスではないだろう。
耽美的な映画だった。
14.3.10
長池公園備忘録
われわれは意識しないながらある枠組みに嵌められて
思考・行動・判断をしている、ということを改めて感じた。
そして、その枠組みを気づかせ、相対化させる営みこそ、学問であり批評だと思う。
地域共同体をテーマとした内容。切り口はトルコと日本。
新井政美先生の、オスマン近現代史通説。
世界史的概説ではあれ、主にヨーロッパとの関係性で
トルコが形成されたと云う普遍性のようなものが見え、面白かった。
(柄谷先生には、イランやアフガン、日本との関係が疎か、と
批判されていたが、四十分程度の通史では幾分仕方ない気もする)
内容としては、非常に両義的な立場
(ヨーロッパとイスラム、近代的国民性と多民族、
連合国と枢軸国、資本主義陣営と共産主義陣営)に揺れ動いた実情。
・緩やかに統合された王朝から、近代的な国民国家を目指すにあたり、
多民族統合がいかに打撃を受けてきたか。
・あり方の多重性(ヨーロッパ、イスラム、アジア)。
・時代時代の大国に翻弄される歴史(→両義的立場)。
苅部直先生から、オスマンにおけるカリフをトップにおいたギルド的自治が
江戸時代の村の自治権に類似する、という観点からの、
「自治」という言葉の暗に含む西洋的枠組みについて指摘があった。
イナン・オネル先生の、トルコの思想運動の流れと現状。
一神教についての言説で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を
モーセ派、イエス派、マホメット派、と呼び変えられる、とあった。
三者のある種の差異を包み込むとともに、
気づかなかった類似性を浮き出させてくれる恰好の方法だ、と思った。
クルド問題の日本での報道のされ方への疑問。
高澤秀次先生の、「東アジア共同体」の歴史的系譜。
近衛文麿内閣における「東亜新秩序」が三木清、尾崎秀実を取り入れつつ、
一方では石原莞爾や北一輝なども地域共同体を志向したという報告と、
当時の言説では資本主義批判すら可能だったという指摘。
(要は天皇制が護持されればよかったということか。
天皇制の絶対性は、日本的帝国主義の最も特徴的なところかと思う)
戦後のアジア論。竹内好、廣松渉。
ASEANなりAPECなりがあれ、
結局は北朝鮮排除の役割から脱せていないことの指摘が柄谷先生からあり、
大澤真幸先生も、東アジア共同体をユートピア的に提唱するのではなく、
北朝鮮問題をアジアが解決することで地域共同体への下地とする方が
先決だし自然な流れ、と指摘。
東アジア共同体を提唱しながらも高校無償化から朝鮮学校を対象外とするという
片手落ちな部分への、鋭い指摘があった。
「(東西ドイツ統一とEU)∽(北朝鮮と東アジア共同体形成)」の図式を感じた。
また、話はかなり国際関係的だったが、
「北朝鮮をしかるべき方法で経済援助し、それによって裕福になれば、北朝鮮問題は解決する」
という柄谷先生の発言は、過激と受け止められうるけれども、
問題の本質をついていたように思った。
トルコ共和国がEU加盟で問題視されているのは、イスラム教だとかいろいろあれ、
結局のところ経済問題ではないか、といえてしまうのは、そういうことなのではないか。
しばしば出てきた韓国思想家の白楽晴(ペク・ナクチョン)も、いずれ読みたい。
思考・行動・判断をしている、ということを改めて感じた。
そして、その枠組みを気づかせ、相対化させる営みこそ、学問であり批評だと思う。
地域共同体をテーマとした内容。切り口はトルコと日本。
新井政美先生の、オスマン近現代史通説。
世界史的概説ではあれ、主にヨーロッパとの関係性で
トルコが形成されたと云う普遍性のようなものが見え、面白かった。
(柄谷先生には、イランやアフガン、日本との関係が疎か、と
批判されていたが、四十分程度の通史では幾分仕方ない気もする)
内容としては、非常に両義的な立場
(ヨーロッパとイスラム、近代的国民性と多民族、
連合国と枢軸国、資本主義陣営と共産主義陣営)に揺れ動いた実情。
・緩やかに統合された王朝から、近代的な国民国家を目指すにあたり、
多民族統合がいかに打撃を受けてきたか。
・あり方の多重性(ヨーロッパ、イスラム、アジア)。
・時代時代の大国に翻弄される歴史(→両義的立場)。
苅部直先生から、オスマンにおけるカリフをトップにおいたギルド的自治が
江戸時代の村の自治権に類似する、という観点からの、
「自治」という言葉の暗に含む西洋的枠組みについて指摘があった。
イナン・オネル先生の、トルコの思想運動の流れと現状。
一神教についての言説で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を
モーセ派、イエス派、マホメット派、と呼び変えられる、とあった。
三者のある種の差異を包み込むとともに、
気づかなかった類似性を浮き出させてくれる恰好の方法だ、と思った。
クルド問題の日本での報道のされ方への疑問。
高澤秀次先生の、「東アジア共同体」の歴史的系譜。
近衛文麿内閣における「東亜新秩序」が三木清、尾崎秀実を取り入れつつ、
一方では石原莞爾や北一輝なども地域共同体を志向したという報告と、
当時の言説では資本主義批判すら可能だったという指摘。
(要は天皇制が護持されればよかったということか。
天皇制の絶対性は、日本的帝国主義の最も特徴的なところかと思う)
戦後のアジア論。竹内好、廣松渉。
ASEANなりAPECなりがあれ、
結局は北朝鮮排除の役割から脱せていないことの指摘が柄谷先生からあり、
大澤真幸先生も、東アジア共同体をユートピア的に提唱するのではなく、
北朝鮮問題をアジアが解決することで地域共同体への下地とする方が
先決だし自然な流れ、と指摘。
東アジア共同体を提唱しながらも高校無償化から朝鮮学校を対象外とするという
片手落ちな部分への、鋭い指摘があった。
「(東西ドイツ統一とEU)∽(北朝鮮と東アジア共同体形成)」の図式を感じた。
また、話はかなり国際関係的だったが、
「北朝鮮をしかるべき方法で経済援助し、それによって裕福になれば、北朝鮮問題は解決する」
という柄谷先生の発言は、過激と受け止められうるけれども、
問題の本質をついていたように思った。
トルコ共和国がEU加盟で問題視されているのは、イスラム教だとかいろいろあれ、
結局のところ経済問題ではないか、といえてしまうのは、そういうことなのではないか。
しばしば出てきた韓国思想家の白楽晴(ペク・ナクチョン)も、いずれ読みたい。
9.3.10
侯孝賢『戀戀風塵』
兵役と恋の終わりという同じ題材を求めた映画として、
ジャック・ドゥミ『シェルブールの雨傘』が連想されるのは当然だろう。
だがこの題材は、『戀戀風塵』という映画の終わりを彩るだけで、
映画全体を貫く主題ではない。
主題は淡々としたホンとワンがお互いを意識する淡さだ。
どうしてどうなるのか? ただ同じ田舎で同じように台北に出たから。
必然だ。あるいは、運命と呼んでもよいかもしれない。
そうやって考えると、あらゆるところに、
こういった淡々と流れる因果のような運命がある。
ワンの祖父がよくつぶやく諦観がそうだし、
父親の兵役の話や、勉強が無駄になった話、
それらはワンに何かを示唆するでもなく淡々と語られるだけ。
『シェルブールの雨傘』と比較するとき、この淡々とした諦観が
いわゆるアジア的な感覚として際立つ気がする。
ジャック・ドゥミ『シェルブールの雨傘』が連想されるのは当然だろう。
だがこの題材は、『戀戀風塵』という映画の終わりを彩るだけで、
映画全体を貫く主題ではない。
主題は淡々としたホンとワンがお互いを意識する淡さだ。
どうしてどうなるのか? ただ同じ田舎で同じように台北に出たから。
必然だ。あるいは、運命と呼んでもよいかもしれない。
そうやって考えると、あらゆるところに、
こういった淡々と流れる因果のような運命がある。
ワンの祖父がよくつぶやく諦観がそうだし、
父親の兵役の話や、勉強が無駄になった話、
それらはワンに何かを示唆するでもなく淡々と語られるだけ。
『シェルブールの雨傘』と比較するとき、この淡々とした諦観が
いわゆるアジア的な感覚として際立つ気がする。
7.3.10
及川中『日本製少年』
1995年の作品という。日本が閉塞の真っただ中にある時代だ。
大和(大沢樹生)の目力は、居場所のない彷徨の中で何を見据えていたのか。
かつて清掃人として勤めて馘になった浦安の楽園を遠巻きに、舞台は延々と淡々と廻る。
ふざけながら、飽きながら、とぼとぼ歩いてゆく切なさが、見ていて重かった。
とうとうペースペーカーの電池が切れて死んだカオル(嶋田加織)の身体を
抱き起こそうとしては地に崩す遠景、背景は海の潮。切なかった。
約束が叶ってゴミ箱に捨てられたカオルの満足そうな表情は
何に満足していたのか? 生きたこと?
カオルの生い立ちは語られない。だから一層、胸を打った。
大和(大沢樹生)の目力は、居場所のない彷徨の中で何を見据えていたのか。
かつて清掃人として勤めて馘になった浦安の楽園を遠巻きに、舞台は延々と淡々と廻る。
ふざけながら、飽きながら、とぼとぼ歩いてゆく切なさが、見ていて重かった。
とうとうペースペーカーの電池が切れて死んだカオル(嶋田加織)の身体を
抱き起こそうとしては地に崩す遠景、背景は海の潮。切なかった。
約束が叶ってゴミ箱に捨てられたカオルの満足そうな表情は
何に満足していたのか? 生きたこと?
カオルの生い立ちは語られない。だから一層、胸を打った。
6.3.10
アレクサンダー・ソクロフ『太陽』
イッセー尾形演じる唱和天皇の孤独が主題。
こうも表情と動きを抑えて演じきれるものなのか。
とにかく秀逸さには驚いた。
撮影時にチャップリンと囃される場面が印象的だった。
もちろんその服装からだが、
所詮は天皇も機構の歯車にすぎないからだろう。
動きがカクカクすぎることもあるかもしれない。
周囲に畏みを課さざるを得ない、
日本軍の長として国民に戦死と自決を課さざるを得ない、
極言すれば触れれば死に至る存在として宮城内に過ごし、
ようやくその肩の荷の降りたヒロヒトは、
人間宣言を録音した技官の自決をどう感じたのだろうか。
皇后と子どもたちを想う父親としても、大きく描かれている。
戦後の皇室像に引き寄せてか。
母子手帳をはじめとする明仁の一子の徳仁の例が、
前例のない皇室の姿だったことを、連想させた(深読みし過ぎかも)。
でもこの題材は、父親の姿というより、
皇居に単身赴任状態という、寂しさの一面のために思えた。
こうも表情と動きを抑えて演じきれるものなのか。
とにかく秀逸さには驚いた。
撮影時にチャップリンと囃される場面が印象的だった。
もちろんその服装からだが、
所詮は天皇も機構の歯車にすぎないからだろう。
動きがカクカクすぎることもあるかもしれない。
周囲に畏みを課さざるを得ない、
日本軍の長として国民に戦死と自決を課さざるを得ない、
極言すれば触れれば死に至る存在として宮城内に過ごし、
ようやくその肩の荷の降りたヒロヒトは、
人間宣言を録音した技官の自決をどう感じたのだろうか。
皇后と子どもたちを想う父親としても、大きく描かれている。
戦後の皇室像に引き寄せてか。
母子手帳をはじめとする明仁の一子の徳仁の例が、
前例のない皇室の姿だったことを、連想させた(深読みし過ぎかも)。
でもこの題材は、父親の姿というより、
皇居に単身赴任状態という、寂しさの一面のために思えた。
28.2.10
マルセル・エメ傑作短編集
20世紀の暗いユーモアが語った、でも人間味ある物語たちだった。
星新一っぽいかもしれないけれど、
パリやプロヴァンスの舞台や時代、情景は心境とともに、
綺麗に文体に写し取られている。
第一次大戦で一気に突入した、
戦争と総力戦の世紀としての短い20世紀の幕開け、
それと同時に断ち切られた19世紀への望郷が、
ところどころで垣間見えるような気がした。
人はたくましく、都市のグロテスクを生きてゆく。
星新一っぽいかもしれないけれど、
パリやプロヴァンスの舞台や時代、情景は心境とともに、
綺麗に文体に写し取られている。
第一次大戦で一気に突入した、
戦争と総力戦の世紀としての短い20世紀の幕開け、
それと同時に断ち切られた19世紀への望郷が、
ところどころで垣間見えるような気がした。
人はたくましく、都市のグロテスクを生きてゆく。
24.2.10
折口信夫『死者の書』
大津皇子の魂が二上山の墓で目醒め、藤原南家郎女を呼ぶ。
藤原南家郎女はその俤を感じて、導かれるように都を出る。
蓮から糸を紡ぎ、その細い糸を奇蹟的に織り上げ、
そこに描いた曼荼羅絵の、刹那にして永遠のきらめき。
この伝説めいた感じ。
大津皇子の子孫の淡海三船、藤原仲麻呂(=恵美押勝、南家)、
大伴家持、といった官僚たちの権力争いが、脇で垣間見える。
そのせせこましさ、無常感は、主題の力強い素朴さを逆に強調し、哀れで滑稽。
言葉の端々に見える、紫微中台、大師といった官職名は、
唐風に染まった天平文化の頃の特有の名称だ。
または、平城京のだだっぴろい寂しい描写が西安の都を対比させる。
さらには、神ではなく仏が、神秘の核にある。
でも、ここに描かれた仏は、果たして仏教的な仏なのか。
葛城の寺院と、物忌の思想、さらには大津皇子の俤が菩薩となって現れるということ、
これらはかなり日本化された仏信仰ではないだろうか。
躑躅(ツツジ)や田植え、嵐、村の描写は、
どうしても緑豊かな奈良盆地を脳裡に浮かべずにはいられない。
二上山のたおやかな双峯も、また奈良らしい景色だ。
旧仮名遣いの文章ながら、さほど意識せずに読めたのは、
漢語が少なく大和言葉の多い文体ゆえかもしれない。
むしろ、漢字熟語をここまで抑制して、この表現力。
藤原南家郎女はその俤を感じて、導かれるように都を出る。
蓮から糸を紡ぎ、その細い糸を奇蹟的に織り上げ、
そこに描いた曼荼羅絵の、刹那にして永遠のきらめき。
この伝説めいた感じ。
大津皇子の子孫の淡海三船、藤原仲麻呂(=恵美押勝、南家)、
大伴家持、といった官僚たちの権力争いが、脇で垣間見える。
そのせせこましさ、無常感は、主題の力強い素朴さを逆に強調し、哀れで滑稽。
言葉の端々に見える、紫微中台、大師といった官職名は、
唐風に染まった天平文化の頃の特有の名称だ。
または、平城京のだだっぴろい寂しい描写が西安の都を対比させる。
さらには、神ではなく仏が、神秘の核にある。
でも、ここに描かれた仏は、果たして仏教的な仏なのか。
葛城の寺院と、物忌の思想、さらには大津皇子の俤が菩薩となって現れるということ、
これらはかなり日本化された仏信仰ではないだろうか。
躑躅(ツツジ)や田植え、嵐、村の描写は、
どうしても緑豊かな奈良盆地を脳裡に浮かべずにはいられない。
二上山のたおやかな双峯も、また奈良らしい景色だ。
旧仮名遣いの文章ながら、さほど意識せずに読めたのは、
漢語が少なく大和言葉の多い文体ゆえかもしれない。
むしろ、漢字熟語をここまで抑制して、この表現力。
21.2.10
諏訪敦彦&イポリット・ジラルド『ユキとニナ』、アンドレ・ブルトン『ナジャ』
・諏訪敦彦&イポリット・ジラルド『ユキとニナ』
子供が両親の離婚をどう受け入れてゆくか、になるんだろう。
母親の、そのことへの子供への説明や態度が、とてもフランス人的だった。
潔いくらいドライだが、だから子供の心にはけっこう暴力的。
あくまでも両親のことだから、そこに挟まれたユキの振る舞いが、
どうしても強制されたものになってしまう。
離婚の理由を問う手紙に泣かれた母を前にして、もう自分は泣けない。
日本にきて良かったかという母の問いに対して、「…うん」としか答えられない。
この言葉にならない立場の危うさの感覚、それがこの作品とその設定には豊潤だった。
上映後、諏訪監督のトークショーがあった。
作品への思い、脚本の即興さがどんなふうなのか、などが、
寡黙の奥から絞り出すようにして語られた。
だから重みがあったし、パフォーマンスではない正直な声だったと思う。
脚本には設定と登場人物の思い、そこから帰結されるかもしれない科白、のほかは
書かれていない、ということだった。
役を着た役者たちがどう振る舞うか、それは自由なのだ、と。
『M/OTHER』のカットの長さも、そうすると理解できるし、
一見何も起きていない、動きのないシーンも、
細やかな心境の動きとして保存されているのだな、と思った。
・アンドレ・ブルトン『ナジャ』
« Qui suis-je ? » に、語りは始まる。
動詞suisがêtreでもありsuivreでもあることが、
作品に深い深い主題を落とす。
「私は誰か?」と「私は誰を追っているのか?」は
両義的な違いなのか、本質的には同一なのか?
パリを彷徨し、ときには近郊へもふらふらと赴いて、
ブルトンはナジャを追う。
ナジャがいなくなり、はたと自分をも見失う。
次の女性と付き合ってナジャを意識から遠ざけようにも、
そのようにしてナジャの影を追っている。
夢幻の心地に茫然として書かれた手記のよう。
美しい、そして結びにあるとおり、CONVULSIVEな作品だった。
子供が両親の離婚をどう受け入れてゆくか、になるんだろう。
母親の、そのことへの子供への説明や態度が、とてもフランス人的だった。
潔いくらいドライだが、だから子供の心にはけっこう暴力的。
あくまでも両親のことだから、そこに挟まれたユキの振る舞いが、
どうしても強制されたものになってしまう。
離婚の理由を問う手紙に泣かれた母を前にして、もう自分は泣けない。
日本にきて良かったかという母の問いに対して、「…うん」としか答えられない。
この言葉にならない立場の危うさの感覚、それがこの作品とその設定には豊潤だった。
上映後、諏訪監督のトークショーがあった。
作品への思い、脚本の即興さがどんなふうなのか、などが、
寡黙の奥から絞り出すようにして語られた。
だから重みがあったし、パフォーマンスではない正直な声だったと思う。
脚本には設定と登場人物の思い、そこから帰結されるかもしれない科白、のほかは
書かれていない、ということだった。
役を着た役者たちがどう振る舞うか、それは自由なのだ、と。
『M/OTHER』のカットの長さも、そうすると理解できるし、
一見何も起きていない、動きのないシーンも、
細やかな心境の動きとして保存されているのだな、と思った。
・アンドレ・ブルトン『ナジャ』
« Qui suis-je ? » に、語りは始まる。
動詞suisがêtreでもありsuivreでもあることが、
作品に深い深い主題を落とす。
「私は誰か?」と「私は誰を追っているのか?」は
両義的な違いなのか、本質的には同一なのか?
パリを彷徨し、ときには近郊へもふらふらと赴いて、
ブルトンはナジャを追う。
ナジャがいなくなり、はたと自分をも見失う。
次の女性と付き合ってナジャを意識から遠ざけようにも、
そのようにしてナジャの影を追っている。
夢幻の心地に茫然として書かれた手記のよう。
美しい、そして結びにあるとおり、CONVULSIVEな作品だった。
14.2.10
諏訪敦彦『M/OTHER』
同棲相手が元妻との子を家に連れてくる。
それがそれでうまく回ると、
男は無意識に「家」の主になってしまう…ということなのか。
M/OTHERってのは、子供から父親の同棲相手を見た微妙な立場のことと思ったが、
子供ができると夫からも同じような立場で見られる、
という閉塞の意味が隠されているのかもしれない、と思った。
閉塞…。
それが垣間見えてしまったから、二人の同棲生活はもう
もとに戻りようもなかったんじゃないか。
気づいたのは、1カットが非常に長いこと。
さらに、カメラワークも最小限なので、アングルが計算されている。
アンドレ・バザンの1シーン1カットの美学を継いで?
しかしそれは良い意味でドラマチックではなく、
ゆえに日常を日常感を失わずに映像に写しとれているように思う。
もっとも、間延びとも云えなくはない。観るのに集中力が要った。
それがそれでうまく回ると、
男は無意識に「家」の主になってしまう…ということなのか。
M/OTHERってのは、子供から父親の同棲相手を見た微妙な立場のことと思ったが、
子供ができると夫からも同じような立場で見られる、
という閉塞の意味が隠されているのかもしれない、と思った。
閉塞…。
それが垣間見えてしまったから、二人の同棲生活はもう
もとに戻りようもなかったんじゃないか。
気づいたのは、1カットが非常に長いこと。
さらに、カメラワークも最小限なので、アングルが計算されている。
アンドレ・バザンの1シーン1カットの美学を継いで?
しかしそれは良い意味でドラマチックではなく、
ゆえに日常を日常感を失わずに映像に写しとれているように思う。
もっとも、間延びとも云えなくはない。観るのに集中力が要った。
petite amie
Je sors avec une fille de dix-neuf ans depuis hier soir.
Je ne dis à personne où et comment nous avons rencontré.
Je ne dis à personne où et comment nous avons rencontré.
13.2.10
ポール・ハギス『クラッシュ』
良い映画……というか、良い題材ではあるけれど、
ちょっとあからさま過ぎるきらいがある。
それに、最後はなあなあの感がどうしても否めなかった。
子供に天使をかけるのはLos Ángelesだから? とすると、安直。
ちょっとあからさま過ぎるきらいがある。
それに、最後はなあなあの感がどうしても否めなかった。
子供に天使をかけるのはLos Ángelesだから? とすると、安直。
テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』
高雅の夢のあと。
プラトン的に追求する妄想に走るか、動物的に生きることだけを生きるか。
このそりの合わない二者の態度をめぐる、うるさくて哀しい喧嘩。
舞台はNouvelle Orléans、英語名ニュー・オーリンズ。
ブランチ(Belanche Du Bois)の元の農園の名称はBelle Rêve。
喧噪としみったれた下町は、その名もフレンチ・クオーター。
まさに、旧世界の思い出にはもう戻れないアメリカの土地。
欲望の電車は、そこへ向かうのか逃げるのか。
プラトン的に追求する妄想に走るか、動物的に生きることだけを生きるか。
このそりの合わない二者の態度をめぐる、うるさくて哀しい喧嘩。
舞台はNouvelle Orléans、英語名ニュー・オーリンズ。
ブランチ(Belanche Du Bois)の元の農園の名称はBelle Rêve。
喧噪としみったれた下町は、その名もフレンチ・クオーター。
まさに、旧世界の思い出にはもう戻れないアメリカの土地。
欲望の電車は、そこへ向かうのか逃げるのか。
11.2.10
西川美和『ディア・ドクター』
『ゆれる』もそうだったけれども、
作品は状況説明と裁きの二部構成のプロットになっている。
そして、どちらが正しいのかが問われる。
人望厚いヤブ医者と、ルーチンワークに堕した正規の医者。
そして、その判断を下すのは、警察なのか、村なのか、
その執行権のようなものの主体さえ「ゆれる」。
社会派ドラマではある、しかしこの組み立てはそれと関係ない。
同じ監督の他の監督の作品も、プロットゆえに観てみたい。
作品は状況説明と裁きの二部構成のプロットになっている。
そして、どちらが正しいのかが問われる。
人望厚いヤブ医者と、ルーチンワークに堕した正規の医者。
そして、その判断を下すのは、警察なのか、村なのか、
その執行権のようなものの主体さえ「ゆれる」。
社会派ドラマではある、しかしこの組み立てはそれと関係ない。
同じ監督の他の監督の作品も、プロットゆえに観てみたい。
7.2.10
ドナースマルク『善き人のためのソナタ』、タルリ『明日、君がいない』
・フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク『善き人のためのソナタ』
東ドイツの作家たちと検閲を巡る人間ドラマで、
面白かった。
結末が秀逸。
・ムラーリ・クリシュナ・タルリ『明日、君がいない』
月並みの模倣を固有と信じて疑わないことが青春の醜悪さだと、
柄谷行人は初期評論で云っていたような気がする。
だが、青春に悩むべき主題は無数にあるし、
それを経てこその発達なのだろう。
原題は『2:37』。作品を観ないことには何もわからない定量。
どうして自殺したのが××なのか。
「悩み」が人生の主題ということ? 生きるための殻だということ?
でも、そんな一般論の逆説で片づくような映画ではない。
木々に縁取られた空を見上げてぐるぐる回るシーンは、
パゾリーニの『アポロンの地獄』(だと思うんだけど…)を思い起こさせた。
エリック・サティの『ジムノペディ』の繰り返しの閉塞感と相俟って、
問いは深い。
東ドイツの作家たちと検閲を巡る人間ドラマで、
面白かった。
結末が秀逸。
・ムラーリ・クリシュナ・タルリ『明日、君がいない』
月並みの模倣を固有と信じて疑わないことが青春の醜悪さだと、
柄谷行人は初期評論で云っていたような気がする。
だが、青春に悩むべき主題は無数にあるし、
それを経てこその発達なのだろう。
原題は『2:37』。作品を観ないことには何もわからない定量。
どうして自殺したのが××なのか。
「悩み」が人生の主題ということ? 生きるための殻だということ?
でも、そんな一般論の逆説で片づくような映画ではない。
木々に縁取られた空を見上げてぐるぐる回るシーンは、
パゾリーニの『アポロンの地獄』(だと思うんだけど…)を思い起こさせた。
エリック・サティの『ジムノペディ』の繰り返しの閉塞感と相俟って、
問いは深い。
塚本邦雄の三歌 戦後、過日、煌めき
(A)たまかぎる言はぬが花のそのむかし大日本は神国なり・き
(B)春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令状
(C)あぢさゐに腐臭ただよひ、日本はかならず日本人がほろばす
Aについて:
枕詞「たまかぎる」は、玉のごとく麗しいこと限りない、の意味。
大日本=神国に係るのではなく、そのむかし、に係るのではないか。
そう読むと、あまりに保守的でもはやお伽話じみたノスタルジーだ。
だって、過去それ自体が好いもの、なのだから
(=「なのに最近の若い者は…」)。
過去の栄光の大日本。これが歌のベース、下地、となる。
そこに突きつけた「言わぬが花」と「・き」が現在のスタンスで、
歌の意をどう舵取らせているのか。
いや、むしろ、過去のベースから、現在にいる読み手が
どれだけ立ち位置を遠ざけているか、
ということで読み解いた方が良いように思う。
過去は現在に深く繋がっている。
戦後の経済発展を享受しながら、
過去を棚上げにして素知らぬ顔の平均的日本人が、
読み手の目の前にあるわけです。
その仮面を剥ぎ取り「じゃあ昔の日本はなんだったんだ?」と
問うたときの答えが、この一歌なんじゃなかろうか。
「・き」の中黒の空白の意味するところは?
哀愁の心地? 訣別?
Bについて:
夢=春の夜の夢ばかりに包まれていること
現実=春の夜の夢が永続しないこと、召集令状
「あかねさす」は「日」に係るが、ここで召集令状に係っていることで、
召集令状が夜明け(=現実)であると読める。
召集令状の赤色、さらには日章旗・旭日旗が透けて見える。
夜明けに赤紙を渡されて目覚める。戦後から戦中への逆戻り。
あり得ない時間の逆行を、この歌は提示しているのだ。
あかねさす召集令状は、果たして夢の続きなのか現なのか?
残念ながら現なのだ。向かう先は?
街頭の右翼の主張するような無謀な自滅を揶揄したいのか、
物質的にばかり豊かになってだらけた国に頬を張りたいのか?
Cについて:
「あぢさゐ」はアジサイ科の卯の花から「卯の花腐し」を連想させる。
むんむんとした五月雨の湿気の中で咲いて、咲いたまま腐敗する。
梅雨が過ぎて旭日が空に輝くとき、日本は蘇るのだ! みたいな感じ?
しかし、これは読み込みの一つだ。そこまで過激には歌われていない。
危うい感じだが、両手挙げての断言というより、鋭利な指摘、だ。
戦中の精神性、戦後の経済至上主義、両者の断絶としての戦争・戦後。
この三者の関係を歌った短歌を挙げてきた。この歌もそうだ。
面白いのは、「日本」をニッポン、「日本人」をニホンジンと読む相違。
大意に添えられた技巧ではあるが、精緻さを感じさせる。
(B)春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令状
(C)あぢさゐに腐臭ただよひ、日本はかならず日本人がほろばす
Aについて:
枕詞「たまかぎる」は、玉のごとく麗しいこと限りない、の意味。
大日本=神国に係るのではなく、そのむかし、に係るのではないか。
そう読むと、あまりに保守的でもはやお伽話じみたノスタルジーだ。
だって、過去それ自体が好いもの、なのだから
(=「なのに最近の若い者は…」)。
過去の栄光の大日本。これが歌のベース、下地、となる。
そこに突きつけた「言わぬが花」と「・き」が現在のスタンスで、
歌の意をどう舵取らせているのか。
いや、むしろ、過去のベースから、現在にいる読み手が
どれだけ立ち位置を遠ざけているか、
ということで読み解いた方が良いように思う。
過去は現在に深く繋がっている。
戦後の経済発展を享受しながら、
過去を棚上げにして素知らぬ顔の平均的日本人が、
読み手の目の前にあるわけです。
その仮面を剥ぎ取り「じゃあ昔の日本はなんだったんだ?」と
問うたときの答えが、この一歌なんじゃなかろうか。
「・き」の中黒の空白の意味するところは?
哀愁の心地? 訣別?
Bについて:
夢=春の夜の夢ばかりに包まれていること
現実=春の夜の夢が永続しないこと、召集令状
「あかねさす」は「日」に係るが、ここで召集令状に係っていることで、
召集令状が夜明け(=現実)であると読める。
召集令状の赤色、さらには日章旗・旭日旗が透けて見える。
夜明けに赤紙を渡されて目覚める。戦後から戦中への逆戻り。
あり得ない時間の逆行を、この歌は提示しているのだ。
あかねさす召集令状は、果たして夢の続きなのか現なのか?
残念ながら現なのだ。向かう先は?
街頭の右翼の主張するような無謀な自滅を揶揄したいのか、
物質的にばかり豊かになってだらけた国に頬を張りたいのか?
Cについて:
「あぢさゐ」はアジサイ科の卯の花から「卯の花腐し」を連想させる。
むんむんとした五月雨の湿気の中で咲いて、咲いたまま腐敗する。
梅雨が過ぎて旭日が空に輝くとき、日本は蘇るのだ! みたいな感じ?
しかし、これは読み込みの一つだ。そこまで過激には歌われていない。
危うい感じだが、両手挙げての断言というより、鋭利な指摘、だ。
戦中の精神性、戦後の経済至上主義、両者の断絶としての戦争・戦後。
この三者の関係を歌った短歌を挙げてきた。この歌もそうだ。
面白いのは、「日本」をニッポン、「日本人」をニホンジンと読む相違。
大意に添えられた技巧ではあるが、精緻さを感じさせる。
6.2.10
円城塔「オブ・ザ・ベースボール」、ペドロ・アルモドバル『オール・アバウト・マイ・マザー』
・円城塔「オブ・ザ・ベースボール」
つまらなかった。でもそれは、
提示内容がそう見せかける必要があるから。……なのか?
これで複雑系ぶってもらっては困る、というのが正直なところ。
そのくせ現実を斜に構えて、
『ライ麦畑でつかまえて』をパロって見せる辺り、
何がしたいのかあまりよくわからない。
「俺たちはレスキュー・チームではなくて
ベースボール・チームではない」って、何回云うかね。
『ライ麦畑…』のお伽話から醒めさせたいだけのための小説?
難解、ではなくて、難解ぶってるし。
語りの衒学(での水増し?)、てな文体が、
かなり鬱陶しいものの、読みやすくて、せめてもの救い。
・ペドロ・アルモドバル「オール・アバウト・マイ・マザー」
映像が自然とカラフルな、南欧の感触が、久しぶりだ。
そして、ペネロペ・クルスが好いね。
男の名前エステバンほか、作中反復があちこちにあって、
だから粗筋にまとめられない、よい映画だった。
劇中劇でテネシー・ウィリアムズの未読作品が重要だったので、
図書館で借りてきた。
つまらなかった。でもそれは、
提示内容がそう見せかける必要があるから。……なのか?
これで複雑系ぶってもらっては困る、というのが正直なところ。
そのくせ現実を斜に構えて、
『ライ麦畑でつかまえて』をパロって見せる辺り、
何がしたいのかあまりよくわからない。
「俺たちはレスキュー・チームではなくて
ベースボール・チームではない」って、何回云うかね。
『ライ麦畑…』のお伽話から醒めさせたいだけのための小説?
難解、ではなくて、難解ぶってるし。
語りの衒学(での水増し?)、てな文体が、
かなり鬱陶しいものの、読みやすくて、せめてもの救い。
・ペドロ・アルモドバル「オール・アバウト・マイ・マザー」
映像が自然とカラフルな、南欧の感触が、久しぶりだ。
そして、ペネロペ・クルスが好いね。
男の名前エステバンほか、作中反復があちこちにあって、
だから粗筋にまとめられない、よい映画だった。
劇中劇でテネシー・ウィリアムズの未読作品が重要だったので、
図書館で借りてきた。
1.2.10
田中慎弥「図書準備室」、澁澤龍彦『初期小説集』
田中慎弥「図書準備室」
中篇としてそつがない、とでも云おうか…。
何が書きたかったんだろう。
何かを信じることと、全く逃げ続けることの、両極端?
小説で○○を書こう、ではなく、小説書こう、という意図でできた、
みたいな、そんな作品。
妙につるんとしてて、面白さのスパイス的なものがなかった。
澁澤龍彦『初期小説集』
博識の独白のような文体と、夥しい情報量、
これらに覆い隠されるようにして、
時間経緯の欠如があるのを、感じた。
日常にピン留めされない、祭じみた、あるいは寓話じみた時間が流れる。
それはいいとして…やはり面白い。
「陽物神譚」は、横尾忠則のような原色のキャンバスに
中世の陰陽をちりばめて夜にしたような、すばらしい短篇だった。
中篇としてそつがない、とでも云おうか…。
何が書きたかったんだろう。
何かを信じることと、全く逃げ続けることの、両極端?
小説で○○を書こう、ではなく、小説書こう、という意図でできた、
みたいな、そんな作品。
妙につるんとしてて、面白さのスパイス的なものがなかった。
澁澤龍彦『初期小説集』
博識の独白のような文体と、夥しい情報量、
これらに覆い隠されるようにして、
時間経緯の欠如があるのを、感じた。
日常にピン留めされない、祭じみた、あるいは寓話じみた時間が流れる。
それはいいとして…やはり面白い。
「陽物神譚」は、横尾忠則のような原色のキャンバスに
中世の陰陽をちりばめて夜にしたような、すばらしい短篇だった。
27.1.10
岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』
短篇二篇。
どちらも文章はとても口語的で、するすると読めるし、
やはり口語じゃないと伝わらなそうな
微妙なニュアンスを汲み取った表現が面白い。
特徴的だな、と思ったのは、話者がときどき巧妙にすり替わること。
登場人物のみなさんの声が聞ける、とでもいおうか。
しかし、やはり日常のサブに徹しているなぁ。
現代の(ゼロ世代の)語りってのは、こうなってしまうのだろうか。
どちらも文章はとても口語的で、するすると読めるし、
やはり口語じゃないと伝わらなそうな
微妙なニュアンスを汲み取った表現が面白い。
特徴的だな、と思ったのは、話者がときどき巧妙にすり替わること。
登場人物のみなさんの声が聞ける、とでもいおうか。
しかし、やはり日常のサブに徹しているなぁ。
現代の(ゼロ世代の)語りってのは、こうなってしまうのだろうか。
24.1.10
アルベルト・モラーヴィア『無関心な人々』、ダニー・ボイル『スラムドッグ$ミリオネア』、川上美映子『ヘヴン』
○アルベルト・モラーヴィア『無関心な人々』
この完成度で処女作、ってのがちょっと信じ難い。
主人公の苦悩の元凶であり、主題である「無関心」ってのは、
実存の不安、と云ってしまえばしまいなんだろう。
でも、主題も意識も情景も、細部まで豊かに描かれていて、
本当に面白かった。
特に、母親マリーアグラツィアの妄想狂的な人物像。
また、鏡のイメージがときどき出てきて、
それが象徴的だった。
○ダニー・ボイル『スラムドッグ$ミリオネア』
和光にて一緒に観ていた先輩たちとともに、思わず拍手。面白い!
滑り出しからして惹き込まれるし、
プロットも、カシッ、カシッ、と嵌ってゆく。
何より、題材が大きい。観ていて、手に汗。詰まる息。
私小説崩れでしかない、せせこましい莫迦話にまみれた邦画群が
霧のように霞んで、見えなくなってしまう。
過去の映像の反復と、現在を重ねる手法。
現在が過去をたえず参照する形。
これは、いいね。
○川上美映子『ヘヴン』
ストーリーが澱みなく、するすると流れる。
だが文体が(村上春樹×2+川上弘美×0.5)÷3て感じ。2.5ではなく3で割る。
群像だったかの対談で作者は、
標準語で書いたんですね、てなことを訊かれてたが、
これは大阪弁で書かれては困るタイプの小説だと思った。
出てくる西暦からして、題材の世代は我々の一回り上だ。
とすると、中野富士見中あたりの一連のいじめの社会問題化が題材だろうか。
思ったこと。
長篇って、あらすじではなく細部のイメージだな、と思った。
そのイメージが、大衆受けするマニアックさなのか、
あるいは、やっぱりマニアックなマニアックさなのか、
このどっちなのかって、大きいと思う。
そして、この長篇は、自分にとってはさほど……だった。
森絵都のカラフルとかのほうが、自分には強烈だった
(読んだ時の年代の多感さは、間違いなく拘ると思うけどね)。
この完成度で処女作、ってのがちょっと信じ難い。
主人公の苦悩の元凶であり、主題である「無関心」ってのは、
実存の不安、と云ってしまえばしまいなんだろう。
でも、主題も意識も情景も、細部まで豊かに描かれていて、
本当に面白かった。
特に、母親マリーアグラツィアの妄想狂的な人物像。
また、鏡のイメージがときどき出てきて、
それが象徴的だった。
○ダニー・ボイル『スラムドッグ$ミリオネア』
和光にて一緒に観ていた先輩たちとともに、思わず拍手。面白い!
滑り出しからして惹き込まれるし、
プロットも、カシッ、カシッ、と嵌ってゆく。
何より、題材が大きい。観ていて、手に汗。詰まる息。
私小説崩れでしかない、せせこましい莫迦話にまみれた邦画群が
霧のように霞んで、見えなくなってしまう。
過去の映像の反復と、現在を重ねる手法。
現在が過去をたえず参照する形。
これは、いいね。
○川上美映子『ヘヴン』
ストーリーが澱みなく、するすると流れる。
だが文体が(村上春樹×2+川上弘美×0.5)÷3て感じ。2.5ではなく3で割る。
群像だったかの対談で作者は、
標準語で書いたんですね、てなことを訊かれてたが、
これは大阪弁で書かれては困るタイプの小説だと思った。
出てくる西暦からして、題材の世代は我々の一回り上だ。
とすると、中野富士見中あたりの一連のいじめの社会問題化が題材だろうか。
思ったこと。
長篇って、あらすじではなく細部のイメージだな、と思った。
そのイメージが、大衆受けするマニアックさなのか、
あるいは、やっぱりマニアックなマニアックさなのか、
このどっちなのかって、大きいと思う。
そして、この長篇は、自分にとってはさほど……だった。
森絵都のカラフルとかのほうが、自分には強烈だった
(読んだ時の年代の多感さは、間違いなく拘ると思うけどね)。
16.1.10
ポール・ヴィリリオ『情報化爆弾』、黒沢清『ニンゲン合格』
・ポール・ヴィリリオ『情報化爆弾』
科学は技術とは別物、という態度は
ヨーロッパ型教養人、って感じ。
科学すなわち応用技術、常に進歩あるのみ、
という科学の態度と、資本主義の類似性の指摘。
映画、テレビ、インターネットによる
地理感の喪失、加えてニュートン的絶対時間感の喪失
(テレビ的なカットや編集の多用によって
均一に時間が流れる平衡感覚を失うことを、
単なるパラダイム移行と片づけられるのだろうか)。
そして世界は均一化へ向かう。
差異を価値とし、それを埋め合わせながら
新たな差異を開拓し、商品化することが
資本主義の本質である以上、
これは避けられない事態だ。
しかし、脳や思考といった最後の「未開」が
そのターゲットとされ、クローンや洗脳技術として
埋められてゆく。
生命は均一な状態からエントロピーを摂取することで
環境変化に対応し、生き延びてきた。
それをテクノロジーが均一化すればどうなるのか…。
実際、単一市場という資本主義の最終目的にして
非常に暴力的な非人間的な場は、
アジア通貨危機、株価の世界的暴落として
すでに現出している。
とまぁ、こんな内容。
トポスの喪失はよくわかるが、
速度的なパラダイムは、新しい見方だった。
現代藝術や民主主義政治のパフォーマンス化は、
加速度的な時間観(「もっと早く、もっと効率よく」)
を導入すれば、とてもわかりやすい。
・黒沢清『ニンゲン合格』
思ってたより淡々としてて、味わい深かった。
静かで冷たそうに時間は流れるけど、
人間(じんかん)に生きてこその人間(にんげん)だからね。
科学は技術とは別物、という態度は
ヨーロッパ型教養人、って感じ。
科学すなわち応用技術、常に進歩あるのみ、
という科学の態度と、資本主義の類似性の指摘。
映画、テレビ、インターネットによる
地理感の喪失、加えてニュートン的絶対時間感の喪失
(テレビ的なカットや編集の多用によって
均一に時間が流れる平衡感覚を失うことを、
単なるパラダイム移行と片づけられるのだろうか)。
そして世界は均一化へ向かう。
差異を価値とし、それを埋め合わせながら
新たな差異を開拓し、商品化することが
資本主義の本質である以上、
これは避けられない事態だ。
しかし、脳や思考といった最後の「未開」が
そのターゲットとされ、クローンや洗脳技術として
埋められてゆく。
生命は均一な状態からエントロピーを摂取することで
環境変化に対応し、生き延びてきた。
それをテクノロジーが均一化すればどうなるのか…。
実際、単一市場という資本主義の最終目的にして
非常に暴力的な非人間的な場は、
アジア通貨危機、株価の世界的暴落として
すでに現出している。
とまぁ、こんな内容。
トポスの喪失はよくわかるが、
速度的なパラダイムは、新しい見方だった。
現代藝術や民主主義政治のパフォーマンス化は、
加速度的な時間観(「もっと早く、もっと効率よく」)
を導入すれば、とてもわかりやすい。
・黒沢清『ニンゲン合格』
思ってたより淡々としてて、味わい深かった。
静かで冷たそうに時間は流れるけど、
人間(じんかん)に生きてこその人間(にんげん)だからね。
11.1.10
秋葉原の雑感
欲望の街、秋葉原に初めて行った。
なぜ欲望なのかは、現在ポール・ヴィリリオを読んでいるので、
のちのち詳しく書くだろう。
ここでは雑感を。
・音ゲー
友人が華麗に披露してくれた音ゲーを見ながら、漠然と、
カイヨワの遊びの四分類
(アゴン=競争、アレア=偶然、ミミクリ=模倣、イリンクス=目眩)
の、どれに当たるか考えた。
提示される形式にできるかぎり似せてインプットを操作する。
よって、ミミクリだろう。
第一義的にはアゴンではない。
点数化という乱暴な一元化システムを実装すれば、
ほぼあらゆる遊びに競争を導入できる。
逆にいえば、現代はあらゆる事象がアゴン的だ。
受験も人事考課もゲームも、多様であるはずの容姿や性格も
偏差値、点数、ランキング、等の下で
競争にさらされ、一本化されてしまう。
リズムを第五として提唱する人もいる
(ナムコ株式会社・岩谷徹)
が、そこまでカイヨワの分類が脆弱と思えないし、
この四分類は五感とは何の関係もないのに
聴覚だけ取り出すのはおかしい。
・オタク文化の形式と受容
オタク文化が「サブ」カルチャーなのは、
現実の下位にオタク文化があるという意味で、正しい。
(ハイ・カルチャーが正統、というのは違う。
オタク文化はハイ・カルチャーの下位にはない)
オタク文化は現実に対する巨大なミミクリであるから、
現実を意識せずにはオタク文化は存在し得ない
(オタク文化は「リア充」を意識せずにはいられない)。
しかし、現実とヴァーチャルのこの上下関係は
必ずしも固定的ではなく、クーロン力のように、
どちらがどちらを引いているとも云い難い状況である。
西洋文化はかつて、東洋をオリエンタリズムとして
初めは瞠目され、受容した。
これと同じような同化が近く行われるだろう。
オタク文化は、現実での生き方の一手法として認められ、
気にも留められない一文化と化すだろう。
常に新たな差異が作られ、同化される。これは一般論だ。
なぜ欲望なのかは、現在ポール・ヴィリリオを読んでいるので、
のちのち詳しく書くだろう。
ここでは雑感を。
・音ゲー
友人が華麗に披露してくれた音ゲーを見ながら、漠然と、
カイヨワの遊びの四分類
(アゴン=競争、アレア=偶然、ミミクリ=模倣、イリンクス=目眩)
の、どれに当たるか考えた。
提示される形式にできるかぎり似せてインプットを操作する。
よって、ミミクリだろう。
第一義的にはアゴンではない。
点数化という乱暴な一元化システムを実装すれば、
ほぼあらゆる遊びに競争を導入できる。
逆にいえば、現代はあらゆる事象がアゴン的だ。
受験も人事考課もゲームも、多様であるはずの容姿や性格も
偏差値、点数、ランキング、等の下で
競争にさらされ、一本化されてしまう。
リズムを第五として提唱する人もいる
(ナムコ株式会社・岩谷徹)
が、そこまでカイヨワの分類が脆弱と思えないし、
この四分類は五感とは何の関係もないのに
聴覚だけ取り出すのはおかしい。
・オタク文化の形式と受容
オタク文化が「サブ」カルチャーなのは、
現実の下位にオタク文化があるという意味で、正しい。
(ハイ・カルチャーが正統、というのは違う。
オタク文化はハイ・カルチャーの下位にはない)
オタク文化は現実に対する巨大なミミクリであるから、
現実を意識せずにはオタク文化は存在し得ない
(オタク文化は「リア充」を意識せずにはいられない)。
しかし、現実とヴァーチャルのこの上下関係は
必ずしも固定的ではなく、クーロン力のように、
どちらがどちらを引いているとも云い難い状況である。
西洋文化はかつて、東洋をオリエンタリズムとして
初めは瞠目され、受容した。
これと同じような同化が近く行われるだろう。
オタク文化は、現実での生き方の一手法として認められ、
気にも留められない一文化と化すだろう。
常に新たな差異が作られ、同化される。これは一般論だ。
10.1.10
今村昌平『にっぽん昆虫記』
新と旧、男と女、売春婦と元締、都と鄙、
入れ替わり立ち替わりしながら身を立て、滅ぼしてゆく。
しかも、立場を変えて同じ科白が繰り返されるほど、組み立ては繊細。
ここまで濃密なのは、そして、性へのしがみつきは、
今村昌平ならではなのか。素晴らしかった。
信子との最中に唐沢が入れ歯を落とすシーンは
思わず眼を背けるほどの異彩を放った。
これまで見た映画のシーンの中で、
最もグロテスクだったかもしれない。
入れ替わり立ち替わりしながら身を立て、滅ぼしてゆく。
しかも、立場を変えて同じ科白が繰り返されるほど、組み立ては繊細。
ここまで濃密なのは、そして、性へのしがみつきは、
今村昌平ならではなのか。素晴らしかった。
信子との最中に唐沢が入れ歯を落とすシーンは
思わず眼を背けるほどの異彩を放った。
これまで見た映画のシーンの中で、
最もグロテスクだったかもしれない。
9.1.10
西の感性、東の論理
『犬丸正寛の相場格言』を漫然と読んでいたら、
「風が吹けば桶屋が儲かる」じみた因果律が並び、
けっこう面白かった。
「関西の空買い、関東の空売り」
空売りに勝者なしと云われることを突き合わせると、
北浜と兜町の仕手戦で勝つのはまず関西だったようだ。
株は相場であり同時にファンダメンタルだが、
力関係はこうなっている、という証左なのかもしれない
(規制が整うにつれて栄枯衰退はあろうが)。
「西の感性、東の論理」というのは、
実際に感じるところだ。
西はまず場とノリありきで、
この一体感は東では大きく薄まるし、西のそれとは若干に異質だ。
「風が吹けば桶屋が儲かる」じみた因果律が並び、
けっこう面白かった。
「関西の空買い、関東の空売り」
空売りに勝者なしと云われることを突き合わせると、
北浜と兜町の仕手戦で勝つのはまず関西だったようだ。
株は相場であり同時にファンダメンタルだが、
力関係はこうなっている、という証左なのかもしれない
(規制が整うにつれて栄枯衰退はあろうが)。
「西の感性、東の論理」というのは、
実際に感じるところだ。
西はまず場とノリありきで、
この一体感は東では大きく薄まるし、西のそれとは若干に異質だ。
8.1.10
ハンナ・アレント『責任と判断』
アイヒマンおよびその責任・世論についての論説が主。
他には、リトルロック高校事件やニクソン政権についての論説。
ほぼすべての個人が組織の歯車に収斂される現代において
どのように責任というものを追及できるのか、
そして、世論というものが如何に流動的であるかを、事例的に語る。
多分に示唆的であり、付箋を附しつつ読んだ。
下はメモ。
「道徳哲学のいくつかの問題」:
・個人が組織の歯車であろうと、
裁判は常に個人としての振る舞いを要求し、
組織内という「状況」は情状酌量として、後置される。
個人はツァイトガイストの一部、というような弁解は通用しない。
・(世論の誤解について)
ある事件が告発される際、悪いのは罪を犯した者ではなく
それを告発した者である、と世論は考えがち
(「身からでたさび」にも同様の指摘あり)。
【私見】
多くのバッシングはこのように矛先を誤ってなされる。
安寧だった意識に不純物を置かれ、煩わされたため、という
眠りを妨げられた龍のような反感がそうさせるのか。
ならば人は、村社会的意識から出られないのか。
・ソクラテスの「社会全体に背くより、自分に背くほうがまし」
という道徳観から、道徳の主観性(主観性ながら人類共通と思しい)
について。
・「世界は滅ぶとも、正義はなされるべきか」(ラテン語の格言)に続いて、
ナチスの犯罪性の根源を「合法的に法を道徳から引き剥がした:点に求める。
ヒトラーが思考の中枢であり他は官僚から一平卒まですべて歯車であった、
この服従の官僚機構。
・意志することとできることが同一であるとき、人は快楽を感じる(ニーチェ)。
(この箇所では、ニーチェ『力への意志』を要約しているだけという印象を受ける)
「思考と道徳の問題」:
・ニーチェ「神は死んだ」について。
統一的道徳観とその強制力の合一として理解されていた神を
瓦解させた、と考えると、
ニーチェの謂いは、神が死んだということではなく
「神は力を失った」のだ、という。
【私見】
デカルトやスピノザのような演繹的手法の哲学で
神がその初めに置かれるのは、
当時は絶対的だった道徳観の根源に神がある、ということだろう。
・哲学、形而上学、倫理学について。
前期ウィトゲンシュタインの結論(「語りえぬものは…」)についての解釈。
思考する媒体としての言語と、生きる媒体としての環境も
不一致を説明するための道具が、哲学であり形而上学である。
【私見】
ウィトゲンシュタインは哲学を解決させたと考えた。
このうち、道徳哲学はどうなったの?
「裁かれるアウシュヴィッツ」:
・アイヒマンの裁判で法廷は「自分の手で殺人の道具を使う人々から離れるほど、
責任の大きさは強まる」と宣言した。
法(あるいは道徳)と、組織内での法との間での、鬩ぎあい。
【私見】
上記の法廷の謂いは、官僚主義のピラミッド型を
責任という面から捉え直しただけで、
だからこそ疑問の余地のない指摘なのではないだろうか。
「身から出たさび」:
マーケティングや広告が、消費者の求めるもの(需要)ではなく
生産者の売ろうとするもの(供給)に立脚しているという消費社会の現状。
この、「飽食」状態は、消費=休暇が生産=労働を上回るという漸進的な推移により、
向かう先はオートメーション化である(消費=休暇が、生産=労働を絶対的に圧倒する)。
この変化を上昇志向の物語として捉えれば、
資本主義も共産主義も実は同一である
(労働者の生活がずいぶんと改善された今日を
「資本主義的なルートで共産主義が達成されている」
と見ることも、不可能ではないだろう)。
そして、共産主義にとって転向が脅威だったように(物語から醒めた、という意味で)、
アメリカにとって脅威なのは、アメリカが「富める自由の国」であるという
虚構=物語から醒めることなのだ。
アメリカを、富める強国というイメージ統一に成功した「マーケティング国家」と捉え、
ウォーターゲート事件、ベトナム戦争といった世論操作という犯罪は
法ではなくイメージの綻び修正を優先させた結果であると、アレントは捉えている。
【私見】
変化を好まない政治が、変化を好む経済を抱え込むのは、
政治が統一性を宣伝するためであるが、
変化による経済活動を保護し、寄生する(税収を得る)ため
であるように思う(制度学派的な見方かもしれないが)。
やはり、政治=国家の核心は官僚(の安泰さ)なのか。
他には、リトルロック高校事件やニクソン政権についての論説。
ほぼすべての個人が組織の歯車に収斂される現代において
どのように責任というものを追及できるのか、
そして、世論というものが如何に流動的であるかを、事例的に語る。
多分に示唆的であり、付箋を附しつつ読んだ。
下はメモ。
「道徳哲学のいくつかの問題」:
・個人が組織の歯車であろうと、
裁判は常に個人としての振る舞いを要求し、
組織内という「状況」は情状酌量として、後置される。
個人はツァイトガイストの一部、というような弁解は通用しない。
・(世論の誤解について)
ある事件が告発される際、悪いのは罪を犯した者ではなく
それを告発した者である、と世論は考えがち
(「身からでたさび」にも同様の指摘あり)。
【私見】
多くのバッシングはこのように矛先を誤ってなされる。
安寧だった意識に不純物を置かれ、煩わされたため、という
眠りを妨げられた龍のような反感がそうさせるのか。
ならば人は、村社会的意識から出られないのか。
・ソクラテスの「社会全体に背くより、自分に背くほうがまし」
という道徳観から、道徳の主観性(主観性ながら人類共通と思しい)
について。
・「世界は滅ぶとも、正義はなされるべきか」(ラテン語の格言)に続いて、
ナチスの犯罪性の根源を「合法的に法を道徳から引き剥がした:点に求める。
ヒトラーが思考の中枢であり他は官僚から一平卒まですべて歯車であった、
この服従の官僚機構。
・意志することとできることが同一であるとき、人は快楽を感じる(ニーチェ)。
(この箇所では、ニーチェ『力への意志』を要約しているだけという印象を受ける)
「思考と道徳の問題」:
・ニーチェ「神は死んだ」について。
統一的道徳観とその強制力の合一として理解されていた神を
瓦解させた、と考えると、
ニーチェの謂いは、神が死んだということではなく
「神は力を失った」のだ、という。
【私見】
デカルトやスピノザのような演繹的手法の哲学で
神がその初めに置かれるのは、
当時は絶対的だった道徳観の根源に神がある、ということだろう。
・哲学、形而上学、倫理学について。
前期ウィトゲンシュタインの結論(「語りえぬものは…」)についての解釈。
思考する媒体としての言語と、生きる媒体としての環境も
不一致を説明するための道具が、哲学であり形而上学である。
【私見】
ウィトゲンシュタインは哲学を解決させたと考えた。
このうち、道徳哲学はどうなったの?
「裁かれるアウシュヴィッツ」:
・アイヒマンの裁判で法廷は「自分の手で殺人の道具を使う人々から離れるほど、
責任の大きさは強まる」と宣言した。
法(あるいは道徳)と、組織内での法との間での、鬩ぎあい。
【私見】
上記の法廷の謂いは、官僚主義のピラミッド型を
責任という面から捉え直しただけで、
だからこそ疑問の余地のない指摘なのではないだろうか。
「身から出たさび」:
マーケティングや広告が、消費者の求めるもの(需要)ではなく
生産者の売ろうとするもの(供給)に立脚しているという消費社会の現状。
この、「飽食」状態は、消費=休暇が生産=労働を上回るという漸進的な推移により、
向かう先はオートメーション化である(消費=休暇が、生産=労働を絶対的に圧倒する)。
この変化を上昇志向の物語として捉えれば、
資本主義も共産主義も実は同一である
(労働者の生活がずいぶんと改善された今日を
「資本主義的なルートで共産主義が達成されている」
と見ることも、不可能ではないだろう)。
そして、共産主義にとって転向が脅威だったように(物語から醒めた、という意味で)、
アメリカにとって脅威なのは、アメリカが「富める自由の国」であるという
虚構=物語から醒めることなのだ。
アメリカを、富める強国というイメージ統一に成功した「マーケティング国家」と捉え、
ウォーターゲート事件、ベトナム戦争といった世論操作という犯罪は
法ではなくイメージの綻び修正を優先させた結果であると、アレントは捉えている。
【私見】
変化を好まない政治が、変化を好む経済を抱え込むのは、
政治が統一性を宣伝するためであるが、
変化による経済活動を保護し、寄生する(税収を得る)ため
であるように思う(制度学派的な見方かもしれないが)。
やはり、政治=国家の核心は官僚(の安泰さ)なのか。
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